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SONHOUSE35周年記念BOXセット「The Classics」発売記念インタビュー

インタビュー スペシャルインタビュー

SONHOUSE35周年記念BOXセット「The Classics」発売記念インタビュー
SONHOUSE35周年記念BOXセット「The Classics」発売記念インタビュー

ブルースをこよなく愛し日本語ロックを肉体化させ、「めんたいロック」「日本のロック」の草分けとして知られる サンハウスが 12年ぶりに再結成されることになった。
BOXセット『THE CLASSICS』の発表を記念して行われる今回のツアーはメンバーの大半が60代にさしかかった時期であるだけに“最後のサンハウス・ツアー”と評する声もある。ロックが本来持っている緊張感、リスペクト、そしてインパクト。そのデビュー時、業界の異端児であった彼らは解散後も含めてその異端性を貫き、時代の移ろいの中でロックの伝説となった。
2010年、サンハウスの再結成は、日本の音楽シーンにとてつもないメッセージを投げかけてくれるだろう。

今年2月にテイチクから発売されたデビュー35周年記念BOXセット『THE CLASSICS』の内容から再結成に至る経緯まで、また彼らの音楽ルーツについて、サンハウスのボーカル.柴山俊之氏とリードギター.鮎川誠氏の両氏に話を伺った。

[2010年3月23日 / 渋谷区神宮前 株式会社テイチクエンタテインメントにて]

 

  1. 音楽マニアだった学生時代からサンハウス結成へ
  2. ブルースのダブル・ミーニングと日本語ロック
  3. 1970年代日本のロックの夜明け
  4. 「めんたいロック」の先駆者
  5. SONHOUSEは僕らの「宝物」
  6. SONHOUSE35th ANNIVERSARYツアー / BOXセット INFO

 

1. 音楽マニアだった学生時代からサンハウス結成へ

——当時、福岡とか久留米でどんな風にして音楽を聴かれてたんですか? たぶん洋楽を相当聴かれていたっていうイメージなんですが、やっぱりお二人ともラジオからですか?

柴山俊之(以下 柴山):柴山:基本的にはラジオですよね、最初は。そのうち福岡でバンドをするようになって、米軍キャンプとかにも行くようになって。米軍キャンプに最新の流行っている曲が入ってるジュークボックスがあって、それもちょっとあまりポップなやつじゃない曲が入っていて、そこで聴いて色んな曲を覚えたのが最初ですかね。

——なるほど。米軍キャンプとなるとまた音楽性がディープな方向に行くんですよね。鮎川さんは?

鮎川誠(以下 鮎川):僕は久留米だからFENっていうラジオ局があるのを物心ついた頃から知っていたけど、回すと野球中継やないけど、いつもうるさいチャンネルぐらいに思ってた。その代わりちょっと早くて、小学生の頃にチャート付けたり、そんな子供でしたね。バット・ブーンの『砂に書いたラブレター』とか、ジーン・ビーンセントの『Over The Rainbow』のような甘い曲を聴き出して、リトル・リチャードとレイ・チャールズは何かで聴いたけどラジオで流れるのを待っても流れんのでレコード屋通いをして、本屋でレコード番号を覚えて、そのままレコード屋に走って注文を取ったり、中学までそういう音楽マニアでしたね。それから’64年の高校1年生でビートルズに出会って。ストーンズのがまだカッコイイぞとか、キンクスの睨んで写ってるこの写真の写り方がいいぞ、とかね。

サンハウスsonhouse17

——柴山さんは最初からボーカルだったんですか?

柴山:いや、最初は1年ぐらいドラムでした。先輩から「おまえ歌え」って無理矢理歌わされて。ものすごい嫌だったですよ。歌うのは。

——でも周りから、いけてるっていう風に言われて?

柴山:あんまり言われなかったですね。そんなにボーカルやりたがる奴って、当時はおらんかったもんね。無理矢理曲を覚えさせられて、それでもう歌うようにされてしまったから。キースの時もボーカルで。最初、ドラムでボーカルとベースを探しよったら、ベースが見つかったらドラムも連れて来て、また歌えって言われて結局歌うようになった。

——当時ダンスホールでは結構稼げてましたか?

柴山:バンドは選ばれたやつしか入れなかったからね。

鮎川:ダンスホールは条件が厳しいんですよ。マナーだレパートリーだ、人の言うことを聞く従順性もなくちゃいけない。あれを演ってくれって言われたら反抗したらだめで、絶対やらなくちゃいけない。

——ダンスホールと言うからには踊るわけですから、やっぱりジルバとかやったりしてたんですか?

鮎川:それは重々わかってたけど、全く聞く耳を持たなかった(笑)。オーディションの日には『Good times,Bad times』をやって、あと『hoochie-coochie man』や『I’m a man』とか何曲かやったかな。

——無視しちゃったんですね(笑)。

鮎川:俺達は最初から「ブルース」をやりたいねっていうキーワードで集まった仲間やったんですよ。だからブルースをいっぱいアレンジして、当時はツェッペリンとかキャンドヒートとかバターフィールドとかノリのいいブルースからジョン・メイオールのポップな曲まで垢抜けした曲をレパートリーでやってたね。

柴山:そしたら客が来なくなった(笑)。

鮎川:ジルバをやろうがやるまいが、時代が変わってしまった。サンハウスと共に店は潰れてしまい、路頭に迷おうとしていたら、柴山さんが慕情の2Fのヤングキラーというダンスホールの仕事を取り付けてきて、そこにまた移って’71年の秋までずっとやってたね。

柴山:あそこも潰れたよね。

鮎川:潰しながら三軒目、佐世保のジグザグという所に移って。

——そのときはまだ学生だったんですか?

鮎川:うん、学生です。結局、ジグザグも俺たちの出演と共に潰れて。’72年に入って初めてオリジナルを作り始めた。

 

2. ブルースのダブル・ミーニングと日本語ロック

——オリジナルは最初から日本語で書かれていたんですか?

鮎川:うん日本語で。「俺の体は黒くて長い」って書いてきたのが、まず最初の1曲目ですね。

——柴山さんは最初からそういう歌詞を書いていたんですか(笑)。

柴山:恥ずかしかったですよ。自分で幼稚な歌詞だなって思ったし・・・。

鮎川:でも、すごくいい試みやと思った。僕たちは『レモンティー』でもそうですけど、レモンスクイーザーとか、レモンをセックスの象徴として使ったり、『キングスネークブルース』でも蛇を男根に見立ててブラック・スネーク・モーンとか、ブルースのダブル・ミーニングはもう慣れ親しんだ世界やったから。そういう風に柴山さんが詞を書いてくるのは何の違和感もなかったですね。

サンハウスsonhouse-live2

柴山:当時、日本でそういう歌詞だけはなかったもんね。普通の詞の焼き直しみたいな歌詞ばっかりやったし。そういうのを自分らでやっても、聞いた人は誰も…気持ち悪いも好きとも言わんやろうと思ったんで、うけるかどうかわかんないけどダブル・ミーニングで歌詞を書いてみようかなと。でも渡すまではすごく恥ずかしかったですよ。ただ曲が出来上がって歌ってみると、幼稚な歌詞じゃなくなる。曲がつくと全然恥ずかしくなくて、なんかマジックみたいなものがあった。

鮎川:うん。僕たちはマジックを体験したんよね。サウンドがつくと生まれ変わるみたいなマジックをね。それは2人の自信になったと思うね。やってみるもんやなって。

——1つの詞に対して曲が5つもあるみたいなこともあったと伺ったんですが、曲はどんどん浮かんできたんですか?

柴山:『スーツケースブルース』は4パターンぐらいあったかな。

鮎川:どれも愛着があって捨てがたいし1個に決められなかったから、柴山さんに「どれが一番いいと思う?」って聞いて…

柴山:それで自分でこれが一番いいなって、フォークソングみたいな曲を選んだんですよ。

鮎川:センチメンタルなやつをね。

——お二人の作品作りとしては柴山さんが詞を先に書いて、鮎川さんにぶつけるみたいな感じですか?

柴山:ずっとそうですね。

鮎川:曲は元々いっぱい作っとったんですよ。あの頃はKBCで録ったり、地元のRKB、KBCっていう放送局にもサポートしてもらってて、割と自分らの演奏した曲がラジオで流れてたんですよ。それで、録った曲を聴いたり、自分らのレパートリーも、ブルースにすごく近いやつから、例えば『アメリカン・グラフティ』とか映画が流行ったりすると、俺たちすぐ影響受けてね。すごい軽いロックンロール、ツイストテンポの曲もいいねって言ったら、すぐ柴山さんが詞を書いてくるから、「町を歩くお嬢さん、こちらを向いて」ってもう読みながら曲ができるんですよ。そんな感じでどんどん実験して作ったり。

柴山:意外と違和感はなかったよね。

——柴山さんは詞を書く時、映画からインスパイアされるっていうのをどこかで聞いたことがあるんですが。

柴山:洋画はフランス映画をよく観てる。新東宝の映画も好きだね。『雨のエトランゼ』っていう曲は同じタイトルの映画から取ったし。それから絵画からも刺激をもらったりするね。僕は朝目を覚まして寝るまで、詞のことばかり考えとるんで。

サンハウスsonhouse-photo01

——ラブソングや失恋の曲も多いですよね。

柴山:俺、詞ってラブレターと同じだと思ってるんだよね。ラブレターって、いくら格好悪くても、とにかく相手にYESって言わせるためのものじゃない?NOって言われたら、ラブレターにはならないし。だから、「ぶち壊せ」って言うのもラブレターの感覚に近い。どんだけ自分の気持ちが伝わるかだから。

——特にセカンドアルバム『仁輪加』の『あの娘に首ったけ』や『やらないか』の歌詞をはじめ、本当に歌詞が今でもグッと来ますね。

柴山:作為的に作った曲は1曲もないからね。共同作業で出来上がったものだし、詞があって、マコちゃんが曲をつけて、色んな要素が集まって最後に歌詞が浮き上がってくるわけだから。詞だけあっていいかどうかはわからないよ。

——初めて柴山さんの歌を聴いたときに、柴山さんの言葉が歌詞カードがいらないぐらいはっきり聴こえてくるのにびっくりしたんです。

柴山:俺は昔からある歌と一緒でロックでも歌謡曲と一緒だと思ってて。何でもそうだけど10年歌ってたら10年分は絶対うまくなるんだよ。でも10年経っても伝えようという気持ちがなかったら、いくらやっても伝わらない。命みたいなものだからね。自分の中の一番の持ち味というかさ。うまくなるよりはそっちの方が大事だと俺は思ってるから。「よく聴こえます」とかよく言われるけど、一生懸命歌ってるから当たり前の話だし。

——伝えるってことですね。

柴山:うん。メッセージじゃない自分の気持ちの伝え方っていうかね。よその人のことは歌えないし、自分ばっかりいい気持ちになっても伝わらんと意味ないからさ。俺が主人公になって誰か対象がいて…自然とそんな風に作っていくようになったね。

 

3. 1970年代日本のロックの夜明け

サンハウスsounhouse-kouriyama

——サンハウスを結成するきっかけは何だったんですか?

鮎川:篠山さんがアタックというバンドで久留米にやって来て、俺はハーモニカ吹きながらドキドキして会いに行ったのが最初で。そしたら5人がパッと振り返って自分に話しかけてくれて、大学に入ったらアタックに入らないかと誘ってくれた。
 それで一浪して必死になって九大に入って入学したその日にアタックに会いに行った。中州に行ったら店が閉まってて時間つぶしに川端に行ったら、慕情っていう店で柴山さんがキースというバンドで出てた。その時初めて柴山さんを見て、『Midnight hour』やら『I’m a man』もしよったかな? とにかくナウい選曲で演奏していたよ。
 それからまた店に戻ったら、アタックの人がみんな来てて「今日九大に入ったったい!」っち言ったら、今すぐギターを弾けって言われて、その日に即メンバーになった。その後、’70年に入って初めて自分がリーダーを取ったバンドで篠山さんとやった夏に、またバンド結成の話がきて。その時「ボーカルは?」って聞いたら、「柴山さんに今から声をかける」って言われて、「あ〜あの時の柴山さんだ」って。

——地元の各バンドの選りすぐったメンバーが集まって「東京へ行ってやろう!」みたいな、ものすごい意志を込めて結成したって感じだったんでしょうか?

鮎川:いや、全然なかったですね。東京にまず行くとかデビューするとかじゃなくて、ただ「好きな音楽を腹一杯やれること」が最終目的だったから。ちゃんとギャラをもらって1バンドにつき何十万かを楽屋で分けるみたいな、そんな生活でしたね。
 当時は博多から東京に流れていくフォークの流れがあってね。甲斐よしひろとか、まだ坊主頭の高校生みたいな頃に、みんな東京に行って成功しよるんですよ。それがシャクやったり、まぁ人のことやし半分は嬉しゅうもないし。ただ俺たちは、あんなタコ部屋みたいな所にみんな入れられて、レコード会社の契約に縛られて、バンドで給料制になって…とか何の魅力も感じないし、行ったってしょうがないね、と。そんな風に思って、ずっと博多でやってたね。

——福岡でライブらしいライブをやったのは、九大の講堂が最初ですか?

鮎川:そうですね。’71年の冬からお互いの仲間が九大を使ってフリーロックコンサートとか100円ロックとか、’73年ぐらいになると、仲間の手伝いもあって、サンハウスも自分達で少年文化会館とか、今でいうリサイタルみたいなたっぷりやれるコンサートもやってました。

——まだダンスホールでしか、やる場がなかった時期から時代が変わって、本当のロック、ライブをやれる時期がやっと来たんですね。

柴山:ダンスホールでやるのが最後の方は嫌になってたからね。『Woodstock』とかライブ映画観るとさ、あんなところでライブするなんて羨ましくてさ。福岡のどこに行ってもやってなかったからね。自分達だけはコンサートバンドになるんだって思ってた。

——デビューの話が来たのはいつごろだったんですか?

鮎川:’74年に初めて話がきたのが最初でしたね。その時キャロル、ミカバンド、はっぴいえんどといった日本のロックの大御所はたくさん出てたけど、センチメンタルシティロマンスとか、めんたんぴんとか地方のバンドに声がかかり出したのがその頃で。

サンハウスsonhouse-shobayama

——昔のジャケット写真とか色々見ると、5人ともファッションがバラバラですよね。バンドで揃ってどうのこうのという話はなかったんですか?

鮎川:勝手にしとるからね。言われるのが好かん奴らが作ったバンドやったからね。『ブルースが好き』という共通点以外はどうでもよくて、後はみんな自由に。

柴山:なんといっても貧乏やったからね。欲しくてもさ、お金がなくちゃ何も買えない時代だし。

——ライブでは柴山さんが化粧をしたり派手めな格好をしたりして、鮎川さんはいつもスーツ系なんですよね。

鮎川:ある日柴山さんが「俺、今日から化粧すっけ!」とか言って、いきなり化粧した格好で出てきて他の4人は「わっ!」って感じ(笑)

——あのスタイルはやっぱりグラムロックの影響からですか?

柴山:違いますよ。『キングスネークブルース』を最初作った頃は化粧とかしてなかったんですよ。マイクスタンドをこう股に擦りつけたりしよる時、自分が「柴山」として立っていてバカと思われたら恥ずかしいなって思いながら最初やってたんですよ。それだと格好悪いって人に言われて、なら自分の名前じゃない名前をつけて全く違う人格にしてしまえばいいんだって、化粧したり着物みたいなのを着たりするようになったんですよ。そしたら、何やっても恥ずかしくなくなった。

鮎川:ある日「俺、自分に『菊』っち名前付けるけ」と言われて。「『菊』って『弁天小僧の菊の助』のあの菊?」っち感じで(笑)。

柴山:「ジギー」とか付けるよりはいいかなと思って。ただ曲作ってバーンとやったってたくさん出れないから、その曲を5回観るより2回でわかってくれた方がいいと思って。自分の曲を作るようになってアピールするための道具として、いつも印象に残るようなことをせんないけんと思うと、とにかく色々考えるじゃないですか。ない知恵を絞って色々考え・・・、近所の人からは怒られ・・・(笑)。

 

4. 「めんたいロック」の先駆者

サンハウスsonhouse-photo2

——随分経ってから、例えば『めんたいロック』と言われた後輩達がいっぱい出て来るじゃないですか。でも、サンハウスの時代にも他に日本語のオリジナルをやるみたいなバンドはいました?

柴山:ブロークダウンエンジンっていうバンドもおったり、今の山善っていう奴で田舎者っていうバンドもいて、結構いたんですよ。ただ甲斐とかリンドンとか、照和に出てて、ちょっとクリーンにしたようなイメージのバンドがどんどんデビューしていく中で、照和にも出るけど、どっちつかずのちょっと外されかかったみたいな人達がおりましたよ。そんな悪いバンドでもなかったと思う。

鮎川:その後、モッズもいたし、ロッカーズもサンハウスと一緒にやってたしね。

——やっぱり博多は当時から燃えてたみたいな・・・?

柴山:フォーク系はね。ロック系はそんなに燃えてなかったね。その後の、ロッカーズやルースターズとかが動き出した時の方が、ちょうどライブハウスがどんどん出来る頃の時代にマッチして、パンクもあってうまく波に乗ったけど、俺たちの時はそんなのはなかったからね。ライブハウスもなかったし、ファッションとしてのロックとかいうスタイルもまだなかったから。

——なおさらサンハウスは先駆者というイメージになりますね。

柴山:たまたまその年に生まれて一番いい年にやりよっただけかもしれない。それよりもっと早くても、俺の先輩にグループサウンズの成れの果てみたいな人が色々いるんですけど、あの人達みたいになってたかもしれない。最終的にヒモになって、ただの「すけこまし」みたいな(笑)、そうはならなくて良かった。

——(笑)。当時の日本のバンドで意識したバンドはありますか?

柴山:意識するというか凄いバンドがおると思ったのは、村八分とか頭脳警察。村八分は、ダイナマイツにおった山口冨士夫がしよるバンドで、もの凄い刺激的な感じがしたし、名前もかっこいいなと思ったし、敵対するのに一番ちょうどいいっていうか(笑)。

——鮎川さんは後に山口冨士夫さんとの交流があったそうですが?

鮎川:うん。俺はいつか一緒にやりたい人だったから。もちろんフォークの高田渡とか加川良さんとかアイドルはいっぱいおるんですよ。はっぴいえんどの細野さんとか、久保田麻琴も音がよかったし、同世代のバンドはいっぱいおったけど、唯一、冨士夫は飛び抜けて気になる存在やった。実際よかったですよ。エレックレコードから出た二枚組と『ひまつぶし』っていう彼のソロは素晴らしかった。あと布谷文夫のソロもよかったしね。

——東京は東京で何か色々やってるなっていう雰囲気は知ってました?
鮎川:うん。『ニューミュージックマガジン』やらが東京の情報を伝えてくれるから知ってたね。

柴山:東京の方は入ってくる情報もすごいやろうし、私みたいな田舎に住んでる人間より凄いから、半分雲の上の人だと思ってましたよ。東京は凄いだろうとずっと思ってたね、行くまでは。

——実際に行ってみたら?

柴山:行っちゃったら、大したことないなって。大したことないって言ったら失礼だけど、そんなに俺を脅かすほど「うお〜!」って思うような人はいなかったね。どっかにいたのかもしれないけど。

——僕ら東京の観客からしてみたら逆で、「九州の方はすごい!」みたいなイメージだったんですよ。実は僕は’75年の日比谷の野音のライブを観てるんですが、その時、サンハウスがステージに登場をしたのを観て、インパクトが強すぎてビックリした覚えがあるんですよね。

鮎川:それは嬉しいですね。

サンハウスayukawa-shibayama2s

——現在の日本のロックシーンはどうですか?

柴山:別に。知らないことはないけど、あんまり興味がないっていうか。拒絶とかいらないとかは思わないけど、極端に言えば、もう少し脅やかされるぐらいの人がいたら、ひょっとしたら振り向くかもしれない。

——そういうのってテクニックとかの話じゃなくて、ですよね。

柴山:うん。「こんな凄い人が出てきたんだ。じゃあ俺もそろそろ消えないとヤバいんじゃないか」って思わせるような人が出てきて欲しいとも思うけどね、そういう人があまり出てこないから。浅井健一、ベンジーとか最初出てきた時は、「うわーカッコイイな」と思ったけどね。あとソウルフラワーユニオンの中川(敬)とか。俺は個人的にはああいう思想は嫌いだけどね。中川とかベンジーぐらいは意識の中に入るけど、他のは入ってこないですね、悲しいかな。

——ロックが聴こえてこない、みたいな感じですか?

柴山:ちゅうか「生き方」が好きなんですよ。ただ商売でやって客満杯にしてやってるより、一生懸命頑張って前進してるっていうかね、それが見えたりすると刺激をもらう。

 

5. SONHOUSEは僕らの「宝物」

——今回のBOXセットは『THE CLASSICS』っていうタイトルがいいなと思ったんですが、これはレコード会社が付けたんですか?

鮎川:僕が付けました。僕達はブルース・クラッシクスっていうアルバム育ちなんでね。ロックっちいうのは若い心の音楽だから、やっぱ願いを込めてっていうか。

——普遍性みたいなことですか?

鮎川:うん。チャック・ベリーの曲を今でもギターで弾くように、日本語のロックもそうであったら、と。ロックの好きな仲間達がTVで昔の曲をやりよるオヤジバトルとか見るとさ、「あーサンハウスの曲もやって欲しいな」って思うんですよ。それで「クラシックスの一員になりたい」という願いを込めて付けたんです。

サンハウスsonhousebox

——なるほど。すごく決まってると思います。このBOXセットの中で新しいものというと、DVDが今までなかった映像なんですよね?

柴山:DVDもそうだし、’74年の郡山のワンステップフェスティバルのライブも新しく入ってるところだね。

鮎川:うん。今回はそれが目玉ですね。僕たちも皆その時の音源があることを知らなかったから。テイチクの倉田さんが色々手を尽くして見つけてくれてね。

——郡山のワンステップに出演されたのはどんな経緯だったんですか?

鮎川:ワンステップは8月に何日間にも渡ってあった、ほんとに誇らしい日本で最初のロック・フェスでね。オノ・ヨーコさんもメッセージを携えて来るし、ジュリー(沢田研二)と内田裕也のスーパーバンドはあるし、色んな意味で凄いバンドが出てて、そこにサンハウスもキョロキョロしながら半分まだお登りさん気分で出演した。その前にファースト・ステップ・コンサートと銘打ってトランザムと一緒に九州を4ヵ所ぐらい回らしてもらって、石間さんをはじめ彼らやジョニー野村達が俺たちを認知してくれたお陰もあったように思うね。

柴山:裕也さんも気に入ってくれてたからね。

鮎川:それから郡山の音源プラス、レーベルの問題でそのままの形では組み込めなかったけど、コロムビアから出た『ストリートノイズ』を音源として入れられた。これはオフィシャルに出た全部の音源が一堂に集まったっていう初めてのサンハウスのコンプリート版やね。

——今回、’83年、’98年と続いて3回目の再結成となるわけですよね。資料のどこかで見た「32年前に解散したのに今またできることが嬉しい」というフレーズがいいなと思ったんですよ。

鮎川:’83年は『クレイジーダイアモンド』というライブアルバムが発売されて、あの時ウィルソン・ピケットを観に、たまたま柴山さんと俺と浦田とでライブ・インに観に行って、「ちょっとやろうか」ってなって何ヵ所かでやったんよね。その時は、リミテッドにしとこうと最初から思ってたけど。

サンハウスsonhouse-live

——メンバーとの交流はコンスタントに続いてるんですか?

柴山:そんなにはしてないと思いますよ。ほんと自然にたまたま会うとか、まぁ同じ畑に今もみんなおるし、努めて会おうとかはないし。

——今回の再結成はやはりBOXセットの企画がきっかけとなったのでしょうか?

鮎川:’98年に『BLACK BOX』がテイチクから出て、そのお披露目も兼ねて福岡と東京の2回だけライブをやったんやけど、そのときは、ドラムスの鬼平もしばらく離れとったから「できるかいな」と不安げに言いよったけど、そのライブ以降は、もうずっとこの10年博多で若いもんから引っ張りだこでね。その鬼平が今年で60になるということで、「自分の還暦祝いも兼ねて、パーッといこう」と鬼平が言い出して。わりと鬼平の方から働きかけてきたんですよ。そしたらちょうど35年で区切りがいいというんで、別件でテイチクはBOXセットの企画を持ってきて、それが今回、合体した感じですね。

——なるほど。色々なタイミングが重なったんですね。

鮎川:うん。去年ぐらいから、ほんとに重要なロックの位置にいるようなスター、日本でもそんなスター、清志郎やったり、アベフトシやったりとか川村かおりもそうだけど、あんな俺たちより驚くほど若い世代の人達が次々亡くなったりする中で、60過ぎが4人もおるサンハウスがまだ元気にしとる。「生きとる間にしようや!」と。

——今回は全国6都市6ヵ所でのツアーになるんですよね。

鮎川:今回は大阪、京都も行くことになって、それから北海道・札幌は、トランザムとのツアーかゴダイゴとのツアー以来30年ぶりに行かせてもらおうかという感じで。あと、2番目に縁のある長崎が熱望してくれて、福岡の次にプラスされて、全国6ヵ所でやることになってます。

サンハウスayu-shiba

——リハーサルはまだやってないんですか?

柴山:リハはライブの前に3日ぐらいでやろうかと。

鮎川:それまではイメージトレーニングっちゅうか、まぁそういう感じで。自分達のサンハウスは柴山さんの言葉を借りれば宝物やし、1曲1曲が生き物やし、毎日が生き物みたいに思っているから。

——今回のライブは60代に差しかかったこともあって、”最後のサンハウスツアー”と評する声もあるわけですが、いつまでサンハウスはやるんですか?

柴山:それはわからないですね。今度またあるのか、ないのかも。

——サンハウスで新しい曲を作ろうとかは?

鮎川:俺がシーナ&ロケッツで新しい曲を作る。当然の如く、33年目に突入せんないかんし。

柴山:そう、それでいいんだと思う。俺もサンハウスのために新しい曲を作ろうなんかは、あんまり考えてない。自然にできたらそれでいいかなとは思うけど。なんか企画があって、それに合わせて新曲2,3曲入れないといけないっていう程、俺達はしょうもないバンドじゃないですから。それを救いにするようやったら、もうやんないですね、俺は。「ちょっと新しいアレンジした方がいいんじゃない?」とか赤の他人に言われたらさ、「余計なこと言うな!」っちいう感じ。俺が変えたかったら変えるし、変えたくなかったら変えない。新曲作りたかったら作るしさ。はっきり言って、それで保たないっていうんだったら、もうサンハウスはやんないと思います。

鮎川:ただ今回こうやってやれること、こうやって昔作った録音した曲がまた聴いてもらえることは感謝にたえないっていうのは本当ですね。実際、僕たちはそういう音楽の聴き方を実践して来てるわけです。マディー・ウォーターズが’48年にレコーディングした『 I Feel Like Going Home』を今日も聴くわけだし、ジョン・リー・フッカーが’40年代に録音した『Boogie Chillen』っていう凄いロックンロールを今でも聴くように、凄い曲っちいうのは今も生きとるっちいうのを僕は20代の時に体感しとるから。
 サンハウスが’75年から7年にかけて録音した曲は真剣にやっとるし、人に言われるがままにやった曲は1曲もない。全部自分らで選んで自分達でアレンジもして、5人だけで演奏して、何のアドバイスも聴く耳を塞いで作ってきた曲だから。

——だからこそ時代を超えた楽曲や演奏になっているんでしょうね。

鮎川:おかげで音楽は生きとると思います。死んだ曲っちいうか心の入ってない曲や魂の入ってない曲は1曲も入ってない。ほんとにどの曲も人なつっこくて、成長の度合いはあれど、いつでも聴けるような真実のロックやと思います。

——生きた音を聴いてくれ、と。メッセージじゃなくて、俺達のライブを見てくれ、と。

鮎川:そうですね。メッセージやら何もないです。生きとる奴がロックを楽しむ、お互い楽しみ合う、そういう場所で出会う、それが全てです。

——本当にツアーが楽しみですね。ちなみに夏フェスの出演予定などはあるんですか?

鮎川:その後の予定はなしです。5月限定です。ツツジの如くね。

-2010.3.15 掲載

 

6. SONHOUSE35th ANNIVERSARYツアー / BOXセット INFO

サンハウスt-06
(LAST UPDATE:2010年5月12日)

● LIVE INFO
“SONHOUSE 35th ANNIVERSARY TOUR “
・2010年5月9日(日) 恵比寿 LIQUIDROOM サンハウスsoldoout
・2010年5月15日(土) 大阪 BIGCAT
・2010年5月16日(日) 京都 磔磔  サンハウスsoldoout
・2010年5月22日(土) 福岡 DRUM LOGOS サンハウスsoldoout
・2010年5月23日(日) 長崎 DRUM Be-7
・2010年5月29日(土) 札幌 BESSIE HALL

■2010年5月9日(日) 恵比寿LIQUIDROOM サンハウスsoldoout
開場/開演 17:00/18:00 前売5,000円(1drink別)
<チケット発売中>※完売
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:346-175)
・ローソンチケット 0570-084-003 (Lコード:74452)
・イープラス
・GAN-BAN 03-3477-5701(店頭販売のみ)
主催:HOT STUFF PROMOTION
企画・制作:SONRISE2000 / ESSENCE / DOOBIE
協力:テイチクエンタテインメント 
お問い合わせ:HOT STUFF PROMOTION 03-5720-9999
——-
■2010年5月15日(土) 大阪 BIGCAT
開場/開演 17:00/18:00 前売5,000円(1drink別)
<チケット発売中>
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:348-326)
・ローソンチケット 0570-084-005 (Lコード:54091)
・イープラス・BIGCAT 店頭販売
主催・お問い合わせ:サウンドクリエーター 06-6357-4400
——-
■2010年5月16日(日) 京都 磔磔 サンハウスsoldoout
開場/開演 17:00/18:00  前売5,000円(1drink別)
<チケット発売中>※完売
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:348-326)
・ローソンチケット 0570-084-005 (Lコード:54091)
・イープラス・磔磔 店頭販売
主催・お問い合わせ:サウンドクリエーター 06-6357-4400
——-
■2010年5月22日(土) 福岡 DRUM LOGOS サンハウスsoldoout
開場/開演 17:00/18:00 前売5,000円(1drink別)
<チケット発売中>
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:348-616)
・ローソンチケット 0570-084-008 (Lコード:87877)
・イープラス・つくす
主催:TSUKUSU 092-771-9009
お問い合わせ:TSUKUSU 092-771-9009
JUKE RECORDS 092-781-4369
——-
■2010年5月23日(日) 長崎 DRUM Be-7
開場/開演 17:00/18:00 前売5,000円(1drink別)
<チケット発売中>
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:100-571)
・ローソンチケット 0570-084-008 (Lコード:88615)
・イープラス・つくす
主催:FM長崎 企画/制作:SONRISE2000/ESSENCE
協力:テイチクエンタテインメント
お問い合わせ:FM長崎 095-828-2020
——-
■2010年5月29日(土) 札幌 BESSIE HALL
開場/開演 17:30/18:00 前売5,000円(1drink別)
<チケット発売中>
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:348-711)
・ローソンチケット 0570-084-001 (Lコード:11639)
・イープラス
主催・お問い合わせ:マウントアライブ 011-211-5600

●プレ・イベント
MAJOR DEBUT 35TH ANNIVERSARY
「SONHOUSE PREMIUM TALK SHOW」
2010年5月7日(金) 新宿 LOFT/PLUS ONE
開場/開演 18:30/19:30
前売¥2500 / 当日¥3000(共にドリンク別)
出演:SONHOUSE
ゲスト:松本康(JUKE RECORDS)/ 仲野茂(SDR)
MC:スマイリー原島 / 椎名宗之(ROOF TOP編集長)
チケット一般発売:4/3(土)〜
・ローソンチケット (Lコード:36491)
問:ロフトプラスワン 3205-6864

●35周年記念BOXセット
「THE CLASSICS~35th anniversary」
サンハウスsonhouseboxサンハウスbox

◎監修 : サンハウス◎
★全8枚組(CD7枚/DVD1枚)
★価格:税込定価17,000/ ★品番:TECS−17431
●限定生産BOX/初回生産シリアル・ナンバー入り
●SHM-CD
●紙ジャケット
●デビュー・パンプレット(復刻)
●ブックレット(32P、CDサイズ)
「柴山俊之&鮎川 誠&奈良敏博」の最新ヒストリー・インタビュー&未発表を含む写真等々掲載 
●1998年「ROCK’N BLUES BEFORE SONSET」
(限定BOX/メンバー監修によるリマスタリング作品をもとにリマスタリング)

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★SONHOUSEコラボTシャツ by HYSTERIC GLAMOUR
4月初旬より、全国のHYSTERIC GLAMOURショップ及びHYSTERIC GLAMOUR ONLINE STORE・ZOZO TOWNにて販売。
デザイン:2種類 カラー:各3種類 (ブラック・ホワイト・グリーン)
サイズ:S / M / L(メンズサイズ)¥9,240(税込)
お問い合わせ:HYSTERIC GLAMOUR 03-3478-8471

サンハウスtshirts

サンハウスtshirts2 サンハウスSONHOUSE

● LINK
オフィシャルサイト

●SONHOUSE バイオグラフィー
【サンハウス】
柴山俊之 Vocal 鮎川誠 Guitar
篠山哲雄 Guitar 坂田“鬼平”紳一 Drums 奈良敏博 Bass

1970年福岡にて結成。当時、九州から本格的なエレクトリック・ブルーズ・バンドの誕生として注目を集める。その後、独自の歌詞世界を持つ「日本語のロック」を確立し1975年にはファースト・アルバム『有頂天』を発表。メジャー・シーンに君臨しつつも福岡に根ざした活動を続けるが、1978年に惜しまれながら解散。ライヴハウス前夜のダンスホール時代から培ってきたブルーズ・ロック・サウンド、刺激に満ちた歌詞、グラム・ロック?パンクともリンクしたヴィジュアル性、そして地元に対する強いこだわりは、後に“めんたいロック”とよばれるムーヴメントの始祖として現在に至るまで高い評価を得続けている。

バンド解散後、柴山は作詞家を経てRUBY、ブルース・ライオン等のバンドを結成。
現在はZi:LIE-YAを率いて活動中。
鮎川は1978年からシーナ&ロケッツのバンマスとして、既に結成32年を誇る。

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