第152回 株式会社ロッキング・オン・ジャパン 『ROCKIN’ON JAPAN』編集長 小栁大輔 氏【後半】
今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社BADASS松川将之さんからのご紹介で、株式会社ロッキング・オン・ジャパン「ROCKIN’ON JAPAN」編集長 小栁大輔さんのご登場です。野球少年だった小栁さんは、父親からの突然の「引退勧告」を受け、音楽にのめり込んでいきます。その後、音楽雑誌『rockin’on』との出会いから「ロッキング・オンで働く」夢を抱いた小栁さんは紆余曲折を経て、なんと5回目の試験でついに入社。カルチャー誌『H』『CUT』にアニメやアイドルなど新たなジャンルを導入し、その後、会社の主軸である『ROCKIN’ON JAPAN』編集長に就任されます。現在も編集作業とともにロッキング・オン主催の各フェスのブッキングなど、多忙な日々を送られています。そんな小栁さんにご自身のキャリアから、ロッキング・オンのビジネスにおける思想までお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
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第152回 株式会社ロッキング・オン・ジャパン 『ROCKIN’ON JAPAN』編集長 小栁大輔 氏【前半】
いつかはロッキング・オンで働きたい〜5回目の試験で入社
ーー 「いつかはロッキング・オンで働きたい」というのは当時公言していたんですか?
小栁:公言していました。鷹揚な時代だったんだと思いますよ。今、社内でそんなことを言ったら「じゃあ今すぐそっち行けば?」って言われちゃいますよね。でも、当時は「いつかはロッキング・オンで働きたいという夢があるんです」なんてことを上長とかに話して「おお! 頑張れ、頑張れ」なんて言われて(笑)。
ーー 怒られず応援してもらっていたんですね。
小栁:良い時代だったんじゃないですかね(笑)。
ーー そうですね、でも今も音楽業界ってわりとそんな感じがしますけど。他の業種と違って「だったらすぐ辞めろ」とは言わないんじゃないですかね。
小栁:ああ、そうかも知れないですね。それで何回もロッキング・オンを受けたんですが、「もうそろそろ諦めて、エイベックスでもっと真剣にやらなきゃいけないかな」という思いもあって、当時の上長に「次の試験を最後にします」と話をしたのが5回目の受験のときで、そこでダメだったら諦めるつもりでした。
ーー 試験自体は年に何回かあったんですか?
小栁:契約社員の募集と正社員の募集とか、いろんな形態での採用があるので、それを見かけるたびに受けていました。ですから年に2回ぐらいは受けていたんですよね。それが2年続いて「これで最後にします」と話したのが5回目の試験で、そこで受かったんです。
ーー 受かったときの周りの反応はいかがでしたか?
小栁:そのときの部長は「本当に受かったのか。すごいな!」って言ってくれました。
ーー 難しいってことをみんな知っていたんですね。
小栁:本当にみなさんの理解があって。ロッキング・オンが好きな方が多かったからなのかも知れないですけど。
ーー 何月に受かったんですか?
小栁:4月あたりじゃないですかね。
ーー 新卒試験ですね。
小栁:ええ。今で言う第2新卒みたいなことなんでしょうけど新入社員の枠で受けて。
ーー そのとき一緒に受かった人は何人いたんですか?
小栁:僕も入れて2人ですね。
ーー たった2人ですか…すごい。ちなみに入社して「5回受けたんだってね」みたいなことは言われましたか?
小栁:入ったときに「お前何回も受けたらしいな」って色々な人に言われました。今でもそうなんですが、うちは面接を渋谷が自らやるんですよ。でも、僕はいつもペーパーの段階で落ちていて、面接までいったのは5回目の試験が初めてだったので「本当に渋谷陽一が出てくるんだな」と思いながら試験を受けて(笑)。
ーー 5回目で認められたポイントは何だったと思いますか?
小栁:なんでしょうね…業界経験がそれなりにあったのと、ロッキング・オン自体も出版を真ん中に据えた会社からイベントも含めた様々な事業をする会社に変わろうとしていた頃だったので、自分の外向きのキャラクターも含めて「使える」と思ってくれたんじゃないかなと思いますね。「なんで採ってくれたんですか?」と確認はしたことはないですけど。
ーー ちなみに5回目の試験で「受かりそうだな」という感触はあったんですか?
小栁:いや、全然なかったですね。どこかで「またダメだろうな」と思っていましたし、ダメならエイベックスで頑張って、いつかロッキング・オンにエイベックスの社員として仕事をしに行けばいいんだと思っていました。
ーー そんな状況の中で受かったんですから、すごく嬉しかったんじゃないですか?
小栁:本当に嬉しかったですね。やっぱり「諦めないって大事だな」と思いましたし、「続けるって大事だな」とも思いました。中学生のときに、親父に「お前がいつも一生懸命読んでいるロックの本あるだろ、そんなに好きならその会社で働いてみたらどうだ」って言われてからですからね(笑)。
ーー お父さんにはすぐ連絡されましたか?
小栁:しました。「おお! お前まだ受けていたのか」って言っていましたね(笑)。
『H』『CUT』で生かされたアニメ&アイドルへの興味
ーー ロッキング・オンに入社されて、まずどこに配属されたんですか?
小栁:最初は『H』編集部に配属されました。『H』は今も不定期刊で発行しているんですが、いわゆるナショナルクライアントの広告が入る媒体だったので、とにかくその営業をしっかりやるのと、編集のイロハを学びなさいと言われました。
ーー 営業兼編集ですか?
小栁:そうです。広告営業をかなりやりましたし、編集のイロハも『H』編集部で学びました。入社した2004年頃は週の半分ぐらいスーツを着て、代理店やファッションブランドとかの展示会に行って「タイアップやりませんか?」とか、そういうことがメインでしたね。
ーー 『H』も以前から読まれていたんですか?
小栁:読者ではありました。ただ、音楽好きだったので洋楽の『rockin’on』が常に一番で、カルチャー誌である『H』に関しては改めて勉強し直さなきゃいけない感じでした。そこからはなかなか面白かったですけどね。
ーー 『H』編集部には8年と結構長く在籍されますね。
小栁:長いんですよ。僕が入社してから3、4年目ぐらいのときに『H』と『CUT』の編集部が一緒になったんですね。それで『CUT』と『H』を一緒に作るようになりまして、『CUT』は映画を中心としたカルチャー誌だったんですが、徐々に邦画やアニメ、あるいはアイドルを扱うようになり、僕がもともと持っていたそういったジャンルへの興味を仕事にどんどん活かせるようになりました。
ーー アイドルとかお好きだったんですか?
小栁:はい。大学のときに洋楽を聴くのと同時にアイドルもよく聴いていたんですよ。アップフロントさんのハロー!プロジェクトや、チェキッ娘とか、とにかく追っかけていましたね。
ーー それは音楽的興味から聴いていたんですか? それとも「応援したい」みたいな気持ちで聴いていたんですか?
小栁:「誰かを応援したい」という気持ちは昔からあまりなくて、音楽として「本当にいいな」「素晴らしいな」と思って、モーニング娘。などを聴いていました。
ーー 普通、洋楽好きってその辺を敬遠する人も多いですよね。
小栁:なかなか距離はありますからね。でも本当に好きだったんですよ。高校生のときに、テレ東の『ASAYAN』という番組を経由してモーニング娘。がデビューするんですが、そのときの高揚感はすごかったです。もちろんおニャン子クラブは知っていましたが、僕の世代はおニャン子の全盛期は小学校低学年だったので、微妙に間に合ってないんですよ。ですから「自分たちの世代のアイドルが出てきた!」と思ったのがモーニング娘。やハロー!プロジェクトで、本当にはまりました。
ーー しかも楽曲も好きだった?
小栁:はい。つんく♂さんの作る曲は素晴らしかったですし、派生するユニットの中でも、ELOっぽいサウンド作りになっているものがあったりして、そういったリンクに高校生ながらに気づいたりすると嬉しいわけですよ。日本の歌謡曲をベースにしながらサウンドは思い切り凝れるし、尖らせられるということがアイドルの1つの公式だとするなら、そのあたりの年代でその面白さに初めて気づいたんですよね。
ーー その頃から分析的に音楽を聴かれていたんですね。
小栁:この音楽の良さや、生まれてきた時代的な必然みたいなものを誰かに説明するなら、自分ならこうやって説明するだろうなって思いながら音楽を聴いていたのは間違いないですね。
そういう意味ではピュアに音楽が大好きで聴いていたというのとはちょっと違うかもしれないですね。「いつか音楽を人に伝えることを生業にするんだ」と思って生きてきたところがあったので、常にアウトプットを意識しながら聴いていたかもしれないですね。その意識においては、アメリカのメインストリームもUKインディーもアイドルもJ-POPも変わらなかったんだと思います。
ーー そういう視点じゃなかったら、「これは好きだけど、これは聴きたくない」というのがどうしても出てきますものね。
小栁:出てきますよね。僕はそれが全くなかったです。その当時の「なんでも聴く」という姿勢で得た知識が『H』『CUT』編集部で活かせるようになっていくんです。
ーー どういう形で活きたんですか?
小栁:当初は「映画誌を作るんだ」というアイデンティティを持ってやっていたんですが、どんどん「日本のアニメ映画って映画としてクオリティが低いかというと決してそんなことはない。では、ハリウッド映画と何が違うんだろう? バジェットの大小など成立の仕方は違うけど、作品のクオリティは全然違わないんだ」とアニメを取り上げるようになり、その過程で「じゃあ、ロックとアイドルを並立させて語ることもできるんじゃないか?」と、『H』や『CUT』で少しずつ実践していきました。渋谷もそういう発想を持っている人で、背中を押してくれたんですね。
ーー なるほど。僕らが「アイドル」と思っていたアーティストが『ROCKIN’ON JAPAN』でロングインタビューされたり、そういったことに繋がっていくわけですね。アイドルではないかもしれませんが、浜崎あゆみさんが表紙になっただけでも我々は驚いたわけで。
小栁:そうですよね。今、フェスのブッキングで、アイドルやアニソンを歌うアーティストさんにも出てもらっていますが、『H』『CUT』の8年間で培った知識と情熱のアウトプットの仕方がものすごく活きているんですよね。もちろん、ラッキーもあるんですよ。時代がそっちに向いたという。フェスやロッキング・オンの媒体がそれぞれ成長していく中で、「何をエンジンにしてお客さんの欲望をさらに刺激して、応えていくのか?」というときに、自分がもともと好きだったものと重なったという。
ーー 先ほど渋谷さんも「同じ発想を持っていた」とおっしゃっていましたが、渋谷さんから直接方針を指示されたり、アドバイスされたこともあったんですか?
小栁:『CUT』にいた頃はよくありましたね。今もそうですが、当時も渋谷が自ら編集長をやってましたので。そのときに『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の新キャラ「マリ」を表紙にした号を作ったんですが、それがすごくヒットしたんですね。
その前にもスタジオジブリの表紙は作っていましたが、テレビアニメから出てきた作品を表紙にしたことはなかったんです。そこで渋谷が「お前の中にロジックがあって『この作品が生まれた背景にはこういう理由がある、だから面白いんだ』という情熱と必然性があるなら、やってみたらいいんじゃないか」と背中を押してくれたんです。それでやってみたらすごくウケたんですよね。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は映画でしたけど、テレビアニメというチャネルにも『CUT』が生きていく方法があるんじゃないかという手応えがありました。そこから『マクロス』をやったり『けいおん!』をやったり、かなり自由にやらせてもらいました。
ーー 渋谷さんの発想にはもともとそういうものがあると思うんですよ。
小栁:そうですね。ロッキング・オンはもちろんロックに最大のアイデンティティがあるんですが、「大衆に求められるものにはどんな理由があるんだろう」とか、「大衆に求められるものには正義があるんだ」と思考していくメディアなんです。僕もそういったロッキング・オンの姿勢に読者の頃からシンパシーを抱いていたんですよね。
会社のビジョンにいかに呼応するか〜『ROCKIN’ON JAPAN』編集部へ
ーー その後、『ROCKIN’ON JAPAN』に異動されますが、それはご自分の意志だったんですか?
小栁:これはもう渋谷に「やらないか?」と言われたからですね。今までお話させていただいた通り、自分の新しいやり方がすごくはまっている感じがあったので、このまま『H』『CUT』でキャリアをまっとうしていくという道もあるかなと思っていたんですが、僕は一会社員ですから当然部署異動はありますし、渋谷から「やりたいこともやりきっただろうし、これから会社がどんどん変わっていく中でお前みたいなキャラクターの人間が邦楽事業をやるのがいいと思うんだ」と言ってくれたんですよね。
ーー 編集長に就任されて「こうやっていこう」というビジョンはあったんですか?
小栁:「自分がやるからには」という心持ちはほとんどなかったですね。というのも、『ROCKIN’ON JAPAN』に異動する段階で、会社や新しくなっていく事業の中で求められるものがあるんだろうなと思ったからなんです。呼ばれるからには求められる能力とか、そこで発揮すべき力があるはずで、それをしっかり発揮できるようにならなきゃいけないなと。
やりたいことをやるだけだったら、カルチャー誌の編集部にいた方が編集者としてのリビドーみたいなものは発揮できたと思うんですが、『ROCKIN’ON JAPAN』はフェスも含めてこの会社の根幹の事業だったので、自分自身が何をやりたいかというよりも会社のビジョンにしっかり呼応しなければならないと思いました。
ーー 理想的な社員ですね(笑)。
小栁:まあ、そうですね(笑)。会社のビジョンをさらに推し進めるために満を持して呼ばれたんだと思って『ROCKIN’ON JAPAN』に異動したので、「このアーティストを絶対にやるんだ」「俺が推すんだ」「こういう雑誌にするんだ」っていう個人としての欲望はビックリするぐらい自分の中になかったですし、会社が目指すビジョンに向かっていくことがとにかく新鮮でしたね。僕が『ROCKIN’ON JAPAN』に異動してから5年なんですが、その間に会社そのものもすごく変わりましたし、この部署はある種その変化の真ん中にいるような部署だったので。
ーー やりがいありますよね。
小栁:まあ、大変なことばかりでしたよね。見よう見まねみたいなことが多かったので。例えば、新事業だったオーディションも最初『ROCKIN’ON JAPAN』の編集をやりながらオーディションの仕切りをしたりしていました。
ーー どのようなオーディションをやっていたんですか?
小栁:今では本当に大きなオーディションに成長してくれましたが「RO JACK」というオーディションサイトをやっていまして。そこに各地から色々なバンドの音源が集められてくるんですね。それを聴いて優勝を選び、その優勝したアーティストの作品を、これも社内で作った「JACKMAN RECORDS」というレーベルで制作して流通させる事業をやっていたんです。
ーー オーディションは年間通してずっとやっているんですか?
小栁:今は毎月入賞バンドを発表するようになったんですが、当時は年2回でした。夏のフェスと冬のフェスに合わせて「優勝したらフェスのステージに立てるんだ」と。そういうスキームです。
ーー 「出れんの!? サマソニ!?」みたいな感じですね。
小栁:そうですね。それを早い段階からやっていました。その事業は今でもやっていますが、そこでの経験も大きかったですね。
ーー その後、フェスに関わるようになるんですか?
小栁:そのときからフェスには関わっていまして、ブッキングもやりはじめていましたね。ただ、『ROCKIN’ON JAPAN』に異動して日が浅かったので、業界内でのコネクションもなかったですし、アーティストとの繋がりもそんなに強くはなかったので、数としてはまだまだ少なかったですね。
ーー そのブッキングというのは、編集作業と並行してやっているんですか?
小栁:そうです。出演オファーや条件面のすり合わせであったり、解禁のタイミングとか、そういう交渉を今でも全部やっています。
ーー 何アーティストに対してやっていらっしゃるんですか?
小栁:1番多かったときは1フェスで100アーティストぐらいやってましたね。去年とか一昨年は夏冬それぞれ100ずつぐらいやっていて「これはなかなか大変だな」と思って、チーム作りを抜本的に変えました。
ーー 1人1回のやり取りでは済まないでしょうしね…。
小栁:1アーティストあたり、5、6回は連絡を取らせてもらうんじゃないですかね。それを編集作業しながらやっていました。
ーー すごい…頭の中が混乱しそうです。
小栁:頭の中の引き出しが「どっちの引き出しだったっけ」ってなりましたよね(笑)。
ーー しかも今は年3回フェスを開催されていますよね。
小栁:大きいフェスが3回ですね。もともとは夏と冬だけだったんですが、8年前からゴールデンウィークもやり始めて、今は春と夏と年末の3つフェスの柱があります。その3つともブッキングを担当しています。もちろん僕1人ではなくて、渋谷も山崎(洋一郎)も相当数担当していますし、僕も含めて7、8人のブッキングチームになっています。
ーー 渋谷さんもご自分でブッキングされている?
小栁:はい。渋谷陽一は本当にすごいですよ。メディアだけ挙げても、今でも『CUT』と『SIGHT』の編集長をやっていますし、ウェブ媒体「rockinon.com」のトータルプロデューサーもやりながら、すべてのフェスの総合プロデューサーをやっているという。さらにもちろん社長業にも向き合っているわけで。やっぱりその姿を追いかけているところはありますよね。でも、この2、3年で業務の進め方も効率的になりましたし、僕も「そんなに仕事があると毎日徹夜でしょう?」とよく訊かれるんですが、徹夜なんて全くしてないですからね。うちの部署はどんなに遅くても21時にはみんなピタッと帰っています。
ーー それであれだけの本を作り、フェスを開催していると。
小栁:はい。昔は大変でしたけど、今はそれぞれの事業と事業部において効率化と合理化が上手くなされていると思います。もちろん暇ではないですし、一人一人がすごいプレーヤーにならなきゃいけないっていう会社ですけどね。
ーー 今後『ROCKIN’ON JAPAN』はどこに向かっていくんでしょうか?
小栁:『ROCKIN’ON JAPAN』が創刊されて32年ですから、それなりに長い歴史を持っていますが、やはり過去を見てもどんどん変わっていっているんですよね。判型や誌面の作り方、ジャーナリズムの角度であったり、写真の撮り方、タイトルの付け方など、色々なものが変わっていっています。3年前に僕が編集長になったときと今を見比べても相当変わっていますしね。当然、変えようと思ってやった部分もありますが、時代と読者の要請によって、必然的に変わっている部分の方が大きいんです。
「この時代において読者が喜んでくれることは何だろう?」「誌面に出てくれるアーティストにとってメリットのあることってどういうことだろう?」、そういったことを考えながら、細かいところを何度も変えながら作ってきた結果が今の『ROCKIN’ON JAPAN』になっています。
昨今の出版不況の中で、当然苦しい時期にも向き合ってきましたが、今はV字回復とまでは言いませんが、緩やかに上がっている状況を作れているのは、何より読者とマーケットの声を聞きながら、それから誌面に登場してくれるアーティストの要望やニーズ、彼らにとってのメリットといったところを考え抜いた結果だと思っています。
ユーザーの欲望の正しさを追い求めていきたい
ーー 今、ロッキング・オンはフェス系の仕事が大きなウエイトを占めていますよね。
小栁:ええ。渋谷は約20年前に海外の状況を見ながら、フェスというものが日本に定着する時代が来ると思ったんだと思います。そこから本当に試行錯誤がたくさんあって、ここまで来ました。ロッキング・オンの根本的な事業、基本的なスタンスは何かというと、ユーザーの欲望が教えてくれる正しさに対して批評、あるいは事業として挑むことなんですね。その最大の成果のひとつがフェス事業だと思います。
ーー そこに小栁さんも大きく貢献されているんですね。
小栁:だったらいいんですけどね。編集長という立場に3年前からさせてもらって、雑誌の調子が良いので非常にいい状況は作れていますが、それでも挫折じゃないですけど、自分自身の仕事の仕方を随時書き換えてきたなという感覚はあります。
今この会社で『ROCKIN’ON JAPAN』という媒体を作るということは、ただ単に「面白い雑誌を作りなさい」ということだけがミッションではなくて、会社にとってどういう雑誌が必要なのか考える作業なんですね。あるいは、放っておけば雑誌を読まなくなってしまうような世代の読者に対して、雑誌の気持ちよさみたいなものをどうプレゼンしていくのか、そして、そのプレゼンをしたことによって「『ROCKIN’ON JAPAN』という媒体はすごいな」とどう思わせるのか。そうすることによって、僕たちのメディアに出てくれるアーティストとどれだけのメリットを共有していけるのかとか、幅広い価値観で本を作らなくてはいけないですし、その価値観を大事にしてイベントを作らなくてはいけないと考えています。
ーー ロッキング・オンは雑誌とフェスの両輪が上手く回っていますね。
小栁:上手く回っていると思いますね。だからフェスが健全に回っているのも雑誌が健全に回っているからなんだと思いますし、雑誌が健全に回ればフェスにおけるアーティストやユーザーとの関係も健全に回っていくという構造は確実にあります。
また、それがユーザーにとって幸せかどうかということもすごく考えています。例えば、ユーザーが『ROCKIN’ON JAPAN』を入り口にしてフェスに来る。あるいはフェスが入り口で『ROCKIN’ON JAPAN』やウェブに帰ってきてくれるという構造にしても、とにかくユーザーが第一で、ユーザーにとって楽しく快適なものであるようにするために、エネルギーの投資と尽力は惜しまないです。
ーー なるほど。
小栁:『ROCKIN’ON JAPAN』も今はかなり大胆に、ユーザーの見たいものを念頭に置きながら、写真を撮影したり、使い方を決めているんですが、10年前の僕だったら「俺が好きだったロッキング・オンはもっとサブカルだったんだ、尖ってたんだ」って言っていたかも知れないです。でも、ユーザーの消費活動もどんどん変わって、便利さが大きな価値を持つ時代になっている中で、「でも雑誌というのは、この“面倒臭さ”や“大変さ”を共有させるものなんだ」と作る側が高をくくったら終わりだと今は思っています。それは出てくれるアーティストに対しても面目ないですし、「アーティストが出てくれるメリットと、読んでくれる読者のメリットを最大化する」というミッションが編集長にあるのだとしたら、そのミッションをまっとうしたいんですよね。
「ユーザーが欲しいものをきちんと提供する」という考えはもちろんフェスも同じです。快適なフェスを作ろう、来た人ができる限り苦労しないで楽しめるフェスを作ろうと常に試行錯誤しているのがロッキング・オンという会社が上手くいっている一つの理由だと思います。雑誌をこちら側の理屈、こちら側の事情で作り始めるとすぐにユーザーにバレるというか、すぐに数字が落ちてきちゃうんですよ。「あれ、前はこのやり方でウケたのに、なんでウケなくなっちゃったんだろう…あ、時代が変わったからか」って気づかされるところはものすごくいっぱいあります。買い手市場である世界にどう対応するか?ということに、エンターテインメントは本気で向き合わなくてはいけないんじゃないでしょうか。
ーー フェスもブッキングはもちろん大切だけど、快適さみたいなものも重要だと。
小栁:ええ。ブッキングの豪華さももちろん喜ばれますし、当然大事にしていますが、ある意味それ以上に、スムーズにステージ間を移動することができたとか、トイレに並ばないですむとか、スピーディに入場できるといったことのほうが喜ばれたりするんだという気づきがあります。
やはり雑誌にしてもイベントにしてもユーザーに教えられるんですよね。「ここは詰めが甘かったかな」と思うことって雑誌やイベントに携わっていると本当にいっぱいあるんですが、ユーザーはそこを絶対に見逃してくれませんね。そこで我々が半歩先でも先回りして改善していくことで、「さすが『ROCKIN’ON JAPAN』」「さすが『ROCK IN JAPAN』」「さすが『COUNTDOWN JAPAN』」と言われる作り方をしよう」と心掛けています。
ーー まだお若い小栁さんですが、今後の目標はなんですか?
小栁:ロッキング・オンの、ユーザーが求めているもの、マーケットが求めているものの正しさに向き合うという思想は変わりませんし、今後もその思想を追求していくことで、必然的に新しい事業がたくさん生まれてくると思うんです。でも「ただ儲かればいい」ということではなくて、社会への貢献と言うと非常に大きな話になってしまいますが、ロッキング・オンに期待して携わってくれるユーザー、アーティスト、関係者ひいては業界全体に行き渡るメリットや、ポジティヴな効果を大きくしていくようなビジネスをこれからも作っていくのではないかと思います。僕自身そういう新しいビジネスに関わりたいと強く思っていますし、今後もそういった動きの真ん中にいられるよう頑張りたいですね。
ーー 常に音楽の現場の最前線にいたいと。
小栁:そうですね。ユーザーやビジネスが教えてくれる正しさに向き合い続けた結果として、音楽の最前線にいることになったらいいなとは思っています。ロッキング・オンがやってきたことは、雑誌にしてもイベントにしても、経済的なリターンを前提に立ち上げられたわけではないんですね。「みんなが求めているものってこれなんじゃないか?」と考えて続けてきた結果、ビジネスとして成長してきただけで、すごく健全だと思いますし、僕自身、正しさに導かれていくような、その自然なビジネスの流れがすごく好きなんですよね。
だから、ロッキング・オンもそうだし、きっと渋谷もそうだと思うんですが、「自分の好きなことをやってビジネスになったからすごい」と思われがちで、もちろんそういう面もあるんですが、それ以上に「ユーザーから求められているものはこれなんだ」ときちんと感じることができたからここまでの存在になれたんだと思うんですよね。
ーー 人々が求めていたものを具体的に提示できたから受け入れられたわけですよね。
小栁:そういうことだと思います。その提示が、大衆の欲望や読者やユーザーが欲しいタイミングの半歩先だと成功はそれだけ大きくなりますし、仮に半歩後だったとしてもやり方によっては大きくなるんですが、やはり半歩先にそれを提示することの大事さを日々感じます。
ーー 小栁さんから見ても「渋谷陽一」という存在は大きいですか?
小栁:本当にすごい人だと思います。最近は起業家としての面も目立つようになっていますが、渋谷はビジネスマンそのものとして動いているというよりも、市場とユーザーが教える欲望を受け取る極めて精度の高い批評眼があって、その「批評家としての渋谷陽一」が「実業家としての渋谷陽一」に「早くこの仕事をしろ」と伝えてくるんだと思います。これはあくまでも僕の解釈ですが、だから、渋谷陽一という人は批評家なんだと僕個人は認識しています。
ーー そして小栁さんは今後も初志貫徹、ロッキング・オンの発展のために頑張っていこうと。
小栁:はい。今後もユーザーの欲望の正しさを追い求めていきたいです。その結果として新しいビジネスが生まれて、その正しさの結果としてビジネスが大きくなっていくというサイクルを大事にしていきたいですね。