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第160回 (同)靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 清水 浩さんのご紹介で、合同会社 靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史さんのご登場です。学生時代に洋楽ロック、ジャズの洗礼を受けた靑野さんは、早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブでの活動を経て、日本ビクターに入社後、同社のレコード部門であったビクター音楽産業(現ビクターエンターテインメント)へ出向。洋楽の制作・宣伝業務を担当され、Fantasy RecordsやGRP Recordsに関わるとともに、国内制作にも携わられます。その後、MCAビクター(後のユニバーサルビクター)、ユニバーサルミュージックでは洋楽全般とジャズ&クラシックに関わり、ニルヴァーナ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ボン・ジョヴィ、U2などのロックから、ヒップホップやR&B、マライア・キャリー、スティーヴィー・ワンダーといったポップスター、ジャズのダイアナ・クラール、チック・コリア、そしてクラシックのアリス=紗良・オット、フジコ・ヘミングなど、数多くのアーティストのマーケティングを扱う部門のとりまとめ役を担われました。制作に関わられたアルバムは、幾度もグラミー賞に輝きました。現在はコンコード・ミュージック・グループの日本でのコンサルタント業務や社団法人日本ジャズ音楽協会のお仕事など幅広くご活躍される靑野さんにお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

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第160回 (同)靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史氏【前半】

ーー そして2000年にMCAビクターはユニバーサルミュージックと統合されますね。

靑野:松下電器が買ったMCAを、今度はカナダのシーグラムが松下電器から買ったんですね。会社の名前もMCAからユニバーサルに変わり、我々の会社名もMCAビクターからユニバーサルビクターになりました。そして次にシーグラムはポリグラムを買うことになり、その結果、日本のポリグラムがユニバーサルミュージックになり、2年くらいは旧ポリグラムと、私のいたMCAビクター改めユニバーサルビクターと、ユニバーサルの子会社が日本に2つ存在したんですね。で、2000年に子会社を1つにすることになり、ユニバーサルビクターはユニバーサルミュージックと一緒になります。

ーー 動きが複雑過ぎて、当時はよく分からなかったです。

靑野:そうですよね。ユニバーサルに関していえば、ユニバーサルビクターのほうがポリグラムより古いわけです。ただポリグラムはユニバーサルミュージック100%の子会社、ユニバーサルビクターは半分ビクターの資本が入っていますから、100%のほうに統合する形になったんです。それで2000年にポリグラムの池尻大橋のビルに移ることになったんですが、結構なカルチャーショックというか、まさかポリグラムと一緒の会社になるとは思っていませんでしたし、同じ洋楽を扱っていても全然カルチャーは違うし、例えば聞き慣れない言葉がたくさんあるんですよね。

ーー 例えばどんな言葉ですか?

靑野:例えば「おんしょうばん」っていう言葉があって、みんな「おんしょう、おんしょう」って言っている。何の事か理解出来ない。この「音承盤」というのは、ディレクターが最終的に音を承認するマスタリング後の音を入れたCD盤のことなんですが、初めて聞いた言葉でした。CDの帯もポリグラムでは「キャップ」という我々ビクターグループの人間には未知の言葉だったわけです。

ーー 同じ業界にいながら全然違うんですね。

靑野:とても不思議でした。

ーー 統合時、靑野さんはどんな役職だったんですか?

靑野:洋楽の第二制作本部本部長といって、旧MCAの作品を扱う部署のとりまとめをしていました。第一制作本部は旧ポリグラム、旧フィリップスで、後にトップになる小池一彦さんがとりまとめをやっておられました。そして同時にジャズもやれということで、ジャズのとりまとめもやることになりました。しばらくすると洋楽の第一と第二が1つにまとまることになります。

 

石坂敬一氏との師弟関係と幻の邦楽レーベル「ユニバーサルガンマ」

ーー 石坂敬一さんと一緒にお仕事されていかがでしたか?

靑野:いや、本当に厳しかったですし、怖かったですね。強烈なカリスマでしたし、鈴木伸子さんが脇でしっかりバックアップしていましたし。ユニバーサルには結果2009年までいたんですが、石坂さんとの戦いと言ったら大げさですが、まぁ所詮戦いにはなりませんけど。ユニバーサルミュージックの10年弱を振り返ると、石坂さんとどう仕事するかというのが大きなテーマのひとつだったような気がします。

石坂さんは東芝EMIの洋楽の頃、邦楽のレーベルも作って、そこで実績を作られた成功体験があったので、私にも「洋楽をやりつつ邦楽もやれ」って言う話になったんです。もちろん私を買ってくださったからだと思うんですが、ロンドンの本社からは「洋楽のシェアをもっと上げろ」というミッションがある中、石坂さんは「邦楽をやれ。ただし人は増やさない」と(笑)。つまり同じ陣容で邦楽もやれってことだったので「それは無理です。出来ません」と断ったんですよ。でも石坂さんは「ばかやろう、やれ!」と(笑)。「もう『ユニバーサルガンマ』というレーベル名も作ったんだ」と。

ーー 「ユニバーサルシグマ」の次に「ガンマ」と。

靑野:でも「石坂さん、申し訳ないですけど出来ません」って。伸子さんからは「貴方、社命に逆らうのであればクビよ」とまで言われましたが、結局、「ユニバーサルガンマ」というレーベルの話はそのまま立ち消えになり、それから石坂さんは「お前の失敗はあのとき俺の言うこときかなかったことだ」ってずっとおっしゃっていましたね。

ーー 多少洋楽売れなくても、やっちゃえばよかったんじゃないんですか?

靑野:そうだったんですかね。ただその一方でロンドンのマックス・ホールという大ボスから次々に指示が来ますからね。やっぱり邦楽って洋楽と違って、生身のアーティストがそばにいますから、制作の人間だったり宣伝の人間だったりがどれだけの時間とエネルギーを使うか分かっていたつもりだったので、もし邦楽のアーティストを引き受けたとしたら、洋楽の仕事がほとんど出来なくなると考えました。

ーー 石坂さんに「ノー」って言える人も少ないんじゃないですか?

靑野:あまりいなかったと思います(笑)ずっと「なぜ俺の言うことをきかなかった!」って言われ続けましたけどね(笑)。ユニバーサルを辞めた後もよく「飲もう」と声をかけてくださって、オークラやニューオータニのバーで一緒に飲みました。

ーー 石坂さんもどこかで許しているわけですよね? その後もお付き合いはされたわけですから。

靑野:だったらいいんですけど。私のキャリアがわりと洋楽メインでしたから、「もっと世界を広げなさい」ということだったと思うんですよ。

ーー だったら洋楽をはずしてくれればいいのに。

靑野:丸ごとね。ただ丸裸で邦楽の世界に行っても、そんな簡単にアーティストが育つわけない。石坂さんがEMI時代になさったように洋楽の数字をベースにした上で邦楽を、というお考えだったんだと思いますが、ユニバーサルは、ものすごいショートタームで実績を作っていかなくてはいけない環境でしたから。

ーー このユニバーサルミュージック時代に印象に残っているお仕事はどんなものでしょうか?

靑野:どのプロジェクトも印象的でしたが、特に宇多田ヒカルさんのUTADA名義での海外進出プロジェクト、ミリオンヒットを記録したtATuと彼等のミュージックステーションキャンセル事件、赤字覚悟で進めたフアネスのブラ投げプロモーション、マライア・キャリーの鳴り物入り移籍プロジェクト、ジャズ歌手のakikoさんのデビューなどは印象的です。それぞれに語り尽くせぬストーリーがあります。総じて幾多の失敗と僅かな成功がありましたが、しかしどのプロジェクトにおいても、頼もしくて素晴らしいチームメンバーと仕事が出来て幸いでした。感謝しています。

 

 

企画・立案したチック・コリアのアルバムがグラミー賞受賞

 

(同)靑野音楽事務所 代表 / 音楽プロデューサー 靑野浩史氏

ーー 2009年にユニバーサルミュージックをお辞めになっていますが、何か理由があったんですか?

靑野:当時、CDのカタログビジネスがものすごく下降線になったんですよ。ユニバーサルって旧譜がたくさんあって、それらがセールスのベースを作っていたのがガタッと落ちたんですね。安定した旧譜のセールスをベースにプランを作っていたものですから、プランは達成出来ませんし、そもそもその少し前から限界を感じていた事も事実でした。

とにかく海外からの石坂さんへのプレッシャーがものすごいんですよ。石坂さんも大変な思いをされていたと思うんですが、とにかく無理難題を言ってくる。もう秋だというのに「年内に利益をもう10億作れ」とか。10億の売り上げだって大変なのに「10億の利益を作れ」と(笑)。コーポレート・ガバナンスならぬコーポレート・マッドネス。これはもうしんどいなと思って2009年一杯で会社を去ることにしました。

ーー そのときはどういう心境でしたか?

靑野:ホッとしたのと寂しさと半々ですね。それで、その当時のユニバーサルグループのインターナショナル部門のトップだったマックス・ホールが、「辞めるんだったら、ユニバーサルミュージックをクライアントにレーベルを始めてみないか」と提案してくれました。

ーー オファーしてくれたんですね。

靑野:そうなんです。辞めた後の具体的なプランはまだなかったので、今の自分の会社を設立してお受けする事にしました。

ーー 仕事の内容変えなくていいですしね。

靑野:ただ、自分でアーティストを見つけて来なくてはいけないという新しいスキームで、マックス・ホールのバックアップのもとでレーベル「area azzurra」を立ち上げました。名前の「靑野」から「ブルーフィールド」にしようかなと思ったら、すでに商標登録されていて、色々な国の言葉で靑野に近いのを探して、イタリア語に辿り着きました(笑)。

そこではアマンダ・ブレッカーというマイケル・ブレッカーの姪っ子になるんですが、彼女のアルバムを作って出したら、マックスが「これは良いレコードだから海外でも出そうよ」と言ってくれて、アジア各国やアメリカも含めた海外で発売出来ました。それからハクエイ・キムというジャズ・ピアニストもこのレーベルからリリースしました。

あとチック・コリアとはビクター時代の1985年からの長いお付き合いの中で、今でもアルバム制作に関わっています。日本からの企画で発売した2014年の「トリロジー」というアルバムは、結果グラミー賞を2部門も獲ることになりました。世界的にも御高評を頂いたので、第2弾「トリロジー2」を昨年暮れにリリースしました。

ーー 2014年からはコンコード・ミュージック・グループの日本でのコンサルタント業務をなさっていますね。

靑野:はい。コンコードは最後の最大手のインディペンデントレーベルと言われているんですが、海外のキーマーケットにはコンサルタントを置きたいというコンコードの意向があって、すでにその時点でドイツとイギリスにはいたのですが、日本にも、となったときに「靑野はどうだろうか?」とマックスがレコメンドしてくれたようです。コンコードは、世界的にユニバーサルとディストリビューション契約を結んでおりますので、ユニバーサルとの付き合いは今もずっと続いているんです。

ーー ユニバーサルにとってもビジネスになるってことですよね。

靑野:コンコードは、その昔はジャズのレーベルとしてスタートしたんですが、どんどん事業を拡大していって、スターバックスと提携してポール・マッカートニーと契約した事は大きな話題になりました。今は総合レーベルというか、ポップ・ロックレーベルなんですよね。去年はボズ・スキャッグスやジャーニーのスティーブ・ペリー、そしてエルビス・コステロの作品をリリースしました。今年はサンタナの移籍作が控えておりますし、日本が世界に誇るジャズ・ピアニストである上原ひろみさんの新作も期待出来そうです。

因みに私がビクター時代に関わったファンタジーレコードも今はコンコードの傘下なので、不思議な縁を感じますね。こうした世界の音楽業界の寡占化がどんどん進んで行き、パッケージメディアの変遷とノンパッケージへの移行が加速化して行った時代の真っただ中にずっと身を置いてこられた事は、本当に貴重な体験で、自分の大きな財産になっているかと思っております。

 

ジャンルを超えた才能に関わりたい

ーー パッケージが売れなくなってきた日本も、いずれはサブスク的なものに変わっていくと思うんですが、こういった新しいサービスについてはどうお考えですか?

靑野:昔からテキスト情報がない音楽ってどうも嫌で、やっぱり楽曲に紐付いた詞であり、作家であり、プロデューサーであり、もちろん音楽が全てを語るんでしょうが、そこに紐付いたテキスト情報ってものすごく面白くて、関心があるんですよね。もちろん音が聴ければいいという意味ではサブスクもいいんですが、やはりテキスト情報と一緒に音楽を聴きたいし、語りたいしと思うので、正直ほとんど使っていないです。

ーー アメリカのPandoraなんかは、そういうレコードの情報というか、クレジットも出てきますよね。スマホ上に出てくるだけですから、文字は小さいですけど、情報がないわけではないです。

靑野:なるほど。

ーー ただApple Musicには出てこないですし、歌詞がせいぜいだと思いますが。

靑野:そうですよね。

ーー 例えば、エンジニアが誰だとか、ミュージシャンが誰だとか、もう一切分からない。必要とされないと言えばそれまでですが、それはミュージシャンの団体とかみんな言っていますよね。

靑野:例えばビリー・ジョエルの「素顔のままで」を取っても、あの間奏の素晴らしいアルトサックス・ソロがフィル・ウッズと知れるから楽しいし、面白い。

ーー いわゆるバックミュージシャンの質も、このままではどんどん落ちるんじゃないかっておっしゃる方もいますね。

靑野:ただ、私もラジオでコルトレーンを聴いてジャズに目覚めたわけで、まず音楽が伝わることが第一義ではあるでしょうしね。そういう意味では、音楽と出会う機会がかつてないほどある状態はいいことだと思います。その上で、それを作った人たちの情報も伝えたいし、一緒に語りたいなと思いますね。

ーー でも今の20代とか、ほとんど洋楽を聴かないですよね。

靑野:パッケージで言えば、洋楽のシェアは1割ですものね、ピーク時には3割近くありました。売り上げも、90年代半ばには1,600億円台あったんですが、昨年は200億円を切ってますから8分の1です。もちろん全体がシュリンクしていますが、それにしても洋楽の落ち込みは残念ですよね。

ーー 音楽というか、エンターテインメントを志す者にとってはなかなか厳しい時代ですよね。法則が見えないですし、みんなで模索しなくてはいけない。

靑野:そうですね。いつの時代も何をすれば成功するという公式はありませんからね、特にソフトをビジネスにしている以上。「360度」ビジネスってよく言いますが、当たり前の話ですが、その円の真ん中にはやはり音楽があるわけで、それの開発なくして360度もないわけですからね。そのことについては石坂さんともよく議論しました。ユニバーサルはどういう方向に進むべきか?って。しかしあれから10年以上経ちましたが、ユニバーサルは藤倉社長のもとで急成長していると聞いて幸いです。

ーー 石坂さんは「良い音楽を作ればまだまだ売れる」っておっしゃっていましたよね。「良い音楽じゃないから売れないんだ」と。

靑野:いつも「良い音楽と正しいマーケティングだ」と語っておられました。「朝9時に集まれ」って言われて、石坂さんのその正しいマーケティング講義が始まるんですね。毎回テーマがあって、例えば「ユニークな楽曲タイトル」だったら、奥村チヨの「恋の奴隷」をGENELECのラウドスピーカーでかけて、「この曲がなぜ画期的か? 奴隷という言葉を初めてタイトルにつけたんだ。こういうことを君たちは考えなさい」って朝の9時から。

ーー あの曲を朝の9時から(笑)。

靑野:2曲目は美川憲一の「お金をちょうだい」。「これだけインパクトのあるタイトルを考えられるか」と。

U2に『How to Dismantle the Atomic Bomb』というアルバムがあるんですが、直訳すると「原子爆弾を解体する方法」って意味なんです。そのときは、原題のまま読み下しで「ハウ・トゥ・ディスマントル・ジ・アトミック・ボム」ってしたら、石坂さんが「『Dismantle』って英語、誰が分かる? 誰も分からないだろう!」と。とりまとめをやっていた私が怒られました。「原子心母」の人ですからね。

ーー (笑)。

靑野:とにかく石坂さんとはたくさんやり合いましたが、石坂さんの「良い音楽ありき」みたいな強い信念は、月並みかもしれませんがこれからも大切にしていきたいなって思うんですよね。どんな時代になっても。

ーー 最後になりますが、靑野さんの今後の展望をお聞かせください。

靑野:やはり制作に関われる部分は出来る範囲で関わっていきたいですよね。これまでの経験を活かしてアーティストの発掘やマーケティングをやっていきたいです。

ーー ジャンルはジャズですか?

靑野:そうですね。ただ、あいみょんみたいな個性的なシンガーだったり声の持ち主だったり、才能というのはジャンルを超えて無限の可能性があると思いますし、そういう才能に関われたらいいなと思っています。

今、韓国のMoonという女性シンガーのアルバム制作を進めていますが、彼女の声は絶品で、ジャズをベースにしながらもジャンルを超えた魅力も持ったアーティストだと思います。

現在、日本におけるジャズ音楽のさらなる振興と日本人ジャズ・ミュージシャンを応援する目的で一昨年に発足した社団法人日本ジャズ音楽協会の理事役を、ビクター時代の大ボス佐藤修さんのもとで務めております。私と同じニューオルリンズ・ジャズ愛好家の佐藤さんの秘蔵LPコレクションを頂けるとあって、こちらの仕事にも気合が入っております。

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