広告・取材掲載

第159回 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー 清水 浩氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は(株)Zeppライブ 青木聡さんのご紹介で、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー清水 浩さんのご登場です。早稲田大学の創部60周年になる「ニューオルリンズジャズクラブ」を経てCBS・ソニーに入社された清水さんは、EPIC・ソニーレコード(以下、エピック)に配属され、主に宣伝の立場から数々のアーティストと関わられます。また第二FM開局時には各放送局の開局に奔走。大阪営業所駐在時代にはデビューしたDREAMS COME TRUE(以下、ドリカム)の大阪での人気に火を付けるチームに参加しました。その後も元ちとせ、アンジェラ・アキ、JUJUなどと深く関わりをもった清水さんに、エピックの歴史とも言えるご自身のキャリアから、いまだ衰えぬ音楽への情熱までお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

▼前半はこちらから!
第159回 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー 清水 浩氏【前半】

 

崖っぷちからのJUJUのブレイク

ーー 清水さんにとってレコード会社の社員としての目標はなんだったんですか? 

清水:やはり目標はアーティストを見つけて、ビッグヒットを出すというのが一番でしたね。

ーー いいアーティストを、自分たちで見つけて、自分たちの力で世に出すと。

清水:ドリカムは私がどうのっていうより、デビュー自体はもう決まっていたのでちょっと違います。そう考えるとアンジェラ・アキなんかがまさにそうかもしれないですね。当時、現場の昼間や浜野(太郎)が獲得に動いていて、確か5社くらいが名乗りを上げていて、「僕たちだけでなく、清水さんも彼女に会ってください」と言われまして(笑)、デモテープを聴かせてもらいすぐに気に入り、本人と何回か会っているうちに馬が合うようになり、彼女がエピックを気に入ってくれました。ただ、彼女もデビュー前にピアノの練習や作詞作曲の勉強、弾き語りのライブなどをずっと続けていました。頭が下がります。今はアメリカで新たに勉強してミュージカルのプロデューサーへ、と。凄いことですね。

ーー ちょうどその頃ってエピック25周年ですよね。

清水:まさにそうです。過去の総決算という意味では「LIVE EPIC 25」というイベントを開催したことは大きかったですね。「LIVE EPIC 25」は、佐野元春や鈴木雅之、渡辺美里などのエピックをずっと支えてくれてきた人たちや、大江千里、大沢誉志幸、TM NETWORK、 THE MODS、限定で再結成したバービーボーイズたちが出演するオムニバスのイベントで、代々木競技場第一体育館2日間と大阪城ホールで開催しました。当時はエピックと一緒に電通やNHK、各事務所が実動にあたってくださって、皆様には本当にお世話になりました。今はビクターさんとかがロック祭りをやっていますが、レーベル単位でのイベントの先駆けと言ってもいいかもしれないですね。

ーー その後、エピックからソニー・ミュージックアソシエイテッドレコード(以下、 アソシ)に異動されていますね。

清水:はい。エピックからアソシに移って、中島美嘉や藤井フミヤ、TUBE、あとnobodyknows+の紅白初出場とかに関わりました。印象的なのはJUJUで、デビュー当初は本人がニューヨークにいることもあり、ちょっと距離がありましたね。

ーー JUJUはブレイクまでに時間がかかったんですか?

清水:そうですね。アソシで出会った木村(武士)はすごく優秀なA&Rで、彼はnobodyknows+やSOULHEADなども担当していました。3枚目のシングル候補曲「奇跡を望むなら…」という曲を持ってきて「これで勝負したい」と言うので、じゃあやろうと。ただその当時の社内では「JUJUはもう厳しいかも」って雰囲気で、曲はすごく良くて歌もうまいけど、そんなに近しい存在として感じられず、なかなかヒットに結びつかなくて。ただ「奇跡を望むなら…」は面白いと思ったので、勝負するならアレンジをもうひと工夫して出そうと話して、木村はニューヨークへ。1泊3日であの仕上げをして帰ってきました。

ーー アレンジを変えたんですか?

清水:アレンジを変えて勝負です。2006年11月にリリースして地道にやっていたら、前アソシ代表の大谷(英彦)さんたちが引き継いで、2007年USEN年間総合チャート1位となり、大きくしてくれまして今のJUJUがあります。

ーー で、そのあたりから宣伝から離れたんですか。

清水:そうですね。趣が変わる。

ーー これはやっぱり会社員としての年齢的な問題なんですか?

清水:まぁそれも1つありますし、予算を使い過ぎたこともありますし、歳と共に感性が鋭くなり、歳と共に感性が鈍くなる、ということもあります。ミドリというバンドが多分私が契約したいと思った終盤のアーティストですね。ライブが激しく凄かった。ミドリは女の子がボーカルのパンクロックバンドで、13社くらいの争奪戦と聞いていました。もうレコード会社は決まるから無駄、と言われてもずっと好きでライブを観に行っていたら、段々風向きが変わってきて、アソシの薮下〈是正〉や勝田(清子)も気に入ってくれて先方も少しずつ胸襟を開いてくれました。

ーー 13社はすごいですね。

清水:確かに。ちなみに恥ずかしながら私がメジャーデビューのCDのジャケットになっています(笑)。アルバムタイトルは「清水」。これはダブルミーニングで、「ミドリを世に出してくれたレコード会社の清水」に「紹介してくれたイベンター清水音泉の清水(裕)さん」という意味なんですよ。大阪の清水さんが私に「ミドリって面白いよ」って紹介してくれて、出会いました。それで「清水」ってタイトルに。これが発売されたらタワーレコードとかものすごく応援してくれていたので、このジャケットがずらっと店頭に並んで(笑)。

ーー レコード店に清水さんが並んでいた(笑)。

清水:見事に(笑)。ミドリが出演するイベントとかじゃなくても、フェスとか行くと、「あ!」って指さされたり、サインを求められたり(笑)。

ーー ちょっとしたアーティスト気分ですね。

清水:ささやかな(笑)。でも、なんでこんなジャケットにしたのでしょう。こうなるとは知らなかった。とりあえず「撮影するので来てください」と勝田に言われて、てっきりコラージュの中にある写真の1つだろうと思っていたんですけどね。もう当時は契約セクションにいたので了解をもらいましたけど、家族は遺影にしよう、と言っていました(笑)。

ーー ちなみに長いキャリアの中で、特別大きいストレスが続いた時期とかありましたか? 

清水:宣伝に移りたてのときに胃潰瘍で倒れました。THE MODSのリハーサル中でバスドラがドンドンいうと胃がドンドン痛む。それでだんだん気持ち悪くなったので家に帰って、次の日に病院で胃カメラを飲んだら「清水さん、胃に4つ潰瘍ができているよ」と。その当時の担当アーティストが4つだったので「ああ、アーティストの数だけ潰瘍ができたんだ」みたいな(笑)。もちろん、THE MODSのせいではないですよ(笑)。

ーー これだけ色んなアーティストと付き合って、個人的なお付き合いが残るアーティストって少ないものですか?

清水:確かに個人的な付き合いは少ないですね。エピック時代にお世話になった上司の五藤宏さん(故人)がいい意味で、アーティストとの距離感を保て! とよく言われていたのが影響しているかも、です。

 

 

アルバム的なコンセプトはライブに引き継がれる

ーー そして2007年に契約部に異動されていますが、本当の意味での管理系ですよね。

清水:はい。当時の契約部門のトップの高嶋(裕彦)さんが、現場をよく知っていて、アーティストや事務所との交流ができる人に来てもらうのは? ということで、呼ばれたようです。どうしても契約や法務系のスタッフは専門職的で制作や宣伝の現場をよく知っていることは少ないですから。

ーー そして2016年に定年退職されて、現在は役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザーというお仕事ですが、定年まで辞めようと思ったことはなかったですか?

清水:辞めようと思ったことはないです、ということに(笑)。

ーー やっぱりこの仕事が好きだったんですね。

清水:そうですね。契約に行ってからも、最後の秘書室長のときもライブやフェスはずっと行っていましたね。業務的にも、社内外含めて業界の皆様とのリレーションは必要とされていました。

ーー 今も現場とは繋がっているんですか?

清水:今もですかね(笑)。AIの事務所社長の新井(雄貴)さんとは大学が同じだった縁もあり親しくさせて頂いている中で、2015年当時15歳の中学生だったRIRIとアソシの木村が出会い、気に入りまして、新井さんと木村の間を繋ぎました。それでデモテープ録音の立ち会いもしたのですが、やっぱり素晴らしかったです。現在、RIRIはアソシのアーティストです。

ーー 清水さんは新卒から38年間、音楽業界で仕事をされてきたわけですが、音楽ビジネスの行方はどうなるとお考えですか?

清水:日本はまだCDが残っていますが、多分アメリカやヨーロッパと同じようにもデータになっていくでしょうね。アナログ盤がちょっとブームになっていますが、多くの音楽はさらに手軽なものになっていくと思います。

ーー サブスクリプションがメインになる以上、アルバム単位で曲を聴くとか、音楽業界が伝統的に行ってきた制作の手法とかも変わってしまう?

清水:変わっていくような気がします。これまでのアルバムの、10曲くらいで1つの作品という考え方は、恐らくライブ単位になってくると思うのですけどね。15曲から20曲くらいの。

ーー 要するにアルバム的なコンセプトはライブとして形を変えて生き残っていく?

清水:そんな気がしますね。常にベスト盤的ライブではファンも飽きてくるように思いますし、やはりアーティストもテーマを持って打ち出していく欲求や感性があると思うので。ライブはやはり大切かと。

ーー 正直、アーティストは大変ですよね。複製物と違って、毎回自分がステージに立たないといけない。

清水:本当です、大変だと思いますね。ステージは真剣勝負ですから。あとはVRとか、ああいった最新技術が今後どうなっていくんだろうとは思いますね。疑似体験的な。VRでは無いですけど、バービーボーイズの東京ドーム公演をZeppで聴くイベントをやっていましたね。

ーー いわゆるフィルムコンサート?

清水:昔のフィルムコンサートのハイクオリティ大音量版ですけど、迫力があり音響も素晴らしく面白かったですね。これだったら別に本人が稼働しなくてもいいですし、映画館でのライブビューイングとかありますけど、もっと可能性があるのではないでしょうか。

 

 

「夢はなかなか叶わない。だけど夢を捨てるな」
 

ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー 清水 浩氏

ーー 音楽ビジネス、音楽業界で仕事をしていこうとしている若い人たちってたくさんいると思いますが、そういった人たちに清水さんからなにかアドバイスはありますか?

清水:仕事に情熱を持って、世の中が幸せで楽しくなるようなエンタテインメントを作り出していってほしいと思いますね。好奇心は大切です。1994年に丸山さんが実験的に作ったアンティノスグループという組織体があって、音楽出版と事務所(エージェントスタイル)とレコード会社(A&Rシステム)、この三角形を三位一体みたいな形でやろうという実験的な試みでした。いわゆるアメリカ型のシステムを持ってこようとしたわけです。

なぜ丸山さんがそういった試みをしたのかというと、それは、旧来型の日本の音楽業界構造に対するチャレンジだと思います。当時、ドラマ主題歌が結構ヒットしていた時代で、丸山さんは「だったらドラマから作って主題歌も当てはめればいい」という精神論・組織論とは別の発想になったようです。アンティノスという社名は「アンチ・ソニー」という意味でもあり、いろいろなトライアルをするのがアンティノスグループでしたね。

そこで、地方の深夜ドラマ枠を買い付けて制作しました。ドラマは各地で全部違うのですが、主題歌は一緒でした。発想は面白かったのですが、あっという間に言えないくらい赤字になってしまいました。

ーー さすがに回収できなかった。

清水:はい、残念ながら。ただ当時の代表だった坂西伊作さん(故人)という、素晴らしいA&Rであり、映像プロデューサーがT.M.Revolution(以下、TMR)で成功したり、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)のPlayStation®のゲーム音楽の制作やFAYRAY、藤井隆のヒットなどで一時期赤字は相当減りました。現場スタッフも優秀だったのですが。

ーー いろいろな失敗があっても、チャレンジすることが大事ということですよね。今、音楽業界も大変な状況ですけど、それでも夢は持ちたいですよね。

清水:そうですね。本当は「夢は叶う」って言い切りたいのですが、「夢はなかなか叶わない。だけど夢を捨てるな、いつの日か」っていう想いですかね。

ーー 重い言葉ですね。

清水:昨日RIRIと久しぶりに話したのですが、もし20年後、30年後にまだ自分が生きていて、彼女が目標としているアメリカのステージに立つところを観ることができたら嬉しいなってすごく思いますね。

JUJUもジャズシンガーになるために若いときにニューヨークへ行って、仕事しながらクラブで歌ったり勉強したりしていて、現地ではなりきれなかったけど、頑張ってやり続けたことによって30歳手前でデビューしました。諦めずに歌い続けてきたからこそデビューできたと。

周りが厳しいときも木村達と麻布のクラブでのJUJUのライブを観に行っていました。やっぱり声がすごく良い。だけどジャズクラブでやっていたからお酒を飲んだり、たばこを吸ったりしながらジャズを歌う癖とかの感じってあるじゃないですか。木村はすごく厳しく言っていましたし、私も「今日のライブは全然ダメ」みたいな話もしたことがありました。そして楽な方、楽な方に行きがちになるところをその都度軌道修正して、続けていくって大変じゃないですか。

だけどそういった努力がやっぱり花開きますよね。彼女も30代から歌声がさらに良くなったし、ポップスのシンガーとして良くなって、ジャズをまた歌うようになっているのは理想に近いかも。本当に素晴らしい。もちろん彼女の努力と木村の素晴らしいアイデアとアソシスタッフの頑張りですね。

ーー 厳しく意見をするときもあるんですね。

清水:もちろん。だから、JUJUが少しうまくいきだした頃でも、私は怖がられていたような気がします、多分(笑)。売れだすと周囲も変化しますから、あえて小言を言うお爺さんのようにしていました。さすがに今はもう言わないです。デビューして15周年を迎えて、彼女は立派なアーティストになりました。

実は今、私は佐橋佳幸さんと一緒にインディーズのアーティストを手掛けていて、noteなどの新しいサービスを積極的に活用したり、これまで経験してこなかった道筋で世に出していけたらいいなと応援しているのですよ。SETAと言います。また、高校時代の友人が応援しているSerikanaと言う福井県出身のシンガーソングライターも少しお手伝いしています。

ーー 今でもライブに行ったりするんですか?

清水:はい。フェスではFM802「MEET THE WORLD BEAT」、仙台の「ARABAKI ROCK」、「SUMMER SONIC」、「ROCK IN JAPAN」、TMRの「INAZUMA ROCK FES.」とか2年に1回くらい行っていますかね。最近観たライブはエレファントカシマシ、藤井フミヤ、中孝介 石崎ひゅーい、THE MODS、amazarashi、フラワーカンパニーズ、矢野顕子、SPYAIR、岡崎体育、KING GNUなどですね。

ーー 根っからのミュージックマンじゃないですか。

清水:ただ、ライブや音楽が好きなだけで、ミュージックマンとしてはスペースシャワーの近藤(正司)さんとか、フェイスミュージックの田村(克也)さんとかタワーレコードの庄司(明弘)元副社長なんか素敵だなと思います。

ーー 具体的にはどうなれればいいとお考えなんですか?

清水:要は、良いアーティストを見つけて独立して事務所をやっていくことなんですが、私は普通にレコード会社に入って、ずっとやってきちゃっているから、なかなかうまくギアチェンジができない。

ーー 結局、清水さんはまだ現場での仕事をしているんですね(笑)。

清水:そうです(笑)。本来のSMEでの仕事は「よろず相談室」的なアドバイス業務で、いろいろな社内外の関係セクションとリレーションを図り、アーティストやスタッフ、会社を守る仕事でもあり、今の業界事情を知っていなければできないので、常に表裏にアンテナは張っています。家族から言わせると、「定年退職したのになんでまだやっているの?」「何も変わってないじゃない」みたいな感じです(笑)。

やはり、すべてが上手くいく訳もなく、多くの皆様に助けられ、幾多の方にご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでしたが、結局人間が好きで、アーティストが好きで、音楽が好きで、ライブが好きで、本も芝居もミュージカルも映画も落語も好きで、そんなエンタテインメントを育てたり、広めたり、膨らませたり、守ったり、助けたり、していくことが大好きなんですよ。