第151回 株式会社BADASS 取締役 松川将之氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社サウンドクリエーター 安福元柔さんからのご紹介で、株式会社BADASS 取締役 松川将之さんのご登場です。東海地方で学生時代を過ごされた松川さんはPUNK/LOUD MUSICの洗礼を受け、大学進学と共に移り住んだ京都で始めたイベントで10-FEETと出会います。10-FEETとともに上京されてからはマネージャーとしてバンドを支え続け、現在は「ヤバイTシャツ屋さん」も担当されている松川さん。そんな松川さんにライブの魅力にとりつかれた青春時代から、若い人たちがいきいきと働くことができる音楽業界へ向けた提言までお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
引っ越すたびに運気が変わった少年時代
―― 前回ご登場頂いた株式会社サウンドクリエーター 安福元柔さんとはどのように知り合われたんですか?
松川:もともと、僕が担当しているバンドの10-FEETのツアーで関西を回っているときに出会いました。関西エリアのイベンターさんは最初からサウンドクリエーターさんで、当時は別の方が担当されていたのですが、その時まだバイトだった安福さんも来ていたんです。その後、安福さんが10-FEET の3人目の担当者になって、今に至ります。
―― 10-FEETを通しての出会いですね。
松川:そうですね。10-FEETのマネージャーとイベンターさんのバイトの人という形で出会いました。その後、関西のイベンターさんという接し方でお付き合いしていたんですが、2007年に「京都大作戦」というフェスを立ち上げるときにサウンドクリエーターさんと一緒にやることになって、そこからやり取りがすごく増えました。その後、安福さんがイベンター業務だけでなく、バンドの制作業務もされていくようになって、より接点が増えて、今ではお互いにすごく情報交換をさせてもらっています。
―― 安福さんとはプライベートでも飲みに行ったりされるんですか?
松川:もちろん飲みに行ったりするんですが、大半が仕事の話になってしまいます。お互い住んでいる場所も違えば、仕事もおかげさまで忙しくやらせていただいているので、関西エリアのライブのときとか「京都大作戦」の打ち合わせのときとかに飲みに行ったりするくらいです。若い頃は打ち上げで飲みに行くと「イエーイ!」ってノリが多かったですけど、僕も安福さんもいい年齢になってきて、最近飲みに行っても終始、音楽というかエンタメ業界のいろいろな話ばかりしていて(笑)。
―― 真面目になっちゃった(笑)。
松川:そうですね。「昔と違って、イエーイっていう感じよりも、もちろん常にではないんですが、そういった話のほうが楽しくなっちゃいましたよね。そういう年齢ですよね」という話をついこの間もしていました。
―― ここからは松川さんご自身のお話をお伺いしたいのですが、生まれはどちらですか?
松川:名古屋で生まれました。それから浪人時代の19歳までいました。
―― 結構長いこといらっしゃったんですね。
松川:そうですね。途中、親の転勤で静岡に行ったり、名古屋の郊外のおばあちゃんの家に家族で住んでいたりとかありましたけど、ベースは名古屋で、だいたい東海エリアで生活していました。
―― どんなご家庭だったんですか?
松川:父、母、弟と僕の4人家族で、音楽の接点は全然なくて、父親はどちらかというと演歌を聴いているような人で、小さいときに父親に贈った誕生日プレゼントは、小林旭さんのカセットテープとか、そういう感じでした。父親はリンナイというガス器具のメーカーで働く、ごく普通の会社員でした。
―― 松川さんはどんな少年だったんですか?
松川:僕は、やんちゃな部類のグループでもなく、言い方悪いですけど末端のグループでもなく…(笑)。
――(笑)。松川さんは最終的に京都工芸繊維大学というかなりアートっぽい学校に行ってらっしゃるわけですよね。そういうことに、最初から興味のある子どもだったんですか?
松川:そうですね。ちょっと話戻るんですが、僕は引っ越すたびに割と運気が変わっていたんですよね。相手にされない時期を過ごして引っ越したときに「次は元気にいこう!」と頑張ってみると、みんなから仲良くしてもらえる立ち位置になって。そしてまた引っ越したら、グループに入れない子になって…みたいな感じで。それで、最終的に名古屋に引っ越したときに、兄弟一緒の部屋だったのが途中から自分の部屋を持つようになって、まだ中学生だったので限度はあったんですが、その中でも工夫をしたり改造をしたりと、配置やインテリアを考えるのが好きになって、「インテリアに関わる仕事に就きたいな」と高校生ぐらいから思うようになりました。
それで叔父が建築家だったので、話を聞いてもらっていたら「インテリアの専門学校はあるけど大学ではなかなかないから、広い意味で建築のほうに行ったらいいんじゃないか?」とアドバイスされたんです。僕は完全に理系だったので、建築にアンテナ張っていったら興味が湧いてきて、京都工芸繊維大学という建築を学ぶ大学に進学しました。
―― なるほど。
松川:工学的な建築と芸術的な建築の両方のいいところを併せ持った勉強ができるのが、当時その京都工芸繊維大学と九州にある大学が有名で、「そんな大学あるんだ」と思って受験しました。中学まではすごく勉強していたんですが、高校に入ってからは殆ど勉強せずに遊んでばかりいたので、受験直前とかに「ヤバイ」と思いまして。それまで物理が30点とかだったんですが、一週間で叩きこんで勉強したら、急に模試でまぐれだと思うんですが、90点台取れるようになって。
―― 天才ですか?(笑)
松川:いえいえ(笑)。もともと数字が好きだったので、たまたまそこに当てはまったんだと思いますけど。
ロック&ハードコア専門のクラブで暴れる週末
―― 音楽は聴かれていたんですか?
松川:音楽はもともと好きだったんですけど、何を聴いたらいいかそんなに分からなくて。それこそ初めて「この音楽すごくいい」と思ったのは、小学生のときに叔父からもらったカセットテープに入っていたチェッカーズの曲で、よく聴いていました。周りの友だちはリンドバーグとか聴いていました。
―― 80〜90年代ですね。
松川:はい。そのあたりを聴くようになって、中学の頃にB’zにハマったんです。B’zの初期の頃とかCDを聴き漁っていて、レンタルビデオ屋さんにあるライブのVHSを見て「楽しいなぁ」と思っていました。で、中3のときに初めてB’zのコンサートに行ったんですが、そのとき出したアルバムの曲以外はほとんどやらなくて「昔の聴きたい曲を聴けるとは限らないんだな」と初めてそこで知って(笑)。コンサートが始まった瞬間、周りの黄色い声の多さに「えっ、こんな感じなの?」ってビックリしたり。
―― B’zはそうでしょうね。
松川:すごかったですね。で、周りがスタンディングで盛り上がっている中で、僕は座って「想像したのと違ったな」って淡々と観ちゃって。高校に入っても、B’zのアルバムを買うことがルーティンになっていたんですが、途中から買っても聴かなくなっちゃったんですよね。
その状態でコンサートも1回行ったんですが、あんまり楽しめないなと思っちゃって。「B’zの曲が好きなら、こんな洋楽も聴いてみたら」って勧められたAEROSMITHやベタにビートルズも聴いたんですけど、いいなとは思ってもドハマりはしなくて。そうこうしているうちに、友だちから聴かせてもらったのがGreen Dayで、そのときの撃ち抜かれ具合が半端なくて。借りたカセットテープに入っていたGreen Dayと、The Toy Dollsっていうパンクバンドと、Ministryの3つのバンドを聴くようになりました。
それで、友達から勧められるものを聴くだけじゃなくて自分で発掘してみようと思って、名古屋のタワーレコードに行っていろんなCDを視聴して、「これすごいいい!」と思って買ったのがThe Suicide MachinesっていうアメリカのバンドのCDでした。当時、名古屋に住んでいたときはライブハウスっていう場所に行ったことがなくて、どっちかというとクラブばっかりだったんですね。ロックやハードコアだけを専門に流すクラブで、みんな暴れまくるような、常にモッシュピットがあるようなクラブで。高校生の頃からバイト代は、ほぼ服とそのクラブにつぎ込んで。
―― 暴れていたんですか(笑)。
松川:暴れていましたね。「求めていたのはこれだ!」っていうのがすごくあって、心底楽しくて。毎週行っていたら、友だちも増えていって。
―― 週末に行くんですか?
松川:週末ですね。金・土しか営業していなくて、初めの頃は週1で行っていたんですが、浪人時代は週2で行っていました。親が寝てからこっそり家を抜け出して、夜通し遊んで、親が起きる前に戻ったりしていました。なんせ受験生だったので(笑)。また、インディーズのものや輸入盤を専門に扱うお店でCDを買い漁るようになりました。そのクラブに行き始めたことがきっかけで、自分の中で音楽の占めるウェイトが増えた気がします。
―― だからといって、音楽を仕事にしようとか、その段階で思ったわけではない?
松川:そうですね。そういう仕事があるっていうことすら知らなかったです。
ライブの魅力にとりつかれた京都時代
―― 大学は中退されたと伺っていますが、何年通われたんですか?
松川:4年生まで行きました。
―― その頃は、大学を出て建築をやろうという気持ちは薄れていたんですか?
松川:その頃というか、大学に入って授業を受け始めた頃から何か違うと思ってしまったんです。あまり学校に行かない、ただ単にぐうたらな大学生でした。毎週クラブに行っていた感覚が体に残っていたので、そういう刺激を京都でも求めて探して、たまにイベントはあったんですが、毎週のようにそれをレギュラーでやっているクラブなんて京都にはないよって知らされ…。
―― 京都にはなかった?
松川:京都にはなかったです。というか、名古屋のそこが特殊だったらしく「そんなクラブは京都にも大阪にもないよ」って言われて。で、京都産業大学に通っていた高校時代の親友の家の近くに住んで、よく一緒に遊んでいたんですが、その彼も同じ感じの音楽が好きで、最初は名古屋に帰ったときにクラブに一緒に行って遊ぶという感じだったんですが、途中から「ないんだったら自分たちでやったら良くね?」って話になり、「DJイベントをやろう!」と話したのが97年でした。
―― ないなら自分たちで作ってしまおうと。
松川:はい。そのDJイベントを通して、知り合ったDJの女の子がいて、一緒にイベントをやるようになりました。DJイベントは3回やったんですが、その子の弟がその昔10-FEETのベースのNAOKIとバンドをやっていたということもあって、2回目にその女の子の誘いでNAOKIとTAKUMAが来て、そこで初めて10-FEETと出会いました。
―― 出会う前に演奏を聴いていたわけではなかったんですか?
松川:全然なかったです。そこに来ていただけで。それで、1回目のDJイベントはとんでもなく赤字だったんです。見切り発車で、「このくらいは入るんじゃないの?」と200〜300人は入るようなところでやったら、そんなに入らず。で、2回目からは小さいところでやるようにしました。そしたらチャージバックが3000円くらいもらえたんですね。その「バックがもらえた」ということが嬉しくて。前回が赤字だったので、それと比べると大出世じゃないかって。
―― 可愛いですね(笑)。
松川:(笑)。イベントが終わるのは朝5時とかなんですが、その3000円で打ち上げというものをやってみようという話になって、朝マックで打ち上げをしたんです。そこにTAKUMAが来ていて、「俺10-FEETっていうバンドをやっているんだよね」という話から、ウォークマンで自分のバンドの曲を聴かせてくれて。そのときはふざけた感じの歌ばかりで、TAKUMAが“らっきょう”が嫌いなんですけど、カレーを頼んだらついてくる“らっきょう”に納得がいかないっていう歌詞の曲を聴かされて、よく分からなかったんですが、イベント明けでテンションが上がっていて「いいんじゃないの?」と(笑)。
そうこうしているうちに、東京や大阪と比べると狭い街なので自然とそういう音楽をやっている人と繋がっていって、バンドをやっている人から「ライブ観に来ない?」と誘われ、京都のライブハウスに行ったんです。そしたら、世間的に知名度がある人たちじゃないんですが、衝撃的なほど楽しくて「DJイベントの比じゃないわ。ライブってこんなに楽しいんだ!」みたいな気分になったんですよ。
―― ライブの魅力に気付かれたんですね。
松川:本当にそうです。それでますます大学へ行かずに、音楽にのめり込んでいって。最近はもうあまり聞かなくなったのですが、当時はバンドがイベントを企画するときに、転換中にDJがBGMを流すというのが割と主流で、いろんなバンドと知り合っては、そのバンドが企画するときにDJとして僕と相方を呼んでもらって、そこでまた新たなバンドと知り合って、っていう感じで交友関係を広めていきました。そして、DJイベントじゃなくて「ライブイベントやらない?」という話になり、ライブイベントを企画するようになりました。
―― それを言い出したのは?
松川:どちらともなく、自然と2人からそういう話になったような気がします。で、ライブイベントを企画し始めて。1回目は、とある好きなバンドの7インチレコードに連絡先が書いてあったので、ダメもとで連絡して出演交渉したら出てくれる事になって。そのバンドの方は今はとある事務所の社長さんです。2回目のライブイベントのときに、当時売れ始めて「ここからどんと行くぞ!」という気運だった山嵐が出てくれました。京都の街でバンドでもないのにイベントをやっているというのが僕ら以外にそんなにいなかったので、イベントをやったらいろんなバンドに出てもらえるようになったし、バンドがイベントをやったら自分たちがDJで呼ばれる、みたいな図式がちょっとずつできていって、それで交友関係が本当に広がりました。
学生時代にやっておきたかった3つの仕事
―― では、ライブハウスで衝撃を受けて以来、頭の中はライブばかりになっちゃったんですね。
松川:もうライブ、ライブ!みたいな感じになっちゃって。相方と音源集めに必死になって、バイト代の大半はレコード収集に使っていました。
―― 何のバイトをしていたんですか?
松川:僕は最初、祇園で水商売をしました。ショーパブっていうくくりのお店で、主に女性のお客さんが来てその席に着いて接客する、基本的にはホストみたいな感じなんですが、途中でショータイムらしきものがあって、そこで踊りを見せるみたいなお店でした。基本的に踊りは参加しなかったんですけど…。
―― 踊りってどういった踊りですか?
松川:何ていうんですかね…ユーロビート系の音楽に振り付けをつけたもので。見たときも自分の価値間的にはかっこいいとは思えず、「あら〜」みたいな感じだったんですけど(笑)。
―― それは女性の客に見せる男の踊りなんですか?
松川:そうですね。本当に、ローカルなお店でやっている、地元アイドルの踊りみたいなのに近いと思いますね。
―― 要するに、生粋の夜の商売っていう雰囲気のお店だったんですね。
松川:結局、そういう未知の世界に好奇心があって入ったんですが、僕ナンパとかは全然できない性格で、初めましてのお客さんの席にたまに座っても緊張して上手く話せないから、基本的にはホールスタッフみたいな感じで。そんなに忙しい店じゃなく、併せてホールスタッフにフィリピン人の男性が2人いたんですね。その人と仲良くなってフィリピンのタガログ語の簡単なものを教えてもらいました。
―― 松川さんは、昔は夜の世界の人だったんですね。
松川:いや、どっぷり夜の世界の人間っていうわけでもなく。好奇心はあったんですけど、それを自分の生涯の仕事にしようとは全く思っていませんでした。ただ学生時代であれば、学生じゃなくなるときにすんなり、就職を理由に辞められると思ったので。世間からは敬遠されがちな仕事を大学時代にやって、人の裏側や本性を見てみたいという人間観察的な要素もあって。当時僕の中でやりたかった仕事は3つあって。一つは水商売、もう一つが雀荘、もう一つはラブホテル。
――(笑)。
松川:結局ラブホテルで働くことはできなかったんですが、水商売の次は雀荘で働いて。
―― 雀荘は何が目的だったんですか?
松川:雀荘は麻雀が好きだったっていうのはあったんですけど、これも今しかできないなと思ったんですよね。僕の仕事は雀荘の受付とかじゃなくて、フリー雀荘で相手をするっていう仕事だったんですが、まだ誰かを養わなければいけない状況じゃないし、給料が全部飛んでいっても何とか生きていけるかなっていうのもあって。それまでは決まりを知らなかったんですけど、勝ったら勝っただけもらえて、負けたら負けただけ自腹なんですよ。
―― 怖いですね…。
松川:怖いです。基本、若い店員で勝つ人なんていないんですよね。麻雀って運とかにすごく左右されるので、運がいいときでも、新たなお客さんが来たら代わらなきゃいけないし、運が悪くて止めたくても、自分が抜けると卓が割れちゃうから止められない状態で。
―― それってバイトになるんですか?
松川:基本時給が1000円だったんですよ。当時京都でそれは結構いい時給で、最終的に時給800円や900円くらいで終わったら、今月残ったほうだなって感じでした。ひどいときは、「今月時給40円くらいじゃない?」ってときもありました。
―― で、3つ目のラブホテルは?
松川:いや、募集しているラブホを見つけられなかったんです。
―― 松川さんはインテリジェンスに溢れた喋り方をされていますが、相当変わっていますよね(笑)。
松川:いえいえ(笑)。最終的に、大学4年生くらいのときに、音楽関係のことや水商売や雀荘の仕事を振り返って、キャッキャした思い出が全然ないなと思ったんですよね。それはそれで良くないと思って、最後にやったバイトはカラオケでした。近所の大学生が皆そこでバイトするみたいな感じで。
―― 普通の大学生らしく、女子大生と合コンみたいなことはやってなかったんですか?
松川:ライブの打ち上げっていうのはあったんですが、大学時代に合コンっていうのは一度も行ったことがなくて。むしろ、高校の頃の方が、他校の女子高生とカラオケで合コンしたりすることもありました。当時はポケベルの番号を交換して、知り合いを増やしていくみたいな。そういうコンパでキャッキャ遊んでいたのが高校時代で、大学時代もたまにはそんな遊びもしたいなとは思ったのですが、誰が調べたのか「京都で一番合コンしたくない大学第1位」が僕の行っていた大学だったんですよ。
―― そうなんですか?(笑)「先に言ってくれよ」っていう感じですね(笑)。
松川:(笑)。だからそういう出会いもなければ、音楽関係の人とコミュニケーションを取っていたので同じ大学の人とかでも話が合わなくなっていって。
―― では、学校を卒業する気は途中でなくなってしまった?
松川:途中でさらさらなくなりましたね。
10-FEETと共に上京し音楽業界へ
―― 10-FEETと上京するきっかけは何だったんですか?
松川:交友関係を広げていったときに、名古屋でレーベルをやっている人と出会ったんですね。その人は同時に名古屋のMUSCLE DOGGY GROOVESというバンドのマネージャーもやり、アナログ盤を売っているショップもやっていたんですが、そのバンドがZebraheadの初来日ツアーで、大阪公演と渋谷公演のサポートアクトをやることになって、「物販を手伝って」って言われて、ついて行っていろいろとお手伝いしていたんです。頻繁に連絡を取り合うようになったら、その方から「レーベルやってみない?」と言われて「やりたいです!」と、相方と二人で大学時代にレーベルを立ち上げたんです。
で、まず京都の仲間のバンドをリリースしたんですが、ジャンルが片寄らないように、最初はハードコアのバンドを出して、その次はスカ調のバンドを出して、という感じでやっていました。当時、相方はバイトを休んでまで地方に行けず、就職活動もあるからと、東京に行ったり、ツアーで地方に行ったりする業務はほぼ僕がやっていたんですが、東京での宣伝活動は上京している昔の友だちの家に泊めてもらい、原付を借りてプロモーションに回っていました。
とは言いつつも、ハードコアっていきなりテレビとかラジオでは無理だろうから、『Indies magazine』と、ハウリング・ブルが出していた『EAT magazine』、パンク系が多かった『DOLL』の、この3つの雑誌を回りました。それ以外は、僕らのジャンルには関係ないものだと思い込んでいた部分があったので。あとはレコード屋を回って、個人的に買いあさって帰るっていうことをしていました。
―― 学生時代からそういうことをされていたんですね。
松川:ええ。最初に出したハードコアのバンドは、地元で一回レコ発をやっただけだったんですが、その次のバンドでは初めてツアーを組んだんです。それで、そのツアーにも同行して。ただ当時、知識も何もなかったので、リハを見てもどう進行させたらいいのかも分からないですし、そもそも何をしたらいいのかも分からなかったので、とりあえず会場入りして、搬入だけちょっとして、ライブハウスの人と名刺交換だけしたら、あとは客席で「イエーイ!」って楽しんでいるだけでした(笑)。
今なら「あいつ本当にスタッフなのか?」って言われるぐらいの感じでツアー回っていて。そうこうしているうちに相方は就職活動でメジャーのレコード会社を受けたりもしていたんですが、ことごとく受からず、最終的に「僕らがやっているような音楽のジャンルでは飯を食えない。俺は普通の仕事をする」と言って、ゴム手袋のメーカーに就職しちゃったんです。
―― その方は普通のサラリーマンになっちゃったんですか?
松川:そうです。僕は一浪している分、一年まだ余裕があったので、どうしようってなりながら、仲間のバンドの7インチのレコードを出したりしていました。CDが売れる時代なのもあったんでしょうけど、音源によっては3000枚とか売れることもあって。今の時代の3000枚とはまた違っても、当時学生がやっているレーベルの割には結構売れたんです。
―― おお、3000枚って結構すごいですよ。
松川:でも卸していた名古屋のレーベルの方が、お金が上手く回っていなくて、僕らが売り上げたお金っていうのも、レコーディングスタジオ代や雑誌の出稿料みたいなものは、売り上げの中から代わりに払ってくれていたんですけど、僕らに本来回ってくるはずのお金っていうのは1円もなくて。
―― ノーギャラ。
松川:はい。そうしながらもTAKUMAとはたまに会って遊んだりしながら、音楽の話とか、今後どうしていこうと思っているかっていう話もいろいろとしている中で、10-FEETに上京の話が来まして。それはもともと、今10-FEETがお世話になっているMOBSTYLESっていうアパレルブランドの田原104洋さんという方が、渋谷にあったSTORMY内のSHIBUYA-FMのスタジオでパーソナリティーをしていて。
―― SHIBUYA-FM、ありましたね。
松川:で、10-FEETの周りにいた関西のアパレル関連の仕事をしていた方が、田原さんに音源を渡して、そのアパレルの方と10-FEETだけで東京に行って、田原さんの番組に強引に出たんですね。そのときに、田原さんは半分冗談で「お前らかっこいいから東京来てやれば?」みたいに言って。
―― 何の責任もなく(笑)。
松川:何の責任もなく(笑)。そしたらメンバーがその気になっちゃって、「行ったほうがいいんじゃないの?」と。田原さん自身は、別にそんなに音楽にがっつりと携わっているわけじゃなかったんですが、田原さんの周りにいる人たちとたまたまお付き合いのあった芸能事務所があったんです。
―― なるほど。
松川:それで「全然知らない人がマネージャーをするよりも、気心知れた人がマネージャーをやったほうがいいんじゃないの?」みたいな話になり、TAKUMAから「一緒に東京に来ない?」みたいな話を受けて。それまでは、ほぼ趣味というか、やってもお金になってなかったので、東京に行って事務所に入って勉強しながら、毎月給料をもらえるって「最高!」と思って。「こんな贅沢な環境はないわ」と思って。
―― 生きた学校ですよね。
松川:そうですね。こういうチャンスは一瞬しかないと、卒業を待っていたら無理だと思ったので、親に話に行って。「実は大学に入ってから、建築のことはあまり興味が持てなくて、建築よりも音楽に関することをいろいろとやっていた。つらいから大学を辞めたいのではなくて、自分が本当にやりたいことが見つかって、それをやるためにはこの一瞬のチャンスを逃したくないから、大学を辞めることを認めて欲しい」って話をしたら、半泣き状態で「卒業できないのか」って言われたんですが、「それを待っていたらこの話はなくなる」と話したら、「わかった。そういう風に後ろ向きでなくて前向きな感じで辞めるんだったらお前の好きにしろ」って言われて、「じゃあ、辞めます」と。
―― ありがたい言葉ですね。
松川:はい。当時父親からしたら、「10-FEETって何だ?」みたいな感じだったんですけど、徐々に人気が出ていって、「会社の若い子とかが10-FEET好きだ」ってなっていくと何だか嬉しくなったみたいで、今ではもう…。
―― よき理解者?
松川:そうですね。周りに対して「うちの息子、10-FEETのマネージャーなんだよ」って言ったりもしているそうです(笑)。
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第151回 株式会社BADASS 取締役 松川将之氏【後半】