第160回 (同)靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 清水 浩さんのご紹介で、合同会社 靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史さんのご登場です。学生時代に洋楽ロック、ジャズの洗礼を受けた靑野さんは、早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブでの活動を経て、日本ビクターに入社後、同社のレコード部門であったビクター音楽産業(現ビクターエンターテインメント)へ出向。洋楽の制作・宣伝業務を担当され、Fantasy RecordsやGRP Recordsに関わるとともに、国内制作にも携わられます。その後、MCAビクター(後のユニバーサルビクター)、ユニバーサルミュージックでは洋楽全般とジャズ&クラシックに関わり、ニルヴァーナ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ボン・ジョヴィ、U2などのロックから、ヒップホップやR&B、マライア・キャリー、スティーヴィー・ワンダーといったポップスター、ジャズのダイアナ・クラール、チック・コリア、そしてクラシックのアリス=紗良・オット、フジコ・ヘミングなど、数多くのアーティストのマーケティングを扱う部門のとりまとめ役を担われました。制作に関わられたアルバムは、幾度もグラミー賞に輝きました。現在はコンコード・ミュージック・グループの日本でのコンサルタント業務や社団法人日本ジャズ音楽協会のお仕事など幅広くご活躍される靑野さんにお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽業界と関わりが深い家に生まれて
ーー 前回ご登場頂いた清水浩さんとのご関係からお伺いしたいのですが、靑野さんは清水さんの先輩になるんですか?
靑野:早稲田大学に「ニューオルリンズジャズクラブ」というディキシーランドジャズを演奏するサークルがあって、そこに私がおりまして、1年下で彼が入ってきたんです。
ーー つまり、大学2年と1年のときからの付き合い?
靑野:そういう事になります。あの頃、私は千葉に住んでいたので、夜中まで飲んで終電を逃すと、よく清水君の東中野の実家に泊めてもらっていました。朝、彼のお母様が「ひろし起きなさい!」っておっしゃるのですが、彼も私も同じ“ひろし”なので2人で「はい!」って飛び起きて(笑)。
ーー (笑)。
靑野:朝ご飯までご馳走になって、一緒に学校に行ったりしていました。1年早く私がビクターに入って、1年後に彼がソニーミュージックに入ったので、そういう意味ではとても長い友人ですし、今でもよく一緒に飲む良いお付き合いが続いています。
ーー ニューオルリンズジャズクラブって何人くらいいたんですか?
靑野:あの頃は一学年7、8人ぐらいでしたかね。ですから全部で30人とか。60年以上続いているサークルなんですが、映画『スウィングガールズ』がヒットした影響の後には、女子の部員がとても増えました。高校時代に楽器を演奏していたブラバンとか吹奏楽出身の女子生徒たちで賑わっているようです。
ーー ニューオルリンズジャズクラブからはレコード会社に入った人って結構いたんですか?
靑野:そうですね。私と同学年の横内伸吾君がソニーミュージックに入り、清水君と同期の所信哉君もテイチクに入りました。
ーー すごい確率ですね。
靑野:サークルの先輩にはキングの重松英俊さんを筆頭に、伊藤八十八さんや北澤孝さん、テイチクや東芝EMIで活躍された真田佳明さんがおられました。私よりはだいぶ下になりますが、現在ユニバーサルミュージックのジャズ部門で活躍している斉藤嘉久君も後輩です。そう考えますと私たちのサークルからはレコード会社に入社した人間が多いように思います。
ーー 靑野さんは楽器は何をやっていたんですか?
靑野:クラリネットをやっていました。
ーー では北澤さんと同じパートですね。
靑野:そうなんです。ただ、私は大学に入ってから楽器を始めたので、なかなか上達せずに4年間終わりました。清水君はベース担当で、一緒のバンドで演奏旅行したりしました。
ーー ここからは靑野さんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?
靑野:九州の佐賀です。父はNHKに勤めておりまして、東京で採用されてすぐ佐賀放送局に転勤になり、そこで高校の教員をしていた母と知り合いました。それで母の佐賀の実家で私が生まれました。
ーー 佐賀のどちらですか?
靑野:佐賀市の中心部からは少し離れた諸富という町です。私の生後、程なくして熊本放送局へ移り、その半年後には東京に戻ることになりました。
ーー では、九州にいたときの記憶はないんじゃないですか?
靑野:ほとんどないですね。その後は、東京で育ち、当時の家の近くにあった東京教育大(現、筑波大)付属小学校に入り、そのまま高校まで進みました。
ーー お父様がNHKということですが、ご家庭には音楽に繋がるような環境があったんですか?
靑野:そうですね。父も、もともと音楽好きでしたし、NHKでは音楽番組制作の仕事をしておりまして、レコードメーカーさんとのお付き合いもありましたので、家にはレコードがたくさんありました。
ーー ご兄弟は?
靑野:5つ下の弟がいて、彼も最初の就職先が音楽之友社さんで、週刊FMの編集部におりました。その後オリコンさんにもお世話になりました。少し前でしたが「ウルトラセブンが音楽を教えてくれた」という本を出したりしました。音楽之友社の常務で私も永くお世話になっている大谷隆夫さんのご厚意もあって、今また音友さんで働いております。
ーー ご家族のほとんどの方が音楽に関係しているんですね。
靑野:はい。叔父もコロムビアレコードにおりましたので、音楽業界と関わりが深い家だったと思います。
ロックバンドの来日ラッシュとジャズの衝撃
ーー どんな子供だったのですか?
靑野:鉄道が好きで、今でいう「撮り鉄」です。全国のSLを追いかけて撮影に夢中になっていました。中学からはテニス部に入り、学業そっちのけでテニスばかりやっていた記憶です。硬式テニスをやっている中学が少なかったせいもありますが、関東大会の新人戦で単複ベスト8まで行きました。
ーー 音楽はいつ頃からよく聴くようになったんですか?
靑野:当時流行っていたグループサウンズの「タイガース」には憧れました。ただのめり込むという感じではなかったと思います。中学に入ると周りの友だちが「洋楽が面白い」って言い出して、それに影響されて洋楽を聴くようになりました。
ーー 靑野さんの世代はビートルズからはちょっと遅れている感じですよね。
靑野:私達の世代は何にでもちょっと遅れてきた世代で、ビートルズが来日して騒ぎになったのはもちろん覚えていますけど、まだ小学生でしたからね。ロックを意識し始めて最初に買ったのがジェフ・ベックの「監獄ロック」のシングルでしたが、ただこれがプレスリーの曲だなんて全然知らなかったわけです。
ーー でも、洋楽が身近だった世代ではありますよね。
靑野:身近でしたよね。決定的だったのは映画『ウッドストック』とグランド・ファンク・レイルロードのデビューですね。『ウッドストック』が1969年、中2の時で、ちょうど同じ頃にグランド・ファンクが「レッド・ツェッペリンをぶっ飛ばした」というコピーで出てきて。たぶん、あれは石坂敬一さんがつけたコピーだと思うんですが(笑)、「かっこいいな」と思いましたね。そこから本格的にロックを聴くようになって、高1になった1971年にロックバンドが次々に来日したんですよ。4月のフリー、7月にグランド・ファンク、8月は箱根アフロディーテのピンク・フロイド、そして9月にはレッド・ツェッペリンとすごい年でしたね。あの1年は本当にインパクトがありました。
ーー それは全部観に行ったんですか?
靑野:行きました。フリーが4月30日共立講堂だったんですけど衝撃を受けました。
ーー その年代で全て観に行ったのはすごいですね。洋楽ロックの本格的な来日はフリーからですからね。
靑野:恵まれた環境にいたと思います。ツェッペリンは折田育造さんが当時ご担当で、未だにツェッペリンが来日した時のとんでもない話を伺ったりします(笑)。
ーー ちなみにジャズとの出会いはいつ頃だったんですか?
靑野:きっかけはNHKラジオ第2で夜10時過ぎからやっていた「若いこだま」というラジオ番組です。この番組は今で言うサブカル的な内容で、それが面白くてよく聴いていたんですが、高校1年の秋のある日、DJの芹沢のえさんが「今日はジャズを聴いていただきます」と言っていて、「え、ジャズか。あんまりジャズのこと分からないな」と思いながらも聞いていたんです。そこでかかったのがジョン・コルトレーンで、この演奏に圧倒されたんですよね。実際に何の曲だったかは覚えてないんですが、必死に「ジョン・コルトレイン」ってメモして(笑)。はるか後に、のえさんがヴァージンで仕事をされていた関係でビクターの同じ職場で働く事になり、どれだけ感謝しているか、お伝えする事が出来ました。
ーー ジョン・コルトレーンでジャズに目覚めたと。
靑野:やっぱり、耳で聴いたインパクトは強いですよね。これはいくら活字を読んでも分からないです。もう一瞬にして「これはすごい音楽だな」と思いました。そこからジャズにのめりこみました。
ーー 僕らの世代ってジャズ喫茶にはまっている同級生とかいましたよね。
靑野:いましたね。私もジャズ喫茶には恐る恐る行っていました(笑)。学校が茗荷谷にありましたので、杉並の自宅に戻るのに、ぐるっと丸の内線に乗って、途中の新宿で降りて、ジャズ喫茶を次から次に。DIG,びざ―る、まま、木馬、PONYといった店に、学校の午後の授業をさぼってそのまま行ったり(笑)。学生時代には四谷の「いーぐる」でアルバイトをするなど、その後今に至るまでジャズ喫茶の文化とはずっとご縁があります。
ーー その後、早稲田大学に進まれますが、ジャズサークルが活発だったから早稲田に行かれたんですか?
靑野:そうではないですね。父も叔父も早稲田だったので親しみがありましたし、早稲田の「在野の精神」という考え方が良いなと思いました。
キャンパスに行くとニューオルリンズジャズクラブ(通称ニューオリ)が新入生勧誘していて、ジャズは好きでしたけど、楽器は演奏したことがなかったんですが「初心者でも出来るから」って誘われたんです。ディキシーランドジャズってモダンジャズに比べると、何となく「簡単に出来るんじゃないかな?」って思ってしまったんですよね(笑)。
ーー (笑)。
靑野:早稲田にはディキシーランドジャズをやるニューオリと、ビッグバンドをやるハイソサエティオーケストラ(ハイソ)、あとタモリさんとかが所属されていたモダンジャズ研究会(ダンモ)という3つ歴史のあるジャズサークルがあったんですが、そんな経緯でニューオリに入ったんです。しかしそれまで楽器の演奏をしたことがありませんし、音色が好きで選んだクラリネットもなかなか上達しないままでした。でも、やめることなく下手なりに演奏活動を続け、鑑賞部長と称してルイ・アームストロングやジョージ・ルイスといった戦前の古いジャズの研究をして4年間過ごしました。
早稲田ニューオルリンズジャズクラブの思い出〜ビクター入社
ーー ニューオルリンズジャズクラブでは結構、演奏活動をされていたんですか?
靑野:演奏旅行とかもありましたし、いわゆる「ダンパ(ダンスパーティー)」に呼ばれて演奏もしました。大手町のサンケイホールの一番上にダンスフロアがあったんですが、我々ニューオリが30分演奏して、ちょっと休憩があって、次にハイソがやって交互に1日3ステージかな。ハイソにいるビッグバンドの人たちはスコアもきちっと読めるし、スキルが全然上なんですね。ダンモもきちんと音楽理論を勉強してないと出来ない。それに比べるとあの当時の我々の演奏レベルはお粗末だったと思います(笑)。
ーー 「ダンパ」って結構ギャラが良かったんじゃないですか?
靑野:ええ。結構いいお金を頂いていました。あとディキシーランドジャズですから、スーパーマーケット開店の景気づけとか、遊園地の中を演奏しながらぐるぐる歩き回ったり、結構仕事がありました。ただ稼いだお金は全部部費になって、演奏旅行などはその部費でまかなって日本全国あちこちに行きました。
ーー やはり大学4年間の1番の思い出はニューオルリンズジャズクラブですか?
靑野:そういう事になりますかね。教室にいるより部室にいる時間が多かったと思います。(笑)。
ーー そして、大学卒業後はビクターに入社されますね。
靑野:「ビクターがいいな」と思ったのは、ジャズのカタログをたくさん持っていて、とても熱心にジャズのレコードを出していたからです。それに関われる仕事が出来ればいいな、と考えました。幸いに採用されました。
ーー ちなみに他のレコード会社も受けたんですか?
靑野:いえ、ビクターだけでした。いくつか違う業種にもチャレンジしましたが、どこも見事に落ちました。
ーー 入社されたビクターではまず洋楽担当だったそうですね。
靑野:日本ビクター入社で1週間の研修の後、直ぐにビクター音産の洋楽部に配属されました。当時法務部で欠員が出ていたので、法学部出身の私が候補に挙がったらしいのですが、採用に関わった人事の担当者が「こいつはやめた方がいい」と言ったそうです(笑)配属後しばらくはLPのサンプル盤詰めやら、その発送やら、ありとあらゆる雑用をやっていました。
ーー 内職みたいな。
靑野:あの当時はレーベルで言うと、モータウン、カサブランカ、キャプリコーン、大手のMCAがあり、翌79年からヴァージンも加わり、アラベスクなどのディスコもの、リチャード・クレイダーマンなどのイージーリスニングもの等々ビクターの洋楽部門はとても活気がありました。
ジャズ系では渡辺貞夫さんの「カリフォルニア・シャワー」が大ヒットして、高垣健さんのいたお隣のインビテーションでは阿川泰子さんが「ネクタイ族のアイドル」なんて言われてヒットしていました。
ーー 最初は本当の編成業務はやらせてもらえなかったんですか?
靑野:ええ。2年目に「編成やれ」ということになって、いわゆる制作担当になりました。
ーー 当時は全体的に活気がありましたよね。
靑野:はい。私が担当になったのが、当時ビクターがライセンス契約をしていたファンタジーレコードでした。ファンタジーってCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)のヒットを生んだ西海岸のレーベルで、同時にジャズのレーベルをたくさん抱えていたので、そういう意味ではやりたかった仕事に就く事が出来ました。ソニー・ロリンズやアート・ペッパーがこのレーベルの専属だったので、あこがれのジャズの大巨匠と仕事することになって、充実していました。
この当時我々の企画提案で発売したセロニアス・モンクの全集は、後にアメリカでも発売されてグラミー賞のヒストリカル部門を受賞しました。
その意味でレコード会社のヒット曲作りとは、やや縁のない業務だったのですが、「サントリーホワイト」のCMにロン・カーターの楽曲が使われて、それをCDにしたんです。ちょうどその発売タイミングで、オリコンさんが「CDチャート」というチャートをスタートさせて、そのアルバムが1位になったんです。ジャズのレコードでヒットを作るのは容易ではなかったので、これは印象に残っています。
ーー ジャズがチャート1位になる時代があったんですね。
靑野:ちょうどCDチャートが出来た時にたまたま1位になって、会社から表彰されました(笑)。
ーー でも、当時は結構ジャズがかかっていましたよね。渡辺貞夫さんはFM東京で番組をやっていましたし、ヤマハのスクーターのCMとか。
靑野:そうです。まさしくあの時代です。ジャズにとても元気がありましたね。1983年にビクターがデイヴ・グル―シンとラリー・ローゼンが作ったGRP(Grusin/Rosen Productions)レコードと契約をして担当になりましたが、自らをDigital Master Companyと称して「クオリティ最優先」という彼等の考え方は、ビクターの社是であった「品質第一」と完全にマッチしておりましたし、このレーベルとのお付き合いがその後の私のキャリアの方向付けをしたのかと思います。後にこの会社のトップになり、先般お亡くなりになった名プロデューサーのトミー・リピューマさんと出会えた事も幸いでした。
ーー 洋楽をやりつつ邦楽アーティストの制作もなさっていたそうですね。
靑野:渡辺貞夫さんや日野皓正さんなど邦人アーティストを洋楽の中で扱うビジネスがあったので、それを踏襲して、「ミュージックインテリア」というシリーズをスタートさせました。佐久間正英さんの初リーダー作は私が担当してこのレーベルでリリースしました。
ーー 佐久間さんも若くして亡くなられて…。
靑野:そうですね…残念です。佐久間さんのアルバムは、オノセイゲンさんと佐久間さんで作ったプロジェクトだったので、佐久間さんが亡くなった後にオノさんがマスタリングし直して、追悼盤として再発されました。
一番たくさん仕事したMCAビクター時代〜MCAとゲフィンとGRP
ーー そして91年にMCAビクターに移られますね。
靑野:90年に松下電器がMCAを60億ドルで買ったんですね。同時期に湾岸戦争に日本が拠出したのが90億ドルだったのでよく覚えています。ビクターは松下電器の傘下でしたから、MCAと合弁会社を作ることになって、91年にMCAビクターが出来ます。その新会社にビクターから出向という形で移ることになりました。
MCAというのは1920年代からある古い会社で、当時はボビー・ブラウンとかブラックミュージックのアーティストが沢山いました。ロックメインのゲフィンも傘下にありましたが、ここにはガンズ・アンド・ローゼズ(GNR)やエアロスミスというトップスターがいて、さらにはニルヴァーナがデビューする事になります。それにジャズのGRP。このMCAとゲフィンとGRPという3つのレーベルを扱うことになって、そこで洋楽をとりまとめる立場になりました。
MCAはこの新会社の前はワーナーが扱っていたので、担当で清原愛一朗君にワーナーから来てもらいました。ゲフィンは私と同じくビクターから来た安田秀明君。
あの頃が人生で一番たくさん仕事しましたね。ビクターの子会社ですから、ビクターの大枠のルールの中で仕事するという総論だけは決まっていたんですが、各論は何もない。本当に何もないんですよね。
ーー 各論が全くない(笑)。
靑野:91年7月1日創業で、7月5日に第1回の新譜を出すという事は大々的にアナウンスしちゃっているので、その作品を発売出来なかったら大変なことになるわけです。ですから朝9時半から、深夜2時とか3時まで連日ぶっ通しで仕事していました。とにかく仕事がたくさんありましたから。家に帰る暇もないので会社に泊まるんですが、オフィスにソファもないし、新聞紙ひいて安田君と一緒に床で寝てました(笑)デスクやソファとかが入り、オフィスらしい体裁になるまでにはだいぶ時間がかかりました。
ーー 要するに3、4人分の仕事を1人でやらなきゃいけなかったんですね。
靑野:そうです。例えば媒体の方から「ジャケ写を送ってください」と言われても「ジャケ写はどこにあったっけ?」から始まり、「じゃジャケ写をどう管理しようか?」というような、ありとあらゆる業務フロー作りを様々な局面で決めていかなければならなかった。
ーー このMCAビクター時代に印象に残っているお仕事はどんなものだったでしょうか?
靑野:GNRとニルヴァーナが全く同じ時期に来日した時の狂乱(笑)は忘れられませんし、エアロスミスの徹底したプロフェッショナリズムには感銘を受けました。エリカ・バドゥのデビューも衝撃的でした。一方で、CDマーケットが成熟期に来ていたので、さらなるパッケージの可能性を求めて「紙ジャケ」開発のプロジェクトに関わりました。また中村とうよう先生に監修して頂いて、古い米デッカを中心にした主に戦前の音源を使ったコンピレーション・アルバムを沢山作った事も印象に残っています。ピアニストの木住野佳子さんをGRPのアーティストとしてデビューさせる仕事にも心血を注ぎました。
この時代はニルヴァーナが出てきて、ロックのオルタナティブの部分が急速に加速していった時代で、BECKなんかもデビューして賑やかでした。後にはエミネムやブラック・アイド・ピーズといったヒップホップの台頭という現象もありました。岩田寛之社長、常務の田辺攻さん、洋楽の大先輩である渡邉修さん、営業の福田和久さん、人事総務の月光信而さん、経理の村嶋信さん、今村肇さん、そして私の師匠でもあり亡くなった今野光雄さんといった沢山の先輩達の元で、社員一丸となってよく働きました。今でもこの会社の同窓会は楽しみな事のひとつです。
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第160回 (同)靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史氏【後半】