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第152回 株式会社ロッキング・オン・ジャパン 『ROCKIN’ON JAPAN』編集長 小栁大輔 氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社BADASS松川将之さんからのご紹介で、株式会社ロッキング・オン・ジャパン「ROCKIN’ON JAPAN」編集長 小栁大輔さんのご登場です。野球少年だった小栁さんは、父親からの突然の「引退勧告」を受け、音楽にのめり込んでいきます。その後、音楽雑誌『rockin’on』との出会いから「ロッキング・オンで働く」夢を抱いた小栁さんは紆余曲折を経て、なんと5回目の試験でついに入社。カルチャー誌『H』『CUT』にアニメやアイドルなど新たなジャンルを導入し、その後、会社の主軸である『ROCKIN’ON JAPAN』編集長に就任されます。現在も編集作業とともにロッキング・オン主催の各フェスのブッキングなど、多忙な日々を送られています。そんな小栁さんにご自身のキャリアから、ロッキング・オンのビジネスにおける思想までお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

BADASSは社員一人一人のレベルが高い

ーー まず、前回ご登場いただいたBADASS松川将之さんとのご関係からお伺いしたいのですが。

小栁:松川さんとは10-FEETやヤバイTシャツ屋さんの現場で、様々な形でお仕事をさせてもらっています。最初にお会いしたのは3年ぐらい前だと思いますが、密にお仕事させてもらうようになったのは、雑誌の編集長をやりながらイベントのブッキングをやるようになってからです。

我が社のフェスのラインナップを見ていただくとよく分かるんですが、10-FEETや松川さんのマネージメントしているアーティストたちは重要な存在ですので、より深くお付き合いするようになりました。友人付き合いということではないんですが、フェスの現場、取材の現場、「京都大作戦」の現場など、気づけば年に何回も顔を合わせています。ですから、今回松川さんからご紹介いただいたのはすごく嬉しかったです。

ーー 松川さんのマネージメントに関して、どのようなご感想をお持ちですか?

小栁:松川さんは素晴らしいマネージャーだなとずっと思っています。BADASSさん自体が素晴らしいマネージメント会社だと思いますし、松川さんはアーティストにきちんと向き合いながら、例えば、僕たちメディアやイベントを持っている企業との話し合いも、どちらが最優先というのではなくて、落としどころをきっちり探していくというか、最善のやり方を探してくれる方です。

ーー 信頼関係があるんですね。

小栁:はい。BADASSさんはすごい会社ですよ。社員一人一人のレベルがすごく高いと思います。

ーー わかりました。では、ここからは小栁さんご自身のことをお伺いしたいんですが、お生まれは亀戸だそうですね。

小栁:はい。中学校までは亀戸にいて、そこから両国に越して。だからずっと江東区、墨田区で過ごしていました。

ーー それは祖父母の代からなんですか?

小栁:いや、父親は熊本出身なんですが、若い頃にたまたま亀戸へ引っ越してきて、そのままそこに根付いているという。

ーー どんなご家庭だったんですか? 

小栁:父親は僕が物心ついた頃からずっと会社の経営をしていまして、小さな産廃処理会社を今も営んでいます。家庭の環境的には浮き沈みが色々あったと思うんですが、僕は特別苦労することもなく、典型的な中流家庭で生きてきました。

 

 

「そんなにその雑誌が好きなら、そこで働けばいい」〜野球の引退勧告と『rockin’on』との出会い
 

 

ーー ご兄弟はいらっしゃるんですか?

小栁:2つ下に妹がいて、9つ離れた弟がいます。僕は小さいときからずっと野球をやっていたというか、やらされていたっていうのに近いんですが(笑)、下の名前の「大輔」は荒木大輔さんからつけられたんですよ。年の近い松坂大輔選手なんかもそうですが、当時「大輔」は名付けランキング1位だったんですよね。

ーー 大ヒットの名前ですね(笑)。

小栁:大ヒットですよね(笑)。僕はその1人なんですよ。ですから幼い頃から「ゆくゆくは早実で野球をやるんだ!」と(笑)、そういうものだと思って生きてきたんです。それで「野球である程度のところまで行きたいな」と思って、中学のときは相当強いチームでキャプテンをやらせてもらっていました。

ーー それは少年野球のチームですか?

小栁:そうです。チームメイトのみんなは野球推薦で高校に行くようなチームで、僕も当然、高校でも野球をやるつもりでいたんですが、父親もずっと野球をやっていた人なので才能の有無が分かるんでしょうね。僕は身長が173cmで止まっていましたし、僕の野球の才能に見切りをつけたようで、父親から「もう野球は諦めろ」と言われたんです。

ーー それは厳しい一言ですね。

小栁:高校の強いチームに行って、ある程度やれば、レギュラーになれるかもしれないし、もしかしたら甲子園にも行けるかもしれない。でも、その身長と才能でプロになれる可能性はゼロなんだから、もう中学のうちに辞めろと言うんですよ。

ーー 小栁さんの気持ちとしては、プロまで見ていた?

小栁:「プロを目指したい」という気持ちはありました。ただ、同じチームの中にも「明らかにコイツの方がすごいな」と思うようなやつがいるわけです。そこで自分も「限界はあるだろうな」と思っていました。もちろん「やり始めたからには納得いくところまでやりたい」という気持ちはありましたが、もう親父にはっきり言われまして。中3のときに(笑)。

ーー 引退勧告が…。

小栁:そうです(笑)。中3で「通用しない」「才能ない」と引退勧告を受けました。

ーー でも、はっきり言ってくれてよかったのかもしれませんね。

小栁:ええ。その頃、野球とともに好きだったのが音楽でした。ちょっとギターを弾いたりもしていましたが、なにせ野球をやっていたので本腰を入れることもなく、文化祭でちょろっと弾いた程度で。それで洋楽が好きになって『rockin’on』を読みはじめたんですが、父親の目からしたら、ものすごく一生懸命読んでいるように見えたみたいで「あんなに真剣に読んでいるんだったら、いつかその出版社で働くという夢を持てばいいじゃないか」って言うんですよ。

ーー 良い進路指導をしてくれましたね。

小栁:自分としては単に好きで『rockin’on』を読んでいたんですよ。「こんな本があるのか」って。でも強く意識するようになったのは、やはり父親の一言からです。

ーー 小栁さんが読んでいた頃の『rockin’on』は、まだ編集長が渋谷陽一さんの頃ですか? 

小栁:増井修さんの頃ですね。もちろん渋谷も書いていましたけど、その他の個性豊かなライターさんたちに感化されたところはすごく大きいです。そこからうっすら「ロッキング・オンという会社で働く未来もあるんだな」なんて思いながら残りの中学生活を過ごしました。

ーー それはすごいですね。

小栁:野球の話には余談がありまして、先ほどお話した9つ離れた弟にも父親は野球をやらせるんですが、「お前と違ってこいつは才能あるぞ」と(笑)。それで「お前も面倒見ろ」と弟に野球をバリバリやらせていくわけです。

ーー 小栁さんがコーチ役ですか?

小栁:ええ、親父と一緒に。で、結論から言ってしまうと弟が野球推薦で早実に入り、甲子園に出て優勝するんです。斎藤佑樹くんのときのチームの2番サードが僕の弟だったんですが、そこで野球の夢のリベンジが一応果たされたんですね(笑)。

 

 

歌謡曲から洋楽まで音楽漬けの日々
 

 

株式会社ロッキング・オン・ジャパン「ROCKIN'ON JAPAN」編集長 小栁大輔さん

ーー 小栁さんは早実に進学されなかったんですか?

小栁:はい。普通に受験勉強をして、城西大学付属城西高校に進学しました。そこからは、ひたすらバイトしてはCDを買うという生活になりました。

ーー その頃は、どんなジャンルを聴いていたんですか?

小栁:とにかく色々なジャンルを聴いていました。もともと子どもの頃から音楽が好きで、よくテレビの音楽番組を観ていましたから、いわゆるテレビでかかるヒット曲は昔から普通にたしなんでいたと思います。

ーー 例えば、どんなアーティストですか?

小栁:一番最初に好きになったのはチェッカーズですね。チェッカーズや小泉今日子さん、サザンオールスターズ。あと父親がよく車で聴いていたのは松田聖子さんで、僕もそういった音楽がすごく好きでした。それで小学校のときに小遣いをもらってせっせとレンタルCD屋さんに通って、テープにダビングして聴いていました。

ーー その一方で洋楽も聴かれたんですか?

小栁:洋楽も好きで、中学からはもっぱら洋楽でした。友人の兄貴が「こういうのを聴かなきゃだめなんだ!」とか言って、それこそニルヴァーナとか、時代は全然違いますけどディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ビートルズ、ストーンズなんかを聴いていました。

ーー レジェンドから現代のアーティストまで。

小栁:もう何から何まで。そのときは何がイギリスの音楽で、何がアメリカの音楽なのか、何が70年代で何が90年代なのか全然気にしてなかったですね。とにかくあらゆる音楽を見境なく聴いていました。

ーー その頃にSpotifyみたいなものがあったら聴きまくっていたでしょうね。

小栁:「その会社で働こう!」と思ったかも知れませんね。ただ当時の僕には『rockin’on』との出会いがあまりに新鮮だったんですよね。

ーー 定期購読は何歳からしていたんですか?

小栁:中3ですね。94年から。気持ち悪い話ですが、中3からただの1冊も欠かさず買っていました。高校、大学のときなんてもっとすごくて、洋楽の『rockin’on』だけでなく、ロッキング・オンが出す『ROCKIN’ON JAPAN』、『CUT』、『H』、『SIGHT』と全ての本を買っていました(笑)。

ーー 他の雑誌には目もくれず?

小栁:洋楽で言うと『CROSSBEAT』とかも並行して読んでいましたが、『rockin’on』が読み物として一番面白かったです。

ーー ロッキング・オンが出す出版物は小栁さんにとって魅力的だった?

小栁:やっぱり面白かったですね。僕は『ROCKIN’ON JAPAN』の所属なので今は他の雑誌には関わっていませんが、たとえば、洋楽の『rockin’on』も『SIGHT』も、一読者として客観的に読んで「本当に面白い雑誌だな」と思いますからね。まあ、昔のように穴が空くようにして読むわけじゃないですが、今でも全部読んでいます。

ーー なんだか「ロッキング・オンで働くために生まれてきた男」って感じですね(笑)。

小栁:(笑)。高校のときなんか特に『rockin’on』という雑誌が教えることが自分自身の全てでしたよね(笑)。

ーー 一種の信者ですかね。

小栁:信者だったと思います。高校生のときは就職活動なんて全然リアルじゃなかったですけど、周りの友人たちは「お前はいつかその会社に入るんだろうな」って言っていましたからね(笑)。

ーー ちなみにライブには行っていたんですか?

小栁:ライブって結構割高じゃないですか。しかも洋楽のライブに行こうとすると7〜8000円しますから慎重でした。高校生のときはお小遣いもバイト代もそんなになかったですし、ライブへ行くお金があるんだったら、御茶ノ水のディスクユニオンで輸入盤を4〜5枚買ったほうがいいなみたいな。

ーー 手元に残りますしね。

小栁:ええ。高校生のときは御茶ノ水を通る通学だったので、毎日欠かさず駅前のディスクユニオンに行っていました。洋楽で言うとちょうどブリットホップとかが出て来た頃ですね。

ーー その情熱を分かち合える友人とかはいらっしゃったんですか?

小栁:洋楽に関してはいなかったです。だから一人で黙々とやっていました。自分の知識を磨くというか。ギターとかも弾いていましたけど。

ーー 高校時代って他にも色々なことに興味を持つ時代だと思うんですが、例えば女の子と合コンしたとかその手のことには興味なかったんですか?

小栁:あんまりなかったですね。まあ、女の子好きでしたけど(笑)。高1のときに好きになった人がいるんですが、結局、僕はその子と10何年後に結婚するんですよ。

ーー そうなんですか! ちなみに奥さんも音楽がお好きなんですか? 

小栁:昔も今も全く興味ないですね。うちのフェスにも来やしませんし…(笑)。とにかく高校のときはバイトしてCD買って、バイトしてCD買って、そして月に1回の『rockin’on』を楽しみにする日々でした。

 

バイト代を貯めてCD100枚をまとめ買い

 

 

ーー その生活は大学時代も変わらず?

小栁:大学時代も変わらずですね。大学時代はバンドをもうちょっとしっかりやりたいなと思って、4年間みっちりやりましたけどね。

ーー 例えば、音楽評論を書くみたいなことはまだやっていなかったんですか?

小栁:何かしら聴いたらメモする程度ですけど書いてはいました。

ーー 投稿まではしなかった?

小栁:しなかったですね。今でもうちは投稿を受け付けていますし、「音楽文 ONGAKU-BUN」という投稿を募るサイトの運営もしています。そこへは高校生や中学生も投稿してくるんですが、当時はまだ「雑誌はプロとして活動する場」という印象を持っていましたし、実際そうだったと思うんですよね。ですから評論を投稿するという発想はあんまりなかったですし、「いつか」という気分でした。野球少年がそのままプロに入ろうとはさすがに思わないわけで、「いつか入ろう」って思うのと同じです。

ーー ランニングとか素振りを毎日やっていた感じ?

小栁:まさにそういう感じでしたね。何となくそういうビジョンは当時から持ち始めていたのかなと今でも思いますね。

ーー 大学でもバイトに精を出されたんですか? 

小栁:そうですね。より一層バイトができるようになったので、当時はクレジットカードの営業とかやっていましたね。

ーー ロッキング・オンでバイトをする選択肢はなかったんですか? 

小栁:実は受けたこともあるんですが不採用でした。普通、学生は週5日出社できませんし、そういう当たり前の理由もあって不採用だったんだろうなと思うんですが、「まあそういうもんだろうな」と思っていました。ですから普通に稼ぎの良いバイトをいっぱいやっていましたね。

ーー 営業的なお仕事ってお好きだったんですか? 

小栁:好きだったんですよ。今もいわゆる営業マン的な動きもしますけど、営業は当時からすごく好きでしたね。

ーー 小柳さんは大学が慶應のSFCとのことですが、ここって4年間湘南なんですか?

小栁:そうです。4年間湘南にいるんですよ。最近のリレーインタビューで言うとMAN WITH A MISSIONをマネージメントしている南部(喨炳)さんは大学の後輩です。当時は全然接点がなかったんですが、最近それが判明して以来、特に仲良くさせてもらってます。「先輩!」って言ってくれます(笑)。

ーー あのノーベル平和賞を目指している南部さんですね(笑)。

小栁:(笑)。彼はビジネス的なビジョンもはっきり持っている人なので、話していてものすごく面白いですね。とても好きな仕事相手です。話を戻しますと、バイトをいっぱいして給料をもらったら、空のスーツケースを持って御茶ノ水とか神保町、西新宿にCDを買いに行って、1日で100枚くらい買っていました。

ーー それって枚数的にプロの買い方ですよね。

小栁:とにかくそれが楽しみだったんですよね。「給料が出た」となったら、空のスーツケースをガラガラガラって(笑)。神保町とか西新宿とか、いろんなところに行っていました。それで買ってきたCDを1か月かけて聴き、メモをしたり。

ーー ロッキング・オンという会社は中学生のときから意識されていたということですが、音楽ライターや音楽評論家になるという考えはなかったんですか? 

小栁:ライターと評論家で食べていくという考えは、全くなかったです。やっぱり何かを書く、何かを読む、音楽について語るのは、僕の中では『rockin’on』でやることであり、音楽について書ければどこでもいいんだとは全く思ってなかったんです。それは自分でも不思議なぐらい。刷り込みに近いのかもしれないですね。

だから、最初音楽について読んだ媒体が『rockin’on』であって、そこに書いてあったものがある種の普遍性を持っていたというか。『rockin’on』という雑誌の芸風や、会社の考え方は今も変わってないですが、その変わらなさみたいなところにはまったと言いますか、シンパシーを持ったんですよね、

ーー 刺さった?

小栁:ええ。「刺さった」ということなんだと思います。

 

 

ロッキング・オンの入社試験に落ちてエイベックスへ
 

 

株式会社ロッキング・オン・ジャパン「ROCKIN'ON JAPAN」編集長 小栁大輔さん

ーー そして就職になるわけですが、当然ロッキング・オンに入ろうとチャレンジをされたわけですよね。

小栁:チャレンジしました。でもロッキング・オンって、大きな企業ではないので当時は毎年1人2人しか採らなかったんですよね。ですから、それこそ倍率が1000倍というような採用試験だったんです。

ーー そんな倍率なんですか?

小栁:割合で言うと今もそれに近いと思いますけどね。ですから受かりやしないだろうなと思いながら新卒のときに受けて、案の定不採用で。

ーー もう宝くじぐらいの倍率ですよね。面接までも行かなかった?

小栁:面接までも行かないです。今そのときに提出した原稿を思い返すと「これでは受からないな」って思いますけどね。「このレベルじゃまず受からないな」と。

ーー そして新卒でエイベックスに入ってらっしゃいますね。

小栁:実はその前に、小さなベンチャー企業に1回お世話になったことがありまして。そこは「音楽レーベルをいつかやろう」というビジョンを持っていた会社で、音楽好きが集まっていたんですが、いきなり「音楽をやろう」と言ってもビジネスになりませんから、当時出てきたADSL回線を企業向けにセールスする仕事を半年弱くらいやらせていただきました。

ーー その後、エイベックスに中途入社された?

小栁:そうです。同い年の新卒社員と同じ年代としての採用で。

ーー エイベックスでは最初からディストリビューションだったんですか?

小栁:はい。いわゆる販社ですよね。2002年入社ですが、当時はCDも巨大なセールス規模がありましたし、会社自体もものすごく活気がありました。エイベックスは今はいわゆる大企業になりましたが、当時はグループ全体で700から800人ぐらいだったと思うんですよね。ファミリー感もありましたし、ここからいよいよ大きくなっていく企業特有のエネルギーがありました。

ーー エイベックスのディストリビューションって、エイベックス以外のカタログもやっていましたよね。

小栁:受注という形でやっていましたね。たとえば、テレビ朝日ミュージックさんのHYのセールスなども当時やっていましたね。だから、エイベックスでも一貫して営業畑でした。

ーー エイベックスで働いてみてどうでしたか? 

小栁:すごく面白かったです。エイベックスはその当時も今も本当に良い会社だと思いますし、僕は大好きでした。エイベックスに育てていただいたという意識は心の中にすごくありますね。

ーー 具体的にどういう部署でお仕事をされていたんですか?

小栁:僕は営業推進部というところで一番長く過ごしたんですが、全国の営業部の数字を決めて、その進捗管理をしていく仕事をしていました。また、営業施策について各部署と相談しながら、全国に指示を出していったり。

ーー でも、そのエイベックスの入社もとてつもない倍率ですよね。

小栁:希望者はいっぱいいたと思うんですけどね。でも、ありがたいことに採用いただいて、そこから一生懸命仕事していました。

ーー その頃の同期の人は今もエイベックスに残っていらっしゃいますか?

小栁:いっぱいいますよ。そのときの上司や先輩だったり、今でもしょっちゅうお会いします。

ーー エイベックスでの2年間は濃かったですか?

小栁:濃かったですね。先ほども申し上げた通りファミリー感もすごくあったので、同期との仲も良かったですし、先輩にも可愛がっていただきましたし、すごく充実していたと思います。ですから本当は辞める理由がなかったんですよね。エイベックスに骨を埋めるという人生もあったと思います。そのぐらいエイベックスの人たちが好きでしたし、エイベックスでの仕事もエイベックスが手がけていた音楽も大好きでした。でも、エイベックスにいる間もずっとロッキング・オンの試験を受けていたんですよ。

ーー その頃も忙しい中『rockin’on』は読んでいた?

小栁:ええ。そのときの上司や先輩にも『rockin’on』が好きな方がいっぱいいて、「今月号読んだ?」「○○のインタビューが再掲載されていたな」「○○の新譜が出たぞ」みたいなことをよく話していました。それでお給料が入ると、またゴッソリCD買うわけですよ。それを会社で聴いたりしていると「お前またそんなに買ったのか」みたいな(笑)。

ーー 当時、どのくらいCDに注ぎ込んでいたんですか?

小栁:どうでしょうね。月13、14万ぐらいCD買っていたんじゃないですかね。給料のうち、使える金額のほぼすべてですよね。貯金もせず、後先も考えず、ただ「聴かねばならない」という感覚でひたすら音楽を聴いてました。

ーー でも、少なくともエイベックス関連は買わずに済むようになったんじゃないですか? 

小栁:そうですね。しかも当時の上司が見かねて、いろんな会社のサンプル盤を聴かせてくれたりもしていて。でもタダで聴かせていただくのも申し訳ないなと思って、聴いたものの評論を「お時間ある時に読んでください」って言って渡してました(笑)。それがある意味、今の仕事の原点かも知れないですね。

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