第157回 音楽プロデューサー 河井留美氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は「晴れたら空に豆まいて」プロデューサー宮本端さんのご紹介で、在仏の音楽プロデューサー 河井留美さんのご登場です。大学時代から劇団員として演劇に関わるようになり、配給会社勤めで映画と、幅広くエンターテイメントの世界で活動していた河井さんは、フランスへの音楽留学を契機に、現在までマネジメントを担当するクレモンティーヌと出会います。以後、日本とフランスの音楽業界を行き来しながら、相互のアーティストの橋渡しをされています。また近年は文化交流事業「TANDEM」を通じて、日本のミュージシャンの海外進出へ尽力されている河井さんに、そのパワフルで奔放なキャリアのお話から、フランスにおける日本文化についてまでお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
お寺の娘として生まれて
ーー 前回ご登場いただいた「晴れたら空に豆まいて」プロデューサーの宮本端さんとはどのように出会われたんですか?
河井:私は1995年からずっとクレモンティーヌというフランス人アーティストのマネジメントをしているんですが、その時のコンサートプロモーターはウドーさんだったんですよ。ただ「もうそろそろジャズのライブをブルーノートでやりたいな」と思って、担当の方に会いに行って「ブルーノートに行っていいですか?」とお願いしたんですね。そのときのブルーノートのアーティストアテンドが宮本端だったんですよ。彼はとても音楽に詳しいですが、クレモンティーヌもお父さんがジャズレーベルをやっていて、彼女自身もジャズにすごく詳しい人で、それで2人の気があったんですよね。
ーー クレモンティーヌさんと宮本さんがですか?
河井:そう、すごくハモったんですよ。その当時のクレモンティーヌのバックミュージシャンたちは全員在仏のブラジル人で、彼らとも端は仲良くなってね。誰も知らないようなジャズ・ミュージシャンの話とかで盛り上がったり(笑)。それ以来ずっと関係が続いていて、何かあるとマニアックな音楽のことは端に聞くようにしているのです。知らないジャンルのミュージシャンのこととか、彼の知識って多岐に渡っているんですよね。
ーー 大変な博識というか音楽オタクですよね。
河井:音楽的バランスの良いオタクというか。クレモンティーヌのお父さんが何年か前に亡くなったのですが、ものすごい数のアナログレコードを持っていて、このコレクションを保管するにしても売るにしても整理しなくちゃいけないから、クレモンティーヌが端にリスト化してもらったんですよ。
ーー すごい(笑)。
河井:倉庫みたいなところにこもって全部整理してくれました。3週間くらいパリにいたんじゃないかな。
ーー わざわざフランスまで行って?
河井:そうです。私のフランスの家に住み込んで。すごく価値がある盤とそうでもない盤があるらしくて、それをクレモンティーヌや私たちに説明をしながらずっと整理をしていました。
ーー そこまでになると国立大学とかに寄付したいくらいですよね。
河井:今それを迷っているんです。子供たちに残すと言ってもものすごい量ですから、どうするのがいいかいつも端と相談しています。端は「売るな」って言うんですよね。そのアルバム達の価値を一番わかってくれる日本に送ると言ったって量が量ですから大変ですし、船で運ぶとしたらどういう状態で到着するか分からないですし。悩みどころみたいです。
ーー では、ここからは河井さんご自身のことを伺っていきたいのですが、お生まれはどちらですか?
河井:生まれは関西。実家はお寺です。
ーー お寺ですか!
河井:お寺なんですけど、父が変わった人で、政治の仕事をしていました。お寺を継ぐのが嫌で(笑)。ですから、私はわりと政治的な環境で育っているんですよ。周りに政治家が多かったですし、その関係で演劇を観に行くとか、展覧会やコンサートに行く機会が小さい頃から多かったです。お寺の方はその道何十代の祖父がやっていて、とにかく四六時中、お年寄りから子供まで、職人さんから学者までいろいろな人が私の家には来ていました。
ーー お母さんはどんな方だったんですか?
河井:母は紀州の商売人の娘で、芸事とかがすごく好きでした。私も3歳くらいから日舞とか芸事を習っていました。父の仕事関係と母の趣味によりコンサートに芝居、子供の頃からたくさん上質の舞台を観てきましたね。
複数の高校に通った変わった女の子
ーー お寺の娘さんというのは継ぐわけじゃないでしょうし、比較的自由なんですか?
河井:でも、父親が政治家ですから、何かとそれを言われるのがすごく嫌でしたね。だからじゃないですが、私、何度か高校を転校しているんです(笑)。
ーー 複数ですか?(笑)
河井:最終的には留年しているので結局、高校には4年間通ったんです。今思うと私大分変わっていたんですよ。
ーー どのように変わっていたんですか?
河井:「どうしてやりたくないことをやらなきゃいけないのか」とかよく分からなかったんですよね(笑)。勉強は好きだったので、「分かったからもうやらなくていいじゃない?」みたいなところがあったのと、その時代高校って、校則がすごく厳しくて、その校則の「意味が分かりません」とかそういうことを言っちゃう生徒だったんです。取り扱い注意的な!
ーー あんまり素直な子ではなかった?
河井:従順ではなかったんだと思います。
ーー でも、ある意味、素直ですよね。
河井:素直すぎてぶつかるみたいな(笑)。
ーー でも高校複数行った人は珍しいですよ(笑)。
河井:最初は、私立高校に特待生で行ったんです。ここがすごく嫌な高校で、特待生だから朝の7時くらいから行って、20時くらいまで授業があるんですよね。何人有名大学に行ったかとかあるじゃないですか? それが嫌で。結局その高校には1年半くらいしか行かず、次に転校することになった学校もダメ(笑)。それで公立高校に転校することになったんですが、受験していないですから「1年後じゃないと受け入れられない」と言われて、その空いているちょっとの間アメリカに行ったんです。
ーー アメリカのどちらへ行ったんですか?
河井:オレゴン州のポートランドです。
ーー 環境の良いところですよね。
河井:でも、すぐに飽きましたね。それで「私はアメリカには向かない」と思ったんですよ。なんというかプロテスタント的な取り繕った感じが嘘っぽいというか。
ーー 日本の田舎みたいな感じ?
河井:穏やかなんだけど、上辺な感じがして。言語的には良かったですけど後は別に。早く帰りたいとも思わなかったし、ずっといたいとも思わなかったですね。「良い悪いじゃなくて合わないんだな」と思っていました。
ーー なぜポートランドを選んだんですか?
河井:当時受け入れてくれるところがそこしかなかったんでしょうね。ちょっと変なケースじゃないですか? 当時、日本人が多かった街がシアトルとポートランドの2つだったんですよね。良かったことは、映画とかコンサートが日本より数が多いですから、すごくたくさんの映画やライブを観ていました。あと、アメリカのアナログ盤をいっぱい買いましたね(笑)。
ーー それで英語も覚えて。
河井:そう、英語をある程度覚えられたのは良かったと思います。あと、日本と違って、自己主張してもいいじゃないですか。お医者さん夫婦の家にホームステイしていたんですが、割りと話し合いをよくする人たちだったので、それは良かったですね。
劇団員生活からの学生結婚を経てギャガ入社
ーー オレゴンで過ごして、また関西に戻り大学に進学したのですか?
河井:そうです。演劇を専攻しました。私は小さいときから寺山修司が大好きだったんですが、1983年に寺山修司が死んじゃったんですよ。そこでちょっと希望を無くして。「天井桟敷に絶対に入る」と思っていたので(笑)。まずは大学の演劇研究会に入り、いろいろ研究した後「そうだ、唐十郎さんがいる」って思って、唐組の入団試験を受けて入ったんですよ。
ーー 演劇少女だったんですね。
河井:そうです。元は演劇です。子供の頃から芝居は大好きでした。
ーー しかもアングラ演劇?
河井:アングラです。それしか無いと思っていましたから。あの当時は第三エロチカとか、夢の遊眠社とか、第三舞台とか小劇場が盛んで、バイトしたお金は全て観劇と飲み代に消えて行きました。
ーー 新宿の花園神社とかにいたんですか?
河井:ええ。花園神社にもいたんですけど、その後、蜷川幸雄さんと一緒にやっていた清水邦夫さんの劇団に移ったんですよ。それで劇団員として奈良岡朋子さんなど大女優さんたちと旅回りをして、しばらくの間、芝居に出ていました。
ーー それは大学生のときですか?
河井:はい。小さい劇団ですから、何でも自分でやらなきゃいけなかったんですよね。大道具もやらなきゃいけないですし、チケット売りからポスター貼りまで何でもやっていました。大変でしたけど、すごく楽しかったですよ。
ーー その頃の仲間でまだ演劇をやっていらっしゃる方はいらっしゃいますか?
河井:活躍している人はたくさんいますよ。文学座の花形演出家もいれば、青木豪ちゃんという、文化庁芸術祭新人賞とかいっぱい賞を獲っている人もいるし。彼は最近たくさんの話題作を書いて演出もしています。もちろん芝居だけじゃ食べられないからと辞めていった人の方が多いですけどね。
ーー 演劇の世界って個性的な人が多そうですよね。
河井:はいそれはもう!稽古していても、台本にないシーンがどんどんできちゃう演出家とかね (笑)。練習しているうちに彼の頭の中で、シーンがどんどん生まれちゃうんでしょうね。ちょっと極端な才能というか。あの当時は李麗仙さん、小林薫さん、あと石橋蓮司さんとかがスターでしたね。私はかなりペーペーでしたけど、みんな個性の強い人ばかりで(笑)。今の様に小劇場の人がこんなにお茶の間に登場する日が来るとは想像もしませんでした。
ーー 下北沢で飲んでいるような人たちですね(笑)。
河井:おっしゃる通りです(笑)。下北で朝まで飲んで。当時はそれがカッコイイと思っていたんですよね。安い酒を飲んで、分かりもしないのに演劇論を交わすみたいな。
ーー 大学卒業後はどうされたんですか?
河井:映画配給会社のギャガ・コミュニケーションズに入社しました。当時は社員が20人ぐらいしかいませんでした。そこで世界が演劇から映画に変わったんです。なぜギャガに入ったかと言うと、当時のギャガの人事の方が寺山修司ファンで、面接で盛り上がり拾ってもらった感じです。
ーー 当時、英語とかフランス語はバッチリじゃなかった?
河井:全然ですよ。英語はある程度できましたけど、大学出たてのペーペーですからね。その時も何故19時まで会社にいなきゃいけないのかがわからず「私帰宅していいですか?」と言っていたらしいです。そんな私でも受け入れてくれた、それくらい自由だったんですよ、当時のギャガって(笑)。
ーー 映画と演劇の違いは感じましたか?
河井:大きく違いますね。映画の世界に行って「すごいな」と思ったのは、お金ですね。取り扱い金額が演劇と比べたら0が3つくらい違うじゃないですか。
ーー そうですよね。
河井:外したときの損もすごいけど、当たったときも大きい。まさにエンタテイメントビジネスだなと思いましたし、怖いとも思いましたね。映像ビジネスの構造も勉強になりました。例えば、ビデオ権をここに売って、テレビ権をここに売ってと「なるほどこういう構造になっているんだ」って。
ーー 映像ビジネスですね。
河井:そう。劇場権、ビデオ権、テレビ権、いろいろな権利がありますからね。とてつもなく大きなビジネスですよね。同時に小さなアート系の映画を愛し、あくまでも自分の感性に触れる映画だけを扱うアート系の映画人とも出会い、彼らの熱量に圧倒されました。それまで主に芝居を見て来た私には知らない事ばかりで、話しについて行く為に、ポーランド、ロシア、スペインいろいろな国のアート系と言われる映画を夢中で観ました。私は彼らに演劇人に近いものを感じたんです。
ーー いわゆる興行師な部分とアカデミックなところが混在している世界だと。
河井:アカデミックに行けば行くほど、お金を回すのが大変で、ビジネスに特化すればする程儲かるんだなという、基本的な社会の構造ですよね(笑)。
思わぬ理由で得た保険金を元手にフランスの音楽学校へ〜クレモンティーヌとの出会い
ーー ギャガの後はどうされたんですか?
河井:ギャガにいて充実していたんですけど、25歳の時にちょっと大きな病気をしたんです。その病気は後に治ったんですが、まとまった金額の保険金が下りたんですね。それで「このお金どうしよう?」って考えたんですよ。
ーー どうやって使おうかと。
河井:それで小さい頃からトランペットをやっていたので、音楽をやろうと。話は戻っちゃいますけど、大学の時に演劇とともにシャンソンも少しかじったんです。母がシャンソン好きだった事もあり、まだあった銀巴里に母と2人でよく行きました。学生時代、演劇の稽古が無い時は夜シャンソニエでバイトしていました。カンヌ映画祭、銀巴里、、、フランスか!「このお金でフランスに行って音楽をやろう」と思いついたんです。正に思いつきです。多くのフランスに関わる日本の方は、フランスが大好きでした!とおっしゃいますが、私は全然そんな事は無かったんです。どちらかと言うとギャガ時代には、フランス人は感じの悪い人だと思ってましたから。
思い込んだらすぐに始めないと気が済まないたちなので、片っ端からフランスのジャズ学校を探しました。そうしたら外国人でも受けてくれる学校をパリに見つけたんです。もちろん受験はあるんですが、学費も安かったので1年ぐらいは保険金でいられるだろうとふみました。まずそのためにはフランス語をやらないといけないと思って、アルプスの麓の小さな町の語学学校に行ったんです。東京から人口5000人の田舎町への引っ越しですからね。街には映画館が2軒。勉強する他やる事無しです。
ーー なぜアルプスだったんですか?
河井:フランス語を喋る速度がね。スイスに近いアルプスは遅いんですよ。外国人に優しいフランス語ですね。南仏に行きたかったんですが、海があるでしょ。絶対に遊んでしまうと思ったんですね。そこにいる半年間でフランス語に慣れ、ギャガの先輩が住んでいたアパートを紹介してもらい、パリ18区にあるジャズ学校に行きました。
ーー クレモンティーヌさんはフランスのジャズ学校の同級生だったんですか?
河井:同級生と言うか同窓生ですね。彼女も変わっていて13歳からジャズ学校に行ってました。最年少の生徒として。まわりは大人だらけなのにね。
ーー なんというジャズ学校なんですか?
河井:CIMって書いてシームって読む学校で、私の最終学歴はそこになりますね。
ーー 日本人で行っていた人はいたんですか?
河井:日本人どころか東洋人の生徒は私だけでした。で、音楽用語も英語を使わないので「よく分からないな…」と思いながらも、ボーカルとトランペット科に2年くらい通っていました。通っている間に友達もできて「パリいいかも!」と思い始めました。当時の18区は信じられないくらい治安が悪くてね、学校のトイレに行くのに外から鍵がかかっているから事務所で鍵を貰ってから行ってました。
ーー 学校は毎日あったんですか?
河井:ありました。授業は選択制だったので比較的自由でしたが真面目に行ってました。本当にビックリする程の学費でいろいろ教えてくれるんですもの。フランスって基本、学費が全部無料の国ですからね。CIMって私立でもなくて、半分パリ市のお金も入っているような学校なんです。ラジオフランス(日本のNHK)で毎週開催される無料コンサートに行ったり、友人とジャムセッションしたり、とても充実した時間を過ごしました。フランスは、無料でできるアート体験がいっぱいあるんですよ。
ーー 芸術家育成のために。
河井:そうです。石を投げれば芸術家の卵にあたる程、表現する事を大事にする国ですね。CIMに2年くらい行ってたのですが、2年目から同時にAdamiというフランスの音制連(音楽制作者連盟)みたいな団体が主催している若手育成の為の音楽のアトリエが立ち上がったので、そこに一期生として通い始めました。ベビーシッターのバイトで結構稼げてたからできたんですけどね。
ーー それはトランペッターとして受かったんですか?
河井:いや、ボーカルとしてです。そこも学費も無料ですし、CIMでジャズだけやっていてもちょっとしんどいなと思ったから掛け持ちでやっていたら、「日本人で変な歌を歌う人がいる」みたいな話になり、私、フランスで結構いろいろな舞台に出て歌っているんですよ。
ーー 河井さんは元アーティストだったんですね。
河井:一応そうなんですよ(笑)。その時の仲間に今フランスの音楽業界で活躍している人が多くてずっと仲良くしています。そんな時を過ごしながら「これ楽しいけど、このままでは食べていけない。」と気付いてしまったんですね。30歳になる前ですね。その頃に母が病気をしたこともあり、3ヶ月程日本に帰ってきました。
帰ってきたら、クレモンティーヌが日本でスターになって30万枚とか売れてたんですね。フランス代表みたいな感じで!その時偶然ギャガの先輩の友人で「主婦と生活社」の編集者が「クレモンティーヌのガイドブック」を企画していて、翻訳する人を探していたのです。それで私手を挙げたんです。翻訳なんて全然やったことないんですけど(笑)、翻訳者としてクレモンティーヌとちゃんと出会ったんですよ。
ーー 学校のときはそこまで交流はなかったんですか?
河井:そうですね。なかったです。彼女は13歳の最年少入学ですからね。翻訳って学生にとってはお金になるじゃないですか。印税も貰えるし。それでパリに戻り、1年くらいかけてクレモンティーヌとガイドブックを作ったんです。そのガイドブックが結構売れたんですよ。
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第157回 音楽プロデューサー 河井留美氏【後半】