第176回 株式会社ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長 一般社団法人 日本音楽制作者連盟理事長 野村達矢氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」はバンダイナムコアーツ 井上俊次さんからのご紹介で、(株)ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長、日本音楽制作者連盟 理事長の野村達矢さんのご登場です。
明治大学在学中、コンサートの企画を通じて、エンターテイメントの魅力に惹きつけられた野村さんは、大学卒業後の1986年 渡辺プロダクションに入社。ロックセクションのノンストップでのマネージメントを皮切りに、現在代表を務めるヒップランドミュージックコーポレーションでは、BUMP OF CHICKENやサカナクションなど数多くのアーティストを手がけられてきました。
また、2019年6月には日本音楽制作者連盟の理事長に就任され、コロナ禍の困難な状況の中、音楽業界全体のために日々奮闘されている野村さんにじっくりお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
株式会社ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長 一般社団法人 日本音楽制作者連盟理事長 野村 達矢(のむら・たつや)
東京・文京区生まれ。明治大学卒業後、渡辺プロダクションに入社。中井猛氏が1988年に設立したヒップランドミュージックに入社し、2019年に同社代表取締役社長に就任。同年6月には日本音楽制作者連盟の理事長にも就任した。
幼稚園ぐらいのときは天才だった
──前回ご登場いただいたランティス 井上俊次さんとのご関係からお伺いしたいのですが、お知り合いになったのはいつ頃ですか?
野村:井上さんとはいわゆる音制連(音楽制作者連盟)の理事仲間として、10年以上前に理事会で初めてお会いしました。井上さんはもうアニメ関連ではたくさんのヒット作品を作っていらして、かなり早い段階から日本の音楽の海外進出、いわゆるクールジャパンというかサブカルの領域ですごくご活躍をされていて、レコード会社も経営されていますし、マネジメント的なこともやってらっしゃいますし、あとは音楽出版もやっていらして、音楽業界の中でマルチに、しかもそれぞれの分野で重要なポジションを占めてらっしゃる方ですよね。
ですから井上さんのご意見はとても見識が高く、音制連の理事の中でもとても重要なポジションを占めていただいています。特に海外シェアも含めてですが、いろいろな方面の視点から意見を言っていただいたりとか、アドバイスをいただいたりという部分では、すごく助けていただいています。
──では、この先は野村さんご自身のことをお伺いしていきたいと思いますが、お生まれはどちらですか?
野村:東京の文京区ですね。僕の両親は2人とも茨城県の出身なんですが、父親は三男坊だったので家を継がずに東京に出てきて、文京区で家庭を作り、そこに生まれたというサラリーマン家庭の息子ですね。
──お父さんはどういったお仕事をされていたんですか?
野村:マスコミ関係と言えばマスコミ関係なんですが、そんなにベッタリとした感じでもなく、とはいえ父親の仕事は時間が不規則で昼夜が逆転していたり、通常のお父さんとはちょっと違うシフトで仕事をしていたので、僕自身が音楽業界で仕事を始めたときに、体のサイクルは意外とすぐになじみましたね(笑)。
──子供の頃からの慣れで(笑)。
野村:そういう環境もあって、中学・高校ぐらいのときから深夜放送を聴いたり、夜更かしの子どもだったみたいなところはありました。
──ご家庭内に音楽的な要素はありましたか?
野村:基本的にはなかったですね。ピアノを習ったりとかもなかったですしね。今思い返せば、幼稚園ぐらいのときにそういう習い事とかをさせてもらっていたら、今の人生は変わっていたと思うんです。自分でも思い返すと幼稚園ぐらいのときは天才だったなと思って(笑)。
──おお(笑)。
野村:幼稚園に行っていて、周りの子たちに負ける気がずっとしなかったんです。学びという部分や、例えば、字を読むとか覚えるのがすごく早くて、本とかスラスラと読めていましたし、アルファベットもすぐに覚えたり、算数も足し算・引き算ぐらいもすぐにできていたし、なんか鉄棒も得意だったりとか何でもできたんですよ。
──まさに文武両道ですね。
野村:そうですね。運動も得意でした。かけっこをしても負けたことがなかったですし、その時期に持って生まれた才能があったんだろうなと、今思うとあるんです。親がそういうことに気が付いていたのかはよくわからないですし、まあお金がなかったというのもあるんでしょうけれど、習い事をさせられたこともなかったので、気が付いたらいつの間にか凡人になっていましたね(笑)。
──(笑)。なんだかもったいないですね。
野村:小学校3、4年生ぐらいまではそういう気持ちを持っていましたが、5、6年になってくると段々と普通の子になったみたいな感じでしたね。
──とはいえ頭の回転の早い子だったのは間違いないんじゃないですか?
野村:でしたね。運動能力については、小学校のときは足が速くてずっとリレーの選手だったし、走るのとかも全然人に負ける気もしなかったです。
──通われていたのは普通の公立の学校ですか?
野村:区立の学校です。幼稚園は割烹着みたいな制服がありましたけど、小中高と僕は制服がある学校に行ったことがないんです。だからそういう部分では型にはめられてきたということもなかったですし、自分の考えでいろいろなことを選ぶ環境で育ってきたとは思います。あと、小学校4年ぐらいまでは、勉強しなくても勉強ができると思っていましたし、体を鍛えなくても運動能力があると思っていたんですが、5、6年ぐらいになってくると、やっぱり勉強をしないと負けるんだなと段々と気が付き始めて…(笑)。
──(笑)。
野村:5、6年ぐらいまではもったのかもしれないけど、中1で結構成績がガーンと下がったんです。そこから今度は劣等生の気持ちに若干変わって、中学・高校時代はいい思い出はないんです。
──部活は?
野村:部活もやってなかったんですよ。文京区って東京のど真ん中にあって、僕は運動も大好きだったんですが、行った中学校が幅の広い道路ぐらいの校庭しかなくて、あった部活がバスケットボールとバレーボールだけだったんです。僕は大きなボールを扱うスポーツが嫌いで、野球みたいなスポーツが好きだったので、野球部があったら当然入っていたと思うんですが、バスケとバレーしかなかったので部活は入らずで、そこから一気に運動能力も落ちて、学力も落ちていってみたいな感じでしたね。
カーペンターズやビートルズをきっかけに音楽を意識的に聴き始める
──音楽との出会いはいつごろだったんですか?
野村:音楽との出会いは小学校6年のときに友達に「ラジオ面白いよ」と言われて、最初は「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」ですよ。ちょっとエッチな場面もあってみたいな(笑)。そういうラジオを聴き始めて、次第に深夜放送にのめり込んできました。
それまでの生活の中で入ってくる音楽というのは、テレビを通じた音楽だけで歌謡曲ばかりでした。でも、ラジオを聴き始めて、洋楽という今までに聴いたことのない音楽に触れ始めたんですね。そのとき一番最初に自分が「素敵な音楽だな」と反応したのが、カーペンターズでした。それでカーペンターズを聴いて、すごくいい音楽をやっている人たちが日本だけじゃなくて海外にいるんだ、そういうポップスというのがあるんだということに気が付いて、そこを自分なりに追求したくなったんですね。それでラジオでカーペンターズ特集を聴いていると、カーペンターズが歌う「ヘルプ」だったり「プリーズ・ミスター・ポストマン」を聴くわけです。
──カバーですね。
野村:ええ。「チケット・トゥ・ライド」とかビートルズのカバーをやっていて、もちろん「プリーズ・ミスター・ポストマン』は、ビートルズもカバーしていた曲ですが、そこから今度はビートルズを聴き始めました。当時ビートルズはすでに解散していて、それぞれがメンバーのソロ活動をしいていましたが、やっぱりまだビートルズの余韻というのは残っていて、ベスト盤や編集盤が出たりしたりしていて、ラジオで特集されたりとかしていたんです。
──ビートルズを好きになった頃はもう中学生になっていましたか?
野村:中1のときですね。それで初めて買った洋楽のアルバムはビートルズの「赤盤」です。初期のベスト盤2枚組で、非常にわかりやすい、聴きやすい、ポップな音楽。そういうのにすごく刺激を受けたんです。
──カーペンターズをきっかけにビートルズを知ったという人って結構いましたよね。
野村:そうですね。カーペンターズやビートルズは音楽を意識して聴き始めることの入り口でした。そこから、とにかく「新しい音楽に触れたい」みたいな気持ちがあって、その当時は『ミュージック・ライフ』の周辺では、クイーン、キッス、エアロスミスというアーティストが流行っていて、僕はもちろんその3バンドも聴いていましたが、イギリスにクイーンと同じようなフォーマットでスイートというバンドがいて「Fox On The Run」という曲がすごく流行ったんですが、僕はそのスイートがすごく好きになって、なぜかスイートを研究していました(笑)。みんなはキッスだ、エアロスミスだ、クイーンだと騒いでいたんですが、僕はスイートをずっと追いかけていました。
──ハードロックなんですか?
野村:ハードロックで、クイーンに近いですね。ルックスも良くて。いわゆるハードロックポップみたいな感じです。わかりやすいメロディで大好きでしたね。そこからブリティッシュ・ロックのバンドが好きになって、その後にディープ・パープルやレッド・ツェッペリンを聴くようになりましたね。
──レコードを集めまくるような少年だったんですか?
野村:僕の家はそんなに裕福じゃなかったので、ラジオで聴いて曲を覚えるみたいな感じでした。あと、文京区に小石川図書館という図書館があって、その図書館はレコードの貸し出ししていたんですね。だからよく図書館に行ってレコードを聴いたり、借りてきて録音したりしていました。
──あとエアチェックの時代ですよね。
野村:エアチェックの時代です。でも、ポンと押せるようなラジカセを持っていなくて、エアチェックができるようなったのは中学3年ぐらいになってからかな。だからそれまでは、本当にラジオを聴くだけみたいな感じでしたね。
──その頃はまだエフエム東京とかもなかったですか?
野村:ちょうどエフエム東京ができる頃ですかね。その頃、文化放送がすごく洋楽をかけていたので、文化放送をよく聴いていました。電リク番組とか、週末のチャート番組とか、そういうのを聴いていました。
──高校時代はどんな学生で生活でしたか?
野村:先ほども申し上げましたが、中学・高校は暗黒なんですよね。大したことを何もやってなくて。目立った感じにはなれなくて、まあ地味だったわけでもなかったんですが、普通の子でした。高校のときのトピックでいうと、一番僕が衝撃的だったのは成績をもらったときにオール3だったというね。突出した才能がなくて「僕はすごく平凡な人間なんだ」と、自分にがっかりしたことがあります。何もとりえがないんだと。
──本当に平均的な成績ですね。
野村:だから、嫌われもせず好かれもせず、普通にいる感じでしたね。
──でも高校時代も、音楽は聴き続けていたんですよね?
野村:もちろん高校時代もすごく聴いていました。ちなみに高校に受かったときにギターが欲しくて親にねだって1万5,000円のフォークギターを買ってもらったんです。そこで高校の軽音楽部とかに入ればよかったんですが、独学でギターを弾きはじめて、全然上手くならないんですよ。だから音楽がすごく好きだったにも関わらず、ギターを弾く才能もなくて(笑)。
そもそも中学時代の音楽の成績もどんどん落ちていって、もう2に近いぐらいでした。だから僕は、パフォーマンスをやる方は苦手だったんですね。そういう意味での才能はないなと、ちょっとしたコンプレックスや劣等感はありながら、ただ聴くのは大好きだったので、ものすごく音楽は聴いていたんです。
──今につながっていますね。
野村:そうなんですよ。だから、やるほうではなかったんですが、聴くほうではあったという感じでしたね。そんな中高の6年間でした。
──高校も文京区だったんですか?
野村:高校は東京都立北園高校という、板橋にある高校でした。僕らの時代は学校群制度という受験制度で、41群、42群、43群、44群、92群という学校を受けられるんですが、41群がいわゆる小石川・竹早というトップクラスの学校群で、2番目が北園・豊島・板橋の42群という学校群で、僕はそこを受けて、北園高校に入りました。当時は学校を選べなかったですからね。その北園高校は旧制学校時代からある古い学校で、伝統も歴史もあるゆえに、自由闊達な校風でした。実は「北園マスコミ会」というOB会があるんですが、ニッポン放送(現ミックスゾーン社長)の松村さんが会長で、ユニバーサル ミュージック社長の藤倉(尚)さんも北園高校なんですよ。
──そうなんですか。
野村:あと坂本龍一さんのマネージメントをやっている空(里香)さんも北園高校ですし、あとは津田大介君もそうだったりとか、この業界で活躍している人に北園高校出身が結構いるというのに、あとから気がついて、今は年に2回ぐらいずつ集まったりしています。
不思議な学校なんですよね。一流校ではないんですが、自由闊達だったという部分も含めてなんでしょうけど、マスコミ関係とかでご活躍する人が出てきたりしてね。昼休みも弁当を持ってくるやつもいたし、購買でパンを買うやつもいたんですが、僕らは校門から外に抜け出して、近くのラーメン屋で食事したりしていました。
「裏方」というアプローチで音楽に関われるプロデュース研究会との出会い
──そして、明治大学に進学されますね。ちなみに何学部ですか?
野村:1年浪人して商学部に入りました。そのときは将来に対して明確なことは考えていなかったですが、文系の入れる大学ということで。本当は早稲田とかに行きたかったんですが、やっぱり二番目のところに行っちゃうわけです(笑)。今は明治で良かったなと思っていますけど。
僕の中学以降は僕の上に一流の人たちの層がいて、中学・高校・大学はずっと僕はその下のグループに入る感じでした。みんな自由なんだけど、ちょっとした劣等感を抱えているわけですよね。本当は小石川や竹早に行きたかったんだけど行けないから北園にした、というちょっとした劣等感を持っていて、だけどめちゃくちゃ悪いわけじゃなくてね。大学もそうで、早稲田や東大に行きたかったんだけど、でもそこには手が届かず明治になっちゃったみたいな(笑)。明治の人たちはみんな早稲田を受けていて、落ちた人たちの固まりなんです。
──(笑)。
野村:そういう劣等感の共有みたいなものが、反発、反骨精神というか、なんかそういうエネルギーになっていた校風ではありましたね。
──大学時代はどうだったんですか?
野村:入学のオリエンテーションで学校のキャンパスに行ったときに、学校の入口の一番近くに勧誘ブースを出していたサークルがあって、それがプロデュース研究会というサークルだったんです。それで話を聞いてみたら、ようは音楽が好きで、でも軽音楽部みたいに楽器をやって演奏したり歌を歌ったりとかすることを頑張ってやるサークルじゃなくて、好きな音楽やアーティストがいたら、そういうアーティストを呼んでイベントをやるサークルだということだったんです。もちろんそんなサークルは中学や高校にはなかったですし、大学で初めて「裏方」というアプローチで音楽に関われるサークルが存在するんだ、と初めて知って、ちょっと目からウロコだったんですよね。
──居場所を見つけたみたいな感じですね。
野村:そうなんです。本当に「居場所を見つけた」と思って、プロデュース研究会に入ったんです。そうしたらそのサークルの創設者は荒木伸泰さんという人で、今、キャピタルヴィレッジの社長をやっていて、松任谷由実さんの苗場のコンサートを1回目から企画・運営していた人なんです。
──音楽業界とかマスコミってプロデュース研究会出身の方って多いですよね。
野村:プロデュース研究会や放送研究会、DJ研究会とか結構いますよね。本当に今おっしゃったみたいに「居場所を見つけた!」みたいな感じになって、学業をほったらかしにして、サークル活動にのめり込んでいきました。また、プロデュース研究会みたいなサークルには、当時ライブイベントのアルバイトの話も舞い込んできて、サークル活動だけじゃなくて、いわゆるプロの人たちのライブの現場に行って、搬出搬入の手伝いをしたり、警備の手伝いとか、そういうこともすごく活発にやり始めることで、現場を知るわけです。
現場に行ったときのノウハウって、実際に現場へ行かなきゃわからないことがたくさんあるんですよね。そのときに一番気づいたことは、単純なことなんですが「声を出す」ってことでした。搬入搬出をするバイトをやっていても「次に何を運べばいいですか?」「これをどこに置けばいいですか?」とか、ちょっと声を出すだけでも「このバイト君はよくできる」となって、だんだんリーダー格になっていくんですよね。
あと、当時はコンサートが終わったあとにどこかの会場の出口で待っていて、お客さんにチラシやビラを配ったりしたんですが、このチラシ配りも僕はすごく上手で、ちょっと声をかけて「よろしくお願いします、これ○○のコンサートのライブの情報です」と言いながら、手元にポンと渡すと、みんな受け取ってくれるんですよね。だから何人かでチラシ配りをやると、僕が一番はけていました。
──営業の基本ですよね。
野村:だからその頃から「自分にはこういう仕事が向いているのかな?」と思い始めました。そう思うようになると、どんどん仕事が面白くなってきて、ますますのめり込むというね。それで大学2年のときに、支部長というサークルの執行部のトップになって、自分がリーダーシップをとってライブを企画したりするようになりました。そのときに僕が最初に呼んだのが、ピンククラウドや子供ばんどといったロック系のバンドでした。やはり僕はロックが好きだったので、バンド系を呼びたいなと思ったんですよね。僕らの前の世代まではフォーク系の人たちが多かったんですが、僕の代からロックに変わっていきました。
──それは学園祭に呼んだんですか?
野村:ええ。僕は当時のいわゆる「ロッケンロールな日本のロック」に違和感を感じていて、「もっと日本のロックは面白くならないかな」って思っていたんです。
──もっと別の日本のロックがあるのではないか?と。
野村:そうです。僕はそういった日本のロックを広めていく人になりたいなというのは、大学2年生ぐらいの頃におぼろげに思い始めていて、先ほどお話した子供ばんどだったり、そういうロックバンドを学内の人たちに知ってもらいたいなと思って呼び始めたんです。
2年生のときはまだ下っ端だったので、とにかく体を動かしていたんですが、大学3年になったときには、完全にそのサークルのイニシアチブを取る部長になって、そのときに思ったのが当時はバブルの時代だったのでものすごく世の中にお金が溢れていましたし、フジテレビの「オールナイトフジ」での女子大生に代表されるように、大学というものがその世の中のトレンドを作る場所になっていたので、広告業界が大学の学園祭に結構お金を落としていたんです。
つまり、大学の学園祭が広告代理店の手先みたいな感じだったんですね。それですごく軟弱化していて、代理店に与えられたものを受け身でやっているような大学祭のイメージになってしまっていて、僕はそれに対しても抵抗感があったんです。もっと大学生がポジティブに能動的に自分たちのやりたいこと、言いたいこと、考えていることを発揮できるようなことをやっていかないといけないんじゃないかな? と思っていたんです。
ですから僕は大学3年のときに、与えられたライブイベントを企画するんじゃなくて、誰もがやらないようなこと、しかも不可能に近いと思われることをなにかできないかなと、取り組んだのが、高校のときから大好きだったRCサクセションのCHABO(仲井戸麗市)さんのソロコンサートでした。
例えば、RCや忌野清志郎さんを呼んだりするのは当たり前だと思うんですが、そのギタリストであるCHABOさん、いわゆるローリングストーンズで言えばキース・リチャーズ、ツェッペリンで言えばジミー・ペイジのソロコンサートできないか?と考えたわけです。その当時はRCサクセションもまだバンドの活動しかしていない時代だったんですが、RCの事務所に、自分の思いをつらつらと綴った手紙のような企画書を持って行ったんです。
自ら企画したCHABOのソロライブで裏方の喜びを体感する
──手紙のような企画書ですか?
野村:レポート用紙10枚くらいの手書きで。「僕はRCが大好きなんですが、RCのライブは誰でもどこでもできることでつまらないので、CHABOさんにソロライブをやってもらえませんか」という企画書を事務所に持っていったんです。そうしたら検討してくれて、一週間ぐらい経ったら事務所から連絡あって「CHABOが『やる』って言っているからやります」と。
──CHABOさん、最高ですね(笑)。
野村:「おお!」となって。CHABOさんがソロ活動を一大学生の企画でやるなんてことになるんだ、これはすごいことだと思いましたね。それで、その企画を煮詰める中で「対バンにしてもいいですか?」って聞いたらOKということだったので、CHABOさんとCharさん、いわゆるギタリストのイベントにしたらいいかなと思って、Charさんのピンククラウドにも声をかけて出演をしてもらったんです。CHABO vs Charみたいな、そういう企画を大学祭3日間のうちの1日目として考えたんですね。
2日目は日本のニューウェーブ・バンドでビジネスというバンドがあったんです。そのビジネスというバンドは結構早い時代から日本のロックの中にレゲエとかスカの要素を取り入れて、当時で言うとクラッシュやポリスみたいなちょっと裏打ちのロックビートを取り入れていたバンドなんですが、当時バンドは解散していたんですよ。でも僕はもう1回ビジネスのライブを観たいなと思って、ビジネスが所属していた事務所に行って、「ビジネス大好きだったんですけど、もう1回僕の大学の学園祭で再結成してライブをやってくれませんか?」って話をしたんです(笑)。
──すごい熱意ですね。
野村:そうしたらまた熱意を感じてくれたのかわかんないんですが「じゃあ1日だけ再結成をしましょう」とビジネスが学園祭の2日目に再結成してくれることになったんです。そのバンドは美空どれみという女性の方がボーカルのバンドで、バックは男なんです。当時、似たような形態のチャクラというバンドがいて、チャクラも解散していたんですが、ボーカルの小川美潮さんはソロ活動をしていたので、その小川美潮さんをブッキングして、ビジネスの再結成と小川美潮さんの対バンライブにしました。日本のニューウェーブ、新しいロックを作った2人の女性アーティストに出演してもらう形に作り上げたのが2日目でした。
──両日ともにすごく面白い企画ですね。
野村:ありがとうございます(笑)。そして3日目はいわゆる後夜祭といって、メインステージなんですが、そこは大きなアーティストを呼びたいと思って、当時学園祭の女王と言われていた山下久美子さんのライブをやろうと考えました。これは素直に単独でやろうと思ったんです。それで山下久美子さんの事務所に言って、「ライブをやりたいんですけど」と言ったら、今度は事務所側から「実はこういう企画があるんだけど君やるか?」と言われたのが山下久美子さんと植木等さんのジョイントライブだったんですよ(笑)。
──植木等さんですか?(笑)
野村:「えー! それすごく面白いですね、絶対にやります。僕、頑張りますから」とすぐに手を上げて、それで渡辺プロに行って、そのときの宣伝担当だった渡部さんという人に「山下久美子さんと植木等さんのジョイントライブを頑張ってやりますから」と話をしてやることになったんです。そのときに渡部さんから「頑張って宣伝してこい」と言われたので、「じゃあ宣伝の媒体リストください」と言ったら、渡辺プロ秘蔵の媒体リストをくれたんですよ。
──それはすごいですね。なかなか見せてもらえるものじゃないですよね。
野村:そうですね。そこには雑誌社担当者、新聞社担当者、放送担当者の名前と電話番号があって。
──『ミュージックマン』のレコード会社のリストみたいですね。
野村:本当にそうです。貴重な渡辺プロの財産みたいな。渡部さんにこれ言ったら怒られるかもしれないですが、本当は一学生に出してはいけない資料だったと思うんです。でも、渡部さんとしては多分仕事を楽にするために学生を使おうと思ったんでしょうね。僕もそういう魂胆が内心分かっていたんですが、でも逆に利用してやろうと思って(笑)、山下久美子さんと植木等さんのライブのプロモーションをし始めたんですけど、当然言われた通りにはやらないですよね(笑)。
──(笑)。
野村:僕にはCHABOさんとCharさんのイベントも、ビジネスの再結成イベントもありましたし、久美子さんと植木等さんのイベントもあったので、この3つを明治大学のスペシャル企画イベントとして仕立て上げて、渡辺プロからもらった媒体リストを使って、その3つのイベントまとめたプロモーションを始めたんです。そうしたら結構いろいろなところで「明治大学に面白い企画屋がいる」「明治大学の野村というやつが面白ことをやっているぞ」みたいな口コミでだんだん広がって、新聞に取り上げられるようになったり、ラジオやテレビ、雑誌に出たりするようになったんですね。最初はインフォメーションだけ載せてもらっていたのが、今度は企画者にフォーカスがあたってきて「野村って面白いやつがいる、あいつにインタビューしろ」みたいになり、最後は僕の記事が乗り始めたんです。
──新進気鋭のイベンターだと。
野村:そうなんですよ。そうしたら渡部さんから連絡があって「お前はなにをやっているんだ!」って(笑)。「ちゃんと山下久美子と植木等のプロモーションをしろ!」「お前の他のイベントのために媒体リスト渡したわけじゃねぇんだから」ってすごく怒られて「すいません」とか言って(笑)。
──何社ぐらいリストにあったんですか?
野村:メインどころの雑誌で20~30あったと思いますね、あとは放送局と新聞です。
──はっきり言って、そこの担当者に自分でたどり着くのは大変ですよ。
野村:だから「渡辺プロの渡部さんの紹介で」というと話を聞いてくれるわけですよね。「山下久美子と植木等のライブがあるので、ちょっとお話し聞いてくれませんか」って言って、他のライブの企画書もまとめて持っていって。そういう手法でやっていました。
──ちゃっかりしていますね(笑)。
野村:バレて渡部さんにすごく怒られましたけどね。
──イベント自体は大成功ですか?
野村:大成功でしたね。ライブの日にCHABOさんが学校に来られて、マネージャーの方に「彼があの手紙みたいな企画書を書いた野村くんだよ」って紹介していただいたらCHABOさんのほうから「君が野村くんか。あの企画書良かったよ、ありがとう」って手を差し伸べてくださったんですよね。僕はそのときはすごく感動しました。感激して、裏方をやっていて本当によかったなと思いました。
──そういう経験ってこのお仕事をする上で重要ですよね。
野村:ええ。プロモーションをやることで、そのイベントの意味や内容が広がっていったり、チケットがたくさん売れたり、「いい企画にしてくれてありがとう」とアーティストから感謝の言葉をもらったり、そういう喜びがやはり原動力なんですよね。
それで本番のときに楽屋へCHABOさんを迎えにいって、ステージ袖までアテンドして、改めて「本番よろしくお願いします」と頭を下げたときに、CHABOさんが「頑張ってくるからね」ともう1回握手をしてくれたんです。それで、ステージの真ん中に立ったCHABOさんが、お客さんを「イエー!」って煽りながら「今日は明治大学の野村くんのおかげでライブができます!」って言って満場のお客さんが「わー」ってなったんですよ。その光景をステージ袖で目の当たりにしたときが僕の音楽人生の始まりであり、何かが変わった瞬間だったんです。エンターテイメントの持っているパワーだったり、裏方でやっていくことの喜びみたいなことをすごく感じたんですよ。
──カタルシスですね。
野村:まさにカタルシスでした。
──生まれてその日までのいろいろな想いがそこに凝縮されたような。
野村:二十歳そこそこの若者が、間接的にですけど、2,000人のお客さんをワッと沸かせている。CHABOさんの言葉を通じて沸かせている。言ったのはCHABOさんかもしれないけど、仕掛けたのは僕だったので、自分が何かを成し遂げたという強い思いがありました。裏方でもこういう喜びを感じられるんだなと思いましたし、僕はCHABOさんがステージのセンターに行く後ろ姿を見ていて「やっぱりステージに立つのいいな…」と思いながらも、次の瞬間にCHABOさんが「野村くんのお陰でライブができます」と言って、ワッとなった瞬間に、俺やっぱりバックステージでも全然いいやと思ったみたいな。そのステージに立つ人間とバックステージに立つ人間のコラボレーションがちゃんとできて、初めてエンターテイメントって成り立つんだなと瞬間的に感じました。
──結局その繰り返しを今日までやっていらっしゃる。
野村:ええ。その結果、こういうことになったんです。僕はそこが第一歩でしたね、だからその喜びを感じることが忘れられなくて、あの喜びを毎回追求するために、ずっと今日まで仕事をしてきているって感じですね。
──野村さんの才能はそこにあったわけですね。
野村:才能があったかどうかは分かりませんが、「人と同じことをやりたくない」という気持ちはすごく強かったんです。だから誰かが敷いたレールじゃないレールを自分で敷きたいなと思っていましたし、誰かにやらされているんじゃなくて「自分でやる」という能動的なことがすごく大事だと思っていましたし、イノベーションしたいとも思っていました。それは単に変わったこととか人がやらないことだけじゃなくて、そこにきちんとした意味であったり姿勢が見えるようなことを伝えていきたいと思っていたんですね。ある種、課題や問題意識、アンチテーゼを持ってやることが、そのエネルギーにつながるってことも、なんとなく自然に感じたんだと思います。
「瞬発力の繰り返しで持続力のなさを補います」〜ナベプロ入社からロックセクション「ノンストップ」へ
──3日間のライブの大成功によって、野村さんご自身もプロデューサーとしての評価を確固たるものになったわけですか?
野村:確固たると言いましても、一学生でしかなかったですからね。いわゆる野球で言えばアマチュアで、甲子園で優勝したぐらいの感じですよね。
──でも、その実績からナベプロにつながるわけですよね。
野村:そうですね。結局そんなことばかりやっていたので、大学4年生になったときに卒業単位に満たなかったんです。だから一般企業への就職活動ができなくて、卒業単位がなくても就職の面接とか試験受けさせてくれるのはマスコミしかなかったんです。ただ、正面玄関からきちんと入りたかったので、放送局や広告代理店、レコード会社、プロダクション、あと雑誌関係を物色し始めました。そのときに手応えがあったのは渡辺プロと、ぴあも最終まで行く直前だったのかな?
──ナベプロも一応正面玄関から?
野村:正面玄関です。渡辺プロって当時は1次試験でも10回ぐらい面接があって、セクションごとに学生が回って行くんです。もちろん筆記もありましたが面接重視で、2次試験も10回ぐらい面接がありました。そして3次が最終なんですが最終面接のときは役員面接で、渡辺晋社長が真ん中に座っていらして、渡辺晋社長の直接面接を受けたのは僕の代が最後なんですね。
──渡辺晋社長の直接面接ってすごいですね。
野村:ちなみに2次面接のときに先ほどお話した渡部さんが面接官にいて「なんだ、お前か」って言われて(笑)。「俺に言えばよかったのに」と言われたので、「ちゃんと正面玄関から入りたかったので」と言ったら「ああそうか」と言われてね。そのときに多少「あいつはできる奴だ」と推薦はしてくれたんだと思うんですけどね。それで最終試験までいったんですが、僕は履歴書の中の長所と短所というところの長所に「瞬発力がある」と書いたんですよ。それで短所に「持久力がない」って書いて(笑)。
──(笑)。
野村:いろいろなことを瞬間瞬間でバンってやるんだけど、長く続けるのは苦手だったって自分でわかっていたことだったので正直に書いたんです。それで渡辺晋社長から1個だけ飛んできたのが、「君ね、長所に『瞬発力がある』って書いてあるけども、短所に『持久力がない』って書いてあるじゃないか。この世界は持久力がないとダメなんだぞ。どうするんだ?」って質問で、僕は「瞬発力の繰り返しで持続力のなさを補います」って言ったんです。
──いい切り返しですね(笑)。
野村:そうしたら渡辺晋社長がニヤっと笑って「こいつ上手いこと言うな」みたいな(笑)。その場の空気がドッとなって「手ごたえあり」みたいな感じで乗り越えたんです。
──当時何人が渡辺プロを受けて、野村さんも含めて何人入社したんですか?
野村:500人中2人でしたね。
──500人で2人!? そんな狭き門だったんですね。でも、審査員をニヤっとさせたので勝ちでしたね。
野村:よかったですよ。「これはイケるな」と思いました。なんかそういう言葉遊びみたいなのも面白い、喜んでくれるんじゃないかなってちょっと思って、あのときはそれがバシッとハマりましたね。
──そもそもなぜ渡辺プロダクションを受けたんですか?
野村:渡辺プロダクションは芸能界のプロダクションでありながらも、そこの中にノンストップっていうロックセクションがあって、大沢誉志幸、山下久美子、アン・ルイスがいたんですね。いわゆる芸能という枠の中でも、自作で曲を作るロックアーティストをマネジメントしているという意味で、渡辺プロには懐の深さ、奥行きの広さを感じていましたし、そういうに魅力を感じていました。
──やはりロックセクションに行きたかった?
野村:ええ。当然歌謡曲と芸能にはそんなに興味がなくて、ロックセクションに行きたかったので、入社後に「ノンストップに行きたい」と希望を出したら、渡部さんもノンストップだったので制作部門に引っ張ってくれました。
そのノンストップを作ったのは、今の僕のボスである中井猛さんなんですが、中井さんにもそこで初めて出会いました。中井さんは渡辺プロダクションという芸能プロダクションの中で洋楽に影響を受けて、日本でもこれからは自分で曲を書いてパフォーマンスする、自己主張があるようなアーティストがどんどん出てくるからとノンストップを作ったんですね。そういう話を中井さんから直接聞いて、中井さんをすごく意識し尊敬するようになりましたね。それでしばらくは、とにかくなにかあったら中井さんの話を聞きに行くようにしていました。
──ノンストップの制作部門ではどのようなお仕事をされていたんですか?
野村:最初は半年ぐらい小間使いをやって、その後、松岡英明というソロアーティストを担当することになりました。松岡英明は当時まだ10代でEPICソニーからデビューしたんですが、EPICソニーが安藤秀樹、岡村靖幸、松岡英明を同時期にデビューさせたんですね。松岡英明は比較的アイドルロックみたいなアーティストだったんですが、デビューして何年か経っているアーティストにつけと言われるんじゃなくて、まっさらの新人アーティストを担当させてもらえたのはラッキーだったなと今は思います。
──新人アーティストの担当でラッキーだった?
野村:ええ。0から1になる姿、1が10になる姿というのをそのときに見たんです。さらにラッキーだったのは、やはり当時のEPICソニーってめちゃくちゃ勢いがあって、次から次へ新しいやり方で新しいアーティストをどんどんと出していたんですね。渡辺美里や佐野元春、MODS、STREET SLIDERS、TM NETWORKと、良いアーティストをどんどん輩出している頃で、会社もすごく活気づいていて、僕は「会社にいるよりEPICソニーに出向く時間を多くしたほうがいいな」と思って、頻繁に出入りしていました。当時のEPICソニーは青山ツインタワーにありましたが、行ってはサンプル盤をたくさんもらってきて、他のアーティストさんが何をやっているのかを聴いたりしていましたね。
──やはり当時のEPICソニーの勢いがすごかったですか?
野村:スタッフとかもすごく活気がありましたし、若いスタッフも多かったですし、とても刺激を受けましたね。僕は一浪しているので入社当時は23歳ですが、EPICソニーで大活躍している人たちって大体27歳ぐらいだったので、「3、4年経ってああいうポジションに行かなきゃダメだな」と、自分のビジョンが立てやすかったんです。3、4年経ったら、きちんと主張して自分のやりたい仕事をやっていくようになっていきたいなと。近くにいる先輩たちを見渡して、そういう風に感じていましたね。
──周りに優秀な人が多かった?
野村:周りには優秀な人がたくさんいたし、やっぱり上司の中井さんも素晴らしい人でしたし、そういう部分でたくさん影響を受けました。それで松岡英明を3年担当したあとに、3年やると一通りの仕事を覚えられるので、次は自分でやりたいことをやろうと思って、中井さんに相談をして、ビクターから新人として出す東京少年というバンドの担当になりました。東京少年は京都から出てきたバンドで、僕はもともとバンドをやりたいと言っていたので「バンドだからお前やれ」と。松岡のときはどちらかと言うと小間使いが多かったんですが、東京少年の担当になってからは、チーフマネージャー的な振る舞いもできるようになってきたので、自分である程度イニシアチブを取ってレコード会社とやり取りしたり、ビジョンの組み立てをしていったりしました。ですから、入社したときに思っていた「27歳までにいっぱしになる」というのは達成できたかなという感じでしたね。
──27歳でチーフは若いですね。
野村:若いですね。でもに「27歳で一人前」というのを最初の年に思えていたのはよかったなと思っています。それが目標になりましたしね。
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