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第175回 株式会社バンダイナムコアーツ 代表取締役副社長 井上俊次氏 インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

井上俊次氏
井上俊次氏

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社フライングドッグ 代表取締役社長 佐々木史朗さんのご紹介で、株式会社バンダイナムコアーツ 代表取締役副社長 井上俊次さんのご登場です。

母親が買ってくれたオルガンをきっかけに音楽を始めた井上さんは、高校で影山ヒロノブさんに出会いレイジーにキーボードとして加入し、1977年にデビュー。解散後は新バンド ネバーランドで活動しつつ、アニメのイメージアルバムなどを手がけられるようになります。

そして、1999年にアニメ音楽専門のレコード会社 ランティスを設立し、アニソンを世界中で人気のコンテンツにまで押し上げました。そんな井上さんにレイジー時代のお話から、ランティス設立とアニメ音楽の現在そして今後までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール

株式会社バンダイナムコアーツ 代表取締役副社長 井上 俊次(いのうえ・しゅんじ)

株式会社バンダイナムコアーツ 代表取締役副社長。1977年にロックバンド「LAZY」のキーボーディストとしてプロデビュー。

1991年に音楽プロデューサーに転身し、1999年アニメ・ゲーム音楽を中心としたレコード会社 株式会社ランティスを設立(現・株式会社バンダイナムコアーツ)。日本音楽制作者連盟ならびに2.5次元ミュージカル協会等の団体理事も務める。


 

オルガンが家に来るからピアノを習う

──前回ご登場いただきましたフライングドッグ 佐々木史郎さんと出会われるきっかけはなんだったんでしょうか?

井上:僕がフリーのアレンジャー、作曲家として麻宮騎亜先生の『サイレントメビウス』というコミックのイメージアルバムを作っているときに、佐々木さんもビクターのアニメ事業部でその作品の映画をやられていて、そこで出会いました。そのときに『サイレントメビウス』のアルバムを1枚プロデュースすることになって、麻宮騎亜先生が描き下ろしたジャケット用のイラストをいただきに、江古田のファミレスかなにかに行ったら佐々木さんもいらっしゃって、佐々木さんの方は一番待ちで、僕は二番目で「これ何時までかかるんやろな」と思って(笑)。多分10時間ぐらいそこで待っていたんですよ。

──ファミレスでイラストが書き上がるのを待っていた?

井上:ええ。佐々木さんのほうが「お先に」ってイラストを取りに行かれて。そこから少しずつ知り合いになっていきました。佐々木さんはそのときすでにメーカーの大プロデューサーで、僕はフリーのアレンジャー、作曲家みたいな感じからの出会いですね。

──レイジー解散後、フリーになられた直後くらいでしょうか?

井上:フリーになって食べられない時期があって、そのあとにアニメの仕事をいただいたりして作曲をするようになって「この世界でなんとかやっていけるかな?」というようなタイミングでした。

──それ以来のお付き合いなんですね。

井上:そのときはまだきっちりしたお付き合いではなかったですが、最近はANiUTaという、アニソンのサブスクリプションサービスの会社を10社が共同参画して作ったんですが、そこの社長を佐々木さんがやられて、僕は取締役としてサポートをさせていただいたり、今はどちらかというと同じ業種ですが、そういうところも飛び越えて大変信頼をさせていただている、よき先輩が佐々木さんです。

──ここからは井上さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

井上:大阪の住吉区です。住吉大社の反対側の大領というところで育ちました。

──どのようなご家庭だったんでしょうか?

井上:親父は普通のサラリーマンで、一軒家とかマンションといった言い方をするならば、うちの家族は長屋の中に住んでいたという感じです。近所付き合いがすごく盛んで、近所のおばちゃんが飼っている犬の散歩を代わりにしたり。それこそ醤油がなかったら借りに行くみたいな感じのところでした。

──濃密な人間関係が残っていた?

井上:ええ。路地があって、路地で近所の友だちと遊んだりしている感じですね。

──ご家庭の中に音楽的ななにかはあったんでしょうか?

井上:全くなかったですね(笑)。グループサウンズが人気の頃に、テレビ番組によくバンドが出ていたんですが、僕はそれを見ながら菜箸と雑誌でドラムの真似事をしていた思い出はあります。

──何かスポーツはなさっていたんですか?

井上:野球はやっていましたね。うちの親父も野球をやっていたので。兄も一緒に野球をやっていました。それで、僕は通信簿の音楽の成績が5段階の2で、家族内が「これはなんとかしなきゃな」というムードになって(笑)、ちょうど町内会で積み立てをしていくと、最終的にはオルガンがくるみたいなのがあって、みんなの家でオルガンを買いだしてきたんです。うちの母もそれをやっていて、もう何回か払ったらオルガンが家に来るというので、「オルガンが来るからピアノでも習うか」みたいな感じで、ピアノを習いだしたんです。

──なるほど。

井上:近所でも女の子でピアノを習っている人が多かったり、同じ教室に行っている人も多かったので、そういう流れもあって、ちょっとやった感じですね。

──それは何年生のときですか?

井上:小学校2年です。

──ピアノは楽しかったですか?

井上:いや…その当時、男の子がピアノを習っているというのが少し照れ臭かったんですが、オルガンが家に来たし、そんなに裕福な家庭じゃなかったのにお母さんがそれなりにお金を払っていましたから「これはちょっとやらなきゃいけないかな」という感じでした。

──ちなみにお兄さんは一緒に行ったんですか?

井上:行ってないです(笑)。僕だけでしたね。それで習いだして、やっぱりオルガンだとタッチが違うから、先生のところでピアノを弾くんですが、練習をしだして1年ぐらいしたときかな? 「このまま続けていくんやったらピアノを買うねんけど」みたいな話に家でなって「続けていきます」というので、これもまた月賦だと思うんですが、ヤマハのアップライトが家にきて「ヤバい、ちゃんとやらなあかんな」って感じですね(笑)。

──ピアノを買われたらやるしかないって、結構なプレッシャーですよね。

井上:そうなんです。広い家じゃないですからピアノがドーンと、みんなが避けて通るような感じで置かれて、それでちょっと真面目にやりだしましたね。

 

中学2年でロックと出会う〜野球と音楽の両立

──そして中学に進まれるわけですが、そこでレイジーのメンバーと出会ったんですか?

井上:いや、レイジーは高校です。他のメンバー同士には中学とか幼稚園からの同級生がいるんですけど、僕は高校で出会いました。

──影山ヒロノブさんとも高校ですか?

 井上俊次氏

井上:高校です。僕はクラシックの練習をしていて…と言いながらも野球も好きだったので、突き指をしながらピアノ教室に行ってましたけど(笑)、ちょっとずつ面白くなっていったんですよね。スズキ・メソードというヴァイオリニストの鈴木鎮一さんが作られた教本があって、僕はそっちに切り替えたんです。それは練習曲ではなく、楽曲を弾いてやっていくというもので、初等科前期、初等科、中等科、高等科、研究科という試験を受けていくんですが、なんとなく燃えちゃって(笑)。当時はレコードが送られてきて、それを聴きながら先生と一緒に練習をして、カセットに録って、それをスズキ・メソードに送って、審査していただくというのをやってました。

──途中からちょっと本気になった?

井上:そうです。知っている曲が多いので、わりと演奏していても楽しい感じがあったから、高等科まで卒業をしました。研究科はメチャクチャ難しいんですけど、中学2年ぐらいのときにロックを知っちゃって…(笑)。

──(笑)。

井上:学校の文化祭ですから、ビートルズとか、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドをやっているチームもいたし、あとディープ・パープルをやっているチームもありましたね。

──では最初のバンドは中学のときに組まれた?

井上:そうです。軽音楽同好会ですね。そこでドラムをやらせてもらったり、ピアノを弾いていたというのもあってキーボードをやっていました。

──キーボードは分かるのですが、なんでドラムだったんですか?

井上:なんか、ドラムが好きだったんです。その頃からレコードをいろいろと聴きだして、中2ぐらいのときにクイーンを聴いて「俺はロジャー・テイラーじゃないの?」みたいな(笑)。あと「レット・イット・ビー」や「サムシング」とかを軽音楽部でピアノで弾いたり。

──そのころのメンバーは、みんなそれなりに上手かったんですか?

井上:いや、そうでもないですね。でも、すでに教会で演奏をさせてもらったり、どこかの楽器店のホールでやらせてもらったりは、中学のときにしていました。そのときはクイーンをやったり、イーグルスをちょっとやったり、あとはクラプトンをやったり。

──幅広いですね。

井上:ええ。誰かが「これをやりたい」と言ったら決まっていくみたいな感じですね。

──学園祭で人気があったんじゃないですか?

井上:まあ、そうですけどね。僕は野球部で野球もやっていたんですが、うちの中学の野球部は坊主じゃなかったので、段々と髪の毛が伸びていって、先生に怒られながら「野球をやるのか音楽をやるのかどっちや」って2年生の冬に言われて「音楽をやります」となりました。

──野球と音楽の両立というのは難しそうですね。

井上:そうですね。よく突き指しましたしね(笑)。僕は今、身長が160センチちょいなんですけど、小6で160センチだったんです。

──そのときは大きいと言われていた?

井上:後ろから2番目だったんです。野球部からしてもわりと期待の新人?みたいな(笑)。だけどそのまま背が止まっちゃって、みんなが段々と大きくなっていく時期で、僕はピッチャーだったんですが、すごい人たちが下から出てきて「ちょっとヤベーな」って。

──みんなに身長が抜かれていく。

井上:そうそう。先生から「下手投げにしたほうがいいんじゃないか」って言われて(笑)。「中学生で下手投げですか?」みたいな(笑)。それでなんとなく、ぼやーとしてきて、そのときに音楽の存在が大きくなったんですよね。ちなみに中学の軽音楽同好会って僕が作ったんです。

──その頃からリーダーシップがおありになったんですね。

 

「助っ人で来てくれへん?」オーディションの代役でレイジー加入

──そして高校は希望の学校に進学できたんですか?

井上:いえ、僕は阿倍野高校に行きたかったんですが滑り止めで受けた私立校の受験に落ちて、近所の大和川高校という学校に行くことになったんですが、そこは「ちょっと不良が多い」という話を聞いていて、「嫌だなあ…」と思いながら行くことになったんです。行きたかった阿倍野高校は、天王寺にあって、どちらかというと街中にあるんですが、大和川高校は僕が住んでいるところから少し南に行った我孫子駅という、ちょっと田舎のほうにあるんです…(笑)。

──やや、都落ち的な…。

井上:そう(笑)。それじゃ学校帰りに遊びに行けないじゃないですか? 電車に乗って天王寺に行くのと、自転車をこいで我孫子に行くのとでは全然違いますから。

──でもそこには影山ヒロノブさんとかいっぱい音楽仲間がいたわけですよね。

井上:そうですね。大和川高校に軽音楽部があったので、そこに入ったんです。僕はドラムで入ったんですが、ギターを弾いてるカーリーヘアの人がいて、それが影山君だったんですが、それでまあちょっと打ち解けて、ギターも歌も上手いなあと。

──髪の毛とかは自由な学校だったんですか?

井上:自由ですね。僕は髪の毛が長かったからあだ名が「ムッシュ君」って。かまやつひろしさんみたいな髪型していたから(笑)。

──(笑)。

井上:それで軽音楽で影山君に出会って、彼は別でレイジーというバンドをやっていたんです。

──そのときすでにレイジーをやっていたんですか。

井上:やっていたんです。しかも形は変われど、小学校の6年から組んでいる。

──小学校でって、すごく早いですよね。

井上:ねえ。その当時は吉田拓郎さんとかフォークをやっていて、バンド名が「生えかけ」っていう名前だったそうですけどね(笑)。

それが形変わってレイジーというバンドになっていっていたみたいなんですよね。そこで大阪のテレビ番組に出たいのでオーディションを受けることになってちょうどそのときにキーボードの女の子が学校の文化祭で出られないから、「助っ人で来てくれへん?」という話になって、レイジーでオーディションをジャスコ、今で言うイオンの前の駐車場かなにかでディープ・パープルの「バーン」を演奏して、予選を通ったんです

──それは大阪のローカル番組ですか?

 井上俊次氏

井上:はい。朝日放送の「ハロー・ヤング」というローカル番組ですね。それで予選を通って「次はテレビだ」というときに、僕はそのとき限りな感じで、キーボードの子が戻ってくると思っていたんです。でも、レイジーは高1ぐらいのときにすでにプロを目指すような感じになっていて、その女性のキーボードより男のほうがいいだろう、ということで僕に「バンドに入ってくれよ」という話になったみたいです。

でも、僕はその頃ロジャー・テイラースタイルの特注ドラム、当時全部込みで28万ぐらいしたんですが、アルバイトをしてお小遣いというかお年玉を貯めて、買ったところだったので、「いやいや、俺ドラムやから」みたいな(笑)。

──(笑)

井上:という感じだったんですが、テレビ出演するときはオーディションのときのメンバーじゃないといけないというので、結局、僕もテレビに出たんです。そのときの司会がかまやつさんで、収録が終わったあとに楽屋に来はって「東京に来ない?」って誘われたんですよね。

──そう言われて率直にどう思われましたか?

井上:プロを目指していた高崎(晃)君とか、ドラムはもう樋口(宗孝)さんに変わっていて、樋口さんとかは願ったり叶ったりという感じでしょうね。僕はそのとき高1やったから「どうしよう」みたいな感じはありました。

──そうですよね、高校生になったばかりでいきなりプロにといわれても・・・。

井上:それで、みんなある程度近所の人たちだから、高崎君の家に親も一緒に集まって、親同士が1階で会議をしたんですよね。それで僕たちは2階から「どんな感じかな?」ってのぞき見していて。

──ご両親たちはなんとおっしゃっていたんですか?

井上:その頃になってくると、僕たちも「ちょっと行ってみたいな」という気持ちになっていたから、「行ったらどうなるんだ?」「誘われているプロダクションはどんな感じなんだ?」みたいなことを聞かれて。ちなみに町内会に芸能通のおっちゃんがいたんですよ(笑)。

──(笑)。

井上:別にただのおっちゃんですけど、その「おっちゃんに聞いてみよう」って誰かが言い出して、そのおっちゃんが高崎君の家の1階にきて、分厚い資料みたいな本をパラパラめくって「かまやつひろしさんは、最近こんな感じですね」とか言ったり、当時トライアングル・プロダクションというところに誘ってもらっていたんですが、そこの社長さんが元グループサウンズの藤田さんという方で「藤田さんはこんな人ですね」って芸能通のおっちゃんが色々教えてくれてね。

──事情通ですね。

井上:今思ったら「そのおっちゃん誰やねん」という話なんですけど(笑)、両親は「はー」って聞いてる感じ。

──マンガみたいな話ですね(笑)。

井上:ホンマですよ。俺たちは上から「どうなるんだろうな」って見てて。そういう感じでした。そのあとかまやつさんが会いに来てくれたり、当時の事務所の藤田さんという社長も会いに来ていただいたりして、両親とも会ってもらったりして、両親も安心して「じゃあ行くか」という感じでしたね。

 

高校2年が始まってすぐに上京し合宿生活

──上京は高校2年のときですか?

井上:高校2年が始まって6日目くらいですかね。それまでに何回か東京に行って、デモテープを作ったりしていましたけどね。

──学校はそれっきりですか?

井上:いや、東京の明治大学付属中野高校の定時制に4人が転校しました。

──じゃあ大阪の大和川高校は1年しか行ってない?

井上:1年と6日ですね(笑)。

──あまり大和川高校には思い入れはない感じですか?

井上:いやいや、思い入れはメチャクチャあって、そのときは大好きな高校になっていたんです。もちろん大好きな子もいたし(笑)。実は大和川高校って今から8年ぐらい前に他の高校と合併することになって名前がなくなるというときに、そのときの校長先生から「ちょっと来てくれへんか」と連絡が来て、影山君と一緒に2人で行きました。

──それはお別れの言葉を述べるみたいな?

井上:卒業式みたいなことかな? それで行って、影山君の曲のカラオケをCD-Rに焼いて、影山君が体育館で歌うんですけど、僕は2階の調光室でCDデッキから音を出して影山君が歌っていたら、生徒がブワーッと来て(笑)。

──感動的ですね。

井上:危険でした!(笑)。それで先生にお花をいただいて帰りました。

──いきなり始まった東京での生活はいかがでしたか?

井上:白金台の一軒家に合宿をしていて、二段ベッドを6畳間に2つ、4畳半に1つ入れて5人がそこで寝泊まりしていました。あとはずっと練習する日々で、僕たちはハードロックしかできませんでしたから、二拍三連のリズムとか、もう少しシンプルなリズムとかシャッフルの演奏があんまり上手くなかったんですよね。だからそういうのをスタジオで練習していました。それで4月に上京してきて、デビューが7月です。

──当時キーボードというのはオルガンですか?

井上:コンボオルガンというやつですね。スタジオに行けばハモンドとかはありましたけど。

──シンセとかはまだですか?

井上:シンセはなかったですね。ローズがあって、生ピがあって、オルガンですね。ハモンドはなかなか貴重でしたから、エーストーンとか、ヤマハのエレクトーンみたいなオルガンでした。

──やっぱりハードロックというと、オルガンは重要ですよね。

井上:そうですね。オルガンで一番初めデモテープに録音をしたのがサウンドシティさんで、そこにオルガンとレズリーがあって、レズリーを回したら「これか!」と思いましたね。「ディープ・パープルの『ライブ・イン・ヨーロッパ』の音はこれだったんだ!」みたいな感じで(笑)。昔、大阪でディープ・パープルを観に行ったときに、家具みたいなのが4つも5つもあって「なんやろな?」と思って観ていましたけど。

──タンスみたいなのが。

井上:ええ(笑)。「これのことか」とびっくりしましたね。

──相当ハードな練習の日々が続いたんですね。

井上:そうですね、社長さんはビートルズが好きで「ビートルズの演奏を上手くなれ」と言われて、ハーモニーの練習をしたりしていました。

 

「お前たちはロックをやるんだ!」からアイドル路線への変更

──レイジーはデビューして、いわゆるタレント的と言いますか、当時は「明星」や「平凡」の表紙にいっぱいなっていましたよね。

井上:これは本当の話なんですが、東京に誘ってくれたかまやつさんが「デビュー曲の作曲はポール・ロジャースだ」って言っていたんですよ。ポール・ロジャースの奥さんが日本人なので、奥さんに日本語の詞を書かせて、「お前たちはロックをやるんだ! ポール・ロジャースでバッド・カンパニーみたいな曲を」って。それで「いいですね!」みたいな感じで東京に来たら、いきなり違っていたという話なんですけどね。

──ずいぶん話が違いますね…。

井上:ちょうどベイ・シティ・ローラーズがはやり出したころだから、そっちのほうに路線が変わったという。

──東京にきて一番最初にやられたことが、髪を切られたりニックネームをつけられるみたいなことだったわけで、それはとんでもないことだったわけですよね。

井上:何回か東京に来ているときでしたが、忘れもしない表参道の「ピーカーブー」という美容院になぜか連れていかれて(笑)、そこでサクッと切られて「え?」みたいな(笑)。まだ東京に住んでいないときときでしたから、僕たちはロンドンブーツを履いて派手な格好をして東京に行って、そこでバサッと髪を切られて、帰りはロンドンブーツが似合わないっていう(笑)。

──それは困惑しますね。

井上:びっくりしましたね。当時は紫という沖縄のハードロックバンドがいらっしゃって、ああいう感じになるつもりだったんです。

──それがいきなりアイドル路線に転向させられちゃって。

井上:ちょっとビックリしましたけど。それで3枚目までは全く売れなかったんですよ。3枚目の「赤頭巾ちゃん御用心」という曲で人気が出て。事務所からは「これでダメだったら大阪に帰れ」って言われていましたから「最後の勝負だ」みたいな曲だったんですよね。その頃は、もう大阪の高校も辞めてきているし、帰るのも「ちょっと格好悪いよな」みたいに思っていましたしね(笑)。

──まさに背水の陣だったわけですね。

井上:だから、みんな嫌だったけど、土居甫さんというピンクレディーの振付をやられていた先生に振付を教わって、振りをしながら演奏をしたりしました。

──あのころって歌番組がいっぱいありましたよね。

井上:月曜日が「紅白歌のベストテン」と「レッツゴーヤング」の収録、あとは「ヒットスタジオ」というのがありました。だから月曜日はみんなスケジュールを開けておかなアカンという。売れているときはその3つに出ることになるんです。「紅白歌のベストテン」は生放送でしたし「ヒットスタジオ」も生放送。「レッツゴーヤング」は収録で、収録だけ次に出す新曲を演奏するとかね。1か月後にオンエアされるので、そんな感じでしたね。楽器もレンタルと自分たちの楽器を使い分けていました。

──話を伺っているだけでもものすごく忙しそうですね。

井上:ええ。ものすごく忙しいときはコントもやったし、ドラマや時代劇もやったし(笑)。そういうのって待ち時間も長いですし大変でした。加えて営業も多くて、プールや遊園地で歌ったりね。

──いわゆる芸能人としての仕事をやらされたということですよね。

井上:そういう感じですね。大変だったのは合宿生活だったので、風呂に入るのも5人が代わりばんこで、とにかく時間がかかるんです。一番初めに入る人とあとに入る人で2時間半ぐらい違って、夜中に帰ってそれをやって、次の日の服のアイロンを当ててとやったら、寝る時間ないです(笑)。

──マネージャーとかはいなかったんですか?

井上:いましたが、全部自分たちでやってましたね。服のアイロンもそうですし、メイクさんとかスタイリストとかもいなくて、テレビ局にメイクさんがいたぐらいの時代でしたね。「明日は白のズボン」と言われたら、みんなで白のズボンを探してアイロンをかけるというのをやっていました。コインランドリーにいって洗ったり。

──それは厳しいですね…。

井上:厳しかったですね。コインランドリーでメンバーの一人が警察に尋問されてましたけど(笑)。「なにやってるんだ」って「いやいや、洗濯ですけど」って夜中の2時3時にね。「捕まった」って(笑)。とにかく忙しいときは本当に2時間ぐらいしか寝てなかったんじゃないですかね。

 

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