第171回 株式会社ヤマハミュージックジャパン LM営業部 部長 兼 ARTマネジャー 小島高則氏インタビュー【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は松武秀樹さんのご紹介で、株式会社ヤマハミュージックジャパン LM営業部 部長 兼 ARTマネジャー小島高則さんの登場です。小学校の先生たちが弾き語るフォークギターで音楽に目覚めた小島さんは、楽曲コンテストに応募する為にアドバイスを求めて訪ねたヤマハで中学生の時にレコーディングスタジオでバイトをすることに。
そこでのお手伝いやイベント、コンサート企画に携わる中で音楽の裏方の楽しさを知り、そのまま24歳でヤマハへ入社。以後、大阪でのセールスを経て、企画マーケティングの仕事では坂本龍一さんや松武秀樹さん、冨田勲さん、小室哲哉さんなど数多くのアーティストたちの、音楽活動をサポートされてきました。
現在は楽器フェアの企画責任者としても奮闘する小島さんに、長きに渡るヤマハでのお仕事やアーティストたちとの交流、そして現在取り組んでいる楽器の演奏人口拡大への活動までお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
小島 高則(こじま・たかのり)
(株)ヤマハミュージックジャパンLM(※1)営業部 部長 兼 ARTマネジャー。1970年代後半からヤマハ名古屋地区でアルバイトをスタート、主にバンド系カテゴリーの音楽普及・イベント企画・小売・卸部門を経て、1988年にヤマハ(株)入社。主にプロオーディオ、電子楽器畑のマーケティング・セールス・アーティストリレーション業務を経て、2010年から2013年まで中国にて市場開発、2013年9月より現職。入社30年で、リリース関わった新製品モデル数は1,000品番以上。ヤマハブランド以外に「Steinberg、Line6、Ampeg」等のヤマハグループブランド、「Marshall、Zildjian、nord」等の輸入ブランド計27ブランドの国内マーケティング・セールスを担当。1,000名を超えるロック&ポップス、ジャズ系アーティストリレーションのマネジメントも兼務している。
※1:LMとは「Light Music」の略称。1960年代後半にヤマハが創った造語で小規模なバンド編成のこと(世界的にはComboと呼ぶ)。今では楽器業界でも定着しており組織名称として使用する会社も多い。
先生たちの弾くフォークギターで音楽に目覚める
──前回ご登場いただいた松武秀樹さんとはどのようなご関係なのでしょうか?
小島:松武さんとは30年以上前から、ヤマハ製品を評価していただいたり、プロモーションでイベントに出演していただいたりの関係をずっと続けています。また、松武さんが1988年にJSPA(現在は日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ)という団体を冨田勲さんと共に立ち上げられた後に、その協会の運営サポートをさせて頂いています。
──長いお付き合いですね。
小島:そうなんですよ。最初の頃の JSPAはお金のない団体で、事務局が松武さんのご自宅にあるぐらいだったんですが(笑)、当時は団体の封筒もなかったので、文房具屋で茶封筒を買ってきて、切手を貼って会員さん向けの会報とかご案内を出したりしていましたね。
実は、私にヤマハを紹介してくれた先輩のお兄さんが松武さんと同級生だったんですよ。ですから松武さんのことは以前から存じ上げていたんです。でも、こんなに親しくしていただくのはヤマハに入ってからですけどね。レコーディングの現場にもよく伺いました。
──スタジオにもよく行かれていたんですか?
小島:よく伺いました。当時は徐々にレコーディングスタジオから自宅のプライべートスタジオへみたいな時代だったんですが、それでもレコーディングスタジオに籠り切りで、朝までやるみたいなのが当たり前でした。そういうスタイルって今はもうないですよね?
──全くありません。残念ながら。
小島:本当になくなっちゃいましたね。
──スタジオに車で来る人も少なくなって、電車で来て、電車がある時間には終わらせると。
小島:それってどうなんでしょう? いい時代なんでしょうか。健康的だとは思いますが。
──健康的ではありますが、スタジオ経営者としては厳しいです(笑)。
小島:そうですよね。僕がスタジオに通っていた時代は、レコーディングエンジニア、アーティスト、ミュージシャン、プロデューサーと役割分担がされていたんですが、徐々にセルフプロデュースみたいな制作が増えていきましたよね。
──そのとおりですね。ここからは小島さんご自身のことを伺っていきたいのですが、お生まれはどちらですか?
小島:愛知県です。名古屋と言いたいのですが、正確に言うと、中部セントレア空港のある知多半島の付け根に名古屋市と隣接した東海市というところがありまして、そこの出身ですから田舎者でございます。
──いやいや(笑)。どんなお子さんでしたか?
小島:月並みな田舎の鼻垂れで、野球小僧でした。僕の時代は野球が一番で、今はサッカー選手とかYouTuberが小学生のなりたい職業ですけど、僕らの頃は男の子はプロ野球選手、女の子はピアノの先生とかですよね。自分もご多分に漏れず、小学校は野球をやっていたんですけれど、ある日音楽に目覚めて、そこからは音楽と野球をなんか両立できないかなと思っていました。
──なにがきっかけで音楽に目覚めたんですか?
小島:小学校3年ぐらいのときに、男の先生2人が始業式や終業式、謝恩会といった学校行事のときに体育館のステージでギターの弾き語りをやってくれたんですよ。それが滅茶苦茶格好良くて。その2人の先生がフォークギターを弾いて、かぐや姫の歌を歌っている姿を観て「これはやらないかん!」と思いましたね(笑)。
──(笑)。
小島:発想は完全に、野球も音楽も「女の子にモテたい」とか月並みだったんです。
中学生にしてレコーディングスタジオでバイト
──最初はフォークギターを始めたんですか?
小島:フォークギターを始めました。実は実家に大きな蓄音機の様なレコードプレイヤーがあり、音楽も流れていましたけど、ただ聴いているだけでしたね。当時、ロックのライブを実際に観たりするというのはなかなかないじゃないですか。それでも「名古屋市公会堂に外国人アーティストがくるぞ!」って情報があり、叔父にロックのコンサートに連れて行ってもらうこともあったんですが、自分でやっていたのはフォークギターと歌ですね。
──その頃好きだったアーティストはどなたですか?
小島:圧倒的にかぐや姫ですね。南こうせつ、伊勢正三、山田パンダ。それで友だちのお兄さんがギターを持っていたりするので、貸してもらってコードを覚えてみたいな。
──ちなみにご兄弟は?
小島:姉が1人います。でも田舎の大家族で、家に12~3人はいましたね。叔父さん、叔母さんたちとも兄弟みたいに育って。
──音楽をやるような環境は家庭のなかにあったのですか?
小島:あったかもしれませんが、なかなかギターを買ってもらえなくて、アルバイトをしてお金を貯めてというのも考えたんですが、アルバイトは学校から禁止をされていたので、貯めたお年玉と母親に少し出してもらったお金でようやく買いました。
──音楽に目覚めてからは野球は辞めたんですか?
小島:中学までは両方やっていたつもりなんですけれど、やっぱり両立はできなかったですね。それで音楽に熱中して、当時FMの「エアチェック」って流行ったじゃないですか。FMだけの本がたくさんありましたし。
──FM専門誌っていっぱいありましたね。
小島:僕は楽器を演奏するだけじゃなくて、音楽を聴くことが好きなので、演奏するだけじゃなくて聴いている時間を考えると、野球に使っていた時間より、音楽に費やした時間の方が多いかもしれません。AMの深夜放送にもかじりついてましたし。
──音楽に関して、中学・高校と進学するにつれて本格的になっていくわけですか?
小島:いや、ならないです。月並みにコピーとかするわけですが、そうするとやればやるほど「うまいやつっているよな」とか「こいつに敵わないよな」とか「曲を作るって難しいよな」とか「アレンジって誰か教えてくれへんかな」とか思うわけですよ。そうするとやっぱり壁にぶち当たりますよね。よくフォークギターでハイコードが難しくていったんギターを投げ出しちゃうという話を聞くじゃないですか。
──ちなみにエレキギターは弾かれたんですか?
小島:エレキも弾きましたけど、それは僕にとっては逃げですよね。やっぱり弾き語りに目覚めていたので。人とやってもいいんですけれど、小学校から中学校に入ったころまでは、やりたい音楽はロックバンドじゃなかったですね。それで中学に入ってカセットテープに弾き語りで演奏と歌を吹き込んで、コンテストに応募するわけですよ。でも、そう簡単には予選すら通過しませんよね。
──テープ審査で落ちてしまう。
小島:何度応募しても。しかも、なにが悪いのかがわからないから、次はテープ応募じゃなくて、ライブオーディションみたいなのはないかなと探すんですけど、意外となくて、まずはテープ審査が多かったんですよね。
しかもライブハウスも今みたいに沢山無かったので、演奏してパフォーマンスをする場所もないじゃないですか。それで中学2年生ぐらいのときにテープを持って、ヤマハに「どうしたらもっと上手くなりますか? アドバイスをください!」みたいな感じで聞きに行ったんですよ。一応、窓口の人って受け取ってくれるんですよね、テープと歌詞カードを(笑)。でもなんか「絶対にこの人は聴いてくれないよな…」って(笑)。
──(笑)。
小島:それで僕は「とりあえず置いて帰ろうかな」と思っていたら「ちょっと君、時間はあるのか?」ってその人が言うので「時間はたっぷりあります」と言ったら「ちょっとアルバイトをしていかないか?」って言われて「今日は時間があるし、いいか」と思って、連れていかれたのが同じビルの5Fにあるスタジオだったんですよ。
ヤマハの所有するスタジオウィングという。そこはアマチュアのポピュラーソングコンテストの中部地区の事務局があったんです。その大会に出て、予選を通過して準決勝を通過するくらいになってくると、そのスタジオで無料でレコーディングさせてもらえるんですよ。
──そのときって中学生ですよね?
小島:その時は隠していましたが中学生でした。でも当時って中学生でも意外とバイトってできたんですよ。それでスタジオに行ったら、要は機材の片付けですよ。
──いわゆるローディーですか?
小島:そうなんですかね。搬出、片づけ、セットアップ。でも憧れの楽器がたくさんスタジオに置いてあったので「これはいいな」と思ったんですよね。それでお金をもらったかどうかすら覚えていないんですけれど。そのレコーディングスタジオは、憧れの場所でしたね。
──趣味と実益がかなう素晴らしいバイトじゃないですか。
小島:当時、音楽誌で「プロはレコーディングちゅうのをやっとるんやな」ぐらいは知っていたんです。だけどまさか名古屋にもレコーディングスタジオがあるなんて思っていなかったんですよね。
イベント企画をきっかけに音楽の裏方の道へ
──中学生でレコーディングスタジオを観る経験があるのは、なかなかないですよね。
小島:そうですね。僕は、楽器でヤマハに入ったというよりは、レコーディングとかPA など音響機器のエンジニア志望で入ったんですが、そのスタジオでのバイトをきっかけに裏方の美学に目覚めて、中学の後半ぐらいからステージ制作をしたり、自主コンサートをしたりしたんですよ。
町の公民館を借りて、ヤマハから機材を借りてきてセットアップをして。自分ももちろん出演するんですが、自分が出るよりも仲間を集めて企画をして、コンサートにタイトルをつけて、それでプログラムを作って、台本を書いて。
──それって完全にイベントのプロデューサーですよね。
小島:いや、まだ当時はイベントプロデューサーなんて言葉がなかったじゃないですか。イベント・コンサート企画屋ですよね。それで味を占めた結果、ヤマハに今もいるんじゃないかと思いますけどね。やっぱり自分はミュージシャンとかに、早く見切りをつけたのがよかったと思いますね。
──切り替えが早いですね。
小島:切り替えが早かったのか、根性がなかったのか(笑)。コンサートを仕切るようになると、なぜかPAエンジニアの仕事が好きになっちゃうんですよね。サウンドチェックとかリハーサルをしていると、なぜかPAエンジニアが進行のキャスティングボードを握るんですよ。
舞台監督さんというのは自主コンサートにはいるような、いないような存在ですし、今みたいに照明とか映像とかがエンターテイメントじゃないので、 結果PAエンジニアが重要なポジションになるわけです。
──お話を聞いていると、学生にしてすでに仕事になっている感じがします。
小島:そのときに不謹慎ですが「儲かる」と思っちゃったんです(笑)。最初は無料のコンサートだから、参加者から参加費を1000円くらいずつもらっていたのを、だんだんチケットを300円とか500円で売って、そんなに儲かりはしませんでしたが、損はしなかったと思います。
──このリレーインタビューではその類の話が結構出てくるんですが、大体は大学時代のイベント研究会とかなんですよね。
小島:大学のときには、会社組織っぽくなっていましたね。
──だから小島さんは早いんですよね!
小島:やっぱり中学生のときにヤマハの人と知り合ったというのが全てじゃないですかね。高校のときには、大学の定期演奏会のPAの現場とかに行っていたので、大学のサークルの先輩もそのときから知っていましたし、自分が行っていない大学の先輩も知っていました。そんなことばかりやっていましたから、当然、演奏は上手くならないですよね。
──そういう才能がある人は、だいたい演奏はあまり…。
小島:そうなんですよ(笑)。なんかコンサート企画が楽しくなっちゃったんですよね。それでアマチュアが自主コンサートをやる手助けをしてあげる部署がヤマハの中にありまして、バイトで入るんです。そこでは機材提供だけじゃなくて運営面のサポートもしていて、例えば、パンフを作ったり、コンサートの構成台本を書いたり。僕はエンジニアでやっていきたかったんですけど、いつの間にか舞台監督みたいな仕事になっちゃったんですよね。
1980年代に入り、ヤマハ名古屋店内で組織されたヤマハコンサートプロダクト(略称YCP)と言うチームに加わり、ヤマハホールイベント企画制作を中心に名古屋近郊のライブイベント、大学バンドサークルの定期演奏会等のコンサート企画制作を担当しました。アマチュアバンドコンテスト「Mid Land」、ポピュラーソングコンテスト「POPCON」にもステージ制作スタッフとして参加する様になったのもこの頃でした。
1986年に名古屋城深井丸広場に野外ステージを組んで開催した「Mid Land’86中部グランプリ大会」ではTUBE、原田真二をスペシャルゲストに招聘し、約4,000名を動員しました。このライブイベント制作が、僕が今も音楽業界で働く重要なターニングポイントだったかと思っています。
──PA卓には座っていなかったんですか?
小島:いや、長いこと座っていました。実は今でも座っているんですが、あるときに台本書きに目覚めたんですよね。構成を考えると全体が見えるじゃないですか。音響、照明、映像とか。タイムスケジュールを切って、体勢を作って、台本を書いてみたいな。そういうことばかりやっていましたね。
ヤマハへ正式に入社をしたのは24歳ぐらいで、バイト時代の契約が長かったんですが、その頃もやたらイベント企画ばっかりやっていて、そのままインチキ入社みたいな感じでしたね。やはりイベント企画を円滑に行うにはストーリー、タイムスケジュール、運営体制、損益計算ですね。
──(笑)。高校3年生ぐらいのときに始めたイベントプロデュースの延長が大学でも続いて、そのままズルズルと続きヤマハに入られた?
小島:いや、簡単にはヤマハに入ることは出来ませんでした。当時は楽器産業は成熟期に入っていて正社員採用は10年くらいやっていない時代でした。中学校2年の終わりごろ、ヤマハにテープを持って行って、24歳でヤマハに入ったので、その間の10年間というのはずっとバイトですよね。
──ちなみに地元の大学へ進まれたんですか?
小島:地元の大学です。田舎にいると「東京に行きたい」とか「アメリカに行きたい」とか、誰でも思うじゃないですか。でも僕は絶対に許してもらえなかったんですよね。とにかく親からは「地元にいろ」と。どれだけお願いをしても「できるなら家の畑仕事を手伝え」とか言われて。
のちに、親が学費をあまり出せなかったんだなと気づいたんですけどね。自分の下に置いておきたいんじゃなくて、財政的に苦しかったんだなと気付いたのは、自分が社会に出て、結婚してからです。親って子育てして、家を建ててスゲーなと。うちの親は本当に倹約していましたし。
でも、その頃ってイキがっているじゃないですか。「俺は自分で仕事をやって自分で食っていくから、親の世話にならない」って調子こいたりするわけですよ。「いいよ、自分で学費出すから」って啖呵切ったんですけど、やっぱり途中で払えなくなったんですよね。そのときに親父に「大学の授業料貸してください」って言ったら、メチャクチャ怒られると思ったんですけど、なにも言わずに貸してくれたんですよね。色々言いたかったとは思いますけどね。
まさかの大阪勤務&セールス担当に〜独自路線の営業を展開
──ヤマハの正式な社員になってからはなにか変わったんですか?
小島:サラリーマンになったわけですから、時間の制約と決まったお給料をいただきながら生活をするという。
──自分で会社組織を作ったり、フリーな感じで働いていたにも関わらず会社員になったわけですね。
小島:ええ。周りの人には色々言われましたよ。プライベートカンパニーをやっている頃はいろいろと夢を語ったりしたわけですが、ライブハウスのオーナーやイベンターさんからすると「結局あいつはサラリーマンの道を選んだんじゃねえの?」みたいな。
──日和ったみたいな。
小島:しかも、名古屋から大坂に行ったんですよ。名古屋を捨てて(笑)。僕は浜松採用でしたので、当然名古屋支店に入って名古屋で仕事ができると思っていたんですよ。ところが上司から「静岡から沖縄までの西日本地区のシンセサイザーのマーケティングをせよ」と言われたんですね。
当時の私の所属する組織は東日本と西日本に分かれていて、西日本は大阪心斎橋にあったんですよ。それで「大阪に来い」と。もう、致し方ないですよね。それで周りの仕事関係の人たちに「大阪に行くわ」って言ったら、「ヤマハの名古屋支店じゃないの?」と驚いてましたし、そのときに大切な友だちもなくしてしまいましたね。
──でも、それは会社の指示ですから仕方ないですよね。
小島:当初は上司から「しばらくしたら名古屋支店に帰してあげるから。取り合えず研修みたいなもんだ」って言われていたので、名古屋の仲間には「しばらくしたら帰ってくるから」と言って、それで大阪に行ったんですが、会社というのは組織変更がいくらでもあるので、その体制もなくなって、配属が大阪支店になっちゃったんです。
だから大阪や奈良、和歌山、京都、兵庫といった大阪周辺の担当になって、しかも「営業をやれ」と言われたので、上司に「話が違う」と申し建てしたら、その口約束をした上司が転勤で浜松に行っちゃったみたいな(笑)。それで名古屋に帰れなくなっちゃったんですよ。
──しかも営業マンになってしまったと。
小島:そうです。別に営業マンが嫌いな仕事じゃないんですけれど、自分が望んだ仕事じゃなかったですからね。これが一つの転機でしたね。だってなにもわからないですよね、セールスしたことがないし。本当は製品をエンドユーザーに伝えるために、イベントをしたり、普及啓蒙もしたりという企画マーケティングをやるつもりでしたから、販売は営業の人がやればいいやくらいにしか思っていなかったので。
──ヤマハの楽器を楽器店とかにセールスするわけですか?
小島:ええ。楽器店に卸すんですよ。卸業が営業の仕事だったんですね。そのときお世話になった人に申し訳ないですが、セールスの仕事は最初は大変厳しかったです。勉強にはなりましたけど。
──セールスは何年間されたんですか?
小島:3年半くらいやりましたかね。24歳にして初めて名古屋の実家を出て、大阪のヤマハの寮に入って。
──大阪の生活は楽しくなかったんですか?
小島:実は野球選手になるのを諦めてから、中日ドラゴンズの私設応援団に入っていたので、毎週大阪から金曜日の夜にナゴヤ球場に帰らなくちゃいけなかったんです。
──帰らなくちゃいけないって(笑)。
小島:(笑)。とにかく金曜日の17時半になったら即会社を出て、18時4分の新幹線に乗って(笑)。そうはいっても、段々と大阪での仕事も慣れてきて「営業でもイベントってできるんだな」と思ったんですよね。お店で楽器のクリニックや、アーティストのデモンストレーションをやったりしますよね。規模は小さいですよ。10人から30人、多くても100人いかない。だけど「これってイベント企画そのものだ」と思ったんですよ。
規模は違いますが段取りすることは一緒で「昔やっていたノウハウとか使える」と思って、自分が担当をしている地区や担当をしている販売店で、東京からアーティストを呼んで、イベントをやり始めたんですよね。営業なのに勝手に。
──小島さん独自路線の営業を始めたと。
小島:完全に独自路線でしたね。上司はどう思っていたんでしょうね。
──上司からはなにも言われなかったんですか?
小島:僕はたまたま大阪ミナミ最大手の楽器店を担当したんですが、大手の楽器店って自由の幅が広いんですよね。大きな取引をするためにはしっかりプロモーションをしないといかんと。「ちゃんとやらないと、この楽器店さんとの取引が減っちゃいますよ?」「ここは金を投下するしかないですよ!」って当時、言いくるめたんでしょうね。
──さすがです。
小島:担当する楽器店さんも最初は「名古屋から田舎もんの若造が来たみたいだけど、あんな奴の言うことを聞いていても」みたいな感じだったんですが、多少上手くいくと話を聞いてくれるようになりますし、結果が出始めると信用度も上がりますよね。やっぱり大阪で修業をしたというのが、自分の中で今でも大変な財産です。会社って具体的に手取り足取りでは教えてくれないので、取引先や業界から学んだことが多いです。
──というか、教えようがないんですよね。そういったことは。
小島:教えようがないと思います。「見て覚えろ」みたいな感じなので。もう亡くなられたんですが、僕にPLとかBSとか財務諸表の読み方を教えてくれたのは老舗の三木楽器で専務をされていた中嶋進さんと言う方で、「お前はヤマハの営業マンなんだから、こういう会社の経営数値を読めないと後々困るときがくる」と、頻繁に授業をしてくれたんですよ。この人には本当に今でも恩義があって、尊敬しています。その人がいなかったら多分、今このような取材を受けていないと思います。
──その大阪の3年半で、相当株を上げたんじゃないですか?
小島:やっぱり多少頑張っていると浜松の本社にも伝わっていくんですよね。「大阪の若造がなにかやってるぞ」みたいな。それで実績を出すと呼ばれるんですよね。浜松は大都市ではありませんが、ヤマハの本社があったので、本社で働く人は一味違うと思っていたんですね。
その本社に声を届けるために実績を出し、やっていることをアピールしなくちゃいかんと思っていましたし、本社の人が来たときには、イベントなんかもしっかりやらなくちゃいけないと思っていましたね。
それで、このリレーインタビューにも出演している現ゼンハイザージャパン代表の宮脇精一さんが、「浜松においでよ」って言ってくださって、浜松に勤めをするようになって、それ以来20年ずっと浜松本社勤務でしたね。
──宮脇さんと一緒に仕事をされていたんですか?
小島:ええ、当時は宮脇さんと一緒に仕事する機会が多かったです。今思うと宮脇さんがアメリカに行こうが、ドイツに行こうが、東京に行こうが、なぜかいつも近い位置で仕事をやっていました。
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第171回 株式会社ヤマハミュージックジャパン LM営業部 部長 兼 ARTマネジャー 小島高則氏インタビュー【後半】