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第164回 ミュージシャン 山本恭司氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は宮脇精一さんのご紹介で、ミュージシャンの山本恭司さんのご登場です。島根県松江市に生まれた山本さんは、超反抗期の少年時代を経て15歳でギターを始め、18歳でヤマハ・ネム音楽院に入学。その頃より天才ギタリストとして注目され、在学中にBOWWOWのリード・ギタリスト、リード・ヴォーカリストに抜擢。日本のロック・シーンをリードしていきます。その後VOWWOWを結成しロンドンをベースにヨーロッパ、アメリカで約4年間活動、イギリスでチャートインするなど海外での評価も高く、海外の有名アーティストへも影響を与えました。現在も、その幅広い音楽性で、多様なジャンルのアーティストたちとのセッションやライブでリスナーを魅了し続ける山本さんに、43年に及ぶキャリアのお話から、プロとして大切にしている信念までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

超反抗と映画『ウッドストック』

──前回ご登場いただいた元ヤマハ〜現在ゼンハイザー・ジャパン代表の宮脇精一さんとはどのように出会われたんですか? 

山本:僕は82年くらいからヤマハのエンドースをやっていて、それ以来ヤマハとはずっと関係があるんですが、宮脇さんと知り合ったのは、デジタルレコーダーがきっかけですね。僕はカセット4chができたころから宅録を始めていて、とにかく新しい音楽機材に興味があったので、宮脇さんを紹介していただき、色々な機材をプレゼンしてもらったんです。で、それとは別に時間が経ってからなんですが、宮脇さんがマウンテンというバンドのカバーバンドをやっていることがわかり、この話はご存知ですか?

──はい。直接伺いました。

山本:実は僕自身もマウンテンのトリビュートバンドみたいなのをやっていたんですよ。ですから話も合ったりして、例えば、浜松で僕が毎年やっている『弾き語り・弾きまくりギター三昧』というイベントのオープニングを宮脇さんたちのマウンテンのトリビュートバンドにやってもらって、そこに僕も参加してセッションしたりしています。一緒にやっている動画がYouTubeに上がっていますよ(笑)。

──つまりミュージシャン仲間ですか?

山本:そうですね。最初はレコーダー仲間、宅録仲間だったんですけれども、いつの間にか(笑)。宮脇さんって体格も声もレスリー・ウェストにすごく似ていますからね。それで結構レスリー・ウェストみたいに歌えるんですよね(笑)。

──(笑)。ここからは山本さんご自身のお話を伺いたいのですが、島根県の松江市ご出身だそうですね。

山本:はい、生まれてから高校いっぱいまでは島根の松江市ですね。

──どんな幼少時代を過ごされたんですか?

山本:父親は県庁職員で、母親は僕が小学校いっぱいくらいまでは山本花屋という花屋をやっていましたので、母と祖母はずっと花屋にかかりっきりで、姉が2人いたので上の姉によく遊んでもらったり、同級生とか近所の友達と毎日、日が暮れるまで遊びまくっていましたね。それで下の姉が小学生のときから、ずっとバイオリンをやっていて、日曜日に寝ていると隣の部屋で練習しているんです。ですから僕の音楽の原体験というか、音楽を意識したのは姉のバイオリンだと思います。

それで一番最初に聴いたレコードは、上の姉がかけたビートルズ「ロック・アンド・ロール・ミュージック」でした。これは大人になってから分析したんですが、姉の物悲しいヨーロピアンなヴァイオリンの音色と、姉のかけたビートルズ「ロック・アンド・ロール・ミュージック」のロックビート、それが自分の中に入って、今の自分を作ったんじゃないかなと思います。僕は結構泣きのメロディーとかウェットなロックが好きなので、すごく影響されているなと。

──お姉さんたちとは何歳違いですか

山本:5歳と10歳ですね。それで末っ子の長男だったので、結構甘やかされていた部分もありましたし、同時に親からかなり過干渉だった気もするんですよね。やろうと思っているのに先回りしてやられている、言われる。それだから超反抗が始まりましてね(笑)。僕は一生反抗期だって自分でも言っているんですが、今は「反抗させてくれたこと」に感謝していますね。

親離れはものすごく早かったですし、当時よく言われていた「親子断絶」ぽいところまでいってたような気がします。今はめちゃくちゃ仲良いですし、大人になってから親孝行はしているんですが、子供の頃はきちんと口もきかないし、本当にここまで反抗するか?っていうくらい反抗して、正直言って悪い子でしたね。家には僕がいるから姉は「外に出たい」「下宿したい」って言うくらい家の中でも荒れているし、中学のときは毎日朝礼の後、職員室で授業が始まるまでずっと正座するのが日課(笑)。

──なんでそこまで怒られていたんですか?

山本:いや、本当にくだらないイタズラだとかそんなことばっかりやっていて、それを告げ口されたりとかして(笑)。で、中三のとき度が過ぎることまでやってしまって、生活指導で体育の先生といういわゆる学校で1番怖い先生が心労で倒れちゃったんですよ。要は僕が迷惑かけた女子の父親が校長室に怒鳴り込んできたんですよ(笑)。それで保健室のベッドを囲んで学級裁判まで開かれるくらいな感じでした。でも今から思うとその先生も逮捕されてもいいようなことを僕にしましたね。職員室で鼻血がボタボタ落ちるまで殴られ、さらに座らされて髪は結構全部ハサミで切られちゃいました。終いには連帯責任で僕のクラスが全員坊主にさせられました。

──それはたわいもないイタズラなんでしょう?

山本:たわいもないことですよ、あんまり言いたくないけれども(笑)。別に今でいうセクハラみたいなことじゃないですよ(笑)。でもそれに関しては、その女子に同窓会で会ったときに「恭ちゃん、あのときは本当にごめんね。うちの父が止めても止めても『学校に行く!』って言って校長室に怒鳴り込んで…」ってすごく謝られました(笑)。

僕は早生まれですごく身体が小さかったので、そういったコンプレックスもありましたね。特に中2の途中までは背の順でも1番前か2番目くらいで本当に小さくて。だからなんとなく「チビ」って感じで馬鹿にされ、家でも何か押さえつけられみたいな感じがあり、別に親も悪気があってじゃなくて愛だと思うんですが、こっちからすると「うるさいんだよ!」っていう感じだったんですよね(笑)。

──3月生まれっていうのは小学校6年位までは影響残るらしいですからね。肉体的にも精神的にも。

山本:ええ。中1のときはまだ140センチ位までしかなかったですからね(笑)。それでそんなコンプレックスや家でも学校でも「言うこと聞きなさい!」みたいなストレスがあったから家ではちょっと荒れたり、学校でのイタズラで笑いをとって目立とうみたいなところがあったかもしれないですね。それで中学で体操部に入ったんですよ。その体の小さいところを逆に武器にして。だから体育だけは成績がぐんと上がって、それまで体育は一番苦手で、かけっこも女子に全くかなわなかったのが、いつの間にか「恭司、見本をやれ!」って言われるようになってね。そこで少しずつ自信がついたところで、中学を卒業する頃に映画『ウッドストック』を観まして、僕の人生を変えるほど衝撃を受けたんです。

──映画『ウッドストック』には色々なアーティストが出ていますが、一番影響を受けたのは誰ですか?

山本:The WhoとかTEN YEARS AFTERとかに1番ビビビっときました。ギターを弾いてジャンプしていたり、そういった動いている姿を初めて観ましたからね。それまでちゃんと聴いていたのは軽いポップスですし。で、学校の理科室の机の上でホウキを持ってThe Whoの真似をして、ジャンプを決めたときに「あー、この気持ちよさはなんだ!?」と思ったんですよ。持っているのはホウキでしたけど(笑)。そうしたらその快感がどんどん自分の中で盛り上がってきまして、「ギターをやってみたい」と思うようになりました。

実は家にマンドリンがあったんですよ。マンドリンとバイオリンは同じチューニングで、姉が両方やっていたのでマンドリンでコピーを始めて、そのうちにガットギターが親戚の家に眠っているのを知り、それを借りてきて弾くようになりました。だからずっと単音リフを繰り返していて、後はだんだんソロをコピーするようになったんです。

 

 

ギターを始めて1年で海外の一流ギタリストたちを完コピ

 

山本恭司 ライブ

──いきなりソロをコピーしたんですね。 

山本:そうです(笑)。それで高校に入ってすぐにすごく安い中古のエレキギターを手に入れて、まだその頃はエフェクターという存在を全く知らなかったので「なんかペンペン変な音がするなぁ。なんでロックの音がしないんだろう?」って思いつつ、ステレオのマイクインに挿せば歪むから「かっこいい」とか(笑)。そんなことを同級生の家に集まって少しずつやるようになって、そこに佐野史郎もいたんですよ。

──それまでは単音弾きだったんですね?

山本:そう。それで佐野がコードを弾いて。佐野は中学のときからフォークギターをかき鳴らしていました。

──佐野さんとは高校で一緒になったんですか?

山本:高1で。佐野は小学校のときからフォーク・クルセダーズとか観に行ったり音楽的にすごく早熟でしたからね。僕はこうやって単音で弾いていると佐野がジャラーンって。「それはなんだ?」って聞いたら「コード」って。で、色々なコードを15歳の頃に佐野に教えてもらいました。

──佐野さんの家は代々続いている医者のお家だと聞いたことがあります。

山本:それはそれは立派なお家で。1メートル近い横幅のレコードプレイヤーがオーディオルームに3台ありました。初めて行ったときびっくりですよ(笑)。そこで初めて聴かせてくれたのが遠藤賢司さんです。あの頃の僕はちょっとでもロックと名が付けば、どんな音楽にも興味を持ったんです。例えば、テレビでも後ろのバンドの人がこうやってギターを弾いていると、そこを一生懸命「映らないかな」って注目するし、クロスビー、スティルス、ナッシュ & ヤングにしても、ピンク・フロイドしても、とにかくロックって付けば無条件に、貪欲に聴く。「誰かなにか持ってない?」って貸し借りの時代ですから、借りたらなるべく全ての曲をコピーしてから返していました。

「ディープ・パープルがバッハの影響を受けて」とか読んだりすると、「バッハとは何ぞや?」と、バッハのオルガンのLPとかを借りて、ギターに置き換えてみたりとか。自分のバンドのギターソロでバッハの「トッカータとフーガ」をやったりとか色々なことをやっていましたね。

──それ全て耳コピでやるんですよね? 耳コピってそんなに簡単にできるものなんですか?

山本:実は簡単にできていたんです。なぜかというと小学校の3、4年くらいに1年半から2年くらいヤマハ音楽教室に通っていたんですよ。足踏みオルガン。電子オルガンでもなく、足踏みオルガン(笑)。だからドレミの感覚だとかそういったものは身についていたんですよね。

──絶対音感はあるんですか?

山本:いや、絶対音感はないですが、音を聞き取る力みたいなのはそのときに身についたんだと思います。それで高校でギターを始めて、エレキギターにのめり込んでコピーし始めたら、その当時一流と言われた海外のアーティストの演奏が高校1年のときにかなりできていたんですよ。

──たった一年で!?

山本:リッチー・ブラックモアとかジェフ・ベックとかを1年目でかなりそっくりに弾けていたので、「僕、もしかしてすごいかもしれない!」と思って(笑)。何よりもギターを弾いているのが楽しかったのが大きかったと思います。コンプレックスを持って、何をやっていても馬鹿にされていた僕が、ギターを弾くとみんなからちょっと尊敬されたりとか「すごいね!」とかなんか一目置かれるような感じになって、自分に自信がついたんですよね。

2年上のよその高校の番長みたいな人もギターをやっていて、そこの家に行って、「ちょっと恭司、お前弾いてみ?」ってブルースのB.B.キングのレコードをかけられて、その上でアドリブをバーッて弾いたら、途端に他のやつにはキツイことを言うのに、突然丁寧な言葉遣いになって(笑)。だから「一目置かれちゃったんだ…ギターってすごい武器になるな」と思ったんですよね。

──それに気付いちゃったんですね(笑)。

山本:すごい武器になるなと思ったんです。ドラクエじゃないですけど、これはどんどん武器をレベルアップしたほうがいいなと思って、ますますレベルアップに向かっていくわけですよ。

──その頃って一日何時間くらいギターを練習していたんですか?

山本:学校以外はほぼずっと弾いていました。

──食事をしているか、ギター弾いているか、寝てるか?

山本:ご飯食べているときもギターを持っていました。だから噛んでいる時間は弾いていました。箸を置いてピックに持ち替えて、テレビを観ながらアドリブを弾いて。

──それは苦痛じゃないんですよね?

山本:苦痛じゃないんです。それが嬉しくてやって。

──本人は努力とは全く思っていない?

山本:思っていない。だからこの年齢になるまで、ギターを練習して「苦痛」だとか「あー疲れた」っていう言葉を今まで1度も使ったことがないです。

で、そうやって高校のときにギターが武器になるということを知ったし、それが自分にとって快感にもつながるようになって、もっともっとのめり込んで演奏して、今度はそれを人前で演奏する快感を覚えていったんです。あの頃はフォークブームだったので9割方フォークコンサートだったんですが、C、F、Amとかそんな世界でしたから聴かないでもアドリブでできちゃう。だからとりあえず「最初のコードだけは教えてください」って聞いて、「じゃあイントロ弾きますから」って言って、更に間奏でワーッと弾かせてもらったりとかね。

どこかでライブがあるというと、エレキと小さいアンプを背負って行って、楽屋に押しかけて行って、「すみません、絶対ちゃんとやりますから今日一緒にやらしてください」ってお願いして。で、一緒にやった人たちが僕のことを広めてくれて、みんな受け入れてくれるようになりました。だから松江のアマチュアコンサートでは僕が出ないコンサートはなかったくらいです。これはもう半分冗談だったんですが、チケットに「山本恭司の出ないコンサート」ってわざわざ仮の段階で書かれたことがあるくらい(笑)。でもそれは1番の武者修行でしたね、人前でやるという。

──人前でやるのが一番上達する?

山本:人前で恥をかいてもプラスになるし、うまくいったらまた自信になってプラスになりますからね。あるいは誰かとセッションするのも大きいです。セッションをやるというのは、相手の心を読まなきゃいけない。セッションというのは言葉を使わなくても、意思を音で伝え合うということをすごく学べる。だからいまだにセッションとかプロミュージシャンなんかの現場でも、結局は僕が仕切り屋になっているんですよ。

──そういう意味ではずっとなんですね。

山本:そうですね。だからいろんなジャンルの人たちとやって、最初はやっぱりちょっと恐怖感というか不安もありましたが、でも結局みんな同じだなって。

──ギターにのめり込むことで、荒れた生活は収まっていったんですか?

山本:はい。高校2年ぐらいの頃から楽しくて、自分が解放されて、性格も本当にめちゃくちゃ穏やかになりました。人を傷つけようだとか、要はストレスを持っている部分が全部音として外に出ていきました。表現として。だからすごく穏やかに変わっていったと思います。ガラッと180度変わったと言っていいくらいです。

そんな自分を救ってくれたギターでもありますし、本当にギターを愛していましたから、ギタリストという職業があるんだったら、是非、自分もなりたいと思いました。通っていた高校が進学校だったので、最初は東京の大学に進学して軽音楽部とかに入って、プロとしてのチャンスを探そう、それが多分1番いいなと思っていたんですが、高校3年の途中で僕の友達が、突然ネム音楽院(現:ヤマハ音楽院)のパンフレットをポンッと僕の机の上に置いたんです。「恭司、この学校知っているか?」って。僕は音楽の学校ってクラシックしかないと思ったんです。だからそのパンフレットを見て、その日から「もうここに行く」って決めちゃいました。

でも、親が堅い公務員ですから高3の終わりくらいまでずっと「公務員になれ」って言われてたんです。しかも僕はすごくやんちゃだっただけに「音楽だなんて何かわからん世界に進むなんて、絶対道を踏み外すに違いない」って思われたんでしょう。ギターばっかり弾いてた僕に信用なんて全くなかったですから(笑)。

 

「ギターで日本一になる自信はあるのか?」ネム音楽院〜BOWWOWへ加入

 

ミュージシャン 山本恭司

──ご両親はギターのテクニックに関してとか、そういった音楽的な才能に関して評価してなかったんですか?

山本:というか、僕がテレビに合わせてアドリブで弾いていてもわからないでしょう? もちろん僕の高校時代のライブを観に来たことは一度もないですし、そんなことでお金が稼げるとは夢にも思ってないですしね。音はうるさいし、まだエレキ=不良の時代だったのでいい顔なんて一つもされないですね。

──今だってプロのミュージシャンになるって言って、理解してもらうのはなかなか大変ですよね。

山本:しかも、大学進学を止めてこっちに行くと。僕は人生で初めて「頼むから大学じゃなくここに行かせて欲しい」と頭を下げました。もちろん入学金とかいろいろかかるので、そこはお願いするしかないなと。

で、最初はやっぱり反対されたけれども何度もお願いしたら父親が「このままだったらこいつ、家出してでも何かやっちゃいそうだなぁ」と多分思ったんでしょうね。「恭司、例えばこの学校に行って、その後ギターで日本一になる自信はあるのか?」って1対1で聞かれたんですよ。そんな真面目な話、僕は父親となんてしたことがなかったですから、ちょっと売り言葉に買い言葉みたいな感じになって「絶対になるから!」って言ったんですよ。「わかった。じゃあちょっと俺がその学校に行ってみるわ」って言って本当に三重県まで電車で行って、学校の校長みたいな人と会って詳しくいろんな話を聞いて、帰ってきたんです。で「色々と様子を見てきたし、一度話をしてきてちゃんとした学校なのはわかったから、行かしてやる」って言ってくれたんです。

──いいお父さんですね。

山本:本当に子供の頃から反抗ばっかりしていましたけど、今から思うと両親はすごく愛情を注いでくれたんです。それは大人になってから一人でちゃんとやるようになってからいろいろ反省して「ひどかったなぁ」と。

──お父様は今でもご健在ですか?

山本:いや、父親は3年前に亡くなったんですが、95歳まで生きてくれたんで。最後はすごく応援もしてくれました。実は父親とはライブで共演しているんですよ。父親は95歳の年の12月に亡くなったんですが、その年の2月のライブでハーモニカを吹いて、僕がアコギで「ふるさと」を一緒に演奏しました。

──素敵な思い出ですね。

山本:父親との約束もBOWWOWでデビューして3年後か4年後くらいに『ミュージックライフ』のギタリストの人気投票で1位になって果たせました。

──お父さんは何か具体的にアドバイスを言ってくださったことがあるんですか?

山本:僕に対してアドバイスみたいなものは正直言って記憶にないですね。反抗期の頃に親がなにか言うと、つい口答えしちゃていたので、「こいつには言っても無駄だな」って思っていたかもしれないですね。でも、本当に無言の愛というか。

──お父さんは影で相当自慢しまくっていたんじゃないんですか?

山本:多分そうだと思います。知らない若い人に向かって「君はBOWWOWって知っているかい?」って(笑)。「なんでそんな80も超えた人がBOWWOWって知っているの?」「いや、うちの息子が山本恭司で」「えー!」って(笑)。そういうのを父親は楽しんでいたみたいです(笑)。

一(笑)。自慢の息子だったってことですね?

山本:そういうところで孝行はできたんですかね。

──ネム音楽院って寮生活だったんですか?

山本:そうです。学校は2年間なんですが、1年半くらいのときに僕はBOWWOWにスカウトされたんですよ。BOWWOWを作ったプロデューサーがウチの学校にギタリストを探しに来たんです。

──BOWWOWって最初はハードロック・バンドじゃなかったんですよね? 

山本:ええ。当時ベイ・シティ・ローラーズが大人気だったので、アイドル路線のバンドを作る予定で、モンキーズみたいに集められたメンバーで作られたバンドがBOWWOWです。僕はBOWWOWの3番目のメンバーで、先にもう1人のギターとドラムが決まっていたんです。僕がオーディションを受けたときは彼らも見ていましたし。

──それは半分力量とルックスと…?

山本:彼らに関してはルックスのみで、正直演奏はとんでもなく下手でした。僕はすでにその頃学校ではクロスオーバーといわれるフュージョンとか、変拍子か何からガーッとやっていたので、そういった曲をオーディションで演奏して入れてもらったんですが、初めて彼らとセッションをやったときに、すごくアマチュアっぽいふわっと演奏をしたので「あれ」って。

それでも彼らに惹かれたのはそのルックスからくるというか、もうすでにテレビに出まくっていたオーラです。「格好良いなぁ、この2人」って。本当にかっこいいなって思ったんですよ。僕は高校生の頃から割と教える立場だったので、「もしかして教えればちゃんとできるんじゃないかな」と思って、セッションしたその日から「こういう練習やったらいいよ」って第3のメンバーなのに教え始めました。そうしたら彼らはすごく真面目で、一生懸命練習してあっという間に覚えたんです。飲み込みも早いし「これは大丈夫だ」って思いましたし、「僕にはないスター性を持っている2人だから、僕もそういったところは学なきゃいけないな」とも思いました。

──教え、教えられの関係だったんですね。

山本:そして僕が松江時代に1度だけ会った、違う音楽学校に行っていたベーシストを呼んで4人が揃って、そこから虎の穴のような地獄の合宿に入るわけです。最初はスタジオでちまちま週2回くらいにやっていたんですが「ちょっと追いつかないな」と思って、山奥に電気を仮設で引いたプレハブ小屋を借りて(笑)。本当に何もないところで、小屋の上が養豚場だったのでそこで毎日20リットルのポリタンク2個に水を入れて持ってきておいて、それで顔を洗ったりしていました。それで9時に起きたらまず1時間はそばにあった沼のほとりにそれぞれ散らばってメトロノームと基礎練習するとか、僕が全部課題を出すんです。その後ご飯を食べて、体力作りを兼ねて沼にあった結構大きいボートを漕いだり、毎日、腕立て伏せの回数を1回ずつ増やしていったり、あと腹筋にランニングをするとか。

──本当に体育会系の合宿ですね。

山本:昼間は3、4時間ずっと曲を作ったり、アンサンブル練習をやって、それで晩御飯で1時間休憩して。で、またちょっと休んだら寝る前もまた2時間くらい練習で、日曜日は休みなんです。普通はプロデューサーとかそういう人がそういうことを仕切るんでしょうけど。

──食事の支度は誰がやるんですか?

山本:食事の支度はツアーマネージャーがやっていました。ツアーマネージャーは寝床がないので押入れに布団敷いて寝て、本当にタコ部屋です。もう交通手段すらない場所で、一応楽器車のハイエースで三日に一回近くの街の銭湯に行くくらいで、街とかニュースを聞くとかはそのハイエースで聴くラジオだけですよ。後は何にもない。テレビもラジオも何もない。そこにまだ10代の僕らが2、3カ月篭もったんです。

──爆音を出しても大丈夫な環境だったんですか?

山本:夜中3時でも大丈夫です。3段積みのアンプをガーンっと出しても大丈夫。それくらい田舎で、あと仮設トイレがあったので農家のおばちゃんが「肥料にするから、ちょっともらっていいかい?」って全部汲んでくれるわけです(笑)。その代わり野菜をくれたりとか。

──やはりその合宿は成果がありましたか? 

山本:地獄の特訓じゃないですけれども、それだけの合宿をやったので、みんなすごく上手くなりました。
 

BOWWOWでデビューしてすぐエアロスミスとキッスのオープニングアクトに

 

山本恭司 ライブ

──その間に曲作りもされたわけですよね?

山本:ええ。僕がほとんど9割方書きました。歌は(斉藤)光浩が半分までではないけどやっていました。というか「僕はボーカルができないんで」と言って入ったんですが、途中から「恭司も歌え」っていうことにもなって。

──山本さんが入ったことでオリジナルコンセプトとはずいぶん変わっちゃったんですね。

山本:そうですね。最初はすごくポップで、ファーストアルバムはその両方が出てとてもポップな明るいキャッチーな曲もあったんですけどね。

──最初は「レコーディングもスタジオミュージシャンでいいよ」みたいな感じじゃなかったんですか?

山本:(笑)。だったかもしれないですね。プロデューサーからすればね。

──ご自身ではバンドのメンツが揃ったらこういうバンドにしようというイメージを明確に持っていたんですか?

山本:僕はやっぱりハードロックをやりたかったんですね。だからどんどんそっちの方向に持っていって…。

──お金を出したかどうか別にして、やっていることは完全にプロデューサーですよね。

山本:だったかもしれないですね。ファーストアルバムを作っているとき僕は20歳だったんですが、ビクターのプロデューサーは笹井(一臣)さんという元ヴィレッジ・シンガーズの方だったんですが、初日か2日目に大きくぶつかっちゃいましてね。

阿久悠さんが歌詞を書いてくれた曲があったんですが、セリフがあったんですよ。例えば、西城秀樹だったら「好きだ!好きだ!好きなんだよ!」みたいな(笑)、そんなセリフがありまして、それは僕じゃなくて光浩が歌う曲だったんですが、「それやめてくださいよ」「いや、せっかく阿久悠さんが書いてくれたし」って、本当に喧嘩っぽくなって、笹井さんもさすがに怒ってレコーディングの3回目から来なくなっちゃいました。それで阿久悠さんの詞もやめました。

今から考えると阿久悠さんに申し訳ないんですけど、違う歌詞で進めて、もちろんセリフはなしで録音しました。本当に生意気でしたね。笹井さんには大人になってから「あのときは生意気で本当にごめんなさい」って六本木で偶然会ったときにちゃんと謝っておきました。

──発注のコンセプトが全然違っていたのでしょうね。

山本:そうなんですよ。向こうは「よりポップな」というところが残っていたんですよね。それはデビューアルバムの「WITHERD SUN」という曲なんですよ。そのときは違うタイトルがあって、阿久悠さんが書いた歌詞もいまだに覚えています。「不良だと指をさされたよ 遠い夏のひだまり」だとかなんだかそんな感じの歌詞で(笑)。

そして、デビューしてすぐエアロスミスとキッスのオープニングアクトをやらしてもらいました。それで外タレのファンにもちょっと認知され始めたんですよ。当時BOWWOWのようなハードロック・バンドって日本にはあまりいなかったと思いますし、そういった外国のバンドとの垣根をちょっとだけ崩すことができたかなと思いますね。だからそういう現象を見て、そのときの制作プロデューサーが「セカンドはとことんハードロックで行こう」みたいな。だから2枚目の『SIGNAL FIRE』はかなりガーンとハードロックだったんです。

──エアロスミスやキッスと一緒にやってみて、やっぱりすごかったですか?

山本:すごかったです。最初はちょっと馬鹿にしていたんです。馬鹿にしていたっていう言い方はあれですけれども、それほど大したことないんじゃないかと思っていました。レコードを聴く限りは。実際にエアロスミスの1発目が前橋で、多分彼らも時差ぼけとかあったからかもしれないんですが、「BOWWOWのほうがよかったんじゃないの?」って自分たちで思いましたし、前座なのにファンがガーッとステージに押し寄せてきたんですよ。で、その後のエアロスミスがどちらかというと静かな印象だったので、ちょっと調子乗っちゃったら、その次の武道館があまりにもすごくて、「これは歯が立たない」って思いました。で、さらにキッスってあんなメイクをしているし、僕はちょっとキワモノ扱いしてるところもあったんです。他のメンバーはキッスが大好きだったんですけれども。

──パッと見、キワモノに思いますよね。

山本:共演する前のインタビューでそんなことをしゃべったら、ノーチェックで掲載されちゃって、本当にキッスのファンからカミソリ入りの封筒が送られてきたんです。ところがキッスのライブを観た初日に僕も大ファンになっちゃいました(笑)。あまりにも素晴らしくて、かっこよくてね。

キッスの音楽って本当にライブのために作られているんですよね。ライブでどれだけ効果的に観客をノせるかってためのアレンジですし、ギターソロもそうですし、そのときに叩き込まれたというか、思い知りましたね。僕たちは観客のことをあまり考えず、自分たちだけでいい気になって、ちょっとだけ人気が出たからといって調子に乗っていたんですよね。だから20歳のころにそんな鼻っ柱をへし折られるような、ちょっと痛いような素晴らしい体験をさせてもらって本当に良かったなって思います。

──それを20歳で体験できるって、普通に考えてできませんよね。

山本:そうですね。そこはウドーの人や周りの人たちも同じような雰囲気を持った日本のハードロック・バンドってところで認めてくれたんじゃないかなと思うんですけどね。

──83年に“B”のBOWWOWは一回終わるわけですよね。その原因はなんだったんですか?

山本:斉藤光浩がハードロックというよりは、よりロックンロール色の強いものが好きで、光浩の根本にある部分だったんです。BOWWOWに入る前のアイドルバンドでデビューするきっかけも彼はキャロルの事務所でボーヤ、今で言うローディーからですし、キャロルのようなロックンロール系のものが大好きだったんです。

だけどBOWWOWがどんどんハードロックになっていたでしょう? で光浩はやっぱりどこかにロックンロール色っていうのは引きずっていて、石橋凌のARBに誘われたときに、自分が発揮できるのはこっちじゃないかなって行っちゃったんです。でもね、すごい時期だったんですよ。BOWWOWは82年にイギリスの「レディング・フェスティバル」で5万人を総立ちにして、翌年は全英ツアーをやっていますからね。「よし、毎年俺らはイギリスのツアーに行けるぞ!」っていう時期に光浩が辞めるという。

とにかく「レディング・フェスティバル」はすごかったんですよ。日本の音楽評論家の人たちは「昼間の2番目ってみんなビールを飲んで寝っ転がっていて誰も聴いちゃいないよ」って言っていて、確かに最初はみんな寝っ転がっていたんですが、だんだん人が立ち上がり始めて、コールアンドレスポンスにも応えてきて、最後は5万人総立ちで楽器を全部片付けてもBOWWOWコールでした。

──歓声が収まらなかったんですね。

山本:そう。だから「レディング・フェスティバル」の主催者が僕らの楽屋まできて「あの声を止めてくれないか? 次のバンドができない」って(笑)。盛り上がったのはすごく嬉しかったですが、「えぇっ…」と思って、僕がメンバーを代表して一人でステージに上がったら「ウォーッ」って5万人が盛り上がっているんですよ。1対5万という(笑)。鳥肌が立つような、一瞬信じられないような感じで、「サンキュー!」って言って帰ろうとしたら、また「ワーッ」って言うからもう一回マイクのところに戻って「イエーッ」って言ってみたんです。「イエーッ」「イエーッ」。それがYouTubeに上がっている動画の最初の冒頭のシーンなんです。

──1対5万ってすごいですね…。

山本:それも全く無名の日本から来たバンドが、それだけの評価を受けた上で1対5万ですからね。もともと有名な人が出ての「イエーッ」とは違うんで。あれは本当に自分の人生の中で最も感動的な瞬間といっていいです。それが映像に残っているのがまた嬉しいですね。いつでもそのときの気持ちが蘇る(笑)。だから翌年全英ツアーもできたんです。でも、全英ツアーで「よし、これから」っていったときに光浩の脱退という。ちょっとついていないですよね。

──そのときは相当落ち込まれましたか?

山本:いや、僕はなんでもポジティブに考えられる性格なんです。光浩が「明日、そっちに行っていいかな?」って電話してきたんですよね。それまでずっと一緒にやってきましたけど、そんなことって一度もなかったんです。「ちょっと話をしたいんだけど家行っていいかな」って。そのときちょっと察しましたね。でも、どこに入るかじゃなくて「光浩はもしかしてBOWWOWをやめるっていうんじゃないか」と。

翌日に家に来たんですけれども、その間に僕は色々なケースを予想して「どうしようか?」って考えていたんです。「多分、光浩はやめるって言う気がする、どうする? 引き止める? それとも受け入れる?」と。で、僕は光浩と会ったときから光浩のBOWWOWでの立場も知っているし、光浩はどんな人よりもBOWWOWを一番考えていた。だから、本人がとことん考えた上での決断だったら、それはもう尊重するしかないなって、自分の中で決めていたんです。

だから光浩が「実はARBというバンドに誘われている。そっちに行かしてもらえないかな?」って言ってきたときには、素直に「それは光浩が誰よりも考えて出した結論だろうから、僕はもう言うことはないからいいよ。頑張ってな」と言って送りだしました。本当にすごく短い時間で、握手して別れました。一応決まっていたスケジュールも2カ月くらいはあったので「そこまではちゃんとやろう」っていうことで。

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