第153回 株式会社フジテレビジョン ゼネラルプロデューサー 三浦 淳氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社ロッキング・オン・ジャパン「ROCKIN’ON JAPAN」編集長 小栁大輔さんからのご紹介で、株式会社フジテレビジョン ゼネラルプロデューサー 三浦 淳さんのご登場です。中学時代から音楽にのめり込んでいた三浦さんは「マスメディアで自分の好きな音楽を紹介したい」という想いからフジテレビに入社。仕事の合間に膨大な数のライブを観つつ、一貫して音楽を軸に番組制作をされてきました。現在『MUSIC FAIR』『Love music』『FNS歌謡祭』など音楽番組・特番から、『VS嵐』など人気バラエティー番組まで数多くの番組を手掛け、6月には2つのイベント開催も控えている三浦さんに、ご自身のキャリアからテレビと音楽のこれからまでじっくり伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽を聴くことばかりに時間を費やしていた
――前回ご登場いただいたロッキング・オンの小栁大輔さんとはいつ頃出会われたんですか?
三浦:小栁さんとは、一昨年くらいにエイベックスの友人の紹介で一緒にご飯を食べる機会があって、そこから仲良くさせてもらっています。ご飯に行ったり、僕が地方のフェスに行くと小栁さんが来ていて、そこで会ったりしています。僕はあまり友達がいなくて飲みに行くことがほとんどなかったんですよ。仕事が忙しかったのもあって、特に20代は飲みに行くとかほとんどなく、30代になってからやっと友達という存在が少しできたんですが、その1人が小栁さんで、プライベートで一緒に楽しく過ごせるような感覚の人ですね。
――お友達はやはり音楽が好きな方が多いんですか?
三浦:そうですね。音楽の話が合わない人と仲良くなる機会は滅多にないんですよね。
――ここからは三浦さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?
三浦:生まれは神奈川県の江ノ島の近くです。本当に自然の中で、今も実家に帰ると携帯が圏外になるという(笑)。
―― (笑)。まだそこにはご実家があるんですか?
三浦:はい。本当に山の中で、今ですら家の7割ぐらい圏外なので、当時は情報が何も入ってこないような場所でした。駅に行くまで山を一つ超えなければいけなくて、コンビニもなければ自動販売機も1個もないようなところだったんですよ。
――ご兄弟は?
三浦:2つ違いの姉が1人いるんですが、僕が中学生ぐらいのときに海外へ留学しちゃって、それから高校〜大学とアメリカで、最後はハワイの大学行ってそのまま結婚して、未だにハワイに住んでいますね。
――ではお姉さんが海外に行かれてからはずっと1人っ子みたいな感じで?
三浦:はい。僕は小学校から中学校ぐらいまでずっとサッカーをやっていたんですが、中学に入ってからはサッカーより音楽に興味を持ち始めてしまって。当時バンドブームの前夜というか、尾崎豊やBOφWY、プリンセス プリンセスといったアーティストが出てきて、音楽全体が盛り上がっている時代でした。その頃は音楽を聴くことばかりに時間を費やしていましたね。
――三浦さんは1973年生まれですから、1985〜86年頃でしょうか。
三浦:そうですね。ただ当時ライブハウスに行く環境が周りにあまりなかったので、ライブにも行けず、今みたいにタワーレコードや外資系のお店もそんな近くにはなかったので、友達から回ってくるカセットテープと、ラジオとかでひたすら情報を集めていました。
――テレビも?
三浦:当時のテレビの歌番組は歌謡曲中心だったんですが、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』は、ちょっとロックな人とかも出たりしていたので、そういうときは観ていましたね。
表舞台に立ちたいという欲がなかった
――ご自分でバンドもやっていたんですか?
三浦:バンドもやっていました。高校に入ったときに、仲のいい友達が楽器を始めて、そのバンドをよく観に行っていたんですよ。ライブはもちろん練習しているリハーサルスタジオにも遊び行ったりするうちにベースの奴が「ギターをやりたい」と抜けることになって、そのベースをもらって、急きょ加入したんですよ。それで「2カ月後にライブがあるから」と言われて、2カ月間ひたすら練習してステージに立たせてもらいました。
――それまで楽器には触ってなかったんですか?
三浦:まったく。でも、コピーバンドだったので、何か特別なことを求められるわけでもなく…(笑)。
――(笑)。そのバンドはどうなったんですか?
三浦:そのバンドは高校2年ぐらいで辞めました。なんで辞めたのかはっきりは覚えてないんですが、わかりやすく言うと音楽の方向性が変わってきたりとか、その頃って学校内に何個もバンドがあって、上手い奴は色々なところに呼ばれて、僕も違うバンドの奴から声かけられたりしていたんです。別に僕は上手いというわけではなく、ベースってあまりいなかったので。それで何個かやっているうちに、違うバンドの奴とすごく意気投合して「じゃあそっちでやろうか」という感じで、自然消滅ですね。
――じゃあ、どこかでライブいっぱいやったとか客がたくさん入ったとか、そこまでは…。
三浦:いや、もう身内の、同じような学校の仲間たちと何バンドかやって、学校の友達中心に観にくるっていう程度です。
――原宿のホコ天に乗り出そうとか、イカ天に出ようぜとか、そういうのはなかったんですか?
三浦:そういう野望がないんですよね。バンドをやることだけが当時のステータスみたいな感じで。オリジナル作ってデビューしようとか、そういう連中でもなかったんで。
――バンドやっていて女子にモテたとかそういう話もない?
三浦:まったくないですね(笑)。モテたいという動機でみんな始めて、ちょうどビジュアル系バンドのはしりというか、X(のちにX JAPAN)がデビューした頃だったので、僕らも化粧したり、派手なジャケット着て。なんて言うんですかね…非日常じゃないですけど、普段の学校生活ではできないことをバンドで表現するのが楽しいという感じだったんでしょうね。お祭りというか。
――コスプレの一種みたいな。
三浦:そうですね。ライブのときはそういう格好をしても恥ずかしくないというか。
――でも学園祭とかは盛り上がったんじゃないですか?
三浦:学園祭に出ようと思ったら、ちょうど理事長か誰かが亡くなって、自粛になってしまって…結局、学園祭でライブ演奏やってないんですよね。
――学園祭でのライブ経験なし?
三浦:そうなんです。今思うとバンド活動っていいながら、当時から表舞台に立ちたいっていう欲がなかったんですよね。ベースというポジションもそうですけど、バンドを支えるとか、そういうことが中心でしたね。裏方的な。
――今もそうなんですか?
三浦:今も基本、裏方ですね。表に出るのは興味がないというか、世にアーティストを出すことが一番楽しいです。
――ちなみに高校時代、大学時代のアイドルはどなただったんですか?
三浦:高校入る前は圧倒的にBOφWYが好きで、そこからはいろんなバンドを聴いて、ライブもその頃からよく行くようにはなりましたが、1つのバンドを追っかけ始めたのは、大学入った頃に出会ったTHE YELLOW MONKEYで、今でもナンバーワンですね。
メディア人としての原点は学園祭のライブイベント企画
――大学はどちらに進まれたんですか?
三浦:獨協大学へ進学しました。
――大学に入ってからもバンドを組んでいたんですか?
三浦:やっていましたけど、その頃から聴く方が中心になっていました。まだネットもなかったので、それこそ『ロッキング・オン・ジャパン』に出ているような人たちを聴いていました。いわゆるJ-POP、当時でいうとB’zやT-BOLANといったビーイング系、福山雅治さん、Mr.Childrenのようなゴールデンタイムに出てくるような人たちとはちょっと違った音楽と言いますか。渋谷系もよく聴いていましたね。小沢健二さんとかその辺は今でもど真ん中です。
――大学時代に今のお仕事につながるようなことは考えてらっしゃったんですか?
三浦:まったく考えてなかったんですが、学園祭にアーティストを呼んでイベントをやりたいという気持ちがあって、広告研究会に所属していました。それで大学2年のときに学園祭でイベント企画をして、当時僕が好きだったザ・コレクターズとフィッシュマンズに出てもらいました。
――イベントのプロデュースをしたんですね。
三浦:かっこよく言うとプロデュースなんですが、当時、部員5人ぐらいでやっていたので、自転車操業というか全員野球みたいな感じでした。最近は「広告研究会」って悪いイメージというか、やんちゃな感じですけど、僕らの広告研究会は超地味なサークルでした。
――ちなみにそのイベントは、どんなイベントだったんですか?
三浦:普通に学園祭にアーティストを呼んでライブやるだけなんですが、当時、学園祭の実行委員会があって、そこは予算もあって人もいっぱいいるので、プリンセス プリンセスが来たりして2,000人規模ぐらいのイベントをやっていました。僕らはその前日にイベントをやったんですが、200人ぐらいしか集まらなくて。
――プレ・イベントみたいな感じですか?
三浦:いやいや、そんな大層なものじゃないです。当時ネットもなかったので、プロモーションの仕方もわからずザ・コレクターズのライブに行ってビラを撒いたり、フィッシュマンズもまだそんなにメジャーではなかったので、本当に限られた人しか観に来ないイベントになってしまい大失敗に終わったんですが、そこで「自分の好きな人やものを、知らない人に向けて紹介したい」という気持ちが自分の中で芽生えたのかもしれません。
――それが三浦さんのメディア人としての第一歩であったと。
三浦:多分そこが原点ですね。高校時代から音楽好きな友達と、カセットテープに自分の好きな曲だけを集めて交換するみたいなことをよくやっていたんですよ。
――今で言うプレイリストですね。
三浦:まさに。「この曲の次にこれを入れたら繋ぎが気持ちいい」とか、DJ感覚も含めてやっていたんですよ。「このバンドの次にこれを聴かせたい」とか。テレビでいうプログラムであったり、ライブであれば、まあ1曲ずつ聴かせることはないですけど、このバンドとこのバンドを組み合わせるみたいな、いわゆる対バンですよね。当時、フェスとかはなかったので「このバンドとこのバンドが出たらいいなぁ」みたいなことは高校時代からずっと考えていたというか、考えるのが好きだったんですよね。
ちょっと話が飛びますが、僕は『FACTORY』という音楽番組を数年間担当していて、『FACTORY』はライブハウスという設定で、スタジオには無料でお客さんを呼んで、4〜5組のアーティストが次々と出てきてライブをするという番組なんですが、僕が演出を担当していたときは、その日のラインナップをすごく大事にしていました。
まずヘッドライナーが決まったら、そのアーティストをリスペクトしているアーティストを並べるとか、何か接点を探す。プロデューサーが一緒のバンドだとか、何かそういう接点を作って、アーティストを点で集めるんじゃなくて、ちょっとでも線を作りたいなと思っていました。ちなみに、そのときは客入れのBGMやセット転換中のBGMを毎回僕が選曲していたんです。
自分もそうですけど、ライブ前に1人でいるお客さんって待っている間、手持ち無沙汰じゃないですか。今はみんなスマホを見ていますけど、そんなときに、音楽を聴きながらワクワク待てる感じにしたいなと。アーティストもバックヤードでスタンバイしながら、「お! ○○の曲がかかってる!」って、ちょっとテンション上がるようなBGMにしたかったんですよね。アーティストごとに「この人とこの人の転換のときはこの曲にしよう」とか考えながらCD-Rを作って、「1バンド目のときはこれで」とPAさんに渡していました。
――三浦さんが今やっていることって、学生のときからほとんど変わってないですよね。
三浦:そうですね! 高校時代のカセットテープのときから変わってないですね。
――それを学園祭でやっているか、フジテレビの電波を使っているかだけですよね。それは羨ましいと言いますか、ある意味夢が叶っていますよね。
三浦:仕事となると大人の世界もあるじゃないですか。でも『FACTORY』は政治案件がなく、ピュアに自分たちの好きなバンドを出してイベントができたので、すごく自由でした。
――完全に学生ノリですね。
三浦:はい。当時スポンサーにタワーレコードさんやローランドさんが入ってくれたり、音楽をちゃんと理解してくれる方々がサポートしてくれていたので、そういう意味では本当にいい環境でしたし、当時の上司のきくちさんも好きにやらせてくれました。
――それを仕事にできるものならしてみたいと思っている人は、たくさんいるでしょうね。
三浦:いや、そんな幸運なことは僕の会社生活20年の中でもほんの少しです。でも、そういうことができたというのは、すごくありがたいですよね。
『HEY! HEY! HEY!』と『LOVE LOVEあいしてる』の影響からフジテレビ入社
――フジテレビへの入社は第一希望だったんですか?
三浦:当時情報ってテレビ、ラジオ、雑誌がメインで、特に音楽に関してはそういったメディアと、レコードショップの新譜情報とかしかなかったので、自分の好きな音楽を紹介できるマスメディアに自然と興味を持ちました。その中でも、当時最大の力を持っていたのはテレビだったので、テレビで音楽番組に携わりたいと思いました。
その音楽番組の中でも『HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP』と『LOVE LOVEあいしてる』が大好きだったんです。僕が学生時代に『メリー・クリスマス・ショー』という、桑田佳祐さん、松任谷由実さん、明石家さんまさんらが中心の音楽特番がすごく印象に残っていて、『LOVE LOVEあいしてる』はそのレギュラー番組が始まったような印象だったんですよね。とにかく、この2つの番組にすごく影響を受けていたので、「フジテレビに入りたい」という気持ちが強かったです。
――試験は、報道とかといっしょくたなんですよね?
三浦:そうです。一般職と技術職とアナウンサーがあるので。
――ということは、営業に配属される可能性もあったんですね。
三浦:はい。当時は1年間の研修期間があって、放送人はバラエティー番組を作る人間もドラマを作る人間も、一度報道を勉強して放送を生業とする者としての倫理観を学びなさい的なことで。始めの半年間は希望していた音楽番組に配属してもらったんですが、残りの半分は報道。1年たって配属が決まるときに音楽番組に呼び戻してもらえました。
――入社試験のときに「音楽番組をやりたい」というアピールはしたんですか?
三浦:ええ。当時「音楽番組をやりたい」という人って、ほとんどいなかったんですよね。当時のフジテレビは『ダウンタウンのごっつええ感じ』があったり、『笑う犬の生活』も始まっていたり、やはりお笑いのイメージが強くて、そこを目指している人が多かったです。あとは「情報番組をやりたい」とか「スポーツをやりたい」とか。音楽に行きたい人が正直あまりいなかったので、当時の部長が「音楽班志望いるじゃないか!」と引っ張ってくれました。非常にラッキーだったと思います。
――音楽班はちょっと空いている車両だったってことですね。
三浦:もちろん、その当時も音楽は人気がありましたし、みんなどこかで音楽は好きだと思うんですけど、音楽番組でディレクターをやりたい人はあまりいなかったんですよね。
――ご自身は高校や大学でやってきたことを、テレビでやるだけだという感覚はあったんですか?
三浦:まったくないですね。
――結果としてそうだったというだけ?
三浦:そうですね。あまり振り返ったこともなかったんですが、今思うと「昔から同じようなことをしているなあ」とは思いますけど。
――自覚のないままスタートしたAD生活はいかがでしたか?
三浦:地味でしたね。2週に1回収録があって、アーティストが来るときはお祭りですけど、そこに向けての2週間はひたすら地味な作業ばかりでした。
――それはカット割りを考えるとか、そういう作業ですか?
三浦:いや、カット割りはディレクターが考えるので、そのための資料を作るんです。当時はパソコンもほとんど普及していなく、全部手書きで作ったりしたんですよ。歌詞カードを手書きで作るような感じなんですけど、それをディレクターに渡して、ディレクターがそれにカット割りを入れて、戻ってきたものを大量にコピーするという。
また音資料といって、その日収録するアーティストのテレビサイズの音源を全部入れたマザーテープを1個作ったら、それを技術さんに配ったり、照明さんに配ったりするためにテープをひたすらダビングするんですが、テープ・トゥ・テープですから録音がリアルタイムでかかるんです。今なんてデジタルで届いた音からすぐにプレイリストを作って、ボタン1つですぐCD-Rにコピー、もっと言えばメールでそのまま送っちゃうみたいな。それが当時はめちゃくちゃアナログな作業だったんです。
――テープダビングは1本のマザーから、何十本か同時に?
三浦:当時、10本を一度にダビングできる最新マシンがあったんですが、それでやっても相当時間がかかりました。
――何人分作るんですか?
三浦:30人分ぐらいを、2スタジオあったんで60本ぐらいですかね。
――確かに地味な作業ですね…。
三浦:すごく地味でしたね。そこには夢も何もないですよ。ただ、カット割りの資料を作るときも、「どこでカットを割るかな」っていうのを考えながら作っていました。自分で勝手に「ディレクターがここでカットを割るな」ってところで、カット線を想像で入れるんですよ。そこで割られなかったりすると「ああ、ここは割らないんだ」とか。もちろんカット割りに正解はなくて人それぞれなので、違う人に渡したら同じところでカット線を入れるかもしれないんですけどね。
そういう作業を「自分だったらここでこういう画を撮りたいな」とか考えながらやっていたら、ディレクターから「ちょっと試しにカット割ってみろ」と言われるようになって、もちろんディレクターが最終的に撮るんですが、そういうチャンスも与えられたりしながら勉強していました。
――どんな仕事でも給料をもらいながら勉強させてもらっていると思って仕事ができる人と、そこで文句を言っちゃう人は決定的に違いますよね。
三浦:今はカット割りもパソコンで全部やっていて、データ、歌詞カードも送られてきたものを流れ作業的にディレクターに渡すADがほとんどだと思うんです。「ここでカット割るだろう」とか「ここは絶対に照明を見せたいから広い画で行くんじゃないか?」とか、そういうことを考えているADはほとんどいないと思うんですよね。
――アナログの時代の方が、そういう考えるスキルは磨かれた?
三浦:だと思いますね。なぜかというと、手書きで書くと元に戻すのがすごく大変なんですよ。1個、1行途中で抜けていたら、そこから後ろを全部捨てて、もう1回やり直さなきゃいけない。そのために1個ずつ考えながらやっていく癖がつくんです。
――真剣さが違ってくるんですね。
三浦:はい。1個やる作業に対しての集中力というか、何やるにも「やること全てに意味がある」と思っていました。それが今、デジタルになると、すぐに戻せるじゃないですか。コピペもできますし。デジタルはとても便利なんですが、考えることがどんどん退化しているなとは感じています。
――それはレコーディングの世界も同じで、あまりに簡単に切り貼りができちゃうから、そんなに悩まずに適当にやるという。
三浦:昔、1発録りみたいなのってよくあったじゃないですか。やっぱり1発録りのラフな感じとか、その緊迫感がいいから、ベストのテイクじゃなくても「これを使おう」みたいなことってあると思うんですよ。僕は今でもそれが結構大事だなと思っています。
音楽番組で歌詞を間違えていても「今のテイクよかったから、そのまま行きましょう」みたいな。もちろんプロモーション楽曲だったりすると、レコード会社の人が「歌詞間違えたからもう1回行きます」とか言うんですが、本人がそれでいいと言ったら、僕のやっている番組『Love music』とかだったら歌詞を間違えてもOKにしちゃいます。ライブなんだから歌詞は変えたんだと(笑)。画面に出ている歌詞と、歌っている歌詞が違っていても「元々はこういう歌詞だったけど、アーティストの意向によって今回はこうしている」でいいじゃないと。もう二度と撮れないテイクを大事にしていますね。
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第153回 株式会社フジテレビジョン ゼネラルプロデューサー 三浦 淳氏【後半】