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第177回 株式会社オフィスオーガスタ 取締役副会長 千村良二氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

千村良二氏
オフィスオーガスタ 取締役副会長 千村良二氏

今回の「Musicman’s RELAY」はヒップランドミュージックコーポレーション 野村達矢さんからのご紹介で、オフィスオーガスタ 取締役副会長 千村良二さんのご登場です。

明治大学卒業後、1983年にユピテル工業へ入社し、大阪営業所でキャリアをスタートした千村さんは、その後、1984年にキティレコードに入社、1988年にキティアーティストに配属され、THE MINKS、BLUE BOYなどを手掛けられます。

1997年に独立しフリーウェアプロダクションを設立、業務委託として元ちとせの現場マネージャーを経て、2004年にオフィスオーガスタに入社、2017年に森川欣信さんより代表取締役を引き継がれ、2020年12月31日まで陣頭指揮を執ってこられ、2021年1月1日からは取締役副会長に就任されました。

そんな千村さんにご自身のキャリアから、コロナ禍におけるオフィスオーガスタの取り組みまでじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2020年11月5日)

 

ヒップランド 野村達矢氏はどんなバンドでもヒットを目指せる人

──まず前回ご登場いただいたヒップランドミュージック 野村達矢さんとのご関係についてお伺いしたいのですが、出身大学が一緒だそうですね。

千村:ええ。大学が一緒だったと分かったのは、ここ10年くらいなんですけどね。1989年に私はキティアーティストという会社にいて、ビクターから1つバンドをデビューさせたんですが、そのときに野村さんはヒップランドで東京少年というアーティストのマネージメントをされていて、隣同士で色々なことをやっていたんです。

とはいえ、東京少年とはプロモーションフィールドは若干違いつつも、有能なマネージャーとして野村さんに対して興味を持っていたんです。それで「今度、情報交換も兼ねてご飯でも行きましょうか」なんて言ってから十数年後に音制連(日本音楽制作者連盟)で会うことになりました。

──音制連で再会するまでは接点もなく?

千村:その間はほとんど接点なくやっていましたね。それで野村さんが音制連の理事長におなりになったときに、私は業界的な実績はほとんどないんですが、アーティマージュの浅川真次さんとともに副理事長をやることになったんですね。実績の浅川さんと雰囲気の私でしょうか(笑)。

もちろんそこに至るまで、音制連の会合でいろいろと話す中で「同窓生だよね」と。その会では音楽業界の話というか仕事の話はあまりしないんですが、そういった会を通じて親しくなりました。仕事の業績は、彼のほうが俄然あります。彼が手掛けるアーティストは、とても個性的で魅力のあるアーティストばかりですし、数々のヒットも生み出していますよね。本当にリスペクトしています。

──ここからは千村さんご自身のことお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

千村:長野です。今は安曇野市になりましたけど、当時は南安曇郡三郷村と呼んでいたところですね。

──白馬に行く途中のあたりですか?

千村:そうです。松本からの大糸線というローカル線に乗り換えて5つ目、15分ぐらいのところです。白馬の手前にわさび田で有名な穂高とかそこら辺がいわゆる安曇野というんですが、その入り口ですね。

──自然が美しいところですよね。

千村:はい。安曇野は山の中ではないので、長野出身と言うと「スキーは上手なんですか?」なんて言われるんですが、スキーは子どもの頃にあまりやらなくて、スケート文化なんです。寒さが厳しいので小学校・中学校の校庭に冬になると水を張って、400メートルのスケートリンクを作るんですよ。

──すごい。天然のスケートリンクですね。

千村:スキーは中学生になって、林間学校というかキャンプがてら日帰りで行く程度で、スキーを始めたのはそれこそ大学に入ってからです。スキーも流行った時代で、そんな映画もあったじゃないですか?

──『私をスキーに連れてって』ですね(笑)。

千村:寒くて雪深いところではなく、ただただ寒いところで生まれ育ちました。

──ご実家はなにをなさっていたんですか?

千村:父親は教員をやりつつ、自分のところで食べるぐらいのお米を少しだけ作っていました。あと裏庭の家庭菜園で野菜を作ったり、まあ田舎の人はみんなそうなんですけど。私も休日は農家の手伝いをしていました。

──ご兄弟は?

千村:2つ上に兄がいて、兄は現役で教員をやっています。

──高校まではご実家にいらっしゃったんですか?

千村:はい。高校までは地元で、その高校も自転車で通うぐらいのところにありました。

──どんな高校生活でした?

千村:部活が充実していない高校でしたが、仲間とサッカー部を作りました。当時はサッカーばかりやっていました。

 

「東京に行ったらなんとかなる」3年かかって大学入学

──ちなみにご家庭のなかに音楽的な環境はあったんですか?

千村良二氏

千村:父が小中学校の教師で、中学校では音楽と数学が担当だったんですよ。ですから家には物心がついたときからオルガン、その後ピアノがあって、兄がピアノを習い始めて、私は全然興味がなかったんですが一緒に習わされました。結局、途中でやめるわけですが(笑)、そこで音楽に触れて、中学校になったら吹奏楽部に入って、ユーフォニウムを担当していました。

でも本当はトランペットを吹きたくて、新聞配達をやってトランペットを買うんですが、吹奏楽部にはユーフォニウムのパートしかないわけで…(笑)。トランペットとユーフォニウムって運指(指使い)が同じなので、トランペットは個人的に楽しんでいました。

──今もお吹きになったりするんですか?

千村:吹かないですね。そのトランペットは実家に置いてあって、兄が学校の教材として使っているようです。

──高校でも吹奏楽部をやればよかったかもしれないですよね。

千村:吹奏楽部はありませんでした。それでサッカーを始めたんですが、高校2年の終わり頃に、もう一度楽器に触れたくて、高校の近所のピアノ教室に通ったんです。その教室に通うのは小学生が大半でした。私はその子たちより全然弾けないわけで「これはダメだ」ってまたすぐ辞めちゃうんですよ。

──(笑)。

千村:プレイヤーとしての才能はきっとないんですよね。兄と同じことやっても、やっぱり兄のほうが上手でした。兄とは同じ中学校の吹奏楽部で、兄は高校でも吹奏楽部をやっていました。

高校の吹奏楽って当時エレキベースやドラムセットがあって、兄はベースをやっていたんですが、やはりベースも私は弾けませんでしたね。あと当時はフォークムーブメントの頃なので、アコースティックギターも持って、ちょこちょこ歌ったりしていたんですが、それを極めるという気持ちもなかったです。

──本格的なバンド活動という雰囲気ではない?

千村:全然ないですね。やはり才能がないと思っちゃっているので。

──当時はどんな音楽を聴かれていたんですか?

千村:当時、NHK FMの18時からリクエスト番組をやっていて、音楽情報はそこから得るぐらいだったので、総じてヒット曲を聴いていました。その中でもよく聴いていたのは、フォークソングですね。洋楽に関してもすごく雑多に聴いていて、最初に買ったレコードはスリー・ドッグ・ナイトでした。ラジオから流れてきた「オールド・ファッションド・ラブソング」が好きになって買った記憶があります。それと並行して、南沙織とかも買っているんですけどね(笑)。

──(笑)。

千村:やはり田舎なので音楽情報量は少なかったです。あと兄や2つ上の先輩から教わったビートルズもよく聴いていましたが、ビートルズはすでに解散していて、ポール・マッカートニーの「アナザーデイ」がリアルタイムでした。その辺のアナログ盤は今も実家にあると思いますが、とにかく系譜立てたものが1個もないんです(笑)。

──いきあたりばったりだと(笑)。

千村:いきあたりばったりです。

──その後、明治大学に進まれて、上京されるわけですね。

千村:実は大学に3年かかって入っているんですよ。

──浪人をしてということですか?

千村:そうです。予備校に通うために東京に来るんです。それで2年間トライして駄目で、一旦田舎に帰って、働くまでの猶予期間としてやっぱり大学に入りたいなと思って、ようやく3年目で少し勉強するんです。

──3年目で勉強をしたということは、2年目までは勉強をしていなかったんですか?

千村:してないですね。まずは親元を離れたかったんですよね。同級生はみんな大学へ進学するために東京に来るわけですが、私は「東京に行ったらなんとかなる」と思いながら、東京の予備校に行くわけです。なんともならなかったですけど(笑)。

──その2年間はなにをしていたんですか?

千村:友達のお姉さんが当時高円寺で小さなジャズ喫茶をやっていて、そこにほぼ毎日通っていました。既に大学生の中学校時代からの親友が、高円寺周辺に何人か住んでいたんです。私がようやく大学に入った翌年にみんな卒業して田舎に戻っちゃいました(笑)。

──入れ違いですね(笑)。

千村:ただ、そのジャズ喫茶の影響というか、「ジャズを聴いている俺たちがかっこいい」みたいなことを思い始めて少しずつジャズを聴いていくんですね。でも、そういう気持ちで聴いているから何か研究するわけでもないんですが、そんな中でギターの音色が好きだったんですよ。それからギターリストの作品をたくさん聴くようになりました。折しもフュージョンブームだったこともあり、色々な、特に日本人のギタリストを聴きあさっていましたね。

 

入社したユピテルレコード倒産からキティレコードへ

──どのような大学生活だったんでしょうか? 例えば、野村さんのようにイベントなどをやっていたんですか?

千村:やってないです。冬にアルバイトでスキーツアーを組んでいたんですよ。バスは大体3、4台、多いときは5、6台だったときもありますが、そのツアーをスキーシーズンに3回ぐらいやっていました。

──主催者をやっていた?

千村:そうです。大学の在ったお茶の水って旅行代理店がいっぱいあるんです。そこでツアーを組んでは、アルバイトにしていました。

──そもそもその頃は、音楽業界に行こうとかは考えてなかったんですか?

千村:考えてなかったですね。

──では就職はどうされたんですか?

千村:うちの大学は金融や損保への就職が多かったんです。ちょっと成績が悪いと証券会社で、私は当時伸びていたOA機器メーカーのリコーやエプソンといったメーカーを狙っていましたが、こちらもハードルは高かったです。音楽業界とは全然関係ないところですよね。

──普通の就職活動ですね。

千村:はい。結果は全て不採用でした。そんな矢先、後輩の女子が、とある編集プロダクションで、レコード会社を回ってレコ評を書くためのサンプル盤を集めるというアルバイトをしていたんです。

──サンプル盤を集めるですか?

千村良二氏

千村:ええ。「試聴盤を貸していただけますか?」とレコード会社を回って、レコードを集めるんです。その後輩からいろいろ聞く中で、レコード会社に興味を持つようになりました。もちろん全く音楽に接していなかったわけではないですし、当時のレコード会社はいわゆるマスコミにカテゴライズされていたので、就職試験が非常に遅かったんですね。自分たちの頃は多分10月とか11月くらいだったと思うんですよ。

それであらゆるレコード会社を一気に調べるんですが、当時レーベルがいっぱいあって、大きいのから小さいのまで40レーベルぐらい有ったと記憶しています。

──確かにたくさんありましたよね。

千村:でも、そんなに成績も良くないですし、音楽に長けているわけでもないしで、なかなか受からないんですが、名古屋の電機メーカー、ユピテル工業のソフト事業部が発展したユピテルレコードに引っ掛かったんです。ユピテル工業はハード部門もソフト部門も一括採用だったので、配属がどこになるか分からなかったんですが、たまたまユピテルレコードの配属になりました。

──レコード会社希望ということは会社に伝えていたんですよね?

千村:ええ。もちろん希望を出していました。宣伝や制作をやりたかったのですが、最初は営業からだったんです。どこのメーカーもよく営業からと言いますけどね。それで倉庫に3か月研修に行って、いよいよ配属となって、大阪営業所に行くことになります。

大阪営業所では大阪の南地区と兵庫県の担当になって、当時は車でレコード屋に行って欠品をチェックして、もちろん新譜の注文もとるわけですが、帰ってきて伝票を整理して、次の日の早朝倉庫から自分でピックアップしたものを梱包して、それからまた営業に出かけるんです。「レコード会社ってこういうことじゃなかったと思うんだけどな…」って思いながら(笑)。

──(笑)。当時のユピテルってどんなアーティストがいたんですか?

千村:邦楽で言うと、東京ロマンチカ、それから岡田有希子ならぬ岡村有希子、苅谷俊介さんや十朱幸代さんのような俳優もの、あとポップスだと山下達郎さんのコーラスをしばらくやっていたパイパー、原マスミさんのバンドもいましたね。洋楽はイージーリスニングのクスコ、ジャズとブルースも少し扱っていました。

──大阪での新入社員時代はあまり楽しくはなかった?

千村:いや、楽しかったですよ。大阪というと土地柄からか、そこで出会う人、物事すべてが興味深く、日々楽しく充実していました。

──ユピテルに入ったのが83年で、84年にキティに移られた。

千村:1年経ってユピテルが潰れちゃって、大阪で放り出されちゃうわけですよ。そのときキティレコードは小椋佳、来生たかお、高中正義などが売れていて、次に「安全地帯が売れるぞ!」という時期だったんです。すぐに『ワインレッドの心』が大ブレイクしますが、それでもキティの大阪営業所はレコード部門とプロダクション部門をたった2人でやっていました。当時の所長の田村さんという方が「人手が足りないので来てくれ」と、路頭に迷っている私を誘ってくれたんです。

──ユピテルからそのまま大阪に居続けたということですね。

千村:はい。4年半ぐらいですかね。その後、大阪出身のアーティストをデビューさせるタイミングでマネージャーとして一緒に東京に来ました。そのアーティストと安全地帯のギター・武沢豊さんのユニット、それと南翔子の3アーティストのマネージャーをやることになりました。

──そのころからマネージャー業が多くなるんですか?

千村:そうですね。88年にキティアーティストという、マネージメント会社に行きました。

──当時のキティはコマーシャル・ギャング・オブ・キティやキティ・フィルムなど、総合商社みたいに手広くやっていましたよね。スタジオもありましたし、躍進中のときじゃないですか?

千村:その頃のキティ・グループって400人近くいたんじゃないでしょうか?レコード会社、プロダクション、パブリッシャ―、関連でコンサートメーカーなどもありましたし、規模こそ違いますが、今でいうエイベックスみたいなものですよね。

──いわゆる360度ですよね。

千村:まさに。十数年ぐらい前からレコード会社が360度と言い始めましたが、キティは当時から日常的にやっていましたよね。曲が真ん中にあって、これらをたくさん売ることでコンサートにも人が集まり、そこに来るお客さんがTシャツ買ってくれる。さらにこの曲をカラオケで歌ってもらったり、2次3次利用されるということで360度ビジネスを何十年も前から既にやっていたんです。この形が、芸能ビジネスの原点なんですよね。そして、権利の重要性を教えてもらいました。

 

フリーウェアプロダクションとして独立〜オフィス オーガスタ 森川欣信氏との出会い

──その後、どのようなアーティストを担当されたんですか?

千村:前出の3つと、そのあとキティグループのオーディションで準優勝した北海道出身のバンドの担当になるんです。そのときに野村さんとも知り合うわけです。それが89年ですね。

──ちなみになんというバンドですか?

千村:THE MINKSというバンドです。今は活動休止中ですけど。

──97年に独立されますが、きっかけはなんだったんですか?

千村良二氏

千村:96〜7年頃にキティ、トーラス、ポリドール、フォノグラムの4社がひとつになって、ポリグラムグループになりました。そうなったときにプロダクション部門は縮小したんです。それ以前から縮小傾向にあって、私の部署が全部で7、8人しかいないような状況だったんです。アーティストは15組ぐらいいたんですけどね。

97年にその部門をもう完全リストラしますと。レコード会社への辞令が出ていたんですが、アーティストを他事務所にすべて移籍させることができなくて、事務所を始めました。

──行きがかり上というか。

千村:そうです(笑)。それがフリーウェアプロダクションです。実はキティの最後に南佳孝さんの担当を高久(光雄)さんから申しつかり、担当をさせていただきました。1年半ぐらい携らせていただくんですが、佳孝さんとは仲良くさせていただき、私が独立をしたときも佳孝さんのブッキングは少しやらせていただきました。南佳孝さんには本当に助けていただきました。BLUE BOYのコンサート制作も私の会社でやらせてもらっていました。そういう状況が97年から2001年くらいまで続きます。

──苦難の時代ですね。

千村:当時は恵比寿に事務所があったんですが、その事務所もウェディングドレスメーカーのデザイナーさんの借りていた事務所を、スチールのロッカーで2つに間仕切りして、私は向こう側、デザイナーさんがこっち側みたいに間借りしていたんですよ。

──シェアオフィスみたいな。

千村:そうですね。そこにソファーベットがあって、終電がなくなるとそこで寝ていたんです。お金もありませんでした。それで2001年の終わりぐらいに森川(欣信)さんから「元ちとせというすごいアーティストがいる」ということを知り、担当マネージャーから「元ちとせのデモテープをDATでダビングしてくれ」って頼まれたんです。私が97年にキティを辞めるときに、「もういらないから」と譲り受けたDATが手元に2台あったんですよね。ダビングをしながらその素晴らしさを知りました。

──ちなみに森川さんとはいつ頃出会われたんですか?

千村:森川さんとはすでにキティ時代に出会っています。森川さんがオーガスタを設立以降、少し疎遠になったんですが、元ちとせのことで再びお会いすることになります。

──なるほど。

千村:当時、元ちとせはインディーズ盤を2作リリースしたんですが、フリーウェアプロダクションを立ち上げた同僚がデザインもできたので、彼がそのデザインをして、私がマネージャーを業務委託で受けて、元ちとせを2002年にデビューに携わります。業務委託だったんですが、2004年にオフィス オーガスタに入ることになります。

 

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