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第156回 晴れたら空に豆まいて プロデューサー 宮本端氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」はbar bonoboオーナー 成浩一さんのご紹介で、「代官山 晴れたら空に豆まいて」プロデューサー 宮本端さんのご登場です。学生時代から音楽にのめり込んだ宮本さんは、一度、銀行に就職するも音楽業界の道を諦めきれず、2年でブルーノート東京へ転職。「サービス業とは何か?」を肌で感じながら、希望だったブッキングとしてジャズだけに留まらず井上陽水、忌野清志郎、矢野顕子、チャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)、ボズ・スキャッグス、ミルトン・ナシメント、ルイ・ヴェガ、パット・メセニーなど数多くのライブを企画・制作。フリーとしての活動の傍らライブハウス「代官山 晴れたら空に豆まいて(以下「晴れ豆」」を個性的なハコへ磨き上げた宮本さんに、ご自身のキャリアからブッキングの裏話、そして今後の目標までじっくり伺いました。
※2018年12月4日より、Zepp TokyoおよびZepp ダイバーシティ東京の副支配人としてご活躍中。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

▼前半はこちらから!
第156回 晴れたら空に豆まいて プロデューサー 宮本端氏【前半】

 

ブルース・ブラザーズ・バンドに忌野清志郎を参加させる

── 何年目からブッキングをやるようになったんですか?

宮本:1998年ですから、入って3年半で念願のブッキングですね。

── ブッキングって自分の出てほしいアーティストとの交渉にアメリカやイギリスまで行くこともあるんですか?

宮本:当時はニューヨークに駐在を置いて、時差の無いところで現地の交渉をやってました。僕はちょっと後から東京のセクション・チーフとして、来日したアーティストのケアと制作全般をやりつつ、日々アイディア出しと日本人のブッキングをしていました。

── ブッキングって何人でやっていらっしゃるんですか?

宮本:当時企画を出していたのは2、3人です。交渉はNYの彼と東京の僕。他数人との分業でビザやら飛行機やらの手配。でも初代ブッキングの大先輩山内直樹さんは企画と交渉を1人でやっていたんです。入る前僕は「ブッキング部」みたいなものがあると思っていたんですが、たった1人と知って「すごいな」って思いました。今は結構人数いると訊きましたけど、よく知りません。

── ブッキングがアーティストの送り迎えもやるんですか?

宮本:むしろ進んでやりました。というのが、最初僕が持った名刺の肩書きは「ブッキング」ではなくて、企画制作みたいな感じだったんです。マネージャーは「ブッキング担当」と話したいわけですから向こうから話して来ない。でも「自分が話したい。色々音楽的に聞き出したりアイディアを落とし込む自信はある。話しかけられればこっちのもんだ」と。それで「話しかけてもらうにはどうしたらいいか」と色々考えて、それまでトラッド一辺倒だったのに変わった服着たり、送り迎えを積極的にするようにしたんです。成田二往復の合間に羽田とか普通にやってました。

── 送り迎えを通じてアーティストとのコミュニケーションを図ったんですね。

宮本:はい。来日してくるアーティスト一行が空港で初めて会って最後に見送る人になりたかったんですよね。彼らが到着日以降に会う他の日本人よりコミュニケーションで一歩差ができて、信頼関係が作りやすくなりますから。公演初日にサウンドチェックのためにクラブにやってくる時、他のスタッフとは普通に挨拶していても僕とだけは「へーイ!」ってなりますからね。

当時は着メロが出てきた頃で、例えばサックスの人が来たら着信音をコルトレーンの「ジャイアントステップス」にして車内で電話かかってきたフリでわざと流したり、いろんな国の国歌もあったのでダウンロードして流したり。「何それ?アメリカにはねえぞ」「これはね…」「数年後には着信音が即興するかもね」って感じで成田からの1時間半ずっと喋ったりしていました。ホテルに着いたら真っ先に降りて、行程表とルームキーと部屋割り表と地図が入った封筒を一人一人が車から降りた瞬間に渡し「エレベーターあっち。パスポートとかサインとか要らないよ。明日この車付けとく。12時に出るよ。荷物は部屋に運ばせるから、タグ付いてないのだけ教えて。じゃ、ごゆっくり」

── あの手この手ですね(笑)。ブッキングという仕事は宮本さんにとって天職ですか?

宮本:天職だと思います。有り難い事に色んな人にそう言って頂いてますし。仕事を通じて沢山の世界的ミュージシャンと個人的な繋がりが持てましたし。この春もデヴィッド・サンボーンやテリー・ライリーのお家を訪ねました。

── 前職と比較して収入面とかはどうだったんですか?

宮本:さすがに銀行と比べたら(笑)。でも気にならなかったですね。楽しすぎて。

── ブルーノート東京でのブッキングで思い出深いものはなんですか?

宮本:まずチャーリー・ワッツ。僕は基本的にブッキングに自分の「センス」は発揮しても「趣味」は持ち込まないんです。でもチャーリーはヒーローだったので、嬉しくて張り付きました。本当にかっこよかったなあ。何年も経って「日本の一番の思い出はブルーノート東京」と雑誌のインタビューで見かけた時は嬉しかったですね。

あと、クラブ公演が珍しかった井上陽水さん、今や恒例になった矢野顕子さん。キップ・ハンラハンのディープ・ルンバを二回呼べたのは誇りですし…数えきれないです。できなかった人ではロバート・パーマー。何年もかけて本人と会えて、「ここ良いね!興味あるよ。エージェントに連絡させるよ」と直接言われた1ヶ月後に急逝。絶対実現できたと思います。

そして、忌野清志郎さんをブルース・ブラザーズ・バンド(以下BBB)のゲストに迎えた事が特に印象に残っています。当時のBBBはソウル・レジェンドのエディ・フロイドがヴォーカルで、2003年1月公演もその予定だったんですが、ある日「急なお願いがある。故郷アラバマで生涯功労賞を受けることになった。授賞式に出たい。でもそうすると金曜と土曜のショーへの出演は無理だ」とFAXが来たんです。既に告知は始まっていたし「契約だよ」って断れるんですけど、皆で「これはNOって言えないよね。彼の人生だもんね」と話しあって了承しました。

さて、そのまま彼無しで公演をやるか、金土曜の公演をキャンセルするか、他に誰かヴォーカルを入れるかという中で、僕は「忌野清志郎さんしかいないんじゃないですか?」って提案しました。高校をサボってサム&デイヴを見に行ったという清志郎さんなら絶対喜んでやってくれるに違いないと。彼は自分のアイドルでもあるスティーヴ・クロッパーとレコーディングしたりしていましたけど、それはあくまでもご自身の音楽です。そうじゃなくてBBBの音楽に彼が単身飛び込む。それは絶対に喜んでくれる筈だと。

それでオファーしたら快諾。マネージャーさんに「申し訳ないですけど予算は決まっているのでギャラはこれしか出せません」と言ったら、一言「最初からそのつもりでした」と。当日、そのギャラじゃ絶対に作れないだろうスーツとブーツが二組置いてあって「この日のために作りました」って言われたんですよ。

── それは痺れるエピソードですね。

宮本:最高ですよね。清志郎さんは月曜日に現場マネージャーと自転車で打ち合わせに来て、緊張気味に「俺、エディのトラ(代役)だぜ。やべえよ」って(笑)。清志郎さんは小さい声でずっと独り言を言っているんですよ。「やべえよ、俺エディのトラだよ。大役だよ。大役だ〜」って。

── (笑)。完全にいちファンになっちゃっていますね。

宮本:尊敬しすぎるくらい尊敬してたんでしょうね。清志郎さんから真顔で「本当に俺でいいんですか?」って言われて、「いいどころか、お願いします」と答えました。

ミーティングでも当日のリハでもモジモジしていて。スティーヴ・クロッパー以外誰もキヨシロー知らないわけですよ。本番途中でスティーヴに呼び込まれるんですけど、皆に隠れて自分でメイクをしてあのスーツとブーツを纏って出てきたら、何か変な格好した見たことのない奴が歩いて来て、それ見てお客さんは熱狂しているからメンバー全員「?」ってなっている。そして清志郎さんがあの声で歌い出して会場中がドーンと湧いた途端、いつも真面目な顔のジョン・トロペイがギター弾いたまま唖然として、次に満面の笑顔ですよ。それから3、4曲やって本編が終わって袖に下がったら、サッカーでゴールを入れた後のように清志郎さんがメンバーに囲まれて「お前すげえな!」って。もう完全に認められたんですよ。

清志郎さんに関しては、公演当日だけじゃないんです。皆さんご存知の通りその後ガンで闘病されて、さあ復活祭だという時に会場の1つがブルーノートですよ。最近になって当時の製作の方から、清志郎さんご本人の数少ないリクエストだったと聞きました。日本の音楽史上に残る大スターの人生の節目どころじゃないですよね。復活祭はブルーノート辞めた後で伺う事もできませんでしたが本当に嬉しかったです。やっぱり仕事をするならアーティストにはそれくらい喜んで欲しいし、そういう連鎖が理想というか。

 

 

「お前はブッキングとして東京で一番だ」

── 宮本さんはすごく自由にブッキングされていますよね。

宮本:それはやっぱり上司の器がでかくて自由にやらせてくれていていたんですよね。たかだか20代後半〜30代前半の僕に、グラミー賞を何個も受賞している人達と毎週毎日関わらせてくれていたんです。

任せてもらえるようになったのには幾つかきっかけがあったと思います。まずオノセイゲンさん。セイゲンさんは2001年に僕がやるまで国内でちゃんとした編成でのライブをやっていなかったんですよ。セイゲン・オノ・アンサンブルとしてモントルー・ジャズ・フェスティバルのトリは何回もやっていたのに、日本では全然。それを知って「え?誰もやってないんだ。じゃあ僕、やる」と。

僕、結構「本邦初」とか「前例がない」って企画が結構多いんです。その場所や組織の今までを鑑みつつ、今まで前例の無かった事をやって広げる、というのが自分の持ち味だと思っています。で、その時もセイゲンさんご本人やデスク担当に「僕、やりますから!」って話をするんですが、お店では誰もアーティストとしてのセイゲンさんを知らなかった。僕、パワポやエクセルのプレゼンとか当時からほぼ皆無なので、毎日しつこくCDかけたりしてアピールしてたら、当時の畑支配人がある日「そんなに言うならやってみろ。そのかわり、埋めろよ」って言うんですね。

── おお。

宮本:ブルーノートは2公演で6〜700人です。今まで国内でライブをしていなかったアーティストで埋められるのかっていうことです。僕は絶対にできると思っていたので「はい、埋めます」って言い切って、セイゲンさんサイドには「僕は上司に啖呵を切りましたし、やるなら1度だけじゃなく最低2度やりたいんです。1回目を有料でパンパンにしたら皆黙ると思います。希少価値あるし人脈凄いから招待客だけでも埋まりそうですけど、極力買ってもらってください」ってお願いしました。結果、招待を最小限に収めてくれて、めでたく完売して2年後に2回目をやりました。デスク担当は「実際2回は無理だろうなぁと思っていたけど、本当にできたね」って言ってくれました。両方ともライブ盤になっています。

── 畑支配人もよく任せたって話ですよね。

宮本:素晴らしい上司だと思います。当時はほんと怖かったですけど。今は僕を「仲間」と言ってくれるんです。任せてもらえるようになった決定的なキッカケがもう1つあります。久保田麻琴さんにモーション・ブルー・ヨコハマでDJをお願いした事があったんです。モーション・ブルーは2001年にオープンしたんですが、それまでブルーノートだけ月に4公演決めていればよかったのに、突然30公演くらい決めなきゃいけなくなって一気に仕事が増えたんです。

それで今まで以上に「はじめまして」と色んなアーティストに打診する中、「あれだけ音楽センスがいい久保田さんだから、レコードをかけるだけでいい空間になるんじゃないかな」と思って、いきなりご自宅に口説きに行ったんです。「DJ的に繋ぐとか、そういうのすら要らないです!」とか5時間くらい。しまいには久保田さんのカレーをご馳走になったりして。「私は今プレイヤーとしてのペルソナは無いんです。だからどうして僕の所にブルーノートの人間が来るのかな?と思っていたんだけど、君はユニヴァーサリストなんだね。DJはやったことがないけど、そういう事ならわかりました」と。そして「あらゆる誤解はウェルカムです」って言ったんですよ。

── 久保田さん、かっこいいですね!

宮本:本当に格好いい人です。その台詞言えるようになりたいです。久保田さんのその企画は、その後何回かできて、「プレイヤーのペルソナは無い」と仰っていた彼が二回目でギターを手にしたりと理想的な連鎖もありました。話戻すと、久保田さん決まったと意気揚々と報告したら支配人は久保田麻琴さんのことを知らなくて「何だこれは!」って怒られたんです。「こんな企画で客入るのか馬鹿野郎!」って言ってそのまま帰っちゃったんです。でも、畑さんが素晴らしいのは、怒った事を引きずるどころか、次の日に店へ入ってくるなり僕に「昨日は悪かったな」って謝ってきたんですよ。「何ですか?」って聞いたら「知っての通り俺はあまり業界ではつるまないけど、昨夜は珍しくあれから飲み会に参加したんだ。そこで『うちの若い奴がわけわかんないの決めてきちゃって』 って言ったら『久保田麻琴さんを引っ張り出して、しかも初めてDJやらせるって、お前、そこ、褒めるところだぞ』って怒られちまったよ。ごめんな」って。それまでも色々自分なりに企画は攻めてましたけど、2001年前後のその2つで上の人が完全に自由をくれて「まぁ音楽的な事だったら、宮本が言うんだったら良いんじゃないか」って言ってくれるようになったんです。

── ブッキングとしての才能を認めてくれたんですね。

宮本:上の人の器が大きかったってことです。僕は当時「ジャズ以外もやらないとお店に未来はないな。ジャズは大好きだけど」「だったら、世界中のあらゆる音楽の超一流だけが出るカッコいい店にしよう」と思ってやってました。当時年俸制で、契約更改のときに畑さんとサシで話すんですが、ある年「お前はブッカーとして東京で一番だ。東京で一番ってことは世界で何本指ってことだ。わかるな?」って言ってくれて、それはもの凄く自信になりました。ほんの数年前は同じ人に「お前、今すぐ帰れ」と言われてたんですが。

── 充実していたブルーノート東京をなぜ辞めたんですか?

宮本:まず、僕が在籍していた頃って、ジャズを作り上げてきた本物中の本物のレジェンドが沢山生きていた最後の時代だったんです。それで「これ以上の音楽的充足って、この先自分は持てるのかな…」って思っちゃったんですよね。

── ジャズのレジェンドたちがだんだん亡くなっていったと。

宮本:彼らは本当に凄いですからね。「レイ・ブラウンみたいなレベルでベースを誰が弾けるの?」「エルヴィン・ジョーンズ並にパルスが出るドラム叩ける人いる?」みたいな。日本のスタジオ・ミュージシャンだって、例えばドラムで言えば山木秀夫さんを始めとする上の世代を今の人はなかなか抜けていないという現実が有ります。でも山木さんは20代からずっとトップですよ。それは政治とか友達だからとかじゃなくて出音とプレイが単純に素晴らしいからです。頼めるなら山木さん頼みますよね。若い人達は「俺たちの方が凄いぜ」って気概を持ってどんどん上を抜いてよって思いますけど。

話を戻します。2003年はお店の15周年アニヴァーサリー・イヤーだったので、意識的に色んなジャンルのトップを狙いました。陽水さん、矢野さん、フェミ・クティ、ボズ・スキャッグス、マシュー・ハーバート、ルイ・ヴェガ更にはミルトン・ナシメント。皆で頑張って、全部「お店史上初」です。15周年記念月間という節目には日本最大のレジェンドである秋吉敏子ジャズ・オーケストラをやる。ゲストに日野さん。10年後15年後を見越して「今までを大事にしつつ、でも未来はジャズ以外の人あらゆるジャンルで食って行かないと無理。勿論全員一流。レジェンドが動けなくなってから慌てて方向転換では駄目。だから今、各ジャンルのトップ・アーティストを取って、あらゆるジャンルの人から憧れてもらえる店にならないと」っていう意思表示で、もう明確に意識的にやっていたんですが、周りからみたら性急と思われたかなと。ズレが生じました。独り立ちもしてみたかったし。

── ブルーノートはおいくつのときに辞めたんですか?

宮本:33です。

── 次に考えたことはなんだったんですか?

宮本:「フリーでやっていけないとダメだな」と思いました。当時のブルーノート東京のブッキングって、ブルーノートという看板があるから僕は若造の癖に誰にでも会ってもらえたんです。僕がその名刺を持った途端、それまでバイトの僕には目もくれなかったのに急にヘコヘコする人が出始めて「え?」って思いました。自信も出て来た中、看板のないただの僕に電話がかかってくるのか、試してみたくなったんですよね。で、辞めた途端に見事に態度を変えた人もいましたが、変えないでいてくれた人もいて、なんとか今に至っております。皆一度はフリーになるべきだと思いますよ。

── ブッキングでフリーっていう人はあまりいないですよね。

宮本:そうですね。フリーになって少し人間として成長する機会ができました。勿論今も成長しきっているとは思えないですけど、看板のない僕に電話をしてくれた人達には本当に感謝しか有りません。

── フリーランス時代はどのようなブッキングをやっていたんですか?

宮本:まず企業のイベント。雑誌やブランドのパーティーで、予算感や客層、イベントのテイストを鑑みつつ提案してコーディネート。松崎しげるさん、西城秀樹さん、田島貴男さん…。様々な方とご一緒する機会を頂きました。ライブハウス的なモノだと、逗子海岸『音霊』最初期の仕事をその前身の『KANNON』から2、3年業務委託でやったりもしました。初代ブッキングマネージャーです。前例も業界的後ろ盾も無い中、業界未経験者だらけの中、有名アーティストの皆さんに出て頂いて、レイハラカミとクラムボン初にして唯一のツーマン等、貴重な企画をさせてもらいました。出演者に客入れ前にお客さんの前でスイカ割りしてもらったり、楽しい現場でした。

食えなくてバイトをしたこともありますよ。当時は独り身でしたし、カッコつけたがりなので「わざわざ音楽で嫌な思いをするんだったら別にバイトでいい」って割り切って。でもフリーとしてはステータスが大事なんで、渋谷神山町なんて高級住宅地に住み続けて、勿論「たまにバイトをしてます」とは絶対に言わずに(笑)。

── (笑)。フリーは何年続いたんですか?

宮本:晴れ豆も業務委託みたいなものなので今もフリーなんです。だから、おかげさまで15年ほどフリーとして食えて、結婚もできました。

── つまりブルーノートを辞めて以来ずっとフリーということですね。

宮本:そうです。自分から営業しませんけど、他の企業のイベントも頼まれればやってますし。

── 他に同じようなポジションでやっている方っているんですか?

宮本:多分いないんじゃないんですか?日本唯一の、と言い切るつもりはないですが、会った事無いです。皆さんどこかに属しているとは思います。

 

 

「晴れたら空に豆まいて」を日本一音の良いハコにする

── なぜ、晴れ豆のブッキングをやるようになったんですか?

宮本:4年位前に「もう一度、ハコのブッキングをしたいな」って思ったんです。自分のハコがあると、何よりも場所と自分に対してビジョンが持てるんです。「この店でこういうことをやって…」と考えて、それを実現していくのが好きなので。会場費のことを考えなくてもいいですし。

そして当時のオーナーの小澤浩さんっていう人が僕に完全な自由をくれたんですよ。「宮本君、あのね、好きにして。以上!」みたいな。「好きにしていいけど一応これはやってね」じゃないんです。器がでかいなあと思いました。

小澤さんは優秀な商社マンから公認会計士になってコンサルをしていたらいつの間にかこっち側に来ちゃったという凄く面白い人で、今フランス在住なんですけど、天才なんでしょうね。他の人とは違う感覚があって話してても最高に面白い人で。その方が「こいつは泳がしたほうがいいな」と思ってくれたんじゃないですかね。「1カ月休みたかったら休んでいいから。他のスタッフとか組織は関係ないから、いいんだよ。好きにして」って。売上目標とか一切言われず。この仕事してて、そんな風にしてもらえたらもう頑張りますよね。普通会えないですよ。恩人のひとりです。小澤イズムは消えてほしくないですね。

── 会場内の畳は最初からなんですか?

宮本:畳は僕の発案です。畳桟敷席は前から有ったんですけどね。晴れ豆に入って旧知のマネージャーさん達と話すと、思っていた以上に「ただの小さいハコ」としか認識されていなかったんです。音響設備もそこまでではなかったですし「一言で言える、他に無い特徴がないと無理だよな」「ここでやってもらえる意味と価値を作らないといけないよな」と思って、ひと月くらい殆どそれだけを考えて、その間ただの一組もブッキングしなかったと思います。漫然とカレンダー埋めるだけだったら余裕でできましたよ?でも優先順位は「新しい意味と価値をつくること」で、それがあって初めて未来が有る。そこに時間かけた方が結局近道だと思ったので。小澤さんはじめ周りの皆さんはそんな僕を見て疑問も持ったでしょうが結局ずっと我慢してくれて、その結果、床に畳を敷き詰める事を思いつきました。
 

アート・リンゼイと青葉市子のライブの様子

── 普段はみなさんここに座って見るんですか?

宮本:いや立ってもいいですし、椅子に座ってもいいですし、何でもいいんですよ。「畳だから直に座る」という固定概念すら排除したくて。ですからガンガンのスタンディングもあれば、フロアのど真ん中でライブもやる場合もあります。

── 昔、お芝居の小屋とかでこういうスタイルを見たことがあります。

宮本:旅館等、元々畳がある場所でライブというのは全国どこでもあるんですけど、わざわざ畳を敷いてフロアを変えるという場所は知る限り存在していなかったので「パイオニアになれる!楽しい事になるぞ」と思いました。調べたら「レンタルできるのはビニール畳」「消耗品だし晴れ豆の床は変形しているから、イグサ畳を敷きたかったら発注して作るしか無い」とか色々わかってきました。

とは言っても安い物ではないし、店としては流石に突然の話で予算も割けず、でも本物の畳じゃなかったら店の逆プレゼンにしかならないし、興味を持ってくれたアーティストに対しては裏切り行為になって、結果僕の説得力も落ちますから、レンタルのビニール畳には目もくれず、「成功したら備品として僕から買ってください」って言って、最初は僕、ポケットマネーで買いましたよ。

並行して色んなアーティストに「フロアに畳を敷きまして…」って打診すると非常に面白がってくれまして、結果それまで晴れ豆でワンマンをやってくれなかった人がどんどん決まったんです。畳業者さんとの価格交渉の一環として「お客さんにばっちり宣伝しますから!」と言って色んなライブに畳業者さんのパンフもフライヤーと一緒に折り込んだりもしました。公演では、アーティスト・デザインの限定お土産をつくったり、事前相談無しでリハの後に「お習字書いてください。一枚お客さんにプレゼントします」とか、楽しくやりました。鮎川誠さん中納良恵さんSalyuさんフアナ・モリーナ…貴重な書が沢山有りますよ。

―― 音響も改善されたんですか?

宮本:はい。「床に畳を敷こうと思うんですよね」って音響チーフに言ったら、一言目に「宮本さん、それ、音良くなるよ」って言われた事を強く憶えています。確かに良い塩梅になりましたし、そういう意味でも畳を敷いて良かったなと思いました。
 

青葉市子とテイラー・デュプリーのライブの様子

―― 今まで来なかったアーティストが続々決まったのは畳の魅力だけですか?

宮本:それはもう口八丁手八丁です(笑)。当時、店史上初ワンマンの青葉市子さん向井秀徳さん谷川俊太郎さん、今は代理人もやっているフアナ・モリーナ等が次々決まってくると、音響チーフが「ここまでのアーティストが揃って、僕ら今まで以上にちゃんとやりたくて。スピーカーとか変えてみたいんですよね」って言ったんですよ。

それで彼がまずタンノイのスピーカーを引っ張ってきたら素晴らしかったので、他のスタッフも「同じハコでもスピーカーだけでこんなに変わるんだな」と驚いたと思うんです。そして若い晴れ豆の音響スタッフも向上心あるので、どんどん実験を始めたんですよ。夜中に機材を入れ替えて、色んな音源を流して喧々諤々、様々な製品をどんどん試したり。ある日「制作の人と組んでこんなにやったのは初めてですよ」って言われて僕もすごく嬉しかったですね。あらゆるハコでこうあって欲しいです。

そして春になって「いい音楽を超高級オーディオのいい音で聴く」というピーター・バラカンさんのイベントを晴れ豆の上にあったお店でやったんです。オーディオってオカルト的に語られがちですけど、良いシステムを電源からきちんと組むと音が本当に変わります。休憩中、音響チーフが煙草を吸いながら「今日、誰と仲良くしたい?っつったらあのオヤジですね」って言うので、アコースティックリバイブの石黒社長に2人で挨拶に行って階段降りて晴れ豆を見せて「音響を改善したい」という話をしたら「日本一にしましょう」と言ってくれたんですよ。そこのケーブルはメートル十何万という世界なんですけど、本当に協力してくださいまして。そこまでやると本当に違うんですよ。もう如実に音が変わって。

―― ケーブルを変えるだけでそんなに音が変わるものなんですね。

宮本:ええ。耳タコの曲が新鮮に聴こえて感動できますし、今でも憶えてますけどケーブルを全て変えた時のマイクテストの時点で明らかに違ったんですよ。あまりの変容に音響スタッフが「チェック、ワン・ツー」を回し飲みのように代わる代わるやったくらいで(笑)。向上心がある彼らのお陰で音響は日夜どんどん良くなっていきましたね。実際音響は都内随一だと思いますよ。

―― 晴れ豆の音はどんな特徴があるんですか?

宮本:「いい音です」って言い方はしていなくて、「晴れ豆では、演者さんとエンジニアさんの腕がそのまま出ます」と説明します。ダメな音はそのままダメな音として出ます。ASA-CHANG & 巡礼のワンマンのサウンドチェック時、ASA-CHANGご本人がメンバーに「いつもより真剣にやって!ここ全部ばれるから!」と言っていましたからね。音響スタッフがとにかく熱心に色々と試行錯誤しながら今に至っています。まだまだ変わって行くとは思いますが、すべての音楽業界人にここの音を聴いてもらいたいです。

―― 成さんのお店も音が良かったですよ。

宮本:やっぱり音が良いって必要なことだと思うんです。目標ではなく、当たり前の基準にしないといけない。でも現実は全然そうなっていませんよね。この夏、とある有名フェスに行ったんですが、トリが某日本人アーティストで、MCですら何を言っているか分からないほど音が酷かったんです。基本打ち込みなのに。一緒に行った妻はそのアーティストのファンだから「あ〜楽しかった!」って言っていましたけど、それは脳内補正しているのであって、ファンではない僕は全然楽しめないどころか怒りさえ覚えました。

その夜、そのアーティストはご新規さんを得られなかったと思います。僕はそこでアーティストやマネージャーや全スタッフは文句を言ってほしいんですよ。こんなの音楽と言えるのか?と。チケットが売れて満席だった、ファンの人が喜んでくれていた、楽しかった、イエーイ!では何も進みません。「大きい会場だからしょうがないじゃん」じゃないとおもいます。他のハコで晴れ豆のように日々研鑽を積んでいるか疑問です。

会場や組織が小さいとか大きいとか管理委託だからとか、全然関係ないと思いますよ。語弊を恐れずに申し上げれば、特に大きい会場は、ハコのカラーとかではなくキャパでしか選ばれていないと思うんですよ。音、感動するほど良いですか?ピアノも無いので高いお金かけて借りてくるか、予算の都合でキーボードで代用。それでミュージシャンとお客さんは満足していると思いますか?それでも規模として会場の需要は有るから回っちゃっているという事実はあるでしょう。でもそういうひとつひとつ、変えて行けたら色々幸せになると思うんです。大きい組織の方が予算あるはずで、晴れ豆にできたんだから寧ろもっとできるはずですよ。音楽を扱ってるんだから、音を最高にする努力は常に怠ってはいけないとおもいます。大きい会場がもっときちんとやればいいのに、といつも思います。

 

 

日本のライブ現場のクオリティを海外に持っていく

―― 最近は日本人アーティストも積極的に海外でライブをしていますね。

宮本:そうですね。もっと積極的になって欲しいし、アーティストだけではなく優れたスタッフも、どんどん出て行って活躍できる仕組みが作れたら楽しいでしょうね。日本は今ちょっと元気がないと言われていますけど、日本のライブ現場スタッフの基本的なクオリティは素晴らしいです。そこをそのまま持っていったら、アーティストは単純に安心するし、喜ぶと思うんですよね。

昔も思いましたけど、なんだかんだアジアって遠いんですよ。来るだけでしんどい。今でこそブルーノート東京にはポップスのビッグアーティストも多数出てくれていますが、ナタリー・コールやB.B.キングを初代ブッキングの山内さんが口説いて実現するまでは本当に長い道のりだったと思うんです。当時の彼らのエージェントからしたら「NYCにある小さい会場の極東ヴァージョンにナタリーを出す?わざわざ13時間かけて飛んで1日2回を一週間?ごめんホールでやるよ」ですよ。でも先輩や仲間は皆「『小さいクラブの東京版』じゃないですよ。僕らはNYCのより全然イケています。ホールよりこっちが良いですよ」って想いで、突きつけられる難題をひとつひとつクリアしていきました。

―― 自信を持ってやっていたと。

宮本:チャーリー・ワッツに20年ついているというベテランのローディーが、ライブ前にニコニコで「いや〜、ここ最高だな! ニューヨークの客をここに連れて来いよ」って僕に言ってくれました。ストーンズのスタッフですよ?世界中で最高の仕事をし続けていた筈の彼が僕にそう言ってくれたし、各セクションの皆はそのぐらいの気持ちでやっていました。

ホスピタリティの点でひとつ思い出すのはマル・ウォルドロンをやった時。初日15時半ぐらいにサウンドチェックが終わり、一度ホテルに戻って、19時開演のために18時半に帰ってくるんです。マルと雑談中に「昔日本に住んでいた頃ファンタ・グレープが好きでさ」って彼が言ったと他のスタッフに伝えたら、それ以上何も言わなくても「よし!あと数時間でファンタ・グレープを楽屋に山積みにしてマルを迎えるぞ」と皆が思うような場所だったんですよ。で、実際に皆で山積みにしたんです。

当時グレープ味は非常に入手困難でコンビニには無かったし、「発注したら2日後です」と言われても「それでいいじゃん」なんて誰も思わないんですよ。今は亡きYAMAHA最高の調律師・小沼(則仁)さんも一緒に探してくれて、「俺の家の隣の駅であったよ〜」って板橋区から袋いっぱいに買ってきてくださったのを憶えています。マルは何も知らずに帰ってきて、それを見ても「なつかし〜」くらいのものかもしれません。でもそういうホスピタリティって、僕はやり過ぎともアーティストをスポイルしているとも思わないんです。

実際ブルーノートはアーティストを甘やかしすぎだって当時よく言われたんですけど、ミュージシャンがどれだけ気持ち良くステージに上がってくれるかだけを考える、それが仕事なので、甘やかしじゃないんですよ。その人が気持ち良く演奏できたらお客さんが喜んでくれるでしょう? そうしたらまた来てくれるでしょう? それで僕らも彼らもグッドビジネスでしょう?っていう話で。

この業界で働きたいという若い人達に、グラミー受賞のアカペラ・グループ、テイク6公演での僕の経験をよく話します。僕は朝の10時に来て楽屋でコーヒーを淹れました。お昼過ぎぐらいにメンバーが来て、僕のコーヒーには一瞥もくれずに「僕たちスタバしか飲まないんだけど誰か買ってきて」って言うんです。で、そんな時に君は「折角淹れたのに」なんてカケラも思わず「OK、何買ってくればいいの?」って注文取って買いに行ける?行けないんだったらこの仕事やらないほうがいいよ?これ、むしろ事前にリサーチ不足ですみません!くらいの話だよって。その頃まだスタバが珍しくて「ラテ?何それ。トール?って言えばいいの?それでわかるの?」みたいな感じで(笑)骨董通りにできたばかりのスタバに行って、8人分持って歩くのは大変だなって思いましたけど。僕は嫌じゃなかった。そういうものだと思うんですよね。

―― 分かりやすい話ですよね。

宮本:はい。それで文句言う仲間はいなかったし、それが普通だと思っていました。これを読みながら「何カッコつけてんだ、コイツ」って思う人もいると思います。実際僕も仕事の波はありますけど、ハマったときの自分には自信があります。チャーリー・ワッツだって何十年も世界最高のプロモーターとばかり仕事をしていて、日本でも錚々たる大プロモーターと仕事してきた上で「日本の最高の思い出」と言ってくれたわけですからね。

―― 先ほどもおっしゃっていましたが、日本のライブ現場の人のクオリティを世界に示していけたら最高ですよね。

宮本:そうですね。アル・ジャロウっているじゃないですか? 彼はジャズ、ポップス、リズム&ブルースの3つのジャンルでグラミーを獲っていて、USA for AFRICAでもリードボーカルを穫っている凄い人ですが、彼はお世辞が言えない人なんです。

ある年の公演で、本当に色々あったんですが各セクションの皆が素晴らしい仕事をして乗り切ったんです。そしていよいよ一行が帰国するという日、成田空港に向かって走り出した車の中で、アルはメンバー達に「なんて素晴らしい国だ!」って叫んだんです。「国」ですよ。彼はずーっと世界中をツアーしているわけで、知らず知らずのうちに色々比べていますよ。各セクションが頑張ってくれて「日本最高」「東京最高」って思ってくれるから戻ってきてくれるんです。僕は日本が大好きなので「日本を馬鹿にされたくない」と思ってやってきましたし、アルのようなアーティストに「素晴らしい国」って言われてからはより強く意識するようになりました。

―― 自分のやったことが「日本」になっちゃうんですね。

宮本:「日本」や「東京」になっちゃう。だからホテルとか空港でトラブったときは「それ、日本の印象になるのでちゃんとしましょうよ」って思います。実際そう言ってたし(笑)。アーティストやスタッフの皆さんは、「あそこのプロモーターは」って文脈では言わないんですよ。「イタリアでは」「チャイナでは」って言い方をするんです。

―― その印象がすべてになっちゃうんですね。

宮本:はい。ブルーノート東京で働いていた15年前、ブランフォード・マルサリスは真顔で「東京は世界で三本指に入っていると思うよ」って言ってくれました。「NYCのクラブには出たくないけど、ここには出るからね」って。他にも何人かに似たような事を言われましたよ。ほんの十数年前に、世界の一流を知る一流ミュージシャン達が東京を指してそう言ってくれていたんだから、日本に元気が無いと言われている今だって、東京は、日本は、まだまだ世界を相手に勝負できるはずだと思っています。

勿論、色んな問題はあると思いますけれども、それを危惧している、志を持った人も沢山います。そういう人達とこれからも沢山知り合って連携して、結果いろんな事のレヴェルがどんどんあがったら皆幸せになれると。日々生きていれば嫌な事も起きますが、そういう気持ちだけは忘れないでこれからも仕事をしていきたいですね。何度も言いますが、音楽の仕事は楽しいんで!
 

昨年11月WWW Xでのテリー・ライリー、フアナ・モリーナ、ジェフ・ミルズ公演

 

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