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『ロック誕生』『ROCKERS [完全版]』2本立てスペシャルインタビュー

インタビュー スペシャルインタビュー

『ロック誕生』『ROCKERS [完全版]』
『ロック誕生』『ROCKERS [完全版]』

70年代に起こった日本のロック創成期の様子を映し出した2本のドキュメンタリー映画が、2008年10月25日にそれぞれ公開される。今回、映画公開を記念して2本立てのスペシャルインタビューを掲載。当時の貴重な映像がどのように撮影されたのか。また、公開までのいきさつなど、その裏側を伺いました。

 

    1. 映画『ロック誕生 −The Movement 70’s-』公開記念 村兼明洋監督インタビュー
    2. 映画『ROCKERS[完全版]』公開記念座談会

 

映画『ロック誕生 −The Movement 70’s-』公開記念 村兼明洋監督インタビュー

ロック誕生ROCKERStanjo_top_s

 1970年代初頭に起こった日本のロック革命、「ニュー・ロック」に焦点を当て、貴重な発掘映像と当事者たちのインタビューでつづられた音楽ドキュメンタリー映画『ロック誕生』が10月25日よりシアターN渋谷にてレイトショー公開される内田裕也やミッキー・カーチスなど日本のロックパイオニアたちのインタビューに加え、今まで日の目を見なかった秘蔵映像満載のこの映画は、その時代を体感した人だけに限らず、ロック好きの若者たちから今注目を集めている。今回は映画公開を記念して監督である村兼明洋氏に話を伺った。


株式会社ビタミン 代表取締役 村兼 明洋
・生年月日・・1970年6月15日生まれ
・出身地・・・山口県岩国市
・これまでの経歴
 ミュージシャン ⇒ 音楽配信会社役員 ⇒ 現会社代表(兼監督)

▼『ロック誕生 −The Movement 70’s-』オフィシャルサイト
http://www.rock-tanjo.jp/
▼株式会社ビタミンオフィシャルサイト
http://www.vitamin-co.com/

——映画『ロック誕生』製作のきっかけは?

村兼:もともと音楽と関係なく古い映像自体に興味があって、人から聞いて観たり、集めたりしていたんですが、いつかこういった古い映像を世の中に出したいと思っていました。自分自身、音楽の仕事をずっとしていたので、今回『ロック誕生』で使ったような古い映像が断片的にあるということは知っていたんですが、それらが全然まとまっていないし、世の中にも出ていないので「それを発表することはできないか?」と思い、この映画を作り始めました。

——そもそもこの時代の音楽は好きだったんですか?

村兼:今の音楽と比べて頭抜けて好きというわけではないんですが、この頃の音楽で好きなものもあるくらいですね。

——村兼さんは以前から映像製作をされていたんですか?

村兼:いえ、全くの素人です。

——では、この『ロック誕生』が初監督作品ということなんですね。

村兼:そうですね。今まではせいぜいプロモーション・ビデオの監督くらいしかやったことがなかったので、周りの人みんなが助けてくれたから製作できたと思います。

——製作スタッフはどういった経緯で集まった方々なんでしょうか?

村兼:友人、知人、さらにその紹介ですね。その中で僕の構想に賛同してくれた方々です。

——撮影中、特に印象に残っていることは何ですか?

村兼:それはもう山ほどありますけどね(笑)。内田裕也さんのインタビューを撮ったんですが、そのインタビューのためだけに日比谷野外音楽堂を丸一日貸し切ったことは印象に残っていますね。時間が押してしまって大変でしたけど(笑)。

——インタビュアーも村兼さんが務められたんですか?

村兼:インタビューは今回監修していただいたサミー前田さんにお願いしました。僕自身は彼ほど当時の音楽の知識がないんですよ。ただ僕には「世の中にないものを作りたい」という動機だけがあって、知識は周りの方達に補完してもらってやっていました。

——インタビューに出てくる方々はみなさん個性が強いですよね。

村兼:そうですね。それまで日本になかった新しいロックを作った方々なので、皆さんすごくパワーがありますよね。僕もそういったパワーに惹かれて作品を作った面もあります。

——内田裕也さんも映画の最後で「ここまで言ってしまっていいのかな?」と思うくらい、すごいことをおっしゃってましたね。

村兼:裕也さんのインタビューは冒頭5分と最後の7〜8分にまとめてあるんですけど、実はDVDで3枚分あるんですよ(笑)。

——それ全部観たいです(笑)。

村兼:いやいや、出せない部分もいっぱいあるんで・・・(笑)。最後のインタビュー部分は裕也さんも「使っていい」とおっしゃってくれたので、僕の監督権限で使わせてもらいました。でも、裕也さんはこの映画にすごく協力してくださったので大変感謝しています。

——映画製作において、特に苦労した点は何ですか?

村兼:苦労という意味では全体的に苦労していますね(笑)。今回製作を開始したのが、去年の12月だったんですが、映像を探し始めたのは4年前からなんです。面倒だったのは映像の探索よりも実は権利関係なんです。映っている人はなんとか連絡がとれたとしても、この映像は一体どこで、誰が撮ったのか。さらに撮った人がわかっても、撮るときのお金はどこから出ていたのか、そのイベントはどこが主催していたのか等、全部調べていく必要がありました。すでに世に出ている映像を使うならまだ簡単なんですが、映画で使っている映像の約7割が未発表映像ですから、そういった絡まった糸を解きほぐすような作業をやらなければいけなかったのは大変でしたね。

——つまり、そういった手間がかかるから、今までそれらの映像は手つかずだったんですかね。

村兼:それは間違いないです。面倒臭がって誰も手をつけなかったんだと思います。それは僕も感じているし、周りからもさんざん言われました。また、同年代の方が作れなかったから今までこういう映画がなかったとも言えますね。同年代の方が作ると「あいつが作っているんだったら協力しない」みたいな部分も出てきたと思うんですよ(笑)。

——利害関係みたいなものが出てきてしまう?

村兼:そうですね。僕なんかまだ若造で当時のことは知りませんから、交渉しに行っても「お前、誰?」というところから始まって、話し合いを続けるなかで「じゃあ、やってあげるよ」と協力していただけたんだと思います。

——フラワー・トラヴェリン・バンドなど音と映像がシンクロしていない箇所もありましたが、音がない映像も結構あったんでしょうか?

村兼:あの時代というのはよっぽど高価なカメラを使わない限り同録はできなかったらしくて、8mmで画だけ、音はテレコを回すというやり方だったんです。なので、テレコが回っていなければ当然画だけになりますし、どちらかの素材が紛失してしまっていればそれで終わりですしね。

——どのように映像や音源をリサーチしたんですか?

村兼:もうほとんど人づてですね。

——例えば、法人で管理しているものもあったんですか?

村兼:いや、法人所有のものってURCが管理していた遠藤賢司さんのものくらいで、今回の映像ではほとんどないと思います。全部個人所有ですね。

——つまり当時は組織だって記録するのではなくて、個人的に撮っていたと。

村兼:その通りです。みんな口を揃えて言うことが「こんなものが金になるときが来るとは思わなかった」、もっと言うと「これが貴重になる時代が来るとは思ってなかった」でした(笑)。その当時の8mmテープは高価だったので、それを道楽のように撮っていた人というのが果たして何人いたのか、ということですよね。今回も結構あったんですが、テープは出てきたけどくっついてしまって剥がれなかったり、カビが生えてしまって観られなかったり、保存状態もまちまちでした。

——ちなみに発掘していかれた中で、一番テンションが上がった映像はなんですか?

村兼:それは間違いなく「はっぴいえんど」です。僕の知識の中では「はっぴいえんど」単独の映像って世の中に出たことはないと思います。音も絶対どこかにあるはずなので1年位は探したんですが、結局出てこなくてそれは残念でしたね。

——『ロック誕生』で使ったアーティスト映像の選定基準みたいなものはあったんですか?

村兼:いや、単に映像が残っていて趣旨から外れていないものをできるだけたくさん入れようということでした。またインタビューに関しては、思い出話ではなく現在の視点から話していただきたかったので、今も活動されている方々にお願いしました。

——作品を作る前と実際に作った後では、このシーンの音楽に対しての想いや考え方に変化はありましたか?

村兼:変わったと言うほうが記事としては劇的なんでしょうけど、実はあまり変わってないんです(笑)。製作前から持っていたポテンシャル=興味がそのまま維持されているという感じでしょうか。

——上映時間が75分と全体的に凝縮されている印象なのですが、もう少し長くするということは考えられなかったんですか?

村兼:観ていただいた方からは「短い」とよく言われてます(笑)。ただ、興味のない人が観るにはあれが限界なんじゃないかと思っています。ドキュメンタリーって濃いじゃないですか? ストーリーもあるわけでもないし、興味や知識がある人なら「おっ」と反応してくれますけどね。僕はこの映画を「パンクだ」「ロックだ」と言っている若い子たちに観てもらいたいと思っているので、初めて観た人間がちょうどお腹いっぱいで疲れないくらいの時間にしています。

——試写などでの反響はいかがですか?

村兼:作り手の僕に気を遣っているのかもしれないですが、批判的な意見は今のところないですね。ただ、いくつかあるとすれば説明や字幕を全く入れてないので「わかりにくい」と言われるくらいなんですが、それは僕の狙いでもあります。

——そうだったんですか。最近のドキュメンタリーはテロップが多用されたり、ナレーションが入ったりしますが、『ロック誕生』はそういった要素がほとんどないですよね。

村兼:そうですね。例えば、今のテレビってタレントが喋ること全部をテロップで出すし、番組のタイトルが常に出ていたり、時間が出ていたりとメチャクチャじゃないですか。なので、そういうのは一切なしでテロップもバンド名だけにして、もし気になったら調べてよというスタンスです。それが昔は当然だったんじゃないかと思うんです。気になった、好きなったアーティストのルーツを探って調べてみようということが。この映画はそういったことにもっと興味を持って時間を割いて欲しいというメッセージでもあります。

——でも、この映画を観て影響される若い世代も増えると思います。

村兼:今回エイベックス・マーケティングさんが製作委員会に入ってくれているんですが、やっぱり若い子たちが多いので最初は「何これ?」という状態だったんです。それがみんなで映画を作って試写を観てもらった後に、スタッフの女の子が「映画を観て、フラワー・トラヴェリン・バンドのCDを買っちゃったんですよ!」って言ってましたね(笑)。

——やはりそういう反応が一番嬉しいんじゃないですか?

村兼:そうなんですよ。そう言ってもらうと「作った甲斐があったな」と思いますね。

——ちなみに今回の作品には入れられなかった素材を今後発表される予定はありますか?

村兼:それは考えていますね。もともと古い映像のサルベージ的な作業は嫌いではないので、今後も続けていければと思っています。また、これは実現するかわかりませんが、あの時代の楽曲のトリビュート・アルバムを出せたらいいなとも思っています。

——最後にこれから『ロック誕生』を観る方へメッセージをお願いします。

村兼:これは映画の説明に使おうと思って、結局使わなかったものなんですが、「世の中これだけ進化しているのに、ロックは退化している」と思うんですよ。パンクでもブルースでも同じですけど、ロックとは基本的に現状への不満のメッセージじゃないですか。今は「ロック」という言葉だけが独り歩きしていて、世の中の流れが変わったら、それにどう迎合して気に入られようか考えている。そうじゃない本当の「ロック」が『ロック誕生』にはあると思います。

-2008.10.6 掲載

 

映画『ROCKERS[完全版]』公開記念座談会

ロック誕生ROCKERSメイン2

 70年代後半、日本のロック・シーンを震撼させた伝説のムーヴメント「東京ロッカーズ」の全貌に迫るドキュメンタリー『ROCKERS【完全版】』が10月25日、シネセゾン渋谷にて公開される。この映像は日本のミュージックビデオの第一人者である津島秀明(故人)が監督・撮影し、ほとんど公開もされず行方不明とされていたが、奇跡的に発見されストラングラーズの演奏シーンを含む[完全版]で上映される。今回『ROCKERS【完全版】』の公開を記念し、伝説を創り上げた、s-ken、Momoyo、地引雄一、山浦正彦の4名に「東京ロッカーズ」が生まれた経緯などを伺った。(インタビュー提供:株式会社トランスフォーマー)

▼ROCKERS【完全版】 オフィシャルサイト
http://www.myspace.com/tokyorockersfilm
▼上映映画館 シネセゾン渋谷
http://www.cinemabox.com/schedule/shibuya/

 

ロッカーズメイン

左より:石毛栄典(司会ー株式会社トランスフォーマー社長)、Momoyo、山浦正彦、地引雄一、s-ken

s-ken
71年CBSソニーよりデビュー。東京ロッカーズの名付け親であり、オーガナイザー的な役割を果たす。その後、s-ken & Hot Bombomsにて自作の活動を展開する傍ら、数々のアーティスト達のプロデュースを手掛ける。

Momoyo
53年、東京都荒川区に生まれる。10代後半以降、「紅蜥蜴」「リザード」等の名でバンド活動を展開。78年、東京ロッカーズに参加した後、渡英してデビュー・アルバムを制作。以後、さまざまなプロジェクトを経て現在に至る。

地引雄一
東京ロッカーズの創成期からカメラマン、マネージャー、イベンター、レーベル経営者、雑誌編集者等々としてシーンと関わる。東京ロッカーズ〜80年代前半のシーンの記録「ストリート・キングダム」が08年に再刊された。

山浦正彦
「ロッカーズ」フィルム再発見者。花の70年代をワーナー洋楽部で過ごすが、ヒッピー化して77年にdropout。78年、早々とパンク・バンドを始め(s-ken初代B)、六本木に「S-KENスタジオ」を創設。その後、マグネット・スタジオ、マネージメントからレーベルまで、また、FB社と共に「Musicman-NET」を立ち上げて現在に至る。


——この映画、日の目を見るのはたぶん25年ぶりくらいのことだと思うのですが、まったく知らない若い世代の人たちに向けて、当時の時代背景であったり、東京ロッカーズが生まれた経緯などについて、今回お集りいただいた皆さんにお聞かせいただければと思います。

山浦:この映画が撮影されたのは、78年の大晦日前後だったと思うんだけど、なぜあの場にこれらのバンドが集まり、なぜ彼らを監督である津島秀明が撮ろうと思ったのかを、まずは掘り下げるべきだと思うんだけど。何かが同時代的にシンクロした瞬間であったのは間違いないよね。

モモヨ:s-kenや山浦さんはレコード会社関係の出身だったよね。ドゥービーやイーグルスとか洋楽の担当をやっていたと思うんだけど、それが、なんで自らバンドを組みだしたりしたの?

山浦:確かに僕は70年代の洋楽の担当をしていたんだけど、当時は洋楽が全世界で商業的な成功を収めていて、特にフラワー・ムーブメント以降のアメリカとイギリスの音楽は、ツェッペリンやプログレに代表されるようにロックの黄金期を築いていったわけですよ。ところが、当初はノリノリでやっていた僕なんかも、70年後半を迎えるにあたって、その成熟しきったロック・ビジネスに疑問を持ち始めるわけです。ロックが金とドラッグと女に染まって、成熟しつくされた印象ね。それで、もうこれで終わりにしようかと思ったバンドがイーグルスなんですよ。「ホテル・カリフォルニア」という曲がある種、その終焉を意味しているように思えて。あの曲自体はヒットしたんだけれども詞の内容はかなり退廃しているのね。僕らはその辺の状況をリアルタイムに受け取っていて、「なんかシラけちゃったな」という気持ちになったんだよね。今の言葉でいうと、リセット感覚のようなムードになったわけ。で、その勢いで会社を辞めてしまった。かといって何かをやりたかったわけでもないんだけど、バンドでも組んでみようかな? と。だけど、商業的な方向にはさっぱり向くつもりはなくて、そんなタイミングの時にニューヨークやロンドンあたりで面白い動きがあることを知るんだよね。「コレだ〜!」って思ってね。だけど僕らのバンドにはボーカルがいなかった。そこへ旧友のs-kenが何やらニューヨークから凄い勢いで帰って来たんですね(笑)。

モモヨ:俺は山浦さん達より若い世代なんだけど、当時もみんなのことは知っていて、レコード会社の人たちがなんでバンドを組み始めたのかな? ってトコに凄く興味があったんだよね。

s-ken:僕は71年にソニーからデビューしているんですよ。で、その後はYAMAHAの財団に籍を置いて、作曲をしながら雑誌編集の仕事を両建てでやっていたのね。かなり珍しいスタンスだったと思うんだけど、ある時、煮詰まった時期があってね。それで「特派員」ってことでアメリカに行かせてくれないかって会社に頼んで、実際に行かせてもらったのが74年のことです。なんで僕が雑誌編集なのかっていうのは自分でも不思議に思ってたけど、そこで細野晴臣や山浦君にも会うしね。結構、関係は広がったと思うよ。で、アメリカに行ったわけだけど、イーストとウェスト両方に行こうと思っててね。まずはロスに行って、状況は一緒だということに気づくのね。

山浦:ニューヨークに行って何があったのか? ってトコが聞きたいね。

s-ken:まず、その前にロスで観たボブ・マーリーに一番のショックを受けたのね。75年のロキシー・シアターでした。商業的な部分とメッセージ性と音楽のクオリティを全部背負い込んでさ、「あぁ、こんなのがあるんだ」ってね。客席では僕の周りにいるのが、マイク・ラブやリンダ・ロンシュタットとかのミュージシャンばかりでね。その彼らが直に衝撃を受けているのが分かったのね。声すら出ないっていう(笑)。なので僕はパンク以前に、まずはウェスト・コーストのレゲエだったんだよね。その後、イーストに移るんだけど、予想通り、何も面白いものがなくてね。だけど、たまたまレコード屋で雑誌の記事を見てね、42丁目をバックにマーベルスっていうグループが立ってる写真で「ニューヨーク・ロッカーズ」云々って内容だったんだけど、これは何かあるなって予感がしてね。その直後にCBGBやマクシス・カンザスシティを知るんですよ。それで実際に行ったら「エッ?」って感じで。まだ、アメリカのメイジャーやジャーナリストは見向きもしてなかったですね。僕はビートルズの世代ですから、彼らがどんな環境から生まれてきたのか? っていうのを知っているわけです。まさにそれが目の前で展開してるって感じでした。CBGBはボワリー地区っていう割と怖い場所にあったんだけど、その扉を開けた時の熱気といったら、今までに経験したこともない異常なモノだったんですよ。で、ステージと客席の距離がね、垣根をまったく感じさせない雰囲気でね。結局、毎日のように入り浸っていました。

地引:レック(フリクション)と会ったのはそこで?

s-ken:そうこうしてるうちに、財団のYAMAHAが解散になっちゃってね。で、いきなり職が無くなっちゃったんだけど、一方でロッキンfから原稿の依頼なんかが来てね。レックはどうもそれを読んだみたい。当時は76丁目にあるオンボロアパートの4Fに住んでいたんだけど、郵便物が来ると下まで階段を降りて行かなきゃならないのね。ある朝、6時くらいにブザーが鳴るのよ。「えっ〜?」と思って下に降りたら、ソコにレックが立っているわけ。何も聞いていなかったから、しかもまったく知らないヤツだったから驚いたよ。で、アパートを紹介してあげてね。

山浦:レックもバンドをやりに来たわけ?

s-ken:そうは言ってなかった。ニューヨークで演っている連中が話題にしているルーツ・ミュージック、イギー・ポップだったりルー・リードだったりに反応してたみたいね。今までレックが演ってきた音楽に近いと感じてたんだろうね。そこで何かが起こるとなれば「行かなきゃいけない」っていう思いがあったのかもしれない。

地引:ニューヨークでは頻繁に会ってたの?

s-ken:1、2度。CBGBで会ったかな? よく覚えてないよ。

山浦:1年くらいで帰ってくるわけだけど、その時の心境はどうだったのかな?とりあえず僕への電話の第一声は「バンドやろうぜ!」だったと思うけど(笑)。さっきも話したけど僕はバンドをやっていたものだから、そのことを言うと「行く〜!」って切り返されてね。で、そのままバンドは乗っ取られちゃうんだけど(笑)。だけどその時のバンドはコピーばかりを演っていて、s-kenにそのことを話すと1週間後に20曲くらいの詞と曲を書いてきてね。バンド名もs-kenになってて(笑)。で、その1ケ月後には屋根裏の舞台に立っていましたね。

s-ken:覚えてないな(笑)。そのライブは「詩の世界」っていう雑誌が主宰でね。フリクションもその時は一緒だったね。

地引:リザードもその同じ日に北区公会堂で演ってるんだよね。

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モモヨ:俺達は東京で長くアマチュア・バンドを演っている面々、特に高円寺なんかで新しいことを始めているバンドを集めて、それを聴かせたくてライブをやったんだよね。で、その時に取り巻きの女の子たちが屋根裏のイベントのことを話題にしていた。だけどレックは言ってなかったんだよね。彼らは両方のイベントに出てたんだけど。レックとはニューヨークからも手紙を貰ったりしてたんで、この頃からs-kenやレックなんかと実際の交流が始まるんだよね。

s-ken:僕や山浦君なんかは、もちろん精神的には「唄うぞ!」っていう気持ちではいたんだけど、年が上ってこともあって、役割としてはやるべきことをやろうっていう考えが先行していたと思う。ニューヨークなんかでも普段からCBGBを始め、3つか4つのライブハウスでサーキットをやっていてね。ニューヨークのシーンって言ったってさ、あれだけのことが2・3人のオーナー達がやる気になればできるじゃん! っていう気持ちがあったんだと思うよ。あれくらいのことだったら、僕らでもできるんじゃないかっていう、オーガナイザーみたいな心境が半分はあったんだよね。シンプルな話、東京ロッカーズってのは、ニューヨークにレックが訪ねてきてくれたことが初めの一歩というか、象徴だったような気がする。東京に帰ってきてからは頻繁にレックに会うようになって、レックを通してモモヨも知るようになるし、レックの存在感と身の回りの人たちが創り上げていった感がある。元々、レックやモモヨはパンクやニューウェーブ以前のルーツ的な音楽をニューヨークやロンドンの連中と同じように吸収していたわけですよ。僕自身は当時、オーガナイザーとしては機能してたはずですけど、東京ロッカーズそのもの自体は、そのような下地があった連中によって作られて、一時代が形成されたんだろうと思います。レックやモモヨはピストルズ自身、ジャム自身、デヴィッド・バーン自身のような、根の深い音楽をやってきたわけです。その後、ボルシーとかの若い連中は直接ピストルズに影響を受けて出てきたりしますけれども、だから、この映画はそのような解釈で観てもらって良いと思います。僕は自分が出ていることに関しては、音楽性や創造性は未完成のまま気持ちだけが突っ走っていて、その後は封印したいと思っていたけど、東京ロッカーズに関わったことは良かったなと思っています。

モモヨ:確かに東京ロッカーズがこれだけ広がって活動ができたのは、s-kenスタジオを拠点にして、s-kenと山浦さんが昼間に媒体周りとかしていたからだよね。紅蜥蜴の名前を変えろって言ったのもs-kenだったしね。

山浦:ははは(笑)。そうなんだ。

モモヨ:s-kenと水上はる子さんのところに遊びに行って、「あなた達、グループで活動してるんだったら、何か名前を付けなきゃダメよ!」って言われて「東京ロッカーズ」っていうネーミングになるんだけど、その時に「この際、紅蜥蜴って名前も変えなさい!」とも言われて、s-kenも「そうだそうだ!」ってノリになって「リザード」になるんだよね。s-kenは「東京ロッカーズ」って曲も作ってたよね。

s-ken:僕は出身が半分ミュージシャン、半分が編集者っていう身分だったんで、こういうムーブメントがあったらいいなぁという機能的なところまで突っ込んで考えてたよね。

——東京ロッカーズの呼称はs-kenさんによるものですか?

地引:s-kenスタジオのオープニングが5月にあって、その直後、7月くらいのライブからは冠に「ブラスト・オフ・東京ロッカーズ」って、名乗っているね。

s-ken:ちょうどその頃にポピュラーになっていったんだけど、都市単位で「ロンドン・パンク」「ワシントンD.C.〜」「キングストン〜」とか呼ぶようになってたのね。で、最初に言った「ニューヨーク・ロッカーズ」の記事を思い出してね。それで付けたんだと思う。大阪より東京の方が偉いっていうワケじゃなかったんだけど、当時はずいぶん勘違いされてたみたいだね。

山浦:最初はダサイと思ってたけどな。

s-ken:誰かが決めないといけなかったわけですよ。メディアにアプローチする時も必要なワケだし。

——結局、「東京ロッカーズ」を名乗っていた期間は短かったんですよね。

地引:翌年のライブ・レコーディングの直後の発売記念ツアーまでだね。そこでもう使うのはやめようとなっていた。

——ところで、この映画はいつ完成したのですか?

山浦:80年の頃でしたね。

——地引さんと彼らの出会いっていうのは?

地引:僕は北区の前の2月の屋根裏だったんだけど、紅蜥蜴を初めて観て。その前に「ロッキンドール」っていう小嶋さちほさん(後のZELDA)が作っていたミニコミで紅蜥蜴のことを知るようになったのね。そうしたらモモヨからハガキが来て、「次のライブに来い!」って。

モモヨ:命令形でね。

地引:それからの付き合いだね。だから北区の時は、スタッフみたいな関わり方をしていました。

s-ken:言葉でいうとアバウトな気分だったと思うんだけど、時代が一変するようなイメージが確かにあったね。ニューヨークから帰る時に「オマエは日本では社会復帰できないぞ! すぐ戻ってこいよ!」って、いろいろなヤツに言われていたから、このふっ切れない東京にいるんだったら、やるっきゃないぜ! っていう状況だった。「ぶちやぶれ」っていう曲はまさにその時の気分を代表していた気がするよ。僕とは違って、レックやモモヨは様式的には完成していたからなぁ。

——s-kenスタジオの運営は、オーガナイザー的な役割の延長として目論んでいたのですか?

山浦:練習場所を確保すると同時にイベントなんかも主宰してね。今、考えるとあり得ないけど、50人くらいしか入れないところに200人くらい入れちゃったりね。

s-ken:絶対に必要な空間だったね。ひとりふたりが頑張れば形になる! っていうね。

山浦:アレがライブハウスだったら今に続くね。

——当時のライブハウスは、そういうバンドに対しての理解はないんですか?

全員:ないない(笑)。

s-ken:新宿ロフトだって、交渉に行ったらハコで貸すって言われたよ。金、払えって。

モモヨ:30万だっけ? で、断ったら、秋なら空いてるんで9万でどう? って言ってきた。ロフトは当時、ニューミュージックを中心にブッキングしてて、それもだんだん上手くいかなくなって「ウチも経営が大変なんだよね」とか言ってた(笑)。東京ではいろんなトコでやったけど、場所には苦労したな。逆に関西の方が充実していたね。

地引:ロックって言ったら、当時、屋根裏しかなかったもんね。

山浦:でも、ロフトは次の世代のBOφWYでブレイクするんだよね。

地引:だけどロフト側は、ロフトの始まりは東京ロッカーズだ、って言ってるみたいよ。

s-ken:ははは(笑)。そうなんだ。

山浦:あの当時のs-kenスタジオは変なのがいっぱい来てたね。泉谷しげるとか八木康夫さんとか、この映画を撮った津島さんもフジテレビの制作を辞めて出入りしてたんだよね。

s-ken:この映画でいうと、やっぱり津島さんの作品なんだよね。あの当時のヒップな現実とはちょっと違ってて、革命じゃないけどそんな感じの主張を盛り込みたいような、そういう古さがあるよね。

モモヨ:恣意的なんだよ。そういうパンクっぽい曲を演ってほしいって、それぞれのバンドにリクエストしてたからね。

s-ken:東京ロッカーズの良さっていうのはニューヨークなんかとも似ているんだけど、皆でつるむんだけど、ある意味ドライな面もあってね。レイブとかヒッピーなんかみたいな宗教がらみっぽい(笑)、そういう方向に向かわなかったのが良かったなぁ。

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山浦:パンクって、やっぱり個のものだからね。

s-ken:日本の今のJ-POPシーンってこう、誰が出世するか? みたいな、そういうところで競っているのばかりが目立ってね。だから新しい音楽を生み出すようなミュージシャン達によるネットワークがほとんどないし。東京ロッカーズが創ったシーンの方が、バンドの交流もアグレッシヴで創造的だったと思うよ。だけど、そこでレボリューションのノリで「ぶちやぶれ」を解釈されちゃうと、それは違うなとは思うのだけどね。

山浦:でも当時、聴いていたほとんどのヤツは、そういう気分だったはずだよ。自分の中で何かを変えなければならないって。

地引:個がそれぞれ自立した上で結びついてるし、共通の場面はあったからね。でもこの映画は、やっぱり何かあの頃の実際の雰囲気とは違うように感じるね。

s-ken:それは、これが監督の作品だからさ。ドキュメンタリーっていっても、彼の映画なんだから。だから「これが東京ロッカーズの全貌です」っていう見方よりも、彼の表現だとして観てもらう方が正しいと思う。

山浦:現にこれをフィルムとして残したいと思ったのは、彼ひとりだし。失業していながら映画を撮ることについては、家族が相当、困ったそうだよ。

モモヨ:「フィルムが買えないから、しばらく撮影が空いちゃうんだ」とか言ってたね。最初は全編をカラーで撮る予定だったんだけど、俺達を撮った後あたりからモノクロのフィルムで撮りだしたんだよ。相当、お金に窮していたんだね。

——アレって、ネラいじゃないんですか? たまたまなんだ。

山浦:ホントに金が無くて、現像代も払えてないのね。それで長い間、マスター・フィルムは現像所に召し上げられていたの。それを僕が見つけてニュープリントを起こして、この度、日の目を見ることになったんです。

地引:この頃の時代の流れって、何か特別、スペシャルに見えるよね。

モモヨ:スペシャル? どん底ってことだったんだよ。皆、失業者だったわけで(笑)。なりふり構っていられないって感じでしょ?

山浦:パンクって「金がないこと」だと思っていたよ(笑)。

——客もそのような気分を共有していたと思います。世の中、歌謡曲が全盛で、今よりも選択肢のない保守的な状況でしたし。その中で、数少ないライブハウスだけはなぜかキラキラしていたものを放っていましたね。まぁ、集まっているのは自閉気味なヤツらばかりでしたけど。ノリも悪いですしね。腕組んで上目遣いで、ホントはドキドキしてたと思うんだけど、どう観ていいか分からない(笑)。おまけにバンドの人達も強烈におっかないキャラクターなんで、正直、戸惑ってた部分もあると思います。

地引:あの緊張感は僕も覚えているね。レコードしか聴いていないから、現場の空気感が量れないんだよね。

山浦:洋楽を聴いている者にとって、当時の日本のバンドのビートはとても物足りなかったんだよね。でも、こいつらだけはヘタなんだけど、ビートだけはギンギンにあったんだよね。

地引:s-kenが当時、「小説でもなんでも一行読めば、ビートがあるかないか分かるんだよ!」って言ってたよね。

s-ken:そんなこと言ってたかな?(笑)

山浦:いつの間にか、今のロックもビートを意識しなくなっちゃってるよね。

s-ken:東京ロッカーズには、その核にフリクションとリザードがいたんだと思いますよ。この2つがいなかったら、完成度は相当に低いと思います。もう1つか2つ、あのクオリティのバンドがいたら面白かったとは思いますけど。

山浦:次の世代からはBOφWYなんかのメジャー感を持ったヤツらが現れてくるわけですから、「東京ロッカーズ」が最初にホンモノのビート・ミュージックに火を点けたってことは言えるんじゃないですかね。 

-2008.10.6 掲載

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