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第173回 ミュージシャン 土橋安騎夫氏 インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

土橋安騎夫氏
土橋安騎夫氏

今回の「Musicman’s RELAY」は浅倉大介さんのご紹介で、ミュージシャンの土橋安騎夫さんのご登場です。

高校時代からバンド活動にのめり込み、大学時代からプロを目指し活動していた土橋さんは1984年にレベッカのキーボーディスト、コンポーザーとして加入。翌年バンドリーダーになると「フレンズ」を含むほぼ全曲を作曲され、数々の名曲を送り出します。

1990年のレベッカ活動休止以後も、ソロ活動やT.UTU with the BAND、Tenpack riverside R&R band等のバンドや、DJ活動、劇判音楽の制作など数多くのプロジェクトを進めている土橋さんにこれまでのキャリアから、コロナ禍におけるアーティスト活動についてまで、じっくり伺いました。

(取材日:2020年7月29日 インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
土橋 安騎夫(どばし・あきお)


1984年、レベッカのキーボード、及びコンポーザーとしてデビュー。「フレンズ」を含むそれ以降、ほぼ全作品の作曲を手掛ける。

4枚目のアルバム「REBECCAⅣ〜Maybe Tomorrow〜」がロックバンド史上初のオリコンチャート最高1位を獲得、累計140万枚のセールスを記録した。その後も全てのアルバムが同チャート初登場1位となり、名実と共にミリオンセラーアーティストになる。

レベッカの活動休止後は、ソロ活動、アーティストプロデュース、楽曲提供、DJ、劇判制作など幅広いジャンルで音楽活動を展開中。2020年9月19日には、5thソロアルバム「SENRITSU (2020 edition)」をCDリリースした。


 

浅倉大介のサウンドは大胆さがすばらしい

──前回ご登場いただいた浅倉大介さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

土橋:一番最初に会ったのは、彼がaccessでデビューする頃だったと思います。僕は93、4年頃に、宇都宮隆さんとT.UTU with The Bandというバンドをやっていたんですが、94年の終わりぐらいに、いわゆるTM(NETWORK)ファミリー的な感じのイベントがあって、そのときに初めて会いました。とはいえ、同じキーボーディストということもあり、それ以降は、あまり接点がなかったんですが、2010年頃にローランドの楽器フェアで、その当時のローランドのシンセサイザー新製品について彼と語るイベントがあって、そこから色々と話をするようになって親しくなったんです。

お互いキーボード同士なので、なかなか一緒に演奏することがないのが普通なんですが、松武秀樹さんや氏家克典さんたちと主催している「SynthJAM」という、シンセサイザー、キーボード奏者だけで開催するイベントがあって、それに僕も大介くんも参加しているので、わりと一緒に演奏はしていたんです。しかも、宇都宮隆さんのツアーで、僕と大介くんとnishi-kenというキーボーディストの3人でツアーを一昨年と去年にやったので、しょっちゅう一緒にいましたね。

──完全に仕事仲間になっちゃったんですね。

土橋:そうですね。でも、やっぱり彼のサウンドはすごいです。彼は表舞台としては小室さんのマニュピレーターからキャリアをスタートさせたので、TMというファクターを通して見られたりするんですが、実は全然違って、すごく男らしいと言いますか、サウンド自体が大胆で強いんですよ。そこに僕は憧れるんです。

言葉にするのは難しいんですが、勢いというか、彼って巧みに大雑把な感じをわざとやっちゃったりするんですよ。でも、それが浅倉大介サウンドであり、そういうサウンドを構築する浅倉大介を僕はリスペクトしています。

──ここからは、土橋さんご自身のことをお伺いしていきたいのですが、お生まれはどちらですか?

土橋:生まれたところは東京・三鷹の団地なんですが、育ったのは山手の方(23区内)です。

──音楽は小さいときからお好きだったんですか?

土橋:そうですね。小さいときからピアノやフルートを習っていたので、小学生のときはクラシック音楽が好きでしたね。バッハとかバロック音楽とか。その当時はそういう趣味の小学生ってあんまりいなかったと思うんですけどね。それで小学校6年のときに、僕のピアノの先生の旦那さんがソニーに勤めていて、サイモン&ガーファンクルとか、マニアックな海外のフォークソング集のレコードをいただいて、それでポピュラーミュージックに目覚めたんです。

──お父様は脚本家だそうですね。

土橋:ええ。時代劇を中心に書く脚本家で、僕が33歳の時に他界しました。

──ということは、ご家庭内に音楽的バックボーンがあったわけではなかった?

土橋:ないですね、全然関係なかったです。それで親戚や友達の影響でビートルズを聞き出して、中1とか中2の頃から色々レコードを買うようになりました。ただ、僕は1960年生まれなので、ビートルズ世代ではないんですけどね。来日したとき僕はまだ小学校1年ですし。

──リアルタイムではないと。

土橋:聴き始めたのは解散をしたあとです。あと、キング・クリムゾンとかも聴いてましたが、これもリアルタイムじゃなくて、中1〜3のときに後追いで聴きました。

──スポーツとかは何かやっていましたか?

土橋:小学校のときはずっと野球をやっていました。それこそ王、長嶋の時代だったので野球人気でね。少年野球の夏の大会に出たのを覚えています。プラカードを持って一番前を行進して。

──結構、本格的にやっていたんですね。

土橋:わりと本気でやってました。でもはっきり言って今みたいに、しっかりと組織だっていませんでしたからね。詳しくは知らないけど、今の小学校の野球チームってお父さんもいて、ちゃんとしているじゃないですか?

──ユニフォームも立派ですしね。

土橋:そうですよね。僕が通っていた小学校の近くに野球ができるグラウンドがあったので、授業が終わってバットとボールとグローブを持って行けば、誰かしらいて、草野球が必ずできたんですよ。そういう環境で育ったので、毎日のように野球をやっていました。ちなみに中学校では卓球もやっていました。

 

立教高校でバンド活動にのめり込む〜シンセサイザーとの出会い

──中学生の頃、何か音楽活動はされていたんですか?

土橋:ブラスバンドをやっていました。でも、中学のときはまだバンドとか組んでいないんです。だから、ポップミュージックはもっぱら聴くだけでしたね。

──音楽が好きなごく普通の少年だったと。

土橋:そうですね。すごく目立ったわけでもなく。ただ、なんか自分ではいろんな事に少し冷めていた感じがしますね。

──他の子たちよりも大人だった?

土橋:いや、大人だったわけではなくて。僕が通っていた公立の中学校は土地柄荒れているような中学校じゃなく、しかも僕の一つ前の学年から学ランがブレザーになったんですよ。今ってブレザーの方が多いのかもしれないですが、その初めてのモデルケースみたいな学校で。僕は学ランにすごく憧れていたので、「なんだ、ブレザーかよ」ってすごく悔しかったのを覚えているんです。

──学ランが着たかったんですか?

土橋:学ランが着たかったですね。当時だとブレザーって少し大人しく?というか、学ランより弱っちく見えたじゃないですか?(笑)

──(笑)。勉強の方はいかがでしたか?

土橋:勉強は普通にしていましたね。数学がすごく好きだったのは覚えています。答えが一つしかない、まるでクイズのように解くのがクセになった時期があって、数学ばかりやっていた頃もありました。それは結局、受験のときに役に立ったんじゃないかなとは思うんですけれどね。

──では、バンド活動とか積極的に行うこともなく、立教高校に進学されたわけですね。

土橋:そうです。それで高校で「土橋、お前ピアノやってたんだったらキーボードやらない?」ってバンドに誘われました。高校1年の頃ですね。そこからバンドをやり始めました。

──当時の立教って、学校のなかにたくさんバンドがあったんですか? 

土橋:そうですね。軽音楽部があったり。ただ、その当時、バンドをやっているのは結構アングラな感じだったんですよね。

──コピーバンドですか?

土橋:完璧にコピーバンドです。結局ギターの人間が中心になるので、彼がやりたい曲をやる事に。ボーカルは近くの女子高の女の子で(笑)、荒井由実やニューミュージックのカバーみたいなね。最初はそういう世界でしたね。

それで高校3年ぐらいからは、フュージョンですね。1978年はクロスオーバーの始まりだった年なんですが、やりたいものをただやっているみたいな感じで、とにかく無茶苦茶な選曲なんですよね(笑)。クロスオーバーの次が、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」まではいいんだけど、その次はディープ・パープルの「バーン」とか。そうかと思うと、なぜかビートルズの「タックスマン」をやって、「え?」って感じですよね。とにかく、やりたい曲をやる!本当にそういう感じだったんですよ。

──立教高校出身のミュージシャンって多いですよね、佐野元春さんとか

土橋:そうですね。高橋幸宏さんとか、細野晴臣さんもそうだったのかな。佐野さんとは年が近いですけど、多分、大学も学年は被ってないですね。デビューをしてから佐野さんに「先輩!」って言ったんですけど、「おお、後輩!」という感じでもなかったので、その後、お会いしてもあまり学校の話はしてませんね(笑)。

──(笑)。では、高校入学以来ずっと音楽一筋になったと。

土橋:ええ。高校のときにバンドをやり始めて、すごくのめり込んで、大学に入ってからもずっとバンドでしたね。

──立教高校というのは、自由な風土だったんですか?

土橋:わりと自由にできましたね。大学の付属だったので、そういう意味でもよかったです。その後、進学した立教大学には音楽サークルがいくつかあって、僕はそのうちの1つに所属したんですが、最終的に大学4年のときは元軽音楽部の人たちなんかとバンドを組んで、プロを目指すようになっていました。

──すでにその頃、シンセがメインの楽器だったんですか?

土橋:いや、全然違います。その当時、音色プログラムができるようなシンセサイザーはまだ主流ではなかったんです。その頃のキーボードってオルガンがあってRhodesがあって、その上にストリングスがあるみたいな、その当時で言うと例えば初期のジョナサン・ケイン(ジャーニー)のようなロック的なセッティングが主流でした。

それが1980年ぐらいに、JUPITER-8とか、ボタン1つでいろいろな音色が出るシンセサイザーが出てきたのをきっかけに、そのセッティングが変わっていくんです。自分は大学2年の時、クラフトワークにはまりテクノバンドを組みました。ただ、まだ学生なのでそれほど高額なシンセは買えず、Roland SH-2などモノシンセで演奏していました。

──土橋さんは早くからそういったプログラム可能なシンセに手を伸ばしたんですか?

土橋:そうですね。それがレベッカに入るきっかけだったりしたので。Rhodesを売っぱらってJUPITER-8を買ったり、そういう試行錯誤を経て、音楽のスタイルがガラッて変わったんです。その後、80年代にはエレクトリック・ポップが本格的に始まり、僕は一緒に歩んでいった感じですね。

──まさにシンセの歴史とともに音楽のキャリアを歩まれていったんですね。

土橋:僕が一番最初に買ったのは高校時代、コルグのミニコルグというシンセで、スティーヴィー・ワンダーが気に入って2個買って帰ったという、コルグの初期のシンセだったんですが、そのときはメモリーとかできないですから、Rhodesやオルガンの上に単に乗っかっているだけで、ガンガン弾くのはオルガンやRhodesだったんですよ。でも、JUPITER-8、Prophet-5、polysix、juno-60などのプログラム・シンセが出てきて、「これ一つで色々な音が出るんだから、もうオルガンやRhodesを弾く必要ないじゃん」って(笑)。シンセサイザーをいじっていた方が面白いなって思ったんですよね。

 

「土橋は“じゅん”メンバーだね」〜オーディションでレベッカ加入

──レベッカに加入するきっかけは何だったんですか?

土橋:ソニーの人に誘われてオーディションみたいな感じでレベッカに入りました。それこそ、オーディションのときに初めてNOKKOやシャケ(木暮武彦)、教さん(高橋教之)と色々な人と出会ったんですが、僕は男のなかでは一番年下で、何か月後かに「土橋は“じゅん”メンバーだね」って言われたんですけど、その「じゅんメンバー」の“じゅん”が、“純”なのか、“準”なのか、ずっとわからなかったんですよね(笑)。それで「ずっとサブってことなのかな…?」って思っているうちに、1984年4月21日にレベッカとしてデビューするんです。

──実は、昨日YouTubeでレベッカの古い映像を色々観ていたんですが。

土橋:このステイホームでみんな昔の映像をYouTubeとかですごく観ているでしょう? 根掘り葉掘り。

──観ますね。

土橋:あれ、ちょっと嫌なんですよね。自分の若い時のインタビューとかが出てきたりして(笑)。

──(笑)。でも、やっぱりレベッカはすごいなとあらためて思いました。NOKKOは圧倒的な存在感ですし、「すごいのが出てきたな」と当時も思いました。

土橋:僕らがデビューしたときって、まだ、バンドを組むのはカッコイイとか、バンド自体そんなに市民権?を持っていない時代でしたが、それがよかったと思うんですよね。そういう中からNOKKOみたいな存在が出てきて、その単なるシンガーという枠を超えたものを、表現できたのではないかと。

ロックヴォーカリストは、バンドの中で、バンドの音を聴きながら歌えるようにならないと、と僕は思うんです。その後、カラオケとか、オケがどんどん打ち込みになって、それをバックで歌えればよい?みたいな。そこが分かれ道かなと思います。もちろん、音楽にも様々な方向性があると思うんです。個性のあるヴォーカリストは今でもたくさんいるし、生まれていると思います。

──レベッカという存在がいたから、フォロワーや後輩たちも生まれたわけで。しかもレベッカは土橋さんの書かれる曲も素晴らしかった。『フレンズ』なんて、よくもあんな名曲を書けたなって思ってしまう。

土橋:やっぱりそこはバンドの勢いというか、僕だけじゃなくてNOKKOや教さんとか小田原(豊)君とか、とにかく色々なタイミングが合ったんですよね。

──1985年に小田原さんが加入されますが、あのドラムが入ったというのは強力な武器になったんじゃないでしょうか。

土橋:そうですね。彼の加入は大きかったです。その後、小田原君もどんどん進化していくのですが、一番最初の頃は力が入っていたんじゃないかな?とにかくパワーがあって音も大きかったです(笑)

──(笑)。

土橋:でも、またそれが新鮮でよかったのかもしれない。だってあの当時、小田原君も22とか3で、僕より3つ下ですからね。とにかくみんな若かったんですよ。

 

時間がないから逆に曲ができる

──レベッカのブレイク後は、やはり目が回るような忙しさでしたか?

土橋:そうですね。考える暇もないくらい忙しかったですよね。結局、レベッカって6年ぐらいしかやっていないんです。84年にデビューして、90年に解散をしているので。かなりおこがましいですけれど、それが結構ビートルズに似てると言えば似てる。なんか長いようで長くなかったです。

──やっぱりレベッカが出て、日本のバンドというか・・・いわゆるロックというものが、圧倒的に変わった印象はあります。

土橋:男の子のバンドがBOØWYで、女の子ボーカルはレベッカみたいなのは、その当時、自分でも肌で感じていました。

──その後、レベッカもBOØWYも東京ドーム公演をやるまでになりますね。

土橋:レベッカは90年とそんなに早くないんですよ。東京ドームって87年開業ですから。覚えているのはヴァン・ヘイレンが東京ドームで来日公演をやったんですが、ドラム台が演出でドンドンと上に上がっていって、とにかく音が大きくてね。当時は東京ドームでちゃんと音が作れなかったんじゃないかな。聴いていて気持ち悪くなっちゃったのをよく覚えていますね。(笑)

──とにかく、レベッカでの6年間はあまり記憶もないぐらい忙しかったと。

土橋:ちゃんと思い出そうと思えば思い出せるのかもしれませんが(笑)、ずっとツアーをやったり、アルバムを作らなきゃいけないとか、その繰り返しだったように思います。

──集中的によくあんなに数々の名曲を書けましたね。

土橋:時間がないから逆に曲ができるみたいな部分はあったかもしれませんね。忙しすぎて逆に余計なことを考えなくていいというか、集中しなきゃいけない場面になると、なんか力が発揮できるんですよ。これって誰でもそうだと思うんですけどね。「時間も機材もすべて揃っていますから、名曲ができるまで思う存分籠ってもやってください! さあどうぞ!」って言われても、絶対にできない(笑)。

──(笑)。

土橋:今となると、サウンドがクラシックになっている部分が、自分は結構気に入っているんです。あの当時のミックスって、今の音楽の作り方と全然違いますし、時代が経つと、サウンドって人それぞれの記憶の中で変わっていくんだけども、実はオリジナルの音は、素朴でシンプルな音だったという風に、レベッカもなりつつあるんです。今、聴くと「ああ、こんなにシンプルだったんだ」って感心するというか、それって目指してもなかなか作れないんですよね。そういったサウンドを作れたってことが僕はすごくうれしいんですよ。

 

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第173回 ミュージシャン 土橋安騎夫氏 インタビュー【後半】