麻田 浩 氏 スペシャル・インタビュー (株)セブンゴッド・プロダクション/SXSW ASIA 代表
MIDEM(仏カンヌ)やPOPKOMM(独ベルリン)と並び称される3大国際音楽産業見本市 SXSW(サウスバイサウスウエスト)。アメリカテキサス州オースティン市を舞台に、新旧・有名無名を問わず4日間に渡りショーケース・ライブを繰り広げるSXSWは、毎年新たな才能を生み出し、年々拡大している一大イベントだ。そのSXSW内に’96年に誕生した「Japan Nite」は、日本の音楽を海外に紹介する民間のイベントとして最長の歴史を持ち、最も集客力のあるショウケースへと成長した。今回はその「Japan Nite」のプロデューサーであるSXSW ASIA代表 麻田浩氏とSXSW ASIA事務局長渡辺憲一氏に、SXSWのこれまでと今後の展望、そして麻田氏のキャリアまでお話を伺った。
プロフィール
麻田 浩(あさだ・ひろし)
株式会社セブンゴッド・プロダクション/SXSW ASIA 代表
1944年 12月25日 横浜生。
1963年 明治学院大学入学後、マイク真木等とモダンフォークカルテット(MFQ)を結成。カレッジフォークを代表する人気バンドになる。(’65年MFQでフェス出演のために初渡米)
1967年 単身1年間のアメリカ旅行。アメリカ各地を回り、ボブ・ディランやジョニ・ミッチェルなど数多くのコンサートを観る。
1968年 黒澤明監督の映画「トラ・トラ・トラ」、勅使河原監督の万博用映画等の助監督を務める。
1971年 CBSソニーからレコードをリリースし、コンサート活動を行う。
1976年 株式会社トムズ・キャビン・プロダクションを設立。以後エリック・アンダーソン、トム・ウエイツやエルビス・コステロ、XTC、トーキング・ヘッズ等のNew Waveアーティストのコンサートなどを数多く手掛ける。
1980年 ジェニカ・ミュージック入社。ゴダイゴ、ルースターズなどのブッキングを担当。
1983年 株式会社スマッシュ設立に参加。再び外国人アーティストの招へいの仕事をする。ザ・バンド、ラウンジ・リザーズ、ドクター・ジョン、ジェームス・ブラウン等を招へい。
1986年 株式会社麻田事務所設立。シオン、コレクターズ、越美晴、ピチカート・ファイブ等のマネージング及び外国人アーティストの招へいを行う。SXSW-ASIAを立ち上げ、日本人アーティストの海外進出を仕事として始める。
1994年 セブンゴッド・プロダクション設立。ロリータ18号、ペティ・ブーカのマネージング及びトムス・キャビンの名前で外国人アーティストのコンサートを再開。現在に至る。
1. 「SXSW Japan Nite」の誕生
——SXSWはどのように始まったのですか?
麻田:アメリカのインディーバンドが全国的に売れない現状を打破するために、インディーズの人たちがオースティンに集まって「どうやったらインディーズが売れるか?」という勉強会を始めたのがスタートのようです。
——それは割とローカルな話だったんですか?
麻田:最初はローカルな話のようですね。その勉強会に同じような悩みを持っていたアメリカ中のインディーズの人たちが集まってきて、その輪が海外まで広がっていったんですね。
——そしてショーケースのようなものが始まったわけですね。
麻田:そうですね。会場は3000人クラスから150人くらいのところまで30以上あって、ここが結構重要なんですが、20:00、21:00、22:00、23:00…と必ず時間頭に始まるんですよ。それで40分ライブをやって20分転換とどの会場でもその時間に始まるので、人によってはその20分の間に会場を移動するんですね。オースティンという街はライブハウスがたくさんあって、しかもメインストリートに20以上が集中しています。
——オースティンはアメリカのどこなんですか?
麻田:テキサス州の州都です。アメリカで2番目に大きいテキサス大学もあって、学生も多いですから音楽が盛んな街ですね。
——街自体はそんなに大きい街ではないのですか?
麻田:そうですね。ジョージ・ブッシュが大統領になる前はここの知事だったんですよ。
——アメリカは広いですがSXSWのようなイベントは他にあまりありませんよね。
麻田:SXSWが始まった頃にニューヨークでNew Music Seminarというのをやっていたんですよ。その当時、僕はピチカート・ファイブをやっていたんですが、日本では全然売れなくて「アメリカだったら売れるだろう!!」と思い、3年間New Music Seminarに連れて行ったんです。他にもボアダムスや少年ナイフも連れて行って、結果的にそれがアメリカのマタドールといったレーベルとの契約に結びついたのですが、そのNew Music Seminarが潰れてしまったんですよ。その当時はどちらかというとNew Music Seminarの方が注目を集めていたのですが、潰れてしまったのでSXSWが伸びたんですね。僕はNew Music Seminarをやっている頃はSXSWに行ったことがなかったんですが、New Music SeminarにもSXSWの人が来ていて、僕らは「Psycho Nite」という日本のショーケースをNew Music Seminarでやっていて、「SXSWでもやらないか?」と言われていたんです。ただ両方はなかなか出来ないのでSXSWの方は断っていたんですが、New Music Seminarが潰れてしまったので(笑)、SXSWにシフトしたわけです。
——それは何年の話ですか?
麻田:9年前ですから、’96年ですね。
——それで「SXSW Japan Nite」を始められたんですね。
麻田:そうです。それで何年かやっていたんですが、アジアのマーケットもSXSWにしてみれば大きいですから、「アジアの統括をやってくれないか?」と頼まれて、SXSW-ASIAを立ち上げました。
——年々日本人アーティストの参加が増えていますよね。最初はどのくらいだったのですか?
麻田:最初は僕がやっていたロリータ18号と、昔から海外でやりたがっていたホッピー神山のバンド、PUGSの2組です。ホッピーとは「Japan Niteみたいなものをやりたいね」と話していたんですが、結果的にその2組しか集まらなくて、最初の年はその2組と北欧のバンドが3組一緒に「International Nite」みたいなかたちでやったんですが、PUGSもロリータ18号もものすごくウケて、会場が満杯状態になったんです。それでPUGSはすぐに契約が出来て、ロラパルーザ(注1)出演まで行ったんですよ。ロリータ18号も評判が良くて、「これはちゃんと日本のバンドを紹介すれば、いけるかな」と思って、翌年は5バンドで「Japan Nite」をやりました。
——その頃は日本におけるSXSWの認知は低かったんですか?
麻田:まだまだという感じでしたね。
——その頃のSXSWは、参加人数はどのくらいだったんですか?
麻田:僕らが最初に行ったときは、参加者が7000人くらいいました。
——参加者が7000人ですか! 凄いですね。
麻田:もう凄いですよ。夜中なんか大晦日状態ですね(笑)。
——期間は何日間で行われるんですか?
麻田:今は4日間です。ただ、日曜日はアメリカの音楽業界の人たちも仕事をしているので、日曜日は帰ってしまうんですよね。ですから木・金・土が一番盛り上がりますね。
——その期間はオースティンのホテルも一杯なわけですね。
麻田:もちろんそうですよ。昼間にセミナーといいますか勉強会があって、夜ライブをやって、それと同時にコンベンションセンターの中ではブースがたくさん出てトレード・ショーが行われます。ライブとセミナーとトレード・ショーが3つの柱ですね。
——このSXSWは民間ベースなんですか?
麻田:そうです。
渡辺:経済効果として30億円規模ですよ。
——30億ですか…。音楽団体とかは協賛しているんですか?
麻田:オースティン市が協賛していますね。あとオースティン・クロニクルという雑誌ですね。
——全米の業界団体や協会とかが協賛しているわけではないんですね。
麻田:大規模の広告出稿や主催コンサートとブースは出していますし、業界のVIPが多数見に来ますけどね。
——SXSWの認知は全米から世界へ確実に上がっていますよね。
麻田:今や世界中から集まってきますからね。
(注1)ロラパルーザ
90年代のオルタナティヴ・シーンの台頭に大きな影響を与えたフェスティバルツアー。
2. SXSWはブレイクの起点!
——ヨーロッパにはMIDEMがありますよね? SXSWはそれと対抗するようなカンファレンスになってきたということですか?
麻田:僕の知っている人の中でも、最近はMIDEMに行かない人が増えてきましたよね。
——SXSWのパワーがMIDEMを越えてしまった?
麻田:音楽業界のダイナミズムは若くて新しい才能の出現ですから、アーティストの演奏を直に見て直に話ができる「場」がSXSWにあるということが決定的な違いです。これは相当にA&Rオリエンテッドなことで音楽ビジネスの原点を意識させられますよ。若さは明らかにSXSWの方がありますし、アメリカであるという部分もありますが、MIDEMよりもドイツで毎年やっているPOPKOMMに近いですね。最近MIDEMは焦っていてライブをやり出したりとか、段々SXSWに近くなっていますね。そもそもMIDEMというのは年に一回集まってお話をしましょうという場だったんですが、今はメールでやり取りが出来てしまうので、1年に1回会って情報交換をする必要がなくなってしまったんですよ。
——確かにMIDEMはライブが中心のカンファレンスではなかったですよね。
麻田:MIDEMのメインは音楽出版ですからね。
——対してSXSWはライブから始まったわけですね。
麻田:そうですね。SXSWは全米やヨーロッパから音楽業界の人が来ますから、「BUZZ」と言ってそこで噂を作ることが重要なファクターなんですね。あとここ何年かで増えてきたんですが、トム・ウエイツ、パティ・スミスといったような大物アーティストがSXSWの前にアルバムを出して、SXSWをプロモーションツールとして使うわけです。SXSWは全米中から評論家やレコード会社、放送関係がみんな集まりますからすごく便利なんですね。トム・ウエイツはエピタフから最初にアルバムを出したとき、SXSWでしかライブをやっていないんですよ(笑)。つまりSXSWでライブをやることによって、全て済んでしまう。
——メディアが集中しているんですからね。
麻田:だからSXSWでやるのが一番効率がいいんですね。最近はそのパターンが多くなっています。
——そういう大物アーティストが出演するのは問題にならないんですか?
麻田:問題はないでしょう。お客さん達も彼らをタダで見られるわけですし、SXSW自体も活気づきますしね。それに対応するように野外ステージを作り始めたんですよ。
——それは盛り上がりますね。
麻田:盛り上がっていますよ。最初にSXSWをプロモーションに使うことを考えた人は、上手いこと考えたなと思いますね。全米中の音楽関係者が集まっているところでライブをやれば、一番効率がいいですからね。だから色々な意味でSXSWの使い方が変わってきたっていう感じもしますね。
——年々規模が大きくなっているんですか?
渡辺:9.11以降少し鈍ったんですが、去年からまた大きくなりましたね。今年は参加者が2万人突破だそうですからね。
麻田:10年前で7000人ですから3倍になっているんですね。
渡辺:オースティンという街はビジネスをするのに適したアメリカの都市ランキングで、毎年トップ3に入る場所なんです。全米ラジオのネットワークと最大手プロモータ会社のSFXを買収したクリア・チャンネルの本社はオースティンにあります。
麻田:オースティンはホテルもどんどん建っているし、ますますコンベンションのやりやすい街になっています。SXSWも最初は音楽だけだったんですが、5、6年前からインタラクティブと映画の3つになったんですよ。
——インタラクティブというとIT系ですか?
麻田:IT系です。実はIT系の企業がテキサスには多いんです。テキサスインストゥルメント社とかDellもそうですね。だからこのあたりは工場も多いですよ。
渡辺:テキサス大学がありますから、いわゆる産学共同体なんですね。
——今やSXSWは音楽、映画、インタラクティブの三つ巴でビッグビジネスになっているんですね。
渡辺:SXSW ASIAは儲からないですけどね(笑)。
——全米中の音楽関係者がどっと集まってくるんですか?
麻田:集まってきますね。一番いい例は、一昨年レコードを出してすぐの頃にノラ・ジョーンズが出たんですが、その時にすごく話題になったんですよ。
——それがブレイクの起点になった。
麻田:明らかにそうですね。そこですごく噂になって、同年にグラミーを獲りましたからね。もちろんグラミーを獲れば一般的な知名度は上がるんですが、音楽業界内での知名度はSXSWで上がったと思います。
——逆にSXSWの知名度も上がりますね。
麻田:もちろんそれもそうですが、ここで話題を作るためにみんながSXSWを利用していますね。
——そうなると日本におけるSXSWの認知度も上げないといけませんよね。
麻田:そうですね(笑)。参加しはじめて来年10年目なんですが、最初の年はPUGSがすぐにレコードディールできましたし、その後幾つかのバンドはアメリカのインディーズからCDを出したんですが、メジャー的な成功をしていないので、来年までに何とか成功させたいなと思っています。そうなれば皆さんの励みにもなるでしょうしね。
3. インディーズの可能性
——日本人アーティストの申込は年々増えてきていますよね。
麻田:増えてきていますね。
渡辺:今年は72テープが送られてきました。
——それをSXSW ASIAで絞り込むんですか?
渡辺:いえ、それはアメリカの本部が絞り込むんです。
——ということは本部には世界中からテープが集まってくるんですか?
渡辺:8000本集まるそうです。
——それを何人で審査するんですか?
麻田:3、4人とか言っていたかな?
——3、4人ですか?! それは大変そうですね。
麻田:すごく大変らしいですよ(笑)。
渡辺:しかもプレッシャーがすごいらしいですからね。
——ということは、麻田さんと渡辺さんが考えていたアーティストと違うアーティストが選ばれたりすることもあるわけですか?
麻田:そうですね。彼らは僕らの聴き方と若干違うんですよね。
渡辺:それが面白いところでもありますね。
——日本ではメジャーなアーティストでも選ばれなかったりとか?
麻田:向こうではメジャーもインディーズも関係ないですからね。
渡辺:ですから全然知らないバンドがトップクラスで入ってしまったりするんですよ。
麻田:つまり何のバックグラウンドがなくてもチャンスがあるということです。
——純粋に音だけで評価してくれるんですね。
麻田:そうですね。
——ショーケース・ライブをやって、世界中の音楽関係者との商談成立の場所を与えるということなんですか?
麻田:そうですね。僕らに関して言えば、ブースを作ったり、サンプラーCDを作ったりしています。このカンファレンスに参加する一般の人は300ドルくらいかかるんですが、色々なものをもらえて、その中にサンプラーCDとか一杯入っているんです。僕らも日本のサンプラーCDを作って、資料と一緒に出しています。
——今の規模だと何枚くらい作るんですか?
麻田:お金を払って参加する人が1万人くらいいるので、その分を作ります。
——海外からも来るんですか?
麻田:ヨーロッパからも来ます。北欧がすごく熱心で、毎年サンプラーCDを入れていますね。
——先日の新聞に「JETRO(日本貿易振興機構)がMIDEMに協力する」といった内容の記事が出ていたのですが、ずっと昔から麻田さんは「日本の音楽ビジネスを世界に広げていくのに、なんで国が力を貸さないんだろう?」と仰っていましたよね。
麻田:というのはフランスでもスカンジナビアでも外貨を稼ぐために国がお金を出してくれているんですよ。フランスの場合は著作権の収入の何%はフランスのアーティストの海外進出のために使いなさい、という法律が確かあるんですよ。
——フランスのJASRACみたいなところが、そういう管理をしているんですか?
麻田:フランス政府の方針のようです。カナダもそうです。フランスの音楽の海外進出はイギリスと違って苦戦しているみたいで。
——言葉の壁ですか?
麻田:それもありますが、音楽的にもフランスはちょっと違うから、なかなか苦労しているみたいで、そこを国家が援助をしているわけです。
——SXSWはJETROからの援助はないんですか?
麻田:今回初めて参加します。何故かというとJETROは今まで物を売るお手伝いをしてきたわけですが、これからは知的財産権というもので日本は生きていかなくては駄目だろうと認識しているためでしょう。
——気づくのがものすごく遅いですよね(笑)。
麻田:そうしたことは外国ではどこもやっていて、アニメもそうだし音楽もそうだろうし、映画もそうです。
——「ひょっとして日本の音楽も可能性があるのでは?」とJETROもようやく気が付いてきたような感じですね。
麻田:特にアニメの音楽はすごく外貨を稼いでいるんです。
——そして今回初めてSXSWにも援助をしてくれるわけですね。
麻田:そうです。ブースを出してくれたり、出演者を紹介するCD付小冊子を作ったりとか大変な協力体制を敷いてくれています。そこいらへんは渡辺の方が詳しいです。
渡辺:何故JETROが支援をしてくれるようになったかというと、麻田さんが先ほど言ったように時代の波ということもありますし、海外に音楽コンテンツを持っていくときにメジャーとインディーズを較べたら、インディーズの方が契約において自由でフットワークが利くので、可能性があるんじゃないか? と経済産業省やJETROは考えているんですね。で、今パッケージを売るより配信も可能だし、配信する際にレスポンスよく反応できるのは、メジャーよりもインディーズの方ですから、ある意味で将来インディーズの方が可能性があるので、海外に音楽コンテンツを輸出する実験場としてSXSWが選ばれたんです。今までSXSW ASIAのブースは4畳半くらいの大きさだったんですが、今年はその4倍くらいの大きさのブースがJETROの参加で出せるようになりました。あと前述のサンプラーCDもJETROの製作です。
——そういう風になるまでに10年近くかかったわけですね。
麻田:そうですね(笑)。
——役人の中にも理解ある人たちがいるんですね。
渡辺:話してみると「大学時代ドラムを叩いていた」とか結構いるんですよね(笑)。
——今後「SXSW Japan Nite」に対してJETROからの支援は増えていくんですか?
麻田:今年やってみてでしょうけど、そうなってくれたら心強いですね。
4. アメリカで売れる条件とは?
——9年もJapan Niteを続けられて苦労も多かったと思うんですが、少しずつ参加者や理解者も増え、状況は良くなってきている今の課題は何だと麻田さんはお考えですか?
麻田:僕らの出来ることはアーティストを紹介することであって、その後ビジネスとしてやっていくのは別問題じゃないですか? それがなかなか難しいですね。
——ビジネスで成功するかしないかは本人達次第?
麻田:本人達もそうですし、事務所だって向こうに行くのにお金がかかりますしね。
——ちなみに、この9年間で一番手応えのあったアーティストは誰ですか?
麻田:自分で言うのも何ですが、ペティ・ブーカというのをやっていまして、去年1枚アメリカのインディーズからCDを出して、4000枚くらい売れたんですよ。今年新しい作品を作って3社くらいからオファーがあって、それを今年の秋に出しツアーをやろうと考えています。あとスプージーズというバンドがいて、「これは行けるだろうな」と思って、向こうでツアーを1回やってCDも出したんですが、解散してしまったんですよね。
——確かにスプージーズはアメリカで売れそうな感じでしたよね。
麻田:実際アメリカでウケたんですよ。惜しかったですね。
——アメリカで通用するには何が必要なんでしょうか?
麻田:レコード会社も言うんですが、年に2回ぐらいツアーをやって、草の根運動みたいな形でお客さんを増やしていくことは、アメリカのインディーズにおいて売れる必要最小限の条件なんです。
——年に2回のツアーが最低条件ですか…。
麻田:それは結構辛いですからね。
——言うのは簡単ですが、やるとなると大変ですよね。
麻田:僕は50日間で45カ所回ったことがあるんです(笑)。アメリカは広いですから下手したら10時間ぐらい車で走るんですよ。向こうはライブが始まるのが遅いですから、終わるのが2時とかそのくらいで、その後にバンドは自分でTシャツやCDを売って、楽器を片づけて、移動の途中にモーテルを見つけて…その繰り返しです。
——寝る時間がないですね(笑)。
麻田:でもライブが始まる時間が遅いですから、それが救いですね。
——その時はアメリカ中を回ったんですよね。
麻田:そうです。車が途中で故障したり大変でした(笑)。
——聞くだけだと楽しそうですけどね(笑)。
麻田:本当に大変ですよ(笑)。10時間の移動といったら日本だとへたしたら東京〜福岡くらいでしょう? ライブが終わって福岡まで移動して、次の日にまたやるんですよ(笑)。それが連日ですからね。
——でも、そういうようなことをみんなやっているわけですよね。
麻田:そうです。
——それをやり通す根性がないと、全米からは出てこれないんですね。
麻田:一時くるりが向こうへ行きたいと言ったので、一緒にツアーを回ったんだけど、彼らもすごく驚いていましたね(笑)。
——物理的にアメリカは広いですからね。まず必要なのは体力ですか(笑)。
麻田:本当にそうですよ(笑)。
——音楽的にいうと受け入れられる日本のバンドの特徴はありますか?
麻田:アメリカはすごくオリジナリティを重視しますから、何かの真似というのは糞味噌に言われてしまうじゃないですか?(笑) だからどこかで自分たちのアイデンティティ、独自性をアピールできるかどうかが重要ですね。一時期ボアダムスや、最近ではmonoというインストのバンドがいるんですが彼らとかが良い例ですよね。あとギターウルフは当初ラモーンズぽかったけれど、何度もツアーをする中でギターウルフという色を自分たちで作ったから、ここまで人気が出たんでしょうね。大体どこへ行ってもギターウルフのことは知っていますからね。
——ゴルフと同じように向こうで勝つには、アメリカに生活の拠点を移して、本気でやらないとそう簡単にはいかないんですかね。
麻田:当然日本のバンドは、日本でも売れないとビジネスとしては成り立たないので、アメリカに誰かが居ればいいと思っているんです。僕も今まで「レコードを出してください」と色々なところへ行きましたが、なかなか上手くいかないんですね。1つは年に二回くらいのツアーですよね。ピチカートをやっていたときも「年の半分はアメリカに住んでくれ」と言われたりするんですが、そこまでしなくてもアメリカにキチッとした会社があって、年間のスケジュールが組めればいいと思うんですよ。ですから僕の次のステップとしては向こうに日本人アーティストを紹介する会社を作ることが必要なのかなと思っています。
5. 地に足をつけて音楽をやろう!
——麻田さんとしては今後どういった方向に持っていきたいとお考えですか?
麻田:これはピチカートをやっている時から思っていたことですが、日本のアーティストをとにかく外国で売りたいという気持ちがずっとあって、それはこれからも続けていきたいと思っています。昔イギリスでニューウェーブが出てきた時にSTIFFとかが何故あんなに上手くいったかというと、イギリス国内で売るのはたかがしれているから、ドイツから幾ら、フランスから幾ら、アルゼンチンから幾らと世界各国と契約をしてお金を集めていたからなんですよ。
——小さい国では商売にならないですしね。
麻田:日本のインディーズは安い制作費でやっているんだから、海外で売れれば元が取れる可能性は大きいですよ。ピチカートなんか日本では2万枚くらいしか売れなくて、そのかわり「テスト盤の帝王」みたいなことを言われて(笑)、ソニー時代なんかテスト盤が業界内で瞬く間に捌けちゃっうんですよ(笑)。その後コロムビアに移籍しても売り上げはたいして変わらなくて、その割に制作費は高いから「これは海外で売れるしかないな」と思ったんですね。僕は本気で「ピチカートが日本で売れるには、海外で売らなかったら一生駄目だ」と思っていました。実際に向こうで売れたら日本での売り上げも15万枚くらい上がったわけですから、そういうことってあるんですよね。みんな僕のことを「趣味でレコード作っている」とか言いますけど(笑)、自分なりの計算があってやっているんです(笑)。もし、あの制作費であの売り上げのままだったらコロムビアもすぐ切られていましたよ。
——そういう考え方でやるとビジネスも広がるということを麻田さんは他の人にも知って欲しいんですよね。
麻田:そうですね。
——でも、誰もやらないからやっているのに「好きでやっている」と思われちゃうからたまらないですね(笑)。
麻田:(笑)。まあ、「日本で生活できなくて何が海外だ!」というのが普通ですからね。でも「日本ではとてもじゃないけど売れないだろうな」というアーティストも確かにいるんです。
——SXSWやアメリカでのご経験を通じて見えてきたことはありますか?
麻田:僕なんか向こうでツアーをやったりしていると、日本の状況に対して「ちょっと違うよな」と思うことがあるんです。例えば、メジャーと契約しただけで新幹線に乗ったり、マネージャーが何人も付いたりとかね。でも日本では結構アイドルだと思われていた歌手が、アメリカでは自分でアンプを運んだりしているわけですよ(笑)。しかもサウンドチェックもほとんどないわけです。でも、それがアメリカでは普通なんですよ。それと同時にレコードを出したら30日間で25ヵ所くらいのツアーを自分で運転して回るといったことは、僕なんかにしてみればレコードが売れていないんだから当たり前だと思うんです。最近日本でもレコードが売れなくなったので、少しそういったことが見直されていますが、レコード会社と契約するとすぐにお金が入って、マネージャーも付いてみたいなことではない世界を見てもらいたいなとずっと思っています。みんなその状況を見ると驚きますからね。
——もっと地に足をつけて音楽をやりなさいと。
麻田:そうです。自分が大好きで崇拝していた人がまさか自分でアンプを運ぶとは思っていないから(笑)、そういう部分では音楽への取り組み方がわかってもらえていると思います。本当にサウンドチェックなんて殆どしないですからね。
——それでもしっかり音を出すんですからね。
麻田:そうですね。アメリカでツアーに行ったら、「本当にこんなところでやるの?」というような場所がいっぱいありますからね。みんなそこでやらざるを得ないわけですし、そこで一人でもお客さんを掴んでレコードを売ってということをR.E.Mとかみんなやってきているわけです。
——日本でいえば売れない演歌歌手がやっていることと同じですよね?
麻田:そうですよ(笑)。
——日本のパンクバンドとかにはそういうやり方をする人たちが増えているみたいですけどね。単独でアメリカに行くバンドも増えていますし。
麻田:ギターウルフはアメリカのバンドと同じスタンスで何年もツアーをして、マタドールと契約できたりとかね。そういうことがわかってもらえたらすごく良いなと思います。
——日本の音楽業界は甘やかしすぎですか?
麻田:そこまで言って良いのかわかりませんが(笑)。売れたらリムジンでも何でも乗ればいいんですからね。そういったことをもう一回ちゃんと見直さなきゃいけないという気運は出てきていますね。
——色々なツケが今日本の音楽業界にのし掛かっているのかもしれませんね。
麻田:そういう意味では、いつもSXSWに行くと「原点」みたいなものが見られるから良いなと思うんです。
——この業界にいて思うのは、みんな「国内で飯が食えてるんだからいいじゃないか」と考えていて、麻田さんのように考えている方が少ないですよね?
麻田:でも福岡のバンドと話していても、彼らは「東京に行くのもロスに行くのも飛行機代とかたいして変わらないじゃないですか?」と言うんですよね。「それだったらロス行ってライブやった方が面白いんですよ」とね。確実に時代が変わってきていると僕は思います。
6. 時代の先を行くトムス・キャビン
——ここからは麻田さんご自身のことを伺いたいのですが、アーティストとして活動されていた麻田さんが’76年にトムス・キャビン・プロダクションを設立されたきっかけは何だったのですか?
麻田:アーティストをやっていたんですが、あまり仕事もなくて、あの頃のマネージャーが現エムエスアーティスト社長の田中(芳雄)君だったんですが色々な仕事を持ってきてくれて、ある時から司会兼ロードマネージャーみたいなことをやるようになったんです。それで、やっているうちに「こういうのは向いているな」と思ったんですよね。シンガーはある種ハッタリとかがないと駄目じゃないですか?(笑) でも自分にはそういうものがないなと思っていて、逆にツアーマネージャーのような裏方の方がやっていて楽しかったんです。それで、その頃シンガーソングライターとかブルースとかが流行っていたので、いくつか企画書をウドーさんやキョードーさんに持っていったんですけど、「こんなの客が入るわけないだろ」とか言われて(笑)、でも僕らの回りではジャクソン・ブラウンを聞きたいとか、ジェイムス・テイラーを聞きたいという人が多かったんですよ。
——そういう人たちを大手が呼んでくれませんでしたからね。
麻田:あの当時はそうでしたね。あの頃のキョードーさんはポール・モーリアとか(笑)、あってもブラザーズ・フォーですからね。それで企画書が通らなかったので、「自分でやるしかないのかな」と思ってやり始めたんです。
——その当時私がトムス・キャビンに感じていたのは、「好きなアーティストを呼んでくれる」ということだったんですよ。「外国人アーティストは大手でないと呼べないのかな?」とも思っていたので、やる人がやれば呼べるんだとも感じました。
麻田:今は小さい呼び屋さんが一杯いますけど、あの頃は大手しかありませんでしたからね。あの頃プロモーター・ユニオンみたいなものがあって、集まりに出ると僕だけ若くてあとは有働さんや内野さん、神原さんとか錚々たる方々ばっかりでしたね。
——呼び屋さんは資金がないと始められないというイメージがありますよね。
麻田:「呼び屋」さんというくらいだから、半分賭みたいな商売じゃないですか? 当たったら凄いけども当たらなかったら夜逃げするみたいなイメージだったんですが、’67年に1年間くらいアメリカにいましたし、その前に会社をやろうと思って半年くらいアメリカにリサーチしに行ったんです。そうしたらみんな地道にやっていて、話を聞いてみるとギャラもそんなに高くないんですよね。あの頃日本でやるとなると2000人クラスの大ホールが殆どだったじゃないですか? そうなるとギャラも高くなりますよね。ただアーティストと話をするとライブハウスではパーセンテージでもらっていると話していましたからね。そのかわり飛行機代とかはこっちの方が高いんですが、色々見聞きしているうちに「できるのかも」と思いましたね。ただ、日本のライブハウスは外タレ公演をやったことがなかったので、説得して回るのが大変でしたね(笑)。「本当に外タレが来るんですか?」と言われたりね(笑)。
——場所を作らなくてはいけないし、大変ですよね。
麻田:当時、普通のコンサートは東名阪でしかやらなかったですし、もうちょっと色々なところに行きたいという気持ちがありましたね。
——結構色々行かれたんですか?
麻田:すごいですよ(笑)。トム・ウエイツなんか全国12カ所くらい行きましたからね。仙台、札幌、金沢、広島…。
——お客さんは結構入ったんですか?
麻田:そうですね。エリック・アンダーソンの時なんて拾得(注2)でやりましたからね。拾得だと100人入ったら一杯ですから、天井にへばりついているような状態でしたね。
——でも、そういうライブハウスを回るのはアメリカでやっていることと同じだから、アーティスト達が不平不満を言うような話ではなかったわけですね。
麻田:不平不満はなかったですね。難しかったのはキョードーさんがボニー・レイットやライ・クーダーをやり出して、取り合いになっちゃって、金額がつり上がっちゃったんですよね。お金では太刀打ちできないから、僕らはメンフィスのサザンソウルっぽいのをやったりしましたね。その後、アメリカが面白くないなと思ったときに、イギリスのSTIFFだとかニューウェーブが出てきて、「これは絶対来るぞ!」と思ったので一番最初にグラハム・パーカー&ルーモアを呼んで、エルビス・コステロやトーキング・ヘッズ、XTCを呼んだんですよ。例によって大手はそんなところを最初は呼びませんからね。
——ニューウェーブのアーティスト達もトムス・キャビンで呼んだんですか! その後SMASHの日高正博さんがやられるようなことを7年くらい前にされていたんですね。
麻田:そうですね。でもこれからというときに日刊スポーツに「トムス・キャビン倒産か?!」という記事が出ちゃったんです(笑)。僕はニューウェーブをやり出して「これからはニューウェーブが来るぞ!」と思っていましたし、現にトーキング・ヘッズもお客さんがすごく入ったので順調だったんです。でも丁度その記事が出る頃に資金繰りをしていて、その記事が出た途端にみんながぱっと手を引いてしまったんですよ。
——それでトムス・キャビンの活動が止まってしまったんですか…。酷い話ですね。
麻田:まあ、記事が出てお金も尽きてしまったし、どちらにしろこのまま続けていればキョードーさんやウドーさんが出てきて同じことの繰り返しかな? とも思いましたけどね。
——その後ジェニカ・ミュージックに入社なさっていますが、これはどういういきさつだったんですか?
麻田:実はゴダイゴのタケカワユキヒデ君は高校生の頃から知っていて、彼のデモテープを聴いた時に「才能のある奴だな」とすごく驚いて、レコード会社に売り込みに行ってたんですよ。ただその頃のタケカワ君は英語でしか歌を書いたことがなかったので話がまとまらなくて、その後ジョニー野村がマネージメントをしてゴダイゴでどでかく売れたんですよ。そのジョニーが「今何もしてないなら仕事しなよ」と言ってくれて、ジェニカ・ミュージックでブッキングをさせてもらったんですが、給料の他にパーセンテージを付けてくれて、そのお金で借金を返しました。その時に一緒に働いていたのが日高(正博)君で、2人で一緒に「めんたいロック」とか色々仕掛けたんですよ。でも社内で色々あって僕はジェニカを辞めるんですが、日高君もその後すぐに辞めちゃって、「麻田さん、何か一緒にやりましょうよ」と言うから、「2年か3年だったら昔のつてで呼び屋を出来るけど、もう呼び屋を続けるのは嫌だから、その2、3年で金になることを探そうよ」と言って(笑)、日高君と一緒にSMASHを作りました。その間も僕は日本のアーティストをやりたかったから、デモテープを聴いたりライブに通ったりしていたんですが、日高君の方はだんだん呼び屋に目覚めちゃったんですよ(笑)。それで日本フォノグラムにいた人がSIONのデモテープを1本持ってきてくれて、「これだったらやれる」と思ったので、SMASHから独立しました。
——そこで麻田さんと日高さんの今までの流れがひっくり返ってしまったんですね。
麻田:そうですね(笑)。日高君は日本のアーティストをやっていましたからね。
——SMASHにはどのくらいいたんですか?
麻田:2年くらいいましたね。その頃はドクタージョンを呼んだりしていました。あと、ジェームズ・ブラウン、ザ・バンド、ラウンジ・リザーズとかですね。それでSMASHから独立した当初は事務所もなかったので、細野(晴臣)君の事務所ミディアムの中に机を置かせてもらって(笑)、そのかわりコシミハルちゃんのマネージメントをやりました。SIONとミハルちゃんとそのうちにコレクターズをやりだして、細野君のところにいつまでも居候をしているのも申し訳ないので(笑)、事務所を設けました。
——その後、先ほどもお話に出てきたピチカート・ファイブを手掛けられ、SXSWへ繋がっていくわけですね。
麻田:そうです。
(注2)拾得(じゅっとく)
Coffee houseとして1973年にスタートした京都ライブハウス。
7. 好きなことをどんどんやろう!
——話が前後しますが、プロフィールを拝見して一番驚いたのが’68年に映画「トラ・トラ・トラ」の助監督を務められていることなのですが、これはどういった経緯だったんですか?
麻田:’67年から’68年くらいに僕はアメリカに行っているんですが、ニューヨークでは老舗の日本食レストランに勤めていて、向こうのレストランはお昼と夜の間に3時間くらい休みがあるんですよ。それでそのレストランの2ブロック先くらいにMOMA(ニューヨーク近代美術館)があってパスを買うと毎日は入れて映画をしょっちゅうやっているので、その3時間の間に映画を見たりしていて、「映画もやりたいな」と思ったんですよ。
——映画がやりたくなったので帰国されたんですか?
麻田:本当は卒業をしてアメリカに行くつもりだったんですが、簿記一科目だけ落としてしまって(笑)、一週間に一度学校に行かなくてはならなかったので、それで日本に帰ってきたんですよ(笑)。そのうち学園紛争で「レポートを出せばいい」ということになって、何にもすることがなくなっちゃったんですね。それで黒澤明さんが久しぶりに映画を撮るというので、黒澤久雄君を通して「働かしてください」と頼んだんですよ。僕は7番目の助監督でした(笑)。普通は3番目くらいまでしかいないんだけど、「トラ・トラ・トラ」は大作でしたからね。
——三船敏郎さんが主演の映画ですよね。
麻田:最初は素人を使おうという話だったんですけどね。それで途中で黒澤さんが監督を下ろされちゃって、それで僕も含めて助監督は全部辞めちゃったんです。その後2年くらい勅使河原(宏)さんの万博用映画の助監督をやったりしたんですが、映画は斜陽になっていたので全然仕事がなくて(笑)。
——もし映画産業が下り坂にならなかったら、麻田さんは映画監督になっていたのかもしれないわけですね(笑)。
麻田:アメリカのスタッフと話したときに「映画なんてお金があれば誰でも作れるんだよ」と言われて、「だったらお金を作って自分で映画を作りたいな」と思って、昔の仲間のマイク真木が歌手で稼いでいたから、「歌手をやればお金が儲かるかな?」と思って歌手になったんですよ(笑)。
——そういう理由だったんですか(笑)。でも’67年に単身でニューヨークに行かれたのはすごいですね。
麻田:僕は色々なものを見ていますよ。ジョニ・ミッチェルのデビュー前とか見てるんですよ。
——まだ1ドル360円という時代ですよね。どうやって行かれたんですか?
麻田:僕はモダンフォークカルテット(MFQ)というグループをやっていたんですが、MFQは’65年にアメリカの団体に招待されて行ったんです。それで当時として珍しかったのですが、その時に数次ビザをもらったんですよ。MFQは3ヶ月くらいアメリカを回っていたんですが、その団体が非常に真面目で、遊びに行かないお酒も飲まないという感じだったので、「次は自分一人で来たいな」と思ったんですね。あとミシシッピ・ジョン・ハートという人がすごく好きで、見たいなと思っていたので、日本に帰ってきてすぐにバイトでお金を貯めはじめたんですが、ジョン・ハートは’66年に亡くなってしまったんですね。でも、「やはり一人で行ってみたいな」と思っていたんです。
——この単身渡米が麻田さんに大きな影響を与えていますか?
麻田:そうですね。その当時のクラブ・シーンも見ていますしね。
——この当時のアメリカの経験をしている人が非常に少ないんですよね。この経験なくして今はないという感じですか?
麻田:そうかもしれませんね。ボブ・ディランがウディ・ガスリーのメモリアルコンサートに出たときに、帰る寸前だったんですけど見たりしましたね。その頃のディランはオートバイ事故以来ずっとライブをやっていなくて久しぶりに出たライブだったんですよ。
——最近の麻田さんはアーティスト活動を再開されたり、招へいも活発ですし、すごくアクティブですよね。昨年12月に還暦を迎えられたそうですが…。
麻田:ここまで来たら、もう好きなことをやればいいやと思っていますね(笑)。
渡辺:僕は麻田さんを「音楽絶倫男」と呼んでいます(笑)。
麻田:やはり、未だに音楽が好きなんですよね。新譜は毎月チェックしますし、CDもかなり買いますね。
——それはジャンルにこだわらずにですか?
麻田:もう全然ですよ。パンクでも何でも聞きますよ。
——パンクですか! 恐れ入りました。最後に読者へメッセージをお願いします。
麻田:体のために好きなことをやった方がいいんじゃないでしょうか?(笑)
——(笑)。本日はお忙しい中ありがとうございました。今年の「SXSW Japan Nite」の成功と益々のご発展をお祈りしております。
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