第162回 株式会社リットーミュージック 取締役 國崎晋氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」はオノ セイゲンさんのご紹介で、株式会社リットーミュージック取締役 國崎晋さんのご登場です。少年時代にラジオやシンセサイザーを通じて音楽に興味を持った國崎さんは、大学時代に演劇活動に熱中。卒業後は書店、オーディオ・ビジュアル系の出版社勤務を経て、リットーミュージックの『サウンド&レコーディング・マガジン』(以下『サンレコ』)編集部へ。編集長を20年間務め、ミュージシャンやエンジニアへの取材を通じての制作現場レポートや、機材使いこなしのノウハウなど多数の記事を手掛けられます。同時にライブ・レコーディング・イベントの開催やレーベル運営、アーティストのプロデュース活動も開始。現在は多目的スペース「御茶ノ水Rittor Base」を通じて新たな企画に取り組む國崎さんにお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽よりもテクノロジーに惹かれた少年時代
ーー まず、前回ご登場頂いたオノ セイゲンさんとのご関係からお伺いしたいのですが。
國崎:『サンレコ』編集部に入った直後だと思うんですが、ムーンライダーズの岡田徹さんのソロアルバムのエンジニアリングをセイゲンさんが担当されていて、その取材で初めてお会いしました。もちろん、それ以前からセイゲンさんの存在は知っていました……僕は清水靖晃さんの作品がすごく好きだったので、そのエンジニアリングをやった方という印象が強かったですね。
ーー 取材で会ってから30年ですか。
國崎:そうですね。『サンレコ』編集部に入ったのは1990年なので。
ーー そこからずっとオノ セイゲンさんとのご関係は続いているわけですね。
國崎:はい。セイゲンさんはエンジニアの中でも常に新しいことを手掛けるタイプですので、興味は尽きませんね。
ーー ここからは國崎さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?
國崎:横浜の戸塚区です。家は保土ヶ谷駅と戸塚駅の間くらいのところにあって、今は東戸塚という駅がありますが、僕が子供のころはまだなかった……すごく田舎でしたね。普通の人がイメージする横浜とは全く違って田んぼや畑ばかり。今、東戸塚ってハイソな街として知られているらしいですが、昔はそうではなかったです。
ーー 東戸塚には何年か前に行ったことがあるんですが、大きなショッピングセンターが駅前にあって、ビルもたくさん建っていました。
國崎:そうですよね、タワーマンションもずらっとあって。
ーー どんなご家庭でお過ごしになったんですか?
國崎:いわゆる普通のサラリーマン家庭、典型的な核家族ですね。サラリーマンの父親がいて専業主婦の母がいて、弟と僕の2人兄弟。特殊なことはなにもないです。ただ、父親は結構海外赴任が長かったんです。オーストラリアとかニューヨークとか。
ーー それは単身赴任ですか?
國崎:そう、連れて行ってくれなかったんです。よく経歴で「親の仕事の都合で幼少期は海外で過ごし」って書かれているものを見かけますが、残念ながらそう書けなくて……「なんでウチは連れて行ってくれなかったんだ〜!」って今でも思います (笑)。
ーー 帰国子女になれたかもしれない(笑)。
國崎:そうそう、帰国子女で英語もペラペラだったのに…とか思いますけど、実際は日本で母と弟と3人で生活していました。
ーー ちなみになんで連れて行ってくれなかったか聞いたことはあるんですか?
國崎:両親は健在なんですが、未だに聞いてないですね。のちに僕も仕事でニューヨークに行くようになって、父とニューヨークの話をすると、現地の話を生々しく話してくれて、「ああ、一人でニューヨークを楽しんでいたんだな」と思いました(笑)。
ーー (笑)。ご家庭の中で今のお仕事につながるようなことはありましたか?
國崎:父がエンジニアだったので、わりと理系な雰囲気はありました。結局、僕も弟も文系的な仕事に就いちゃうんですが、小学生のころはラジオの自作をしたりしていました。僕が子供のころって、そういうのが流行っていたので、それこそ『ラジオの製作』という雑誌を読んで、秋葉原で部品を買って半田づけしていました。
シンセサイザーとの出会い〜冨田勲、クラフトワーク、YMO
ーー 國崎さんはどちらかというとテクノロジー寄りだったんですね。
國崎:そうです。ですから、『ラジオの製作』を読んでいるうちに、シンセサイザーというものを知るわけです…電気で音を奏でる機械があるんだ〜みたいな。だから音楽に目覚めるより先にシンセサイザーに目覚めました。
ーー ビートルズを聴いて音楽に目覚めた…とかではないのですね。
國崎:ええ。僕が小中学生の頃ってハードロック全盛だったんですよ。キッスやエアロスミス、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンの人気がすごかったですが、当時の僕にはうるさい音としか思えなくて(笑)…そんなときにシンセサイザーで作られた音楽と出会うんです。冨田勲さんとか、エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)ですね。
ーー エンジニアっぽいですね。
國崎:はい(笑)、電気技術の興味としてのシンセサイザーで、そこからの音楽でしたね。
ーー ということは自分で楽器をやった経験はあまりないんでしょうか。
國崎:全くなかったです。小学校のときに母親に「ピアノ習う?」って言われたんですが、当時はピアノは女の子がやるものだっていう風潮が強かったので、「習いたくない!」って。もちろん後で後悔するんですけど(笑)。
ーー ちなみにシンセサイザーを買われたりしたんですか?
國崎:いや、さすがに小学生のころは高くて買えないですから、自作記事とかを見て「いつか作ろうかな」と思っていました。当時のシンセサイザーって壁一面のMOOGとかですから、そもそも自分で買うという発想もなかったですし、音楽をやるという発想もなかった。
その後、中学のころにクラフトワークの音楽に出会って、冨田さんとは違うシンセサイザーの使い方にびっくりしたんです…「一体どうやってこの音楽は作られているんだろう」って、見当も付きませんでしたが。
高校に入学するころにYMOが出てきたんですが、最初はあまり好きではなかったんです。「クラフトワークの真似じゃないか。しかもクラフトワークよりかっこ悪い」と思って。でも、そうこうしているうちにYMOが世界進出を目指して、アメリカやイギリスでライブをやるようになって、そのテレビ中継を観て衝撃を受けたんですよ。
ーー なにが衝撃的だったんですか?
國崎:彼らはシンセサイザーを手で弾いていたんです。それまでの僕にとってシンセサイザーは自動演奏させるものであって、冨田さんにもクラフトワークにも手で演奏しているというイメージはなかった。でも、テレビで観たYMOは手で弾いていたので、自分でも俄然シンセサイザーを弾いてみたくなったわけです。
それで高校1年生のときにアルバイトしてシンセサイザーを買って、感化された友達と「一緒にYMOのコピーバンドやろうぜ」と。ピアノを弾いたこともないのに一生懸命『ライディーン』のメロディーを弾けるよう練習しました。
ーー 文化祭に出て演奏したり?
國崎:はい。ただ、通っていた高校が、文化祭を2年に1回しかやらないというすごく悲しい学校だったんです。3年に1回だったらまだ分かるんですが、2年に1回って謎ですよね。
ーー 人によって2回やる人もいれば1回で終わる人もいる?
國崎:僕は1回で終わる人だったんです。他の高校はみんな楽しそうに毎年やっているのに、僕らは1回しか舞台がなくて……。基本、お祭り好きなのですごく寂しくて、こんな高校は早く出て、すぐにでも大学に入りたいと思っていました。
ですから、高校のときはバンドもやりましたけど、現役で大学に合格するためにひたすら勉強しました。当時は、大船駅の近くに代々木ゼミナール大船校というのがありまして、浪人生と一緒にそこで勉強して。
ーー 現役中から予備校で勉強していた。
國崎:はい。高校の勉強だけでは絶対に現役で受からないと思って、とにかく毎日高校を早く上がって、代ゼミの、なるべく浪人生が受けている授業を一緒に受けていました。
ーー しっかりしていたんですね。
國崎:当たり前ですけど、高校の先生からは不評でしたよ(笑)。高校2年生くらいのときに「現役で大学に受かりたいので、受験に関係ない授業のときは別の科目の勉強をしますから」ってはっきり言ったんです(笑)。さすがに先生もそれを認めるわけにはいかないけど、まあ黙認でしたね。
演劇で学んだことだけで30年間乗り切れている
ーー そして上智大学に現役で合格されますが、学部はどちらですか?
國崎:学部は文学部の哲学科というところです。今思うと、相当変わった人ばかりでしたけど。
ーー なぜ文学部だったんですか?
國崎:「小説家になりたい」という漠然とした夢があったんです。ミュージシャンになれるとは思えなかったですし、音楽の仕事とかも全く考えたことはなくて、当時は「小説家になりたい」と思っていたんです。だから文学部や心理学部で教養を身につけて書き始めるといいんじゃないかと。
ーー 書くことにはすでにそのときから興味があったんですね。
國崎:あったし、根拠のない自信もあったんでしょう…今は書くことがすごく苦手ですけど(笑)。
ーー そうなんですか?(笑)
國崎:書いていますけど、本当に苦手だなって思います(笑)。
ーー (笑)。大学生活はいかがでしたか?
國崎:楽しかったですね。最初はバンドをやろうと思っていたんですが、同級生から「劇団に入らないか?」と誘われたんです。演劇はすごく好きでしたし、僕が大学に入った頃は、野田秀樹さんの夢の遊眠社をはじめとする小劇場出身の劇団が人気だった時期で、東京の大学に通ってそういう新世代の演劇を観るのが楽しかったんです。なので、大学のときはずっと演劇をやっていました。それこそ僕はそこで学んだことだけで、この30年間乗り切れている気がしています。
ーー 演劇から学んだことが多かった?
國崎:人前に出て喋る、間合いを計るとか、あと、お客さんを飽きさせないとか。雑誌編集の仕事を始めてしばらくしたときに「なんか似ているな」と思いました。原稿を書くにしても、芝居を作るのと一緒で、導入があって、ちょっと転換があるとか、飽きさせずに時間を共有してもらうノウハウは大学時代の演劇活動で学んだと思います。
ーー 大学のときは演じることだけじゃなくて、脚本を書いたり演出したりしていたんですか?
國崎:脚本も書きましたし、演出もしましたし、俳優もやったし、それこそ音楽を作ったり…なんでもやりました。そのときの仲間は優秀な人が多くて、プロの演出家になった人もいますし、プロの照明家になった人もいます。照明をやっていたヤツは、音楽関係の照明会社に行って、今はフジロックで照明をやったりしています。コンサートに行ってちょっと変わった照明を見たら、案の定、彼の仕事だったり。そういう人間と大学で知り合えたのは面白かったですね。
ちなみに『ロッキングオン』の山崎洋一郎さんも上智なんです。学年も一緒ですね。『ロッキングオン』の編集長と『サンレコ』の編集長が、早稲田じゃなくて上智だったってなんか不思議だなと思いましたね。
ーー 山崎さんとは学生時代に面識はあったんですか?
國崎:山崎さんも学生のとき演劇をやっていたんですが面識はなかったです。ただ共通の知り合いがいたので存在は知っていましたし、『ロッキングオン』に入ったという話も聞いていました。とにかく上智の演劇からは色々な人が出ていますね。
ーー これは私の個人的な印象なんですが、演劇の人って難しい話するのが好きじゃないですか?
國崎:あ、しますね。自分なんか哲学科でさらに演劇やっていましたから、そういうのは大好きでした(笑)。まあ、当時はニューアカの時代ですから、みんな哲学書を読んで…と言ったら言い過ぎかもしれませんが、そういう雰囲気でした。
ーー アカデミックな学生だったと。
國崎:でも80年代ですから、ある種の軽さもあるんですよね。60年代〜70年代的な、吉本隆明がどうとか、もちろんそういうのが好きな人もいたんですが、僕は世代的に浅田彰さん以降ですから、もっと軽い感じで、やっている演劇も小難しいものではなくて、いかにばかばかしいものを作るのかってことにフォーカスしてました。
ーー コメディですか?
國崎:そうですね。まあ、コメディ的な作品を作るに至るまでには色々な挫折がありました。シリアスな舞台を作ろうとしても全然受けなかったりね。当時、パフォーマンスブームというのがあって、如月小春さんがすごく面白い舞台を作っていて、それに影響を受け、自分たちでもやろうとするんですが、如月さんのようにかっこよくできなかったり。
ーー 大学4年間は演劇に費やしたんですか?
國崎:ずっと演劇です。ただ、音楽も好きで、劇団のメンバーもほとんどが音楽をやる人間だったので、結局劇中でバンドをやるんです。
ーー 劇中にバンドを出す(笑)。
國崎:そう、すぐにバンドを出す (笑)。そのバンドでレコーディングして、ソノシートを作って、それが次の芝居のチケットになっているという…考えてみると今っぽいですよね、握手券付きCDみたいな(笑)。チケット代が1000円でソノシートが付いていて、これは劇中で使われる音楽だからみんな聴いておいてねと。
ーー ちなみに同世代の演劇人で有名になった方はいらっしゃいますか?
國崎:ほぼ同世代なのは有頂天のKERAさんですね。KERAさんは有頂天というバンドをやりながら、芝居の方でも成功されました。スタンス的には本当に同じですよね。あの時代は演劇も音楽も両方やる人は多かったと思います。残念ながら自分には音楽でも演劇でもKERAさんほどの才能はありませんでした。
編集者としての基礎を作った音元出版時代
ーー 大学卒業後の進路についてはどう考えていたんですか?
國崎:当時から「学生劇団だからやれている」という思いがあって、職業にはできないなと考えていました。仕事にしてしまって商業的なプレッシャーを受け、好きな芝居が作れなくなるのは嫌だったのでやめました。
ーー 今もやりたいと思わないですか?
國崎:たまに思ったりしますけど、芝居って拘束時間が長いのと、ものすごく人数がかかる芸術フォームなので、なかなか厳しいですよね。その点、音楽は自宅録音で色々作れからいいですよ。なので、卒業したら音楽だけやっていこうと。それこそ当時から『サンレコ』を愛読していましたから。
ーー 『サンレコ』を買っていたんですか?
國崎:ヘビー読者でした(笑)。そもそも最初にシンセサイザーを買う頃に『キーボード・マガジン』が創刊されてずっと読んでいたんですが、その後に『サンレコ』が創刊され、読み漁るようになった。それで自宅録音だったら働きながらでも音楽を続けられるなと。だったら、なるべく暇な仕事に就こうと考えました。
ーー 余暇で音楽をやろうと。
國崎:現実にはそんな甘い話ではなかったですけどね(笑)。僕は大学のときに西武百貨店で売り子のアルバイトをやっていて、販売業って割と性に合っていると思ってたんです。なので、本も好きだから書店に勤めよう、ということで八重洲ブックセンターに就職したんです……実はものすごく大変な世界だってことはそのときは知らずにね。数ある書店の中から八重洲ブックセンターを選んだ理由は、日曜が定休だったからという甘い考えからです(笑)。
ーー 確かにあのあたりって会社員しかいないですもんね。
國崎:はい、しかも当時は東京にしかお店がなかったので地方に飛ばされることもないと。「これは最高だな」と思って就職しました。ひどいですよね(笑)。
ーー 店頭には立ったんですか?
國崎:最初は仕入れをやって、半年くらいで売り場ですね。そんな短期間で異動になるのは珍しいんですが、文庫と新書の売り場を新設するにことになって色々な部署、色々な年次の人間を集めてチームが作られたんです。まあ、その異動はまだ理解できたんですが、その後、またすぐに一番忙しい売り場へ異動という内示が出て、「何だかなー」って思って、後先考えずに辞めちゃいました。就職前に考えていたのとは全く違い、毎日仕事で疲れ、家に帰っても音楽を作るどころじゃなかったんですよね。
あと、もうちょっと自分が好きなことに関する仕事に就きたいとも思いました。もちろん本屋さんの仕事は好きでしたし、接客も好きだったので、本屋さんの仕事がダメってことではないんですが、やっぱり音楽のことを忘れられなかったんですよね。それで書店を辞めて、スタジオに入ろうと思ったんです。
ーー それはレコーディングスタジオですか?
國崎:レコーディングスタジオとかMAスタジオとか、あとは音効さんとか、そういう仕事ができたら楽しいなと。求人情報誌を毎週買って、そこに載っているスタジオに履歴書を送るんですが、片っ端から落とされるんですよ。書類も通らない。
ーー 多分スタジオの側から考えると「畑違いの人が来ちゃったな」みたいな感じだと思いますよ。
國崎:今だったらそれが分かるんですが、当時は「なぜ面接にも呼ばれないのだろう?」と思いました。そんな中、あるスタジオが面接に呼んでくださったんですよ。その面接の席で「色々なスタジオを受けているんですが、書類すら通らないんです」って話したら、面接官の方が「それはね、学歴が高いからだよ。アナタのような人が来る業界じゃないから」って言われて、「えー!」って(笑)。学歴が高いのが不利になることがあるんだと衝撃を受けました。それで仕方がないから出版社でも受けてみるかなと思って、受けてみたらすぐに受かっちゃったんです。
ーー それがリットーミュージックですか?
國崎:いや、音元出版という『オーディオアクセサリー』などの雑誌を出しているオーディオ・ビジュアル系の出版社です。今だから告白しますけど、音元出版の本は全く読んだことなく、失礼なことにちょっと練習みたいなつもりで受けたら、すぐに決まってびっくりしました。
ーー 仕事は忙しかったですか?
國崎:そうですね。ただ、「この人の背中を見て仕事を学びたいな」と思える、知識も技術にも長けた先輩たちに出会えたので幸せでした。編集や取材の仕方、あとタイアップ記事の作り方を学べたのは本当に大きかったです。先輩から「編集者というのは、タイアップ記事が作れるようになって一人前だ」とよく言われました。タイアップというのは、読者も、クライアントも両方満足させなくてはいけないからすごく難しい。それができるようになったら一人前だと。
▼後半はこちらから!
第162回 株式会社リットーミュージック 取締役 國崎晋氏【後半】