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第176回 株式会社ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長 一般社団法人 日本音楽制作者連盟理事長 野村達矢氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

野村達矢氏
野村達矢氏

今回の「Musicman’s RELAY」はバンダイナムコアーツ 井上俊次さんからのご紹介で、(株)ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長、日本音楽制作者連盟 理事長の野村達矢さんのご登場です。

明治大学在学中、コンサートの企画を通じて、エンターテイメントの魅力に惹きつけられた野村さんは、大学卒業後の1986年 渡辺プロダクションに入社。ロックセクションのノンストップでのマネージメントを皮切りに、現在代表を務めるヒップランドミュージックコーポレーションでは、BUMP OF CHICKENやサカナクションなど数多くのアーティストを手がけられてきました。

また、2019年6月には日本音楽制作者連盟の理事長に就任され、コロナ禍の困難な状況の中、音楽業界全体のために日々奮闘されている野村さんにじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール

株式会社ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長 一般社団法人 日本音楽制作者連盟理事長 野村 達矢(のむら・たつや)


東京・文京区生まれ。明治大学卒業後、渡辺プロダクションに入社。中井猛氏が1988年に設立したヒップランドミュージックに入社し、2019年に同社代表取締役社長に就任。同年6月には日本音楽制作者連盟の理事長にも就任した。


 

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第176回 株式会社ヒップランドミュージックコーポレーション 代表取締役社長 一般社団法人 日本音楽制作者連盟理事長 野村達矢氏【前半】

 

自分発信で初めて発掘したCURIOでの成功と失敗

──ちなみにノンストップの中にライバルはいましたか?

野村:何人か、ライバルみたいな存在はいました。僕の中で若手と僕と同世代が2人いたんですが、片方は大沢誉志幸について、もう一人は山下久美子についていたので、キャリアのある人についていたんです。新人についたのは僕だけでした。

──新人に新人をつかせるというのがなかなかすごいですね。

野村:「僕だけちょっと違うな」とは感じていました。大御所の人たちについて何か覚えていくというのではなくて、新人についてゼロから育っていく姿を見られる場所にいたというのは貴重な経験でした。

──「野村だったらそれでやれるはずだ」と思ってくれたんですかね。

野村:たまたま僕が入った年に「新人に新人をやらせる」という指示が出るという話で、そこが空いていたんですよね。だからラッキーだったんだと思います。

その後中井さんがノンストップから独立して、ヒップランドミュージックを立ち上げたんです。僕が仕事をし始めて4年目のときでした。

──そのときはナベプロとヒップランドに資本関係はあったんですか?

野村:なかったです。完全独立でしたね。

──では、中井さんがヒップランドを立ち上げて「来いよ」と言われた?

野村:ええ、一緒に行きました。

──そこには迷いはなかったですか?

野村:なかったですね。中井さんはもう完全に僕のボスだったので。

──円満に会社は移れたんですか?

野村:ええ。きちんと渡辺プロ本体と円満な形で独立するという道筋をとっていたので、もちろん大きく揉めることはなかったと思ういます。僕は正社員だったので、期間満了してから行くということで、設立から3か月ぐらい遅れて参加しました。

──ヒップランドへ移ってからはどのようなお仕事をされていたんですか?

野村:ヒップランドからの最初の新人アーティストとして東京少年は3年間やって、そうすると「野村くん、今度はこういう仕事をやってくれないか?」と移籍アーティストの案件が回ってくるようになりました。それでハートランドという事務所からヒップランドに移ってきたアップビートの担当になりました。

──ヒップランドは音楽出版社というイメージが先に立つんですが、マネジメントも最初期からやられていたんですか?

野村:そうですね。マネジメントは最初からやっていましたが、中井さんの構想では、やっぱり出版権や原盤権が最初から頭にあったので、出版社機能という部分を土台にしてという構想は最初から言っていましたね。そういう意味では、マネジメント会社でもありながら出版会社としてちゃんと機能していくという大前提でスタートしていました。

──中井さんはその後スペースシャワーネットワークを設立されますね。

野村達矢氏

野村:そうですね。ヒップランドを設立して、グループ会社では大阪のラジオ番組制作会社の キッスコーポレーションだったり、大阪のイベンター グリーンズコーポレーションだったりとか、それも中井さんの構想で創設されて、ヒップランドグループというものができあがっていったんですが、それからほどなくスペースシャワーが音楽専門チャンネルとして立ち上がるわけですが、「新しい音楽チャンネルができるから、それに参画して欲しい」ということで中井さんが参画して、ヒップランドを兼任しながらスペースシャワーの仕事をやり始めることになっていたんです。

でも、だんだんウェイトはスペースシャワーに大きくなり始めましたね。やっぱりスペースシャワーの立ち上げは中井さんのなかでも結構ウエイトが大きかったみたいなので、一時期ヒップランドからは少し距離がありました。ずっとヒップランドのトップであることには変わりがないんですが、その比重の置き方がその時代、時代によって変わっています。

その中で僕はずっとマネージャー一本槍でやっていたんですが、先ほどのアップビートやフェアチャイルドのように、「ヒップランドでやってくれないか」と他から移籍してきたアーティストを受ける時代もあって、それはそれでうちがやっている仕事が認められているんだなと感じていました。それでアップビートが解散したときに、僕は1年間ぐらい何も担当がなかった時期があったんです。確か33、34ぐらいだったと思いますが、そのときに結構ライブハウスとかをウロウロし始めて、レコード会社の新人開発担当の人たちと交流を持ち始めて、どうやったらいい新人を見つけられるかなとライブハウスを物色していました。

──今度は新人を探す作業をしたわけですね。

野村:そうですね。そういう動きをしていたことがよかったんだと思うんですが、「ビートブラストジャパン」というライブオーディションの審査員をやってくれという話が来て、それは西日本エリアのオーディションだったんですが、今でいうとTSM、当時の東京コミュニケーションアートスクールと島村楽器との合同オーディションで、それに西日本のラジオ局が何社か協賛していたんですが、その審査員をやってくれと。

それでそのときにCURIOという大阪出身のバンドと出会ったんですね。すごく元気があって、勢いがあるいいバンドで、そのコンテストでは優勝じゃなくて準優勝だったんですが、僕はどちらかと優勝したアーティストよりも、そのCURIOのほうに興味がありました。逆に言えば優勝しなかったので、彼らの立場はフリーだったので、彼らに「一緒にやらないか?」と声をかけました。

──野村さんご自身が初めて発掘したアーティストがCURIOですか?

野村:僕発信で発掘したアーティストでデビューしたのはCURIOが初めてでした。それでCURIOをデビューさせて、結構順調に行ったんですよ。レコード会社はEPICソニーからで、1枚目のアルバムが3万ぐらい売れたのかな? それで2枚目のアルバムも10万近くと結構売れて、3枚目のアルバム出すときに「武道館でやろう」と武道館と大阪城ホールでやったんですが、これが大失敗で、武道館で何人だったかな…正直に言うと3,000人ぐらいです。大阪城ホールも3,000人ぐらいですけど、大赤字になって会社にすごく迷惑をかけました。

──野村さんでもそういった失敗があるんですね…失敗の原因は何だったんですか?

野村:完全に僕の勢いですね(笑)。勇み足という。

──早すぎた。

野村:僕も勢いがついちゃっていたんでしょうね。イケイケだったので。CURIOもトントン拍子で上がっていきましたし、ヒット曲も出ていたし、それでなんか勢いがついちゃって「武道館だ!」ってやったら大コケして。バンドも精神的なダメージもあり、バンドの活動も少しずつ停滞し始めて。そうしたら、ある日、僕以外に現場マネージャーがいたんですが、ある日、現場マネージャーから「ボーカルのNOBと連絡がとれなくなった」という連絡がかかってきたんですよ。

それで「明日の仕事なに?」「取材です」みたいな話になって、あちこちに連絡していたら警察から電話がかかってきて「逮捕した、覚せい剤だ」と。もう目の前が真っ暗になりました。もちろん僕は覚せい剤をやっていることは全然知らなかったですし、決まっていたライブも全部飛ぶことになりましたし、リリースはおろか商品も回収ですよね。ですから、武道館ライブも失敗した上に、そういう事件も重なって、相当ダメージを受けました。

──バンドは活動停止?

野村:全活動停止ですね。これはつらかったですね。EPICソニーだったので商品は回収になりますし、マスコミ対応もソニーがあまり表立ってできなくなっていき、全部僕がやったんですよね。その心労もストレスもすごく大きかったですね。やっぱりあることないこと、週刊誌やスポーツ新聞に書かれますし、そういったことも収束させていかなければいけなかったですしね。裁判の法廷ではやっぱりマスコミ各社が押し寄せてきちゃって、その整理もしなくてはいけませんでしたし、僕はNOBの証人として証人台にも立ちました。まさにドラマで見る風景ですよね。半円のところ立って裁判長がいて「これから証言すること全てに嘘はありません」と宣誓して、検察官からたくさん質問されて、それに答えていくみたいなことですから。

──辛い経験ですね…。

野村:きついですよ。その前に逮捕されて面会に行ったとき、アクリル製のポチポチが開いている中で会話する感じとか、ああいったことも経験しましたし、ちょっと異常な経験をしたと思います。

アーティストはあくまでも人ですから、人と人とのぶつかり合いみたいなことはやはり生じます。いいこともあれば、こういうひずみみたいなのも出てくる場面もあるんだなというのを、このときに身に染みて感じました。とても、きつかったですが得たものも大きかったです。そのときのできごとは、人生の中でも何個かの失敗の中で一番大きな失敗だったと思っているんですが、周りの人はすごく助けてくれましたし、先輩たちが色々と助言してくれたこともすごく気持ちの糧になりました。

その頃の僕って、もう本当に若くてイケイケで「年上の人の言うことなんか聞くもんか」ってずっと思っていたりしたんです。「自分の思っていることが最高なんだ!」とずっと思ったりもしていたんです。でも、そこで鼻っ柱を折られたというか、改めて上の人たちの助言を聞いたときに、「やっぱり経験を積んでいる人たちって素晴らしい心の持ち主なんだな」と改めて感じましたし、そこで少し冷静になれたと思います。

 

それまでと真逆の思考で取り組んだBUMP OF CHICKENのマネージメント〜右脳仕事と左脳仕事の区別

──再び謙虚な気持ちになれたんですね。

野村:そうですね。実はその事件のちょっと前に、BUMP OF CHICKENに出会っているんです。木﨑(賢治)さんから「こんなアーティストが今、下北沢で話題になっているんだ」とカセットをもらって、それがBUMP OF CHICKENの音源で、会議室で聴いてみたらすごくてびっくりしたんですね。声もいいですし、特に詞が素晴らしいなと思いました。僕は『アルエ』という楽曲にものすごく感動して、木崎さんを通じて「すぐメンバーに会いたいです」という話をしてすぐに会わせてもらいました。

そのときもう何社かマネジメントからは声もかかっていたらしいですが、メンバー4人と色々な話をさせてもらって、波長が合ったのか分からないですが、メンバーは僕らを選んでくれて、BUMP OF CHICKENのマネジメント始めることになったんです。それが決まっていたので、CURIOの事件ですごく大きなダメージを受けていましたが、それでも小さな希望は持てたと言いますか、その出来事をバネにしてもう一度頑張ろうと思ったんです。

──バネはやっぱり1回へこまないと弾まないですしね。

野村:ええ。僕はそれまで凹むという経験をあまりしてこなかったんですが、凹むというのもひとつのエネルギーを爆発させるきっかけになるんだなとそのときに思いました。それまでは前に進むことしか考えてなかったですから、縮むなんてことを一切考えてなかったんですが、一回立ち戻るというか冷静になって、縮むときは縮もうみたいに思いましたね。そうすると逆に言えば跳躍力が伸びるんだというのに改めて気がついたというかね。

それで、BUMP OF CHICKENのマネジメントを始めるにあたっては、比較的それまでにやってきたことと真逆の思考をするようにしたんです。例えば、媒体のプロモーションは物量だと思っていたところがあったんですが、彼らでは量が少なくても、質の高いことをやれば伝わっていくんだという風にちょっと変わっていったんです。タイアップもしなかったですし、テレビにも出なかったんですが、逆にそういう姿勢が支持されていったみたいなところはありました。当時、ハイスタみたいなインディーズのバンドがどんどん出始めてきた時代だったので。

──BUMPも最初はインディーズからですか?

野村:はい。最初はインディーズでやろうと話をしていました。彼らもそういう時代の影響を受けていたので、ハイスタなんかそうだったんですが、迎合しないというようなスタンスであったりとか、アーティスト主体という考えた方に彼らも影響を受けていましたし、僕らもそこと波長を合わせられました。

──野村さんのモードも変わった?

野村:それまでやっていたモードと真逆と言いますかね。まあ180度まではいかなかったかもしれないですけど、90度以上は転換できましたね。そして、BUMPが結果を出し始めたことに対して、みんなが興味を持ち始めたんですよね。それで僕のところにも業界内の知らない人、もしくは昔仕事をしていた人からも、「BUMPのようなマネジメント、プロモーションの仕方を教えて欲しい」と話が来るようになりました。ある種メディアから距離を置いた形でのプロモーションのお手本にBUMPがなったみたいなところはあるかと思いますし、それとともに僕自身もこの業界内で評価していただけるようになったと思います。

──我々もBUMP OF CHICKENは音楽も素晴らしいけど、何よりその存在自体が他のアーティストと違うポジションにいるように感じていました。

野村達矢氏

野村: BUMP OF CHICKENのマネジメントは、ヒップランドと木崎さんの会社のブリッジと一緒に、ロングフェローという会社を作ってやっていたんですが、やっぱり木崎さんとすごくディスカッションをしましたし、仕事そのものの話だけじゃなくて、木崎さんとは世の中の動向であったりとかムードであったりとか、音楽そのものの正当な在り方はどういうことなのかみたいなことまで結構議論したりしていたんですが、それは僕の糧になったような気がします。

その頃から僕は、自分の中の右脳仕事と、左脳仕事の区別をつけるようになってきていて、やっぱりジェネラリストであるマネジメントって左脳が上手に使えないと駄目だなと思うようになったんです。アーティストや現場の制作をやっているクリエイターの人は右脳でものを言ってくるわけですよね。その場のひらめきだったり感覚だったりで。でも、その場のひらめきとか感覚を形にしていったりするのは、実はそんなに上手じゃないんですし、バジェットコントロールはできない人がほとんどです。

でも僕は、そこのバランスをちゃんと取れる人間になりたいと思っていました。そのために自分の中でも、右脳仕事と左脳仕事の区別をつけるようにして「この場面は左脳をちょっと多めにしよう」「この場面は右脳をちょっと多めにしよう」みたいな、そういうことをやることによって一つの完全な脳をどうやったら作れるのかということをすごく意識するようになりました。ですから右脳の部分が20パーセントぐらい足りなかったら、その20パーセントを埋めようとか、左脳の20パーが足りないと思ったら、その20パーを埋めようとか、自分で仕事配分をしていきました。つまり、そのチーム中での自分の存在を作っていくみたいな作業をするんです。

──ブレインコントロールするんですね。

野村:そうです。自分自身のブレインコントロールをして参加していくみたいなことを意識するようになっていきました。ですから、そういう意味での自分の立場だったり自分の役割みたいなのも、改めて自己演出するようになったと思いますね。

──やっぱり幼稚園のときに自分で思っていた実感が。

野村:(笑)。そこでやっと出てきたんですね、30数年の月日が経って。

──本当に閃きだけでものを言う人と、逆にお金のことだけしか言わない人とか両方いますよね。

野村:いますよね。どっちでもダメだと思うんです。だから1個の完全な人格を作るためには、右脳左脳がきちっと揃ってなきゃいけないわけですし、100パーセントの人格を作るために足りない空白をどういう風に埋められるかということを意識しながらやっていくのが、僕の仕事ですね。

──それがまさにプロデューサーであり、マネージャーの仕事ですよね。

野村:そう思います。だからときにスペシャリストの気持ちを理解するというジェネラリストでなければいけないのかなとはすごく思っています。中井さんの言葉に「クリエイティブマインドを理解できるプロデューサーになれ」というのがあるのですが、それはすごく意識しています。だからバジェットコントロールだけとか、人の手配や組織組みだけしていても、やっぱりクリエイティブのマインドを理解できない限りは、最終的にいい作品には仕上がらないわけで、きちんとクリエイティブのマインドを理解して、その本質を潰さないように、どう実現するかということを考えていくことが大事だと考えています。

 

 今までのフォーマットを打ち破るサカナクションの魅力

──BUMP OF CHICKENだけでもすごいのに、ヒップランドからはサカナクションという素晴らしいバンドが出てきましたね。彼らとの出会いはそのようなものだったのでしょうか?

野村: BUMP OF CHICKENが、みんなの憧れのバンドになっていく中で、僕のところにも「新人でこういうアーティストがいるんだけど」とプレゼンテーションがたくさん来るようになっていたんですが、どれもBUMPの真似をしてるようなバンドばかりで、全然興味は湧かなかったですね。また僕は送られてきたデモテープを結構聴くほうで、当時、年間500本以上は聴いていたと思いますが、ピンとくるものがずっとなくて、「BUMPを超えるアーティストになかなか出会えないな」としばらく思っていました。

──ある種、諦めの境地ですか?

野村:出会いということに対しては、それに近いぐらいですね。BUMPをやることによって自分のハードルも上がっちゃっていたので、なかなか難しいなと思ったんです。それで、BUMPがちょっと活動を緩めて、あまりライブ活動をしないでレコーディングに専念するような時期があって、そうすると時間の余裕ができて、色々な人と会食をしたんですが、そのたびに「最近何か面白いことある?」とか「面白いアーティストいる?」みたいなことを聞いていたんですね。そのときに出てきた名前の中にサカナクションがあったんです。

変な名前だから記憶に残ったんですが、次の日にまた違う人たちと会食して同じ質問をしたら、またサカナクションが出てきて、これはと大至急調べたら、ビクターの新人育成チームが預かっていると。彼らは今、地元の北海道にいながらビクターの新人チームが育成している状態になっているということで、すぐにビクターの新人開発セクションに連絡して「サカナクションってアーティストが気になっているんだけど、資料くれない?」と資料を取り寄せて聴いたらやっぱり面白くて、なおかつ会社で聴いていたら「野村さんこれ何ですか?」って人が寄ってくるんですよ。

──それはいいですね。

野村:うちの会社の若手の子たちも音源に反応し始めたりとかしていて、興味深いアーティストだなと思って。それで「すぐにメンバーに会いたい」という話をしたら、「何月何日に札幌でライブがあるのでそれに合わせて来てください」みたい話になって、札幌Bessie Hallのライブを観に行ったんです。そのときもやっぱり数社マネジメントのアプローチが入っていたらしくて、数社行く予定になっていたみたいだったんですが、そのとき全日空の飛行機がシステムトラブルでその日の午後の飛行機が全部欠航になったんですよ。僕は全日空をとっていたんですが、たまたま羽田に行く車の中でそのニュースがラジオから流れてきたので、瞬間的に電話して全日空から日航にチケットを変えたんですね。それで羽田に着いたら変えた飛行機に乗って札幌に飛んだんですが、僕以外のマネジメントの人は飛べなかったらしいんです(笑)。

──それは強運ですね(笑)。

野村:ライブを観たのは僕だけで、他の人たちは間に合わなかったんです。翌日はメンバーとのコンタクトの日で、ライブを観て彼らと面接をしたのは僕だけで、他の人たちはライブを観ないで面接になったんですよ。

──他の社の人たちは「ライブを観たよ」って言えなかったんですね。

野村:そう、言えなかったんですよ。ラッキーでした。まあ(山口)一郎から見たら僕の印象も良かったらしくて、「『東京に出てきてやんなよ』って言ってくれたのが野村さんだけだった」みたいなことを後日言っていましたね。僕はやっぱり札幌のローカルバンドじゃなくて全国区でやるべきだと言ったんです。東京に出てきてちゃんとした日本のバンドとして活動していったほうがいいと思うと。まあそういったことも含めてラブコールをして、サカナクションはうちのマネジメントを選んでくれて一緒にやることになったというのがいきさつですね。

やっぱりサカナクションのよさというのは、さっきの革新的ということじゃないんですけれど「今までのフォーマットを打ち破ろう」みたいなところで、例えば、ものすごく歌詞が日本的ではあるんだけれど、トラックがすごく洋楽的でクラブミュージックの要素を入れていたり、和の要素と洋の要素が2つ混じっていたりとか、いろいろなものをごちゃまぜにしていって、変な違和感を作ってくみたいなところだと思います。あとは、アナログの部分もあれば、実はものすごく先進的なテクノロジーを使って、トラックの中でちゃんと活かされているみたいなこともあって、すごくイノベーティブなアーティストだと思ったんです。僕はなんかそういう要素をデフォルメできるようになるといいなと思ったんですよね。

──それはどういうことですか?

野村:わかりやすいことで言うと、300人ぐらいのライブハウスでライブをやるんですが、機材をガッツリ入れちゃうんです。それで照明やレーザーをバンバン飛ばすような、視覚的に圧倒されるようなライブをやることで、「このアーティストはそういうところにこだわっているんだ」みたいなことを見せようと思ったんです。実は早い段階から彼らに自前の照明機材を買って、レーザーを持ち歩かせたんです。

──プライベートレーザーを?

野村:プライベートレーザーを持たせたんです。音楽ライブの照明ってピンク・フロイドが革新を起こしたんですよね。それまでは、体育館の講堂の普通の地明かりの中でライブをやっていたのを、ピンク・フロイドはそこに様々な色を入れることで世界観を作り、音楽を聴かせたわけです。ピンク・フロイドってルックスでキャーキャー言われるバンドじゃなかったですし、そういう音楽でもなかったですから、自分たちの世界観をどういう風に作るか?というアプローチでやっていたと思うんですが、そういうニュアンスをサカナクションに持たせられたらいいなと考えていました。

要はアートの感覚を持たせられたらいいなと思ったんですよね。サカナクションが出ることによって、その空間を一気に変えるというかね。そういったことをお客さんに感じてもらえたらいいなと思って、その象徴的なものとしてレーザーを持たせたと(笑)。今でこそ色々なアーティストがレーザーをバンバン打っていますが、当時レーザーを打てるアーティストなんかいなかったんですよ。

──しかも300人規模で。

野村:そう、わずか300人規模のライブハウスとかで。だから結構衝撃的で、対バンするバンドもみんな嫌がるぐらい圧倒的でした。そして、だんだんとサカナクションのポジションが認識されるようになっていきました。

 

非日常の中で新しいアーティストの在り方を問う

──サカナクションはプロモーションビデオも格好良かったですね。

野村達矢氏

野村:そうですね。ちょうどサカナクションが出だした時代って、スマートフォンのiPhone3がちょうど出始めたころなんです。そのiPhone3が出たことによってスマホが普及し始めて、スマホの時代になったときのアーティストのあり方というのはなんだろう? とすでにそのときにサカナクションのメンバーと話し合っていたんです。これからはTwitterの時代、ライブストリーミングの時代になると。

当時USTREAMというのがあって、USTREAMでライブを配信すると、世界中のどこでも観られるようになるぞという話もしました。ですからこういうツールをもっと上手に使っていこうという話をしました。ですからTwitterを始めたり、USTREAMでライブを生中継したのを始めたのは、サカナクションは結構早い方だと思います。YouTubeに関しても、あの頃はまだミュージックビデオをYouTubeに上げるというのはイリーガルなものばかりでしたが、リーガルなものを上げようとビクターと話をして、公式のものとしてYouTubeにMVをあげたりしたのですが公式であげているのはサカナクションの他はほぼなかったです。

──よくぞやられましたね。

野村:実は、最初はヒップランドからあげたんです。これからそういう時代になるからやらせてくれとお願いして、ビクターの中でも異例なものとしてスタートさせてもらったんです。

だから「ネイティブダンサー」という楽曲のミュージックビデオは最初、ヒップランドから上がっていたんです。ただ、イリーガルなものじゃなくてリーガルなものとして上げることによって、例えばTwitter、その当時はmixiみたいなコミュニティがありましたけど、そういうところでみんなが口コミで拡散をしてくれました。あの当時はイリーガルなものを拡散するというのはお客さんの中でも「怖い」と思っていたところがあったので、「公式なものだから堂々と拡散していいですよ」と、僕らからアナウンスメントしました。そうしたら、サカナクションの存在がインターネットの世界でもかなりグッと広がっていったんです。そういう意味でもサカナクションには革新的だったり、イノベーティブみたいなイメージがどんどんできていったんだと思うんです。

──そういったことに対して山口一郎さん始めメンバーたちも積極的だった?

野村:そうですね。彼らもそういうものに対しての理解力をすごく持っていましたしね。だからこういう提案をしてもすぐ受け入れましたし、もちろん逆に提案もありました。そこはすごくいい感じの関係を作れていましたね。例えば、「アルクアラウンド」のミュージックビデオはすごくバズりましたけれども、あれは「YouTube時代のミュージックビデオの作り方、在り方はなんだ?」みたいなところから語り合った上で、ちゃんと狙ってやったわけです。

そのあとに照明機材の新しいものを取り入れたりとか、「今度は音響いこうぜ」とサラウンドに取り組んだりしました。その結果、幕張メッセの9番10番11番という、2万5千人ぐらい入る会場で、会場の後ろ側にスピーカーを置くという、とんでもないことをやることいなったんです(笑)。

──大変話題になった6.1chサラウンドライブですね。幕張メッセの9番10番11番って、普通はモーターショーとかで使っている長さですよね。

野村:ええ。音は秒速約300メートルですから、150メートル離れたら0.5秒ズレるわけじゃないですか。幕張メッセの9番10番11番という縦が150メートルくらいある場所ですと完全に0.5秒ズレるわけで、そうなるとテンポは半拍ぐらいズレたりするという不条理の中で音楽としてどう成立させるかというのは、すごく大きな課題でした。

例えば、映画はテンポにしばられるわけじゃないですから、爆発音や雑踏の音が後ろや横から聞こえてきたりしてもいいのかもしれないんですが、音楽はテンポに縛られるわけですから、時間がちゃんとそこで成立しない限りは音のズレというのは許容できないままなんですよね。だからそれをきちんと成立させるというのは、実はものすごく大変なことで、音楽コンサートでサラウンドをやるというのは至難の技なんです。それを作り上げたというのはサカナクションの音響チームの優秀なところだと思います。

──その先に革新的なライブ配信「SAKANAQUARIUM 光」があるわけですね。

野村:そうですね。コロナになったときに通常のライブができなくなって、「ライブができなくなった代替の表現としてのライブ配信」という発想が巷では多かったんですが、いやそうではなくて、ライブもあってCDもストリーミングの音源発売もあるんだけど、その中間に位置するものとして、アーティストが手に入れた新しい表現手段なのだという山口一郎の発想から取り組んだのが8月15日・16日のライブ配信です。単純に無観客のライブハウスでのライブ配信ではなくて、演奏するシチュエーションを作るといいますか、ミュージックビデオを生に置き換えるようなイメージで映像表現をやろうというのが、今回のライブ配信の1つのテーマでした。

そのテーマがはっきりしていたからお客さんにもその部分が伝わって、お客さん全員と時間共有もできていたんです。一切収録の部分もなかったですし、そういうものを観させられたという部分でもフォーマットとして成功例ができたんじゃないかなという気がします。

──山口一郎さんというたぐいまれなクリエイターと野村さんのクリエイティビティがぶつかりあって、どんどん新しいものができていきますね。

野村:今、一郎は本当に気持ちが湧き出てきているというか、コロナという状況になって、非日常の中で新しいアーティストの在り方みたいなことをものすごくいろいろと考えているので、どんどんと新しいアイデアがあふれ出てきていますね。

 

 「貢献する」というマインドで困難な状況を乗り切る

──コロナ禍においてエンターテイメント全般が大変なことになっていますが、そんな大変な状況になる半年前に、野村さんは音制連の理事長に就任されましたね。

野村:はい。なったときにはまさか、その半年後にコロナがということは考えてもいなかったですね。

ここ数年、音制連の理事をやっている中で取り組んでいた一番大きな問題は、チケット転売問題で、僕らが音源ビジネスから興行ビジネスにシフトしている中で、その興行ビジネスに対しての一つの大きな悪の部分というのが露呈し始めちゃってきたんですよね。そのチケット転売で価格が上積みされているお金に関しては、一切主催者であったりアーティストのもとには入ってこないわけですから、そこやっぱり正常化していかなくてはならないと、それを規制する法律を作ることに取り組みました。ただ、法律を作るというのは、ものすごく大きなカロリーを必要とするもので、時間もかかります。

──法律の制定となると大変ですよね。

野村:「一個の法律を作るのに5年はかかるよ」と言われていましたからね。でも、5年も待っていられない状況の中でどういうことをしなくてはいけないかとしたら、僕は「モラルに訴えるしかないんじゃないか?」と考えまして、声明を出すことによって、チケットの転売問題に対しての意識を高めるようにしました。ありがたいことにエンターテイメントに直接関わっていない方々の中でも、「こんな状況を許していくわけにいかない」という風潮ができあがって、政治が動き、大変スピーディーに法律ができました。もちろん東京オリンピックが開催される間近ということも追い風にはなったんですが、本当に異例の速さで法律ができあがったのは、我々の大きな収穫でした。

──チケット転売問題への対応はめざましい成果を上げましたよね。素晴らしいです。

野村:ありがとうございます。それが一つあって、次の理事長改選で「野村を理事長に」みたいな流れになったんですよね。僕自身も俯瞰でものを見て「自分が今担当している仕事だけじゃなくて、これからは業界全体に対しても貢献していかなくてはならない」と感じていましたので、理事長という立場でさらに音楽業界が良くなるために頑張っていこうと理事長改選のときに手をあげました。ところが…(笑)。

──(笑)。

野村:年が明けて、音制連の新年会も大々的にやったその直後の2月26日、業界では「226事件」と言われているんですが、安倍首相が大規模イベントの自粛要請という形で一切のコンサートが止まってしまいました。例えば、東日本大震災や阪神淡路大震災もそうだったんですが、大災害が起きたとき、エンターテイメントや音楽業界は率先して被災地に行ってボランティアをしたり、寄付を集めたり、被災をした方々に対しての支援や援助を率先してやってきましたが、コロナになって、そういった役割をどう果たしたらいいのか、我々は見失ったんです。

──それまでの災害とは勝手が違った?

野村:つまり、今回のコロナを震災に例えると、被災地はどこにあるのか?と考えたときに、どこも思いつかないみたいな感覚だったんですよね。そのときに僕がまず考えたのは、災害は不可避だと思うんですが、コロナは1人1人の心がけできちんと防げるんじゃないかな?ということで、単純なことなのかもしれないですが、厚生労働省が提案していた「手洗い、うがいをちゃんとしましょう」「飛沫を飛ばさないようにしましょう」と、これを徹底すればコロナ広がらないですよ、という広報活動を我々エンターテイメント業界が率先してやろうと提案して、「#春は必ず来る」というキャンペーンを張ったのが3月4月の動きでした。

ところが、それでは全然追いつかないというか、感染拡大はすぐには収まらなかったですし、スポーツも演劇も音楽も全部止まっているような状況でした。直接的な被害を受けている業界なので、政府に対して援助、助成をして欲しいという訴えを3月の後半ぐらいからやり始めて、チケット転売問題のときにお世話になったエンタテインメント議連の方々にも働きかけをしたんですが、世界中を巻き込んだ危機的な状況でしたので、そう簡単にはいかなくて、政府の助成もなかなか簡単には取り付けられなかったんですが、経産省の方が「J-LODlive(ジェイロッドライブ)」という援助の方法を提案してくださって、それを推し進めた結果、878億円の予算がつきました。

──それは大きいですね。

野村達矢氏

野村:とはいえ、エンターテイメント業界は年間6,000億の市場ですから878億円といったところで十分な予算ではないですけども、そういう運営も少しなりとも始められたのは、やっぱり音制連だけじゃなくて音事協(日本音楽事業者協会)の堀(義貴)会長や、ACPC(コンサートプロモーターズ協会)の中西(健夫)会長と、連携を組んで動いたことがひとつの結果になったといいますか糧になったと思いますし、音制連だけじゃなくて他の団体とタッグを組むきっかけになったのは、逆に言えばよかったのかなと思います。

やはりこれからは国際的な競争力を持っていかなくてはならない中で、日本の各団体が牽制しあってやり取りをするんじゃなくて、オールジャパンとしてひとつになって、国際競争力を上げる努力をしないと、多分勝てないと思うんですよね。やはり韓国なんかは上手にやっていて、政府の力と国のナショナルクライアントの力と音楽業界の力が一緒になって世界進出しているというのが、今のK-POPの世界なんですね。それに比べると日本は全然劣っていますし、現時点では太刀打ちできる状況ではない中で、皮肉なことですが、コロナが業界団体が横の連携を取り始めていくきっかけになったと思いますし、こういう状況の中での1つの収穫だったかなという感じはします。

──この時期に野村さんのような方が理事長になられて本当に良かったと思います。

野村:いやいや(笑)。でも、堀会長や中西会長とはうまく連携が取れる関係なので、そこはすごく良かったですね。3人そろってラジオに出て一緒にしゃべったりもしましたし。そういう意味では良かったかなと思います。

──また、ライブエンタメ従事者支援基金「Music Cross Aid」の取り組みもありますね。

野村:Music Cross Aidは、政府とのやりとりをしている中で、補てん金や助成金を十分に取れなかったので、民間で相互援助できるよう作った基金です。第1回助成プログラムでは、個人は採択件数37件で総額7,170,000円、団体は採択件数11件で総額11,000,000円の助成を行いました。この基金を作るのも非常に大変で、寄付における税金控除に関しての仕組みをクリアするために、受け皿になる財団を作らなくてはいけなかったんですね。しかも財団を作るのも通常は3年ぐらいかかるということで、基金1つ作り上げるのも、すごく大変なんだなと大変勉強になりました。

──そこはどう解決されたんですか?

野村:この基金もとにかく早く設立したかったので、現在はパブリックリソース財団という財団の軒先を借りてやっているんですが、いずれは音楽業界もきちっとした自分たちの財団を作るべきだろうと思っています。

──とにかく音楽業界、エンターテイメント業界で苦しまれている方はたくさんいらっしゃいますよね。どうにか他のバイトでしのがれている方や、別の業種に移られた方も多いと聞きます。

野村:本当に大変な状況になっています。ある程度コロナの感染拡大が収束し始めて、いざライブができるようになったときに、スタッフがそろわないとライブはできないんですよね。単純にスタッフの数がいればライブができるというわけではなくて、やっぱりライブスタッフってそれぞれが表現者なわけで、「この人じゃなきゃダメ」というスタッフがたくさんいらっしゃるんですよね。ですからライブエンターテイメントが再開したときに、そういうスタッフの方々がきちんと仕事できるような環境を作っていくのがMusic Cross Aidの役割だと思っています。

──もちろんヒップランドミュージックさんも大変なダメージを受けてらっしゃるわけですよね。

野村:そうですね。もちろんビジネスマンとしては利益追求、利潤追求をしてかなくてはいけないと常日頃思っていますが、やはり今のタイミングは社会貢献、業界貢献が第一だなと考えているんです。コロナによって「貢献」という言葉を意識するようになったと言いますか、心に刻まれたと思います。

先ほどの話ではないですが、1人勝ちしても全く意味はなくて、ライブエンターテイメントが再開すると言ったときに周りに人がいなくなっていたら業界全体が潰れてしまうんです。ですから、自分たちの経済を守ることだけじゃなくて、貢献するという発想というかマインドを持たないと、多分今の状況を乗り越えることはできないと思います。ですから、この苦境を乗り切るまでは「貢献」という言葉を自分の中で意識して、自分がやれることを考え、率先して行動していきたいと思っています。