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第148回 株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社ARIGATO MUSIC南部喨炳さんからのご紹介で、株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕さんのご登場です。神戸で生まれ育った松原さんは高校時代からライブハウスに魅了され、バンド活動の傍ら、バンドを集めてイベントを企画。その後ライブハウスの店長として数多くのミュージシャンたちと交流する中で、彼らの希望を叶えるためにパインフィールズを設立し、レーベルやスタジオ運営など事業を拡げていきます。そして、阪神・淡路大震災への複雑な想い・罪悪感から2005年に始めた「GOING KOBE」(現「COMIN’KOBE」)は現在大きなイベントに成長しました。現在、ガンと闘いつつ仕事を続ける松原さんに、地元・神戸でじっくり話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

プロフィール
松原 裕(まつばら・ゆたか)
株式会社パインフィールズ 代表取締役
1979年6月15日生まれ
1997年7月ライブハウススタークラブ勤務
2004年4月ライブハウススタークラブ店長 就任(〜2010年5月)
2005年8月チャリティーイベントGOING KOBE 実行委員長 就任
(2010年にCOMIN’KOBEと名前を変更)
2006年11月株式会社パインフィールズ代表取締役社長 就任
2011年4月KissFM KOBE 番組審議委員 就任
2014年1月一般社団法人COMIN’KOBE実行委員会 理事 就任
2015年9月平成25 年度神戸市文化奨励賞 受賞
2015年11月学校法人中内学園 流通科学大学 特別講師 就任
2016年6月三宮地下公共空間利活用実行委員 就任

 

1. 生まれも育ちも神戸

 

ーー 前回ご登場いただいた南部喨炳さんとはどうやって出会われたんですか?

 

松原:彼がDALLAXというスカバンドをやっていて、そのときのレーベルの社長と僕が仲良かったんです。それでDALLAXの音源をもらって神戸でブッキングしたのが南部君との最初の出会いです。そこから彼はバンドと並行してレーベルを始めて、そのレーベルのアーティストもブッキングしたりしました。それで気がついたらMAN WITH A MISSION(以下 MWAM)をやっていて「南部くんが担当してたのか!?」みたいな感じの再会から今に至ると。だから間がスポッと抜けているんですよね。

 

ーー 抜けている時間もあった?

 

松原:ありました。DALLAXというバンドの活動が精力的じゃなくなってからMWAMを担当するまでの間はスポッと抜けていますね。MWAMはデビューから知っているんですが、彼がマネージメントをやっていることを知らなくて。で、後から南部君だったっていうことが分かって。そこから現場でよくご一緒させてもらっています。

 

ーー 松原さんにとって南部さんはどういう存在ですか?

 

松原:表現は良くないかもしれませんが、彼の人心掌握術というか、人たらしの上手さというか(笑)、あらゆる人を巻き込む力はすごいなと思いますね。

 

ーー 南部さんってすごく面白い方ですよね。

 

松原:面白いです。距離の縮め方が半端ないというか「あ、この人とはハモる!」と思ったときには一瞬で距離を縮めます。だから1回紹介して次会ったときには、もうマブダチになっていたということが結構あります(笑)。やっぱり彼の人間力はすごいなとずっと思って見ていますね。ただ彼は年が1個下なので、多少の嫉妬ももちろんありつつ(笑)。

 

ーー ライバル心が(笑)。

 

松原:そう、ライバル心がありつつ。それでもやっぱすごいなと思って見ています。

 

ーー お互いに一目を置き合っている。

 

松原:そうですね。彼が思っているかどうかは知らないですけど、僕は確実に思っていますからね。彼って顔が老けているので、しばらく僕は年上だと思っていたんですが、5、6年前ぐらいに北海道で飲んでいるときに年下だってことが分かって(笑)。

 

ーー (笑)。

 

松原:そこからは、より距離が縮まった感じはありますけど(笑)。

 

ーー 良い関係ですね(笑)。ここからは松原さんご自身の話をお伺いしたいんですが、どんな幼少期をお過ごしになられたんですか?

 

松原:僕は生まれも育ちも神戸なんですが、物心ついた頃には両親は離婚していて、神戸市兵庫区の寝室と居間だけのボロアパートで、母と2つ下の妹と僕の3人で暮らしていました。貧乏ながらそれなりに楽しく生活していて、母が、昼間は喫茶店で夜になるとスナックになるみたいな店をやっていたので、晩ご飯はお店に行って食べて、家に帰って、妹と一緒に銭湯へ行って寝るみたいな生活でした。ですから常に妹の面倒を見ている感じでしたね。

 

その後、小学校2年生のときに母の再婚が決まって、今度は北区という山の方に引っ越して、家族4人の生活が始まったんですが、2年ぐらいでまた離婚して、それで小学校5年生の頃にまた母が再婚して、成人するまでは家族4人で一緒に住んでいました。

 

ーー 幼少期に今の仕事に繋がるような音楽との出会いはあったんですか?

 

松原:全くなかったですね。特に音楽が好きだったわけでもないです。小学校に入ってから人並みにCDが欲しくなったりもしましたけど、小学校3、4年ぐらいまでは音楽に対して特に興味もなかったです。

 

 

 

2. 高校時代からライブハウスを月1でプロデュース

 

ーー 音楽に興味を持ち始めたのはいつでしたか?

 

松原:小学校4年ぐらいだと思います。運動会で音楽を流して踊るみたいな出し物があって、その音楽を覚えたくなったんですよね。確か、槇原敬之さんの「どんなときも」だったと思います。

 

ーー 新しいですね(笑)。

 

松原:CHAGE&ASKAさんの「SAY YES」とか小田和正さんの「ラブストーリ−は突然に」とか、そんな時代です。この3曲のどれかが初めて買ったCDだと思います。これを母に買ってもらったラジカセで聴いて、曲を覚えて段々と音楽が好きになっていきました。小学校5年か6年の頃には近くのレンタルCD屋さんの会員になって、手当たり次第に色々な曲を聴いていました。

 

ーー その辺で音楽に目覚めたんですね。

 

松原:そこからどんどん音楽が好きになっていきました。中学になって1番ハマったのが尾崎豊さんで、そこからロック的なものが好きになり「高校に入ったらバンドを組もう」と決めました。それでエレキギターを買いたかったんですが、中学生にはなかなか買えないじゃないですか。それで母親に相談したら「志望の高校に入ったら買ってあげる」と。それで公立高校のある程度良いところに受かるというのが、自分のバンド活動のための第一歩となったので、中学3年のときに受験勉強をすごく頑張りました。

 

ーー 高校受験のモチベーションがバンドだったと。

 

松原:そうですね。朝6時半とかに学校へ行って早朝学習したり、かなり勉強を頑張っていたんですが、1月17日に阪神・淡路大震災が起きて、学校がなくなってしまって、そこから2月、3月と受験勉強をやらなくてもよくなっちゃったんです。高校も私学は内申書のみで合格、公立も試験はあったんですが、ほとんど内申書の内容で決まるみたいな感じでした。

 

ーー 結果、希望の高校には合格したんですか?

 

松原:合格しました。不謹慎な言い方かもしれませんが、当時、僕の中で地震はラッキーな出来事で終わったんです。

 

ーー ご自宅は無事だったんですか?

 

松原:多少被害はありましたが、子供にしたら関係ないじゃないですか。ご飯は親が持ってくるし、風呂がこわれていても銭湯に連れて行ってくれましたし。だから僕の中では「受験勉強をしなくてよくなった」「音楽を聴いたり、曲を作ったりする時間ができた」という幸せなことだけでした。その感覚を持ったまま高校に入ったんですが、学校は地震の影響があったし、三宮もずっと復旧工事をしている状態で、そんな状況だったからか高校へ入学したら工事現場のアルバイトが大募集されていたので、土日は業者のところへ行って、1日工事仕事をして1万5千円もらって帰るみたいな生活になりました。

 

ーー 結構いい日当ですね。

 

松原:結構いいんですよ。いわゆる震災バブルが起きていて、人手が足りなかったんでしょうね。だから高校のときは割とお金を持っていましたし、震災は自分にとってマイナスにはならなくて。

 

ーー ダメージは受けてない?

 

松原:ダメージは受けてない。それで貯まったお金でギターを買ったり服を買ったりして、ギターで参加していた自分のバンドも高校1年生の8月に初ライブをしたんですが、そこでライブハウスに完全にハマって、高2になったらライブハウスの人と、月1回1日ライブハウスをホールレンタルするみたいな契約をして、その代わりにレンタル料を確か8万円にしてもらったんですよ。

 

ーー それは自分でお客さんを呼んで?

 

松原:はい。だからこの辺の高校でバンドやっている人の情報を聞いて、「○○高校の松原と言いますけど、バンドやっているんだって?」と電話して「今度何月何日にこういうイベントやろうと思っているんだけど、出ない?」と。

 

ーー 完全にプロデューサーですね(笑)。

 

松原:そうそう(笑)。ノルマ千円のチケット20枚で「どう?」って言って。知らない高校からバンドをブッキングして毎月ライブやっていましたね。

 

ーー どのくらいそのライブをやっていたんですか?

 

松原:1年半くらいやりました。高校2年から3年の8月までずっとやっていました。同時に高校3年の7月くらいからライブハウスに普通にアルバイトとして入るようになっていました。

 

ーー それってライブハウスの1日だけをプロデュースするということですよね。

 

松原:そうです。イベンターみたいな感じですよね。当時そういった感覚は持っていなかったですけど、今振り返ればイベンターであり、ブッキングマネージャー的なことを高校のときにやっていたんだなと思いますね。

 

ーー ぶっちゃけ儲かったんですか?

 

松原:まあまあ儲かりましたし、バンドのコミュニケーションは広がりましたしね。赤字を出したことはなかったと思います。

 

ーー やはり松原さんはそういった仕事に向いているんですね。

 

松原:向いているなと思いますし、ある程度商売人の素養はあったんでしょうね。苦労は全くしてないですし、もう感覚でやっていたので。

 

ーー ちなみにご自身のバンドはどうだったんですか?

 

松原:自分のバンドはそんなにいけてなかったんですが、ライブ活動もあって、この辺の地域ではまあまあ有名になっていたので、それなりに上り詰めている感覚を自分は持っていました。

 

 

 

3.ミュージシャンたちの願いを叶えるために〜パインフィールズ設立

 

株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 氏

 

ーー 当時はバンドとしてのモチベーションのほうが高かったんですか? それともすでにプロデューサー的な、イベンター的な志向の方が強かったんですか?

 

松原:両方持っていました。自分のバンドでメジャーデビューするという目標もまだ強くあったと思います。

 

ーー では、受験勉強を頑張って少しでも良い大学に行くみたいな考えはなかった?

 

松原:それはなくなりました。もう音楽業界でやっていこうと、おぼろげですが思っていました。高校に入ってからは、中3で勉強した財産だけで3年間過ごしましたね。教科書は全く開かなかったですし(笑)。

 

ーー (笑)。まあ、それでも十分生きていけますけどね。

 

松原:ええ。今になってもっと勉強しておけばよかったと思いますけどね。一応大学には入ったんですが中退したので、「卒業くらいしておいた方が良かったかな」という気持ちには多少なりますし、会社を立ち上げて、経済をもうちょっと学んでおけば良かったなとか、そういうことは思いますけど。でも別に支障はないですね。

 

ーー 先ほどのバイトで働き始めたライブハウスがスタークラブですか?

 

松原:はい。キャパ250くらいのライブハウスなんですが、2000年に2号店を作ることになって、その2号店の店長になったんです。実はその前に結婚をして、「ちゃんと社員にならなあかんな」と思っていたタイミングで2号店を作ることになって、「店長をやらへんか」と。

 

ーー バンドはまだやっていたんですか?

 

松原:はい。ライブハウスで働いていたので理解があるというか、バンドも並行してやりながら働いていました。それで2004年のタイミングで、スタークラブに僕が出戻って店長になり、2号店は別の人間に任せる形になりました。

 

その後、2006年11月にアーティストのレーべルを始めるということになったんですが、流通会社の契約で「法人じゃないとダメ」ということで株式会社パインフィールズを設立しました。ライブハウスの方は2007年に独立採算制の個人事業になりました。

 

ーー 法人と個人事業とどっちとも持った感じですか?

 

松原:そうです。今は合体しましたけどね。レーベルの2枚目のアーティストがEGG BRAINというバンドで、インディーズながら2万ぐらい売れたんですよ。そこからどんどん忙しくなっていきました。

 

ーー 松原さんは高校時代からライブハウスで働かれていたわけで、ライブハウス歴はすごく長いと思うんですが、ライブハウスの店長、ブッキング担当者に最も求められることは何だとお考えですか?

 

松原:自分で言うのもなんですが、ある程度こちらにパワーがないとバンドって寄ってこないんです。だからライブハウスの仕事をしながら「流通にも詳しくないとアーティストのためにならないな」とか「媒体の人と繋がってないと売り出したいときにメディアに出してあげられないな」とか色々気づいて、FM802の飲み会に行ったり、Kiss FMともっと仲良くなろうとか積極的に動いていました。また、その当時CDを出すのが難しい時代だったので、レーベルを作ってCDを出せるようにしようとかアーティストが求めていることをどんどんやっていったんですよね。

 

ーー 要するにそれってプロダクションの社長がやっていることですよね。

 

松原:まあそうですね。バンドマンからすると始めて出会う音楽業界人がライブハウスの人間なので、やっぱり「この人が絶対や」って思っているんですよ、バンドマンたちは。始めて見たひな鳥が親鳥だと思うみたいに(笑)。

 

ーー あ、そうですね(笑)。

 

松原:この人に嫌われたら音楽業界でやっていけないみたいな。だから全国に親玉みたいなライブハウスの店長っていっぱいいるんですよね。でも、僕はその感じがすごく気持ち悪くて。そんな親玉みたいにふんぞり返って、若いバンドマンたちに「おい!」って言っている奴になりたくないなと思ったので、色々なことをやって力をつけていこうと。パインフィールズを作ったのもそういう気持ちからなんですよ。

 

ーー ミュージシャンたちの立場になって色々考えてあげる。

 

松原:はい。そこである程度成功していけばバンドは自然と集まってきますよね。こうやって話すと綺麗事に聞こえるかもしれませんが、でも本当にそうなんです。「ラジオに出たい」って言われて、どうやったら出られるんだろうと色々な人と飲みに行って、イベンターを紹介してもらって出してあげるとか、「CD出したい」って言うからレーベルを作って出してあげたり。「どうやったら売れるんだろう?」と試行錯誤しながら色々やった結果、売れてビジネスになっていってみたいな。仕事が多くなってきたので「じゃあ社員、スタッフがいるな」と雇用して、気が付いたら今のような感じになっていたんですよね。

 

ーー 松原さんは人の困っていることを解決していってあげながら、自分も成長していかれたわけですよね。

 

松原:本当にそうですね。だからうちの社員のみんなには「人のため、世のためになることをやれば、お金は後からついてくる」って言っています。

 

 

 

4. バンドのためになっていればライブハウスは続く

 

ーー ライブハウスって一体幾つあるんだよってくらいあるじゃないですか。そして、やっていることはどこもほぼ同じはずなのに、その中から松原さんのような形になる所もあれば、潰れてしまうところもある。もうそれは本当に人間力としか言いようがない気がします。

 

松原:恐らくバンドのためになっていないから潰れるんだと思います。本当にその場がバンドのためになっていれば、ライブハウスって続くんですよ。

 

ーー 松原さんのように色々なことをやっていると本当に忙しいでしょう?

 

松原:めちゃくちゃ忙しかったですね。自分のことをやる暇もなかったですし、バンドやアーティストの悩みを聞くために朝まで飲みますしね。そういったことに全部付き合っていたわけで。でも楽しかったですけどね。買ったばかりのテレビゲームをやる時間がないとか、観たい映画が観られないとか、それぐらいの不満しかなかったですし(笑)。でもその分、子供との時間はなかったですし、結婚から3年で離婚しました。

 

ーー その後、お子さんとは?

 

松原:いるのでいわゆるシングルファーザーになった形です。

 

ーー 今、お子さんはおいくつですか?

 

松原:長男が高2の17歳、次男が中3の15歳ですね。今日も3人で一緒に飯食っていて「今日、甲子園に行く」とかもう友達感覚です。お兄ちゃんはバンドも始めたので、好きなバンドのライブに連れていってあげるんですが、そのバンドマンたちが僕を立ててくれるので助かってます(笑)。

 

ーー (笑)。もしかしたら松原さんの後を継ぐかも知れないですね。頼もしい。

 

松原:まあ、継いだら面白いですけど、こればっかりは誰もができることではないので。

 

ーー 松原さんはご自身もミュージシャンだったわけですよね。それがどのタイミングで、サポートする側に専念しようと決意されたんですか?

 

松原:2004年に「MONSTER baSH」という四国のフェスに出ることになって、初めて1万人以上の前でライブをしたんですが、全然ウケなかったんです。そこで「あ、これはもうあかんな」と。

 

ーー すっぱり辞めた?

 

松原:すっぱり辞められましたね、僕は。もう未練はないです。自分のギターのスキルにも限界を感じていましたから、潮時だったんだと思います。

 

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第148回 株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 氏【後半】

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