【13th TIMM】優れたマネージメントがアーティストを世界へ導く ビジネスセミナー「Keynote Conversation ~ 今後の日本アーティストの海外展開」丸山茂雄氏×Kaz Utsunomiya氏
Antinos Management America, Inc. / COO 兼 Executive Produce
Kaz Utsunomiya (写真右)
株式会社247代表取締役 / S.M.Entertainment 顧問
丸山 茂雄 (写真左)
ロサンゼルスを拠点として活動する音楽プロデューサーのKaz Utsunomiya氏と、ソニー・ミュージックエンタテインメントの元社長であり、現在は(株)247 の代表取締役、またS.M.Entertainment 顧問としても活躍する丸山茂雄氏を迎え、これまでの事例を踏まえつつ、今後の日本のアーティストの海外進出について語りあった。
YMOの成功をきっかけに海外進出へ挑戦
対談は丸山氏の「老人が昔話をしているなと思って頂ければ結構」というエクスキューズとともに始まり、「仕事を始めたときアメリカとイギリスの音楽業界で働いていたのは私だけだった」と語るKaz Utsunomiya 氏がそのキャリアを紹介した。
Kaz:私は小・中学校をイギリスで過ごしたんですが、その後、日本の大学へ行き、イギリスに戻り、アルバイトとして「MUSIC LIFE」という雑誌のロンドンレポーターをやりながら、日本とロンドンを行ったり来たりしている間に、渡辺音楽出版の中村さんという当時ロンドンを担当していた方から、「日本に帰るので、代わりにロンドンで出版をやってみないか?」と言われて、渡辺音楽出版のサブパブリッシングを取るような仕事に就きました。私は日本のレコード会社で働いたことがなかったので、文化の違いに戸惑いつつも、たくさんの出版権を取っていきました。
丸山:日本のミュージシャンとして世界に出ていくのが早かったのはYMOです。70年代の終わりから80年代の頭にかけてですね。
ある意味、パラダイムがちょうど変わる時期だったんですよね。日本においてロックはまだたいしたことがなかったんですが、欧米ではロックが成長のピークになり、時流もパンク、ニューウェーブに移りつつある時期に、コンピューターを駆使した新しい音楽が出てきた。
Kaz:そうですね。YMOは、JAPANの連中とかがすごくリスペクトしていて、そういう口コミがミュージシャンの中ですごく早く広まり、それでYMOがイギリスに来たと。そういう意味で一番初めに海外に出て来たのは、YMOだと思います。
丸山:ちょうどその頃、私はEPICレーベルの邦楽の責任者になったんですが、YMOを見て「日本のミュージシャンでも、世界に出て尊敬されることがあるんだ」とそう思い、「世界に出て行くような音楽をやろうぜ」みたいな、そんな感じでスタートしたんです。
同時にロンドンにいたKazと知り合って、Kazからいろんなことを学びながら、向こうにアーティストを持っていくにはどうしたらいいだろう?と考え始めました。そのときに真下孝幸が手掛けたのがMODSと、土屋昌巳の一風堂をバックにした山本翔で、この二組がロンドンの扉を開ける最初のアーティストになったわけです。
Kaz:真下が「MODSの一番初めのデビューアルバムをロンドンで!」と、強引にロンドンに来て、レコーディングしたりしました。あと、一風堂の『すみれSeptember Love』が資生堂のコマーシャルソングになり、「これが絶対にヒットすると思うんだけど、ヒットしているときには絶対に日本にいてはいけない」と(笑)。それで「ロンドンから生中継したいので、お願いします」と言われたりね。結局、一風堂はうちの事務所にしばらくいたんですが、JAPANのマネージャーに交渉して、JAPANの前座にゴリ押しして、それが衛星中継になりました。その後、JAPANのギタリストが骨折したので、急きょ土屋昌巳をJAPANの中に入れて「土屋昌巳がジャパンに入る!」みたいなニュースを作ったりもしました。
丸山:当時は、日本のユーザーに対するプロモーションとして、海外での活躍ぶりをニュースソースとして使う時代だったんですね。まず「海外で活躍している」というニュースを無理やり作り、それを日本に持ち込み、日本でヒットさせると。
日本の音楽を海外へ持って行くことの困難さに直面
話はアーティストが自国から海外へ進出することの困難さ、その苦闘の歴史について、それぞれの経験からエピソードが語られる。
丸山:それぞれホームの国があって、新しいところに行こうとするのは、そんなに容易いことではないんですね。EPICの中で私は最初、邦楽をやっていたんですが、ある時期に洋楽も管轄になりました。CBSはニューヨークやロスが中心の音、EPICは基本的にイギリスの音が中心、言い換えるとテリトリーとしてアメリカ以外の音は全部EPICだという風に思っていただければいいんですが、もう少しバラエティを増やすために「ヨーロッパ各国で1位のアーティストを日本で紹介してみたらどうだろう?」と思ったんです。それで、そのちょっと前に、フリオ・イグレシアスが日本ですごく売れたので、もう一人フランスのアーティストを紹介しようと、洋楽の連中と何人かでフランスに行きました。
それであるアーティストに会いに、パリの郊外まで行って「是非あなたを日本で紹介したい」と言ったら、キッパリ断られたんですよね。それはなぜかというと「自分はパリの真ん中に住んでいるフランス人ではない。パリの郊外に住んでいる、豊かではないフランス人の不平不満を曲にして歌っているわけで、それを日本人と共有できるとはとても思えない」とすごく真っ当なことを言われちゃったんですよ。日本からわざわざ来てくれたことに関しては感謝するけども、自分はそういうスタンスで歌っているので、たぶんこれから先も、せいぜい足を伸ばしたとしても、カナダのフランス語圏で歌うくらいであって、それ以外のところに行く気はまったくないと。
そこで私は、工業製品のように日本に整合した音楽やアーティストを海外に持っていくのは違うんじゃないか? と考え始めて、でも、やっぱり海外に日本のミュージシャンを連れて行きたいという気もあり、何をやったかというと、日本で売れていないミュージシャンを、売れる前からロンドンに留学させようと、Kazに預け始めました。
Kaz:そこには「やはり現地で生活していないとダメなんじゃないか?」という考えがあって、女優になる前の鈴木杏樹さんとか、歌手を目指して、ロンドンに住まわせました。彼女は少し英語がしゃべれたので、うちに来ていたピート・ウォーターマンという名プロデューサーのところにお世話になって、KAKKOというアーティスト名でレコードを1、2枚出したんですよね。結局うまくはいかなかったんですけどね。
丸山:その後、Kazはアメリカに移っちゃったので、ロンドンの方は自分たちでやらなくてはいけなくなり、大竹という若者をロンドンに駐在させて、今度は彼のもとに若者を送り込みました。当時送り込んだ若者の中で今でもロンドンで活躍しているのがギタリストの鈴木賢司ですね。あと、屋敷豪太とか次から次へとミュージシャンやエンジニアも送り込みました。当時、レコード会社は滅茶苦茶儲かっている時期でしたから、今から思うと夢のようなことを次々できたんですよね。それでもなかなか花は開かず、音楽を海外へ持って行くことの難しさについて、80年代〜90年代にかけて我々はずっと悩み続けたわけです。
Kaz:実際いろいろやってみたんですけどね。あんまり成果を出せなかったものもあるし…。
丸山:音楽として大成功したYMOを先に見ちゃったのが、私の勘違いの最大の理由で、アニメだったら、そんなに感情移入しなかったと思うんだけどね。でもYMOが行けたんだからと思っちゃって…だからYMOには責任を取ってもらいたいよね(会場笑)。時代のパラダイムが変わった瞬間に彼らの傑出した才能が飛び出して、世界中から評価された光景を見たのでね。それで完全に勘違いしまして、ずいぶん無駄とは思わないですけど、お金を使っちゃったなあ(笑)。それで、今度は音楽単体ではなく、映像を使っていくということを始めました。
あらゆるところで自問自答しないと生き残れない
80〜90年代の海外進出へのあらゆる取り組みを踏まえた上で、Kazが海外進出成功への現状把握を語る。キーワードは映像、楽曲制作も含めたローカライズ、そしてマネージメント。
Kaz:今は媒体がたくさんありますし、特にアニメは強力な映像コンテンツですよね。アニメは世界中に広がりつつあって、それに付随している音楽は、注目されるようになっている。あるいはヴィジュアルを絶対に無視できない、BABYMETALのような存在が出てくる。また、今のK-POPも映像と切り離せない。80年代初頭の音楽と、今の僕らが考えている音楽は、たぶん内容と質が大きくチェンジしているんじゃないかと若干思います。
もう1つは、丸さんが海外にどんどんアーティストを送り込んだ例じゃないですが、現地で一生懸命戦うのはすごく重要なことだと思います。YOSHIKIはもう20年くらいロスにいますが、本当にがんばっていると思います。英語を全然しゃべれなかったのが、英語をしゃべれるようになり、新しいメディア、例えば、アニメを使ったり、ドキュメンタリー映画を作ったり、何回もトライしようとするじゃないですか。
日本で大成功しました、ハイ世界に行く、という考え方って、乱暴に言うとアメリカ人の考え方なんですよね。アメリカ人って、スタンダードがアメリカだから、アメリカで成功したら、自動的に世界中にディストリビューションして、モノが売れる、文化も売れるという風に思っています。最近のアメリカはそうじゃなくなっていますが、恐らく70〜80年代くらいのアメリカの思想はそういうことだと思います。でも、「自分のところが終わったら、その次に世界に行く」と自動的に考えるクセが、日本では成立しないんだと思うんですよね。だからこそ、向こうで生活するということをやらなきゃいけないのかもしれません。
また、海外に行くにはアーティストも重要だけど、何より重要なのはマネージメントです。バンドを見つけるより、優秀なマネージメントを見つけるほうが難しいかもしれない。だから、本当にマネージャーを育てるのはものすごく必要だと思います。でも、本来マネージャーってすごくおもしろい職業ですし、海外では優秀なマネージャーはバンドと同じくらい儲かるし、インセンティブがありますからね。
あと、アメリカとかイギリスでやるためには、その土地にあった曲の書き方にあると思うんですよね。それを乗り越えるために、例えば海外のパートナーとCo-Writeするのは、次のドアを開ける手段になるかもしれません。
丸山:上手くはいきませんでしたが、我々が80〜90年代にやったことって決して無駄ではなくて、今もう1回見直せばヒントになることもあると思いますし、アニメやゲームなどのコンテンツや、SNSなど新しいメディアもありますから、新しい試みができると思います。加えて、今コンサートにお客さんがすごくよく入るので、そういう意味でも日本のアーティストにとって前よりはチャンスがあるんじゃないかと僕は思います。
レコード会社は、80年代から90年代の終わりくらいまで、大変な力を持っていたわけですが、2000年に入り、その力が落ちてきて、落ちてきた分どうなっているかと言えば、アーティストとマネージメントが「どうやって生き抜いていくか?」と考えるようになったわけです。そして、自分たちで色々な方法を見つけて、決断して、行動に移すことで、新しいことが生まれるわけですが、音楽業界の構造は、まだそこまで変わっているわけではないと思うんですよ。
YouTubeなんかをもっと利用できるはずなのに、利用できないのはなぜなのか? とか、原盤を自分たちで持っているのにもかかわらず、レコード会社に頼るところが大きいのはなぜか? 原盤を持っているんだったら、もっと自分たちが責任を持って頑張らないといけないのではないか? とか、あらゆるところで自問自答してやっていかないと、今の時代を生き抜いていけないという時期に来ていると思います。
世界に広がったYouTubeは、明らかに正しい著作権の運用ではなかったわけですよね。ただ、正しくはないんだけど、現行法の中で全部処理しようと、この20年近く音楽業界はギャンギャン言っているばかりで、それですべて改善したかというと、明らかにあらゆる事態で全敗しているんですよね。例えば、「着メロはおかしい」と言っていながら、それは基本的に今の日本のITの基礎を作ってしまったわけで、現行の著作権や法律の部分で言えば「あれはおかしいよね」と言っている間に、現実はどんどん動き、それが成果を生み、新しい時代を切り開いている事実に、私も含めてここにいる音楽業界の方々はもう少し敏感になったほうがいいんじゃないかと思います。
後半、質疑応答に入り、インディーズアーティストの海外進出について質問について、丸山氏は「昔のレコード会社はB to B to C でCとは直接つながっていなかった。でも、今は真ん中にいるBを飛ばしてCにつながることができるんだから、どうやったら一番効果的なつながりができるか考えるべき。」と答え、最後に「でもね…それを俺なんかに聞くなよ(笑)。はっきり言って、ここにいる若い人のほうが一番それをわかっているんだから。がんばって!」と若い世代への期待を込めて対談を終了した。