第155回 bar bonoboオーナー 成浩一氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は音楽評論家 吉見佑子さんのご紹介で、bar bonoboオーナー 成浩一さんのご登場です。学生時代から音楽活動に熱中していた成さんは、大学卒業後、バブルに浮かれた東京を脱出し、ニューヨークへ。ニューヨークではノイズバンド「のいづんずり」への参加を皮切りに音楽活動をしつつ、多くのアーティストたちやカルチャーとの交流を通じて刺激的な10年を送ります。帰国後、様々な仕事を経て2005年、原宿に世界一小さいナイトクラブ bar bonoboをオープン。そのユニークな内装と音響セッティングで常にたくさんのお客さんで溢れています。そんな成さんに波瀾万丈なキャリアから今後のbar bonoboについてまでたっぷり伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
ビートルズ『アビイ・ロード』をきっかけにロックの世界へ
ーー 前回ご出演いただきました吉見佑子さんとはどのように出会われたんですか?
成:森永博志さんという『POPEYE』とかで書かれていた有名な編集者の方がいらっしゃいまして、田町のほうに素敵なマンションを所有されているんですが、そこでたまに面白い人を集めてやっている「吉見会」という食事会に呼ばれまして、そこで初めてお会いしました。
森永さんは『スペクテイター』という雑誌の対談で一度だけbar bonobo(以下 bonobo)に来たことがあって、そのとき僕はご挨拶できなかったものですから、「bonoboの成と申します」と森永さんと話をしているうちに、吉見さんとも話が始まって、それで面白がられました。
ーー 面白がられた(笑)。
成:それから「今日空いている?」って電話を結構頂いて。bonoboには「どんなに忙しくても僕は手伝わない」というルールがありまして(笑)、時間があるものですから「吉見会」の出席率が良いみたいで、色々な人を紹介して頂いています。
ーー 吉見さんにリレーインタビューの次の方をご紹介頂くときに、「今一番気にいっている成さんしかいない」とおっしゃって。
成:いやいやいや(笑)。吉見さんの周りの方はここに来られたりするんですけど、吉見さんご本人はまだ来たことないんですよ(笑)。
ーー そうなんですか!?
成:「良い店見つけた」みたいにおっしゃっていますけど、実は…(笑)。「そろそろ来てくれるかな」と思っていたら脚を骨折されて。
ーー 骨折された直後に僕たちが取材をさせて頂いたんですよ。
成:お元気でしたか?
ーー 脚以外は大変お元気でしたよ。
成:実は明日「吉見会」があるんですが「来い」と言われているんですけどね(笑)。
ーー (笑)。ではここからは成さんご自身のことをお伺いしていきたいんですがお生まれはどちらですか?
成:山形県山形市で生まれまして、高校まで山形市にいました。両親は韓国の人で手広く事業を営んでいました。僕は長男ですから本来でしたら家業を継がなければいけなかったのかもしれませんが、やはり、音楽しか頭になかったんですよね。
ーー 小さい頃から音楽がお好きだったんですか?
成:そうですね。本格的に好きになったのは中1くらいかな。世の中には名盤と呼ばれる作品が色々あるじゃないですか? それで井上陽水の『氷の世界』とビートルズの『アビイ・ロード』が気になったんですが、中学生ですから両方は買えないのでずっとレコード屋さんで悩んで、『アビイ・ロード』を買いました。
ビートルズのことは知っていましたが、今思えば『アビイ・ロード』って結構渋いアルバムですし、「Rock and Roll Music」のイメージがあったものですから最初はよく分からなかったんです。「なんか渋いのを買っちゃったな…」と思って。中1で「Come Together」はなかなかハードルが高かったです。でも、何枚もレコードは買えないですから、家でずっと聴いていたんですよね。そうしたら『アビイ・ロード』の素晴らしさがだんだん分かってきて、そこから一気にロックの世界に入っていきました。ですから、もしあのとき井上陽水を買っていたら、僕はフォークの人間になっていたかも知れません(笑)。
ーー そこが分かれ道だったんですね。
成:まあ運命ですよね。僕はその後プログレッシブ・ロックにはまったんですが、中2のときにセックス・ピストルズが出てきました。山形ですから新しい音楽の紹介をするメディアがなかなかなくて、渋谷陽一さんのNHK FMのラジオを聞いて知ったんですよね。
ーー 渋谷陽一さんの番組ありましたね。
成:パンクというのは実際にその場にいることが結構重要で、例えば、東京でそういうシーンがあったら僕はもっとはまったと思うんですよ。むしろ僕はその後に出てきたニュー・ウェーヴにはまったんですよね。トーキング・ヘッズやテレヴィジョンだとか。テレヴィジョンはニューヨーク・パンクと言っていいのかな。もともとプログレッシブ・ロックが好きでしたから、先進的な音楽にはまっていたような気がします。
ーー ちなみに小学校のときはどんな音楽を聴いていたんですか?
成:家ではジョルジュ・ムスタキとかカーペンターズがかかっていましたね。
ーー それはご両親の趣味ですか?
成:はい。あとはハリー・ベラフォンテとか。
ーー ずいぶんお洒落な感じですね。
成:そうですね。うちの母親は見た目そんなに激しい方ではないんですが、当時「もしザ・ローリング・ストーンズが来日したら全ての家事を放棄して観に行く」と言っていました。あと「ジェフ・ベックのギターって良いね」とか。
ーー すごいお母様ですね。
成:弟と一緒にロックのライブを観に行こうとすると「私も行く!」って。今思えば面白い母親ですよね。父親は母親のそういうところに理解があったような気がします。
ピストルズとラリー・カールトンを同時に聴く日本独自の音楽体験
ーー ギターを始めたのも中学生の頃ですか?
成:中1のときにフォークギターを買って、1人でチューニングからみたいな感じだったんですが「なんか勝手が違うな」と思って、中2か中3でエレキギターを買ったんですね。それでニュー・ウェーヴに感化されていたので、絶叫したり、不思議な音楽を作りたかったんですが、田舎だと仲間がいないんですよ。仕方なくジャーニーとかTOTOとかそういうコピーバンドを組みました。本当は「オリジナルで変な曲とかやりたい!」とか思いながらも、エレキを弾けるだけで嬉しかったんですよね。
ーー 演奏する喜びが勝ったんですね。
成:ええ。僕が好きだった音楽はみんなに言ってもわからないようなものでしたしね。渋谷さんのラジオでポリスを聞いて、山形に一軒だけあった輸入レコード屋さんでポリスのアルバムを見つけて買ったときに、「これ、もう一枚売れるのかな…?」みたいな(笑)。「僕が山形で一番最初に買ったんだろうな」なんて思って。まだ輸入盤の時代でしたからね。
ーー MTVとかない時代ですよね。
成:ないですね。NHKの「ヤング・ミュージック・ショー」でたまにデヴィッド・ボウイとかキッスの映像が流れたり、あとフィルム・コンサートで観るとかそういう感じでした。
ーー 高校時代も音楽漬けって感じでしょうか?
成:そうですね。高校は日大山形という運動中心の学校だったので、そこではやはり異色だったんじゃないでしょうか。不良にもならずに、バンドに明け暮れていたという。
田舎で『宝島』なんかを読んで「なるほどフリクションってバンドがいるんだ。ライブ観たいな…」とか、そういったフラストレーションが溜まっていた気がします。その辺を早期に解消していたら、今まで音楽をやってないかもしれません。その青春時代の悔しさ、フラストレーションが、未だに音楽をやっている原動力なのかなと思うんですよね。泉谷しげるさんも「フラストレーションを発散できる青春ではなかったからこそ、未だに音楽をやっている」とおっしゃっていますよね。もちろん山形でも楽しくやっていましたが、音楽的なところでは「これじゃないんだよな」って思いながらやっていた気がします。
ーー もし成さんが東京に生まれていたら、とっくに音楽を止めていたかもしれない?
成:そうかもしれませんね。高校時代はコピーバンドでしたけど、セックス・ピストルズとヴァン・ヘイレンを同時にやったり、あとギター少年ですからラリー・カールトンとかも並行して聴くという、海外ではありえない聴き方ですよね。非常に日本っぽいというか、海外だったらピストルズを聴いた人はラリー・カールトンを同時には聴かないと思うんですけど(笑)、僕たちは歌詞がよく分からないですから、音だけでヴァン・ヘイレンとセックス・ピストルズとラリー・カールトンなどのフィージョン系を同時に聴いたり、演奏できちゃうんですよね。
ーー それは日本独特なことなんでしょうか?
成:じゃないでしょうかね。やっぱり歌詞を分かっていると世界観も全然違うので。ピチカート・ファイヴが出てきたときに非常に日本っぽいなと思ったのは、そういう過去の色々な音楽の要素を入れて、独自に進化しているからなんですよね。
ーー 日本の養殖みたいな?
成:そうです。ラーメンやカレーが日本で独自の進化を遂げたような感じで、ピチカート・ファイヴも観ましたけど、多分、歌詞が分からないからこそいろんなジャンルが聴けたんだと思いますよ。
ーー なるほど。
成:僕はビリー・コブハムも聴いていたし、また実験音楽的なノイジーな音楽も出てきている時代で、そういうのも聴きつつ、でもギターが好きだからヴァン・ヘイレンも聴くというね。
ーー その後、上京されますが、これは大学に進学されたからですか?
成:実は姉が東京の駒込にいたものですから、上京して1年間浪人したんです。とにかく東京での生活は楽しかったですね。当時『ぴあ』に「この映画観なきゃ」と丸をつけて、東京でしか観られない映画、例えば、ゴダールとか大島渚とかオールナイト上映とかたくさん観ていました。勉強するよりは「東京でやっと情報が得られる!」って感じでした。結局1年浪人して、また日大に入ったんですけどね(笑)。
ーー 結局、日大だったんですね(笑)。
成:そのまま推薦で進学すればよかったんですけど、当時は同級生のみんなに「推薦で行くなんてダメだ」ってアジっていてね。「もっとチャレンジしろ!」なんて言っていたんですが、僕は1年経って結局推薦で行けるところに入ったという(笑)。
ーー (笑)。
成:まあ、それも運命なんですけどね。僕は国際関係学部という学部に入ったんですが、そこは新しい学部で、静岡の三島というところでの4年間だったんですね。
バブル末期の東京を脱出しニューヨークへ
ーー 大学は東京を通り越して静岡に来ちゃったわけですね。
成:「またかよ!」って感じで(笑)。それで週末に東京へ通うというような生活になってしまいました。当時で思い出すのは、キース・ヘリングが初来日をするというので、静岡から東京のワタリウム美術館に行ったら「今日は関係者のみですから一般の方は入れません」と言われて、「ちぇっ」と思いながら道の反対側を見たらナイキのスニーカーを履いた眼鏡をかけた青年がボーッと立っているんですよ(笑)。「あれキース・ヘリングじゃないかな?」と思って、「キース・ヘリングさんですか?」と声をかけたら「うん」って。それで赤ちゃんの絵を描いてもらったんですよ。
ーー それは凄いですね!
成:その絵どこかいっちゃいましたけど…(笑)。で、大学では勉強もせずに軽音楽部で頑張ってバンドをやっていました。当時、浜松にヤマハの本社がありまして、ヤマハのプロデューサーの井出祐昭さんが学園祭を観に来ていて、声をかけてもらったんですね。「君ちょっと面白いからオリジナルをやりなさい。どんなのでもいいから」と。そのときはキング・クリムゾンなんかをカバーしていたんですよね。それから井出さんにかわいがられて、ヤマハに顔を出したり、レコーディングさせていただいたりしました。その後、井出さんはヤマハを辞められて、山手線のジングルを作ったり、表参道ヒルズの音響デザインをされたり、その筋では有名な方なんですが、人生における恩師の一人だと思います。
その井出さんから「ヤマハに入らないか?」と誘われたんです。東京から音楽の先生を呼んで、英才教育的に音楽理論なんかも教えて、僕をプロデューサーにしようとしたんですよね。ただ、僕はステージでギターを弾きたいという思いがあったので、「裏方は嫌です。ロックスターになりたいんですよ」と断るんです。そのときに井出さんには僕のギタリストとしての力量が見えていたんだと思うんですが、「いや、お前はミュージシャンというよりは、人と音楽が作る環境とか、人と音楽の関わりとか、そういうようなものについて仕事をした方がいいと思う」と言われたんですよね。
ーー 非常に鋭い指摘ですね。
成:ええ。今、僕はそういうことをやっていますから、20年越しに答えが出たなと思っているんですけど、そのときは若かったものですから、「いやいや、俺はギタリストですよ」みたいな(笑)。通常、大学4年になるとみんな長い髪を切って、軽音楽部の人たちも就職活動するわけですが、ヤマハに入れるなんていうのは夢のような話だと思うんですよ。音楽業界に行けるなんてね。でも僕はちょっと若かったもので断っちゃって。
その頃、僕は大学5年生になっていたんですが、「静岡にいるのはもう我慢できない」と思って池袋に住みながら、週2日くらい静岡に通う生活をしていました。そのときに、井出さん経由でヤマハのポピュラーミュージックスクールのギターの先生を任されて、静岡のすみやさんとかそういったところでギターの講師をしつつ、東京に住むという期間が1年だけありました。
ーー ギターの先生をなさっていたんですね。
成:はい。今思うときちんと教えるほどの力量じゃないんですが、中高生相手にプリンセスプリンセスとかブルーハーツの曲を教えていました。たまに大人の方から「パット・メセニーみたいになりたい」なんて言われると非常に困って(笑)、静岡に行く電車の中でいろいろスケールの本を読んで「なるほど」なんてやりながら…(笑)。僕は教える器ではなかった気がしますが、中高生の初歩的な人たちへの指導という点では悪くなかったと思います。基本的には生徒に好きな曲を選んでもらって、その好きな曲の中にある要素、例えばチョーキングやアルペジオ、パワーコードとかを曲を通じて教えていたので人気はあったと思います。
ーー 教え子の中に大物になった方とかいますかね。
成:いるんですかね?(笑) 突然先生をやめてニューヨークに行くことになったので、「先生ひどいよ」なんて言われましたけど。
ーー 突然辞めてニューヨークに行かれたんですか?
成:そうですね。池袋から静岡に通っていた頃は、バブルの終わりの時期で、僕は半分学生ですからお金もないんですが、それでもホワイトジーンズにアロハシャツなんか着て、六本木でチャラチャラ踊ったりしていたわけですよ。そうしているうちに「時代に乗っかって『ボジョレー解禁!』とかやっている場合じゃないんじゃないか?」という思いがだんだん出てきて、「これは環境を変えるしかない」と。なんかこの時代に乗っている感じが、自分で乗っておきながら嫌だったんです。
ーー まさにバブル世代ですよね。
成:別にお金は儲かってないんですけど、気分だけはチャラチャラしていたというか。それで1年だけ自由にさせてもらおうと思って、両親に「語学留学として1年だけニューヨークに行かせてください」と頼みました。「どうしても一回東京を出たい」と。そうしたら「まぁ、いいだろう」ということで東京を脱出しました。
ーー そのころの東京って嫌な感じでしたよね。
成:ジュリアナで女の子がお立ち台にいて、それを見ているサラリーマンがいて、みたいな。ジャンフランコ・フェレが流行っていたり、なんかイヤらしい時代ですね。僕はもうバブルなんか二度と来なくていいと思っています。
ニューヨーク版「のいづんずり」にギタリストとして加入
ーー なぜ行き先にニューヨークを選ばれたんですか?
成:ロンドンかニューヨークで悩んだんですが、やはりロンドン・パンクよりもニューヨーク・パンクが好きだったんですよね。テレヴィジョンやベルベットアンダーグラウンドとか。少しアートの香りがしたんじゃないんでしょうかね。そういう趣向が僕にはあったみたいで「そういうものを1年だけ体験して、戻って来たら就職しよう」と思っていました。
ーー 就職しようと思っていたんですね。
成:思っていましたよ。昭和の最後の年ですね。ニューヨークで小渕さんが「平成」と出したのをテレビで見た憶えがあります。それでセントラルパークとかに行くと、六本木の喧噪とは全然ちがって、裸でサッカーしている人がいたり、寝転がって読書している人がいたり、非常に落ち着いている。ニューヨークって騒がしい街なんですが、セントラルパークなんかに行くと、地に足ついているというか。来てよかったと思いましたね。
ーー チャラついている六本木なんかとは違った?
成:全く違いました。で、ギターは一応持っていっていたんですが、もう一度ここで音楽をやってみたいと思いだしたんですね。あまり売れそうもない音楽の趣向なのに、ニューヨークでギタリストを志すというのは、人生の危険な選択だとは思ったんですが(笑)、気分は盛り上がっていますから「やったるでー!」と。
それでミッドタウンのラーメン屋さんで食べているときに、すごく汚い字で「メンバー募集」と書いてある張り紙を見つけて、面白そうだなと思って電話してみたら「今日ブルックリンでパーティーがあるので来てください」と言われて行ったら、作務衣を着た変な日本人がいたんですが、僕はその人に見覚えがあったんです。
僕は『宝島』で関西のニュー・ウェーヴシーンについて知っていたので、そこにいた「のいづんずり」という変わった名前のバンドのことも知っていて、その見覚えのある日本人はリーダーの福田研さんその人だったんですよ。福田さんも「俺も本場で音楽をやるんだ」と思ってニューヨークへ来ていて、そこでニューヨーク版の「のいづんずり」で活動するわけですが、僕はそのバンドに参加したわけですね。
ーー 雑誌で見ていたバンドに加わることになったと。
成:当時は「トーキング・ヘッズの音ってこうなっている」だとか、「ビル・ラズウェルはこういう感じで音を作るんだ」とか、どちらかというと表層的な視点でニュー・ウェーヴを捉えていたと思うんですが、福田さんは全然違っていまして、日本独特なお祭りのリズムとファズギターで世界を制するんだと。ちょっと頭のおかしい変態バンドにニューヨークで入っちゃったんですよ。
例えば、僕の部屋にメンバーで集まって新曲をやるとなると、福田さんは鼻歌のようなものを歌うんですが、ギターとかを持たしてくれないんですよ。それで自分なりに必要な音を口で表現してくれと。最初からギターでやると過去のクセとか歴史とかに引きずられるから、それを忘れろと。で「ギタースタート!」というと、僕が「チャッチャカッチャッカチャチャッカー」とか口でやるんですよ。で、ベースは「ブーブーブー」とかやっているものだから、隣の部屋のアメリカ人が気味悪がっちゃって…日本人が集まってわけの分からないことやっていると(笑)。
ーー キ○ガイじゃないかと(笑)。
成:非常に面白かったですけどね。「この曲のキーはなんですか?」って聞いたら、「僕はキーとかそういうの分からないけれど、ガラスがビリ、ビリって揺れる感じのベースでお願いします」とか、非常に文学的というか本質的というか「こういう音が欲しいんだよ」と言われるんですよね。僕がやってきた音楽の表層的なものよりも、もっと原始的なアイデアで音楽をやっていて、そこは影響を受けました。
ーー そのリーダーの福田さんはおいくつくらいの方なんですか?
成:僕より4つくらい上だったと思います。ボアダムスの山本精一さんやYOSHIMIちゃんが「のいづんずり」を観てバンドを始めようと思ったというくらい非常に早いバンドだったんですよ。
ーー なるほど。
成:一番最初のギタリストがタバタミツルさんという方で、今アシッド・マザーズ・テンプルという海外で人気のバンドをやっていたりするんですよね。「のいづんずり」は徳間ジャパンから2枚アルバムが出ているんですが、1枚目にはそのバンドのファンだった戸川純さんが、ほぼ準メンバーみたいな形でフル参加しています。僕はニューヨークに渡ってからのメンバーなので、戸川純さんには会えなかったですが、やっぱり戸川純さんが好きそうな、変わった世界観のバンドなんです。
それでニューヨークで頑張って練習していて、ジョン・ゾーンの口ききでニッティングファクトリーに出たりとかしていたんですが、自分自身はなかなか「のいづんずり」の音楽が掴みきれなくて、結局、リーダーの福田とドラムが日本に帰国することになったんですよ。
ーー 結局バンドが上手くいかなかったんですか?
成:そうですね。ただ皮肉なことに、そこから半年くらいで僕の理解もガーッと深まっていたので、もうちょっと僕の理解が早ければ、彼らは帰らなくてもよかったかもしれません。ちょうどボアダムスがシミーディスクというレーベルから出てきてニューヨークで騒がれ始めたんですね。日本のロックが本当に初めて注目されたような時代が到来したので、もし、半年くらい僕の理解が早ければ、時代が変わっただろうと自分でも思いましたね。
ーー 人生変わっただろうと。
成:バンドの最後の方は現地の人たちにすごく受けていて「次のライブはどこなんだ?」なんて言われても「いや、もう終わっちゃうんでこのバンド」みたいな。
ーー なんだかもったいないですね。
成:僕もようやく表面的な音楽の作り方じゃないところで皮がむけた気がしていたので、非常に喪失感があったんですよ。また、それまでは福田さんの曲の解釈というか、すごく強いものが核にあって、そこにギタリストとして参加していたんですが、今度は曲を自分で作らなきゃいけなくなるので非常に悩みましたね。
▼後半はこちらから!
第155回 bar bonoboオーナー 成浩一氏【後半】