第165回 ミュージシャン 野呂一生氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は山本恭司さんのご紹介で、ミュージシャンの野呂一生さんのご登場です。小学校時代に特殊な音楽の授業でその基礎知識を学んだ野呂さんは、中学時代にギターと運命の出会いを果たし、その才能を開花させます。カシオペアで出場したアマチュア・バンド・コンテスト「イーストウエスト」では2年連続でベストギタリスト賞を受賞し、79年アルバム『CASIOPEA』でデビューすると、その作編曲の能力と演奏力で高い評価を得て、カシオペアは瞬く間に人気バンドとなります。また、本格的な海外活動を開始し、多くの国々で演奏を繰り広げ、海外のファンも魅了しました。カシオペア第一期・第二期、カシオペア活動休止以後のINSPIRITS、そしてCASIOPEA 3rdと現在も精力的に活動を続ける野呂さんにギターのことから、カシオペアの活動、そして東京音楽大学における指導のお話までじっくりお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
基礎になった小学校時代の特殊な音楽教育
──前回ご登場頂いた山本恭司さんとはいつ頃からのお知り合いなんですか?
野呂:恭司さんはヤマハのネム音楽院のご出身で、僕もヤマハの人たちと結構交流があったので、そういった関係で出会いました。ですからもう30年…いやもっとかな、デビューぐらいからの知り合いでしたね。
──全然ジャンルの違う音楽をやっていらっしゃるので、どこで接点があったのかなと思っていたんです。
野呂:僕はイーストウエストとかも出ていましたので、そういうところで縁があって、随分前から恭司さんのことは知っていたんです。以前、対談みたいな取材がありまして、そのときに初めて色々な話をしたんですけどね。
──山本恭司さんにはどんな印象を持たれていますか?
野呂:40年経っても全然変わらないなっていう感じです(笑)。ある種頑固な人ですよね。自分の道を一筋に歩いてきた人だと思います。
──お互いの演奏についてお話したりすることもあるんですか?
野呂:最初の対談のときに「新しい奏法とかある?」とか、そういう話をした覚えがあります。その後、何度かライブハウスのセッションとか、そういうところでご一緒したことはあるんですが、特にギタースタイルの話とか、そういう話はあまりしないです。してもしょうがないみたいなところはありますから(笑)。もう「お互いのスタイルで」っていうね。
──ここからは野呂さんご自身のお話をお伺いしたいのですが、お生まれは東京の目黒だそうですね。どのようなご家庭だったんですか?
野呂:実は生まれて1歳になる前に父親が亡くなってしまいまして、母の手一つで育ちました。父親が亡くなったときに、祖父母が青森から上京してきて、近くに住んで。ですから、父の面影はほとんど分からないですね。写真でしか知らないです。
──ご兄弟は?
野呂:姉が1人います。父が亡くなってから、母親が教員の免許を持っていたので、教師として学校に勤めていまして、「先生の息子」ということで割と待遇はよかったですよ(笑)。小学生で親が先生というと、自分と共通した子どもみたいなとらえ方をしてくださる先生が多くて、そういう意味で割と気楽に過ごせた子ども時代でした。父親が亡くなったというのを知らずに育っていますから、寂しいとか劣等感とかそういう感情も全然なかったので、むしろよかったかなと思っています。
──その時代にミュージシャンとしての今に繋がるような環境はあったんでしょうか?
野呂:一番大きかったのは小学生の頃の音楽の先生の教育の仕方ですかね。公立の瀬田小学校というところに通っていたんですが、小学2年生から音楽室で専門の授業があって、そこでずっと調音とかやらされたんですよ。また和音も教わりまして、展開系の「ミソド」「ファラド」「ソシレ」とか、第一展開系、第二展開系っていうところまで教わりました。
──小学校では珍しいですよね。
野呂:ええ。非常に特殊な教え方をしていただいて。黒鍵にも名前を付けて、「ドデレリミファフィソサラヤシド」って、1オクターブで教わったんですよ。ですから今でもそういう読み方をたまにしちゃいます。これはシャープやフラットの感覚が、発音でできるというやり方だったんです。それで小学校を卒業するまでに、ほとんどの基礎知識は学べたんですよ。給食のときも、週に1回は音楽室でクラシックを聴きながら給食を食べるとか(笑)、そういう環境でした。本当にそれは今の自分の基礎になっていると思います。
──でも、習っていたみんなが音楽を分かるようになったわけではないですよね?
野呂:そうですね。転校をしてくる生徒は、その授業についていけなくてすごく困っていましたね。ということは、やはり我々がやっている授業というのはすごく特殊なものなんだなという。作曲家の話でもストラヴィンスキーあたりまで、色々な話を聞きました。「クォータートーンというのがあって…」とか、そういう話を(笑)。中学、高校と進むにつれて、小学校で素晴らしい音楽教育を受けていたんだなということが本当によく分かりましたし、中学、高校ではほとんど学ぶことがありませんでした。「それ、小学3年でやった」みたいな感じで(笑)。
──(笑)。小学校の頃、楽器は何を演奏されていたんですか?
野呂:小学校時代はハーモニカ、縦笛、横笛、あと木琴もやりました。ピアノも授業で3曲ぐらいは課題曲を演奏することがありました。
──音楽は最初から好きでしたか?
野呂:好きというよりも、そうやって教わったので「これを活かして、色々できるかな」というような感じでしたよね。ただ、僕は小学生の頃はマジシャンになりたかったですよ(笑)。マジシャンとミュージシャンって単語は似ていますけど。
──(笑)。
野呂:ですから、和音、ギターで言えばコードになりますが、その基礎知識というのが小学生の頃にあったので、コードという概念を覚えるのがすごく簡単だったんです。作曲法もそのとき教わって「作曲の基礎はA、A’、B、A’が基礎だ」と。一種の文法を教わっていたということですね。
──聴くほうはクラシックが中心だったんですか?
野呂:クラシックが中心でした。うちの母親も音楽はすごく好きだったので。あと祖父が昔バイオリンをやっていたんです。結局みんな教員になっちゃったんですが、そういう関係で家にあるレコードというと、チャイコフスキーやベートーベンとかそういうものでしたね。祖父がレコードを集めるのが好きな人で、蓄音機でSP盤を聴いたりもしていました。
──普通の子みたいに野球やサッカーといったスポーツへの興味はありましたか?
野呂:スポーツは全然興味がなかったんですよ(笑)。唯一床運動、マット運動ですね、バク転とかそういうのはすごく興味があって、オリンピックで体操競技とか見るとなんかワクワクしていました。それで中学に行ってから側転からバク転、バク宙で終わるみたいな、そういう練習はやりました。
人気者になりたくてギターに興味を持つ
──ギターとはいつ出会われたんですか?
野呂:中学ですね。でも、物心ついたぐらいの頃に、家の押し入れにギターがあったんですよ。それは亡くなった父が持っていたギターらしいんですが、ボロンって鳴らしてみたり、それがギターとの最初の出会いで、2歳、3歳くらいのときだったと思います。しばらくしたら、そのギターは親戚にあげちゃったらしくて「どこいっちゃったんだろう?」という感じだったんですけどね(笑)。
それで中学に入って、中学2年生ぐらいのときにフォークギターを学校に持ってきて、滅茶苦茶人気を得ている友達がいて(笑)、「あれ? ギターってそういうものなんだ」と思ったんですよ。そういえば小学5年生の夏休みだったかな? 夏休みの工作でギターを作ったんです。誰にでも作れるギターセットみたいなものがあって、確か1,500円ぐらいだったと思うんですが、それを通販で買って組み立てて、小学生ですから水彩絵の具とニスで仕上げて。
それを思い出して「そういえば俺もギター持っているわ」と思って、うちに帰って弾いてみたんですが、音が全然違うんですよね。フォークギターはスチール弦ですからジャーンという音がするんですが、僕のギターはガット弦だったんで、ボロロンという音で「そうか、ギターはギターでも違う種類なんだ」とそのとき分かりました。「ギターといっても色々な種類があるんだな」と。
──エレキギターの存在も知っていた?
野呂:もちろんエレキギターもテレビや映画を見て知っていましたから「いろんな種類があってすごく不思議なものなんだな」という感覚はありました。ギターを持ってきて人気者になっているやつの仲間と言ったらおかしいんですが「俺もギターで仲間入りしようかな」みたいな(笑)。そんな不純な動機でしたね。
──ギターで人気者になりたい?(笑)
野呂:ええ(笑)。それでギターを弾きだしました。小学生ぐらいのときに作ったギターで「禁じられた遊び」だけは弾けたんですが、よくよく聞いてみたら「コードっていうのがあって」と、押さえ方をいっぱい教わっているうちに「なんだ、和音のことか」と(笑)。それから先は「こういう押さえ方をしたら、こういう和音が出る」という考え方でコードをどんどん覚えていきました。
それで中学3年くらいのときに「フォークギターよりもエレキの方がいいな」という感じになっていたんです。それでフォークギターに、廃品になったエレキギターのピックアップを着けて、ジャーンって小さいアンプで鳴らしたりしていたんですが、やはり「ちゃんとしたエレキギターが欲しい」という気持ちになり、友達から「お兄ちゃんが昔使っていた(サイケデリックな)ギターがあるんだけど、500円で買わない?」と持ちかけられて(笑)、「買った!」って。紙袋で持って帰ってきました。
──サイケ時代のギターを紙袋に入れて(笑)。
野呂:そうそう(笑)。当時、A-Rockというロック・コンテストがあって、そういうところにいくとロビーで中古販売みたいなのがやっているんですよ。そこには色々なエフェクターやギターのケースが置いてあって「そういやギターのケースがなかったな」と、ケースを買おうと思って値段を見たら1000円だったんです(笑)。でも「やっぱり買っておこう」と1000円でケースを買って、家に持って帰ったらギターが入らないんです(笑)。ギター500円でケース1000円、じゃあギターを切ろうって。
──ギターを切っちゃったんですか!?
野呂:よく考えないで買っちゃったレスポール型のケースで、持っていたのはストラトっぽい形のギターだったので、ケースに合うように一応丸く削って、塗装も自分で金色のラッカーを塗って、見たことのないギターができあがりました(笑)。
──カスタマイズ(笑)。
野呂:ですね(笑)。
──音に影響はなかったんですか?
野呂:どっちみち音は酷かったんですよ。初めてアンプに繋いだら、ピーピーピーピーハウっちゃって全く使い物にならない(笑)。それで「やっぱりこれじゃ駄目だ」と、小遣いを貯めて買ったのが、トーマスという遠目だとフェンダーに見える安いギターで(笑)。それは通販で買ったんですが、どう見てもベニヤ板なんですよ。これもアンプにつなげてみたら、やっぱりハウっちゃって「やっぱり安いのは駄目だ…」と(笑)。
──やはりそういう失敗はしているんですね。
野呂:メーカーさんが聞いたら悲しむと思うので、あえて言いますけど、別に駄目なギターじゃないんですよ。クリーンな音なら全然オッケーだったんですが、音をひずませると使えなくなっちゃう。だからそういうギターは、ひずませない時代のものだったんですよね。それで初めてちゃんとひずんだ音を出せたのがグレコのレスポールでした。これは高校1年のときにバイトをして貯めたお金で買いました。
──エレキをやるときにはもうロックを聴いていたということですか?
野呂:そうですね、中3ぐらいから。きっかけが中3の夏にグランド・ファンク・レイルロードが来日して、後楽園球場でライブをやったんですが、そのライブを観に行ったんですよ。
それですっかり感銘を受けちゃいまして「これはもうロックをやるしかない」と突然変化しちゃったんです(笑)。そのぐらいの興奮でした。ちなみに中3だったので、ライブには保護者がいないと駄目だと言われて、それで高校生のいとこに付き添ってもらって行ったんですが、今考えると高校生と中学生でも「保護者いるだろ」っていう感じですよね(笑)。
──小学生が幼稚園にお迎えに行くみたいな感じですよね (笑)。
野呂:ロックに限らず音楽全般すごく好きで聴いていたんですが、その中でも「自分がやりたいのはこれだ!」とグランド・ファンク・レイルロードの曲を練習して、野毛の方にあった「青年の家」という世田谷区民だと無料で使える小ホールでグランド・ファンク・レイルロードの曲を披露したのが、人生最初のライブです。
──バンドで?
野呂:ええ。そのときは力関係で「お前ベースをやってくれよ」っていうことになって(笑)。ギターはもう、ちゃんとしたギターを持っている、すごくエレキギターを練習しているやつがいて、あとはドラムと、自分がベースで。
──最初はベースをやらされたんですか。
野呂:そうですね。ただ、グランド・ファンク・レイルロード自体が、ピックで弾くベーシストのメル・サッチャーっていう人だったんですが「ピックでいいんだ!」っていうことで、それでピックでベースを弾いていました。だから普通のベーシストのようにフィンガリングでは弾けなかったんです。それで自分の中では「いつかはギターをやろう」とは思っていたんですけど(笑)。
でもその体験で、低音楽器というものがすごく分かったので、やってよかったなと思っています。高校は私服の高校だったので肩ぐらいまで髪の毛を伸ばして、当時はやりのロンドンブーツとかを履いて、滅茶苦茶派手になっていったんですよ。
──親の反対とかはなかったんですか?
野呂:何も言えなかったんだと思います(笑)。
ギターだけのギタリストにはなりたくなかった
──高校時代はずっとバンド漬けですか?
野呂:バンド漬けです。地元でバンドを作って、高校に入ると中学の同級生だったやつらが別の高校に行っていたので、いろんな高校の仲間と知り合う機会が多くなりましたから、「じゃあみんなでコンサートやろうか?」ということで、グループ・69(ロック)という団体を作って、みんなでお小遣いを出し合って会館でライブをやりました。もちろんスタッフなんていませんから「このグループのときは俺がPAやるから」と持ち回りでPAや照明をやって。
──何バンドぐらい出ていたんですか?
野呂:4バンドか5バンドか、そのぐらいだったと思います。
──そのとき一緒にやった仲間で、その後プロになった人はいますか?
野呂: 1回だけ一緒になったのが、もんた&ブラザーズでギターを弾いていた高橋マコトで、彼は今でもプロ活動をしています。
──和田アキラさんは?
野呂:和田アキラは同じ歳なんですが、グループ・69では一緒にやってないですね。高校生の頃に「別の地域ですごいやつがいる」という話を聞いて、それがアキラだったんです。まだお互いに、インストのフィージョン系なんていうのは全然やってない。アキラとは16歳ぐらいのときに初めて会ったのかな。
あと、Charさんも僕の友達の先輩にあたる方だったので、高校生の頃、Charさんのお宅に遊びに行ったことがあるんです。「すっげー上手いんだよ!」って話で(笑)。だから、今となってはみんな幼馴染みたいなものですよね(笑)。それでグループ・69で何回かいろんな会館を借りてコンサートをやって、その頃はボーカルがいるグループをやっていたんです。ただボーカリストがいると、その人の責任になっちゃうような感じがあったので、やっぱり演奏だけのものをやりたいなと思っていたんですよ。
そうしたらその頃に、ジェフ・ベックが初めてインストゥルメンタルのアルバムを出したりして、「ロックの人でもこういうことをやるんだ!」と、ある種自信を持てたんですよね。それまではインストというとジャズという概念だったので。だから「ロックのインストでもいけるじゃん」という思いはありました。ただ、それと並行して「ちゃんとした知識を持たなきゃ駄目だ」ということで、『ジョー・パス・ジャズ・ギター』というまだ日本語版が出ていない洋書の薄い教則本なんですが、それを買って、いろいろコードのテンション・ノートとかを勉強しました。自分の中では「何か違うことをやりたい」というので、知識もつけたいと思ったんですよね。
──それも高校時代?
野呂:高校時代ですね。
──ジャズを聴き出したのもその頃ですか?
野呂:そうですね。当時渋谷にスウィングというジャズ喫茶があって、そこによく通うようになりました。高校生だから本当は駄目なんですけど(笑)。それで聴いているうちに「ジャズも面白いな」と。「変な音なんだけど合っているんだよね」という感覚があって、それがテンション・ノートだったんですよね。それで教則本を見て「なるほど! そういうことか」という。
──高校生でジョー・パスを弾いていた人なんていたんですか?(笑)
野呂:(笑)。「本を買ったからには本人の演奏も聴かなくちゃ」ということで、モントルーのライブか何かを友達が持っていたので聴いたんですよ。そうしたらソロ・ギターでものすごいことをやっていて「これはすごい」ということで、結構ジョー・パスのスタイルにハマりましたね。
そうやっているうちに、だんだんとテンション・ノートの意味が分かってきて、世の中にはオルタード・スケールやコンビネーション・オブ・ディミニッシュというスケールがあるんだと。それを使うとすごく便利なんだということがまた分かってきまして、そういう知識を総合しつつロックみたいな音で何かやってみたいと思うようになったんですよね。それが今の自分のスタイルの最初のものだったと思うんです。
──まさにフュージョンですね。
野呂:まあ、そうですね。音はロックなんだけど、そういう要素をいっぱい入れたものをやってみたいなと。ただ、あまりジャズ方面のことを友達には言わなかったんですよ。「これは俺の秘密」みたいな(笑)。そうやって自分の中で温めておきたいという気持ちがありました。
──言ったところで理解してもらえないのでは?
野呂:そうかもしれませんね。「ふーん、変なの」で終わっちゃう(笑)。高校3年ぐらいまで、自分だけの世界と、社交的な世界とのダブルでやっていました。
──その頃って1日何時間ギターを練習していたんですか?
野呂:9時間やっていました。
──9時間! 恭司さんに「ご飯を食べている時間と寝ている時間以外は練習していたってことですか?」と聞いたら、「いや、ご飯を食べている時間のうち噛んでいる時間は弾いていた」とおっしゃっていましたが(笑)、そういうレベルですか?
野呂:そうですね。夜通し弾いて学校で寝ていたみたいな。
──腱鞘炎にならないんですか?
野呂:かえってならないんですよ。コンスタントにやっていれば大丈夫なんです。突然9時間やっちゃったら絶対駄目ですけど。
──毎日やっていたら平気になる?
野呂:多分スポーツと一緒だと思うんです。毎日続けるということが故障を防ぐ方法だなという感じはするんですよね。
──9時間の練習を365日、高校の丸3年間やったということですか?
野呂:そうですね。でも、高校2年ぐらいからですかね、本当に9時間びっちりというのは。
──それは自分で目標を決めて?
野呂:いや、だんだん楽しくなっちゃうんですよ。「やめられない!」みたいなね(笑)。
──普通の子は高校2年ぐらいから受験勉強に向かうわけですが、そこでのめり込んでいくわけですね。
野呂:高校に入った途端に成績が下がって、スレスレで卒業できたって感じですよね。とりあえず大学に入って親を安心だけさせるかっていうことで、推薦で大学を紹介してもらって。そのときだけ髪をバッサリ切って、ちょっといい子ちゃん風にして(笑)、面接に行って、略式テストみたいなものもありましたけど。
それで某大学の英語英文科というところに入学はできたんですよ。でも、その頃には「ギタリストになりたい」という気持ちのほうが強かったので、だんだん大学に足を運ばなくなっちゃって、1年の終りに退学しました。もうそこからはギター一筋という感じでした。ただ、英語英文科だったので英語の発音とかを結構よく聞けるようになって、それはそれでよかったかなと思うんですけどね。
──山本恭司さんは「ギターは好きでやっているだけで、あまり努力をしているという感覚ではない」とおっしゃっていましたが、野呂さんはいかがですか?
野呂:ないです。自分の理想を追求するとそうなっちゃう。「こういうのが弾ける自分になりたい」とか「こういうことをできる自分になりたい」とか思っていると、それなりの時間がかかりますよね。ただずっと弾いているというよりも、いろんなことを考えながら「どうやったら効果的にギターを使えるか?」という練習、やり方でした。
自分ではギターだけのギタリストにはなりたくなかったんです。曲も書いてアレンジもしてというような、トータルコーディネートと言うんですかね、そういうギタリストでいたいという想いがそのときからありました。
──音楽をプロデュースする側にも立っていたい?
野呂:そうですね。アマチュアの頃にあるスタジオに呼ばれて、スタジオワークをちょっとやったことがあったんですが、からっきし駄目だったんです(笑)。譜面には「誰々風」って書いてあるんですが、その誰々が分からないんですよ。それで四苦八苦していたら「君もう帰っていいよ」って言われたことがあって(笑)。「あー、駄目だこりゃ」っていうね。「ああそうか、じゃあ雇う側になればいいんだ」という逆の発想です。
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第165回 ミュージシャン 野呂一生氏【後半】