第178回 株式会社インクストゥエンター 代表取締役 田村優氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」はオフィスオーガスタ 千村良二さんからのご紹介で、インクストゥエンター 代表取締役 田村優さんのご登場です。東京・渋谷で生まれた田村さんは中学3年生からDJ活動とPCでの音楽制作を開始。大学在籍中に大量のトランスコンピを制作し、シリーズは大ヒット。
2004年にはインクストゥエンターを設立、2006年からマネジメントも開始し、livetuneやsupercellらと専属契約。2010年からはネット発のクリエイターを積極的に開拓し、近年は海外のEXPOやコミックマーケットにも進出している田村さんの早熟なキャリアからコロナ禍における音楽業界の今後までお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2020年12月21日)
高校生でDJデビュー
──まず前回ご登場いただいたオフィスオーガスタの千村良二さんとのご関係からお伺いしたいのですが、日本音楽制作者連盟(音制連)からのご関係ですか?
田村:そうですね。僕はずっと前から音制連の正会員だったんですが、5、6年ぐらい前に音制連の個別プロジェクトの一つ、デジタルビジネスプロジェクトにアーティマージュの浅川さん(浅川真次氏)が誘ってくださったんですね。「田村くん、インターネットとかデジタル詳しいから参加して下さい」みたいな感じで(笑)。
そこから音制連に深く関わるようになるんですが、千村さんと初めてお会いさせて頂いたのは3、4年前ぐらいですかね。今は業界の大先輩としてお付き合いさせていただいています。
──けっこう大先輩ですよね。
田村:もう大先輩です。千村さんは野村さん(野村達矢氏)と一緒で、デジタルのこととか、新しいことにすごく興味がおありで、「いろいろ教えてほしい」とおっしゃっていて。それでデジタルビジネスプロジェクトでは年に2回ぐらいセミナーをやっていて、そういうところで少しずつ交流が始まり、一昨年からは、野村さん、千村さん浅川さんと共に音制連の理事を務めさせていただいております。千村さんからは、音制連も今後はちょっとずつ若手に色々パスしていきたいと言われました(笑) 。
──ここからは田村さんご自身のことをお伺いしていきたいのですが、お生まれはどちらですか?
田村:生まれは東京の渋谷区で、実は弊社の裏ぐらいが実家だったんですよ。
──ご家庭はなにをなさっていたんですか?
田村:小売業ですね。輸入卸の服屋さんとか雑貨屋さんをやっていて、代々木上原と新宿にお店があって。よく言うとファッション関係ですね。
──学校は地元の公立校に通われたんですか?
田村:ええ。渋谷区立の西原小学校と代々木中学校で、高校は和光学園です。
──子供の頃に今に繋がる音楽的な背景はなにかありましたか?
田村:特にこれといったことはなかったんですが、中学1年生ぐらいから洋楽を聴くようになって、中学3年生ぐらいからDJをやり始めたので、そこが音楽のキャリアのスタートでしょうかね。
──中3でDJをやっていたんですか!?
田村:そうなんですよ(笑)。当時クラブやディスコでDJパーティみたいなのをやるのが流行っていたんです。僕らはDJブームの第2世代ぐらいだと思うんですが、友だち何人かでパーティーをやるようになったという感じでしたね。
──なるほど。アソビシステムの中川悠介さんと同じようなことをなさっていたわけですね。
田村:そうです。実は中川くんは高校の後輩なんですが、彼は、高校を卒業してからクラブイベントをやりだしてたんです。で、僕もクラブイベントも主催していたんですが、自分でもDJもやっていたんです。
──いやあ、おしゃれな中学生ですね。
田村:いやいや。デビューは一応高校生ですね。高校の集まりで、みんなでパーティを開いて。
──それは毎晩ハコに出ていたとかじゃなくてイベントごとでやっていた?
田村:そうです。ときどき土曜とか日曜の昼間にみんなで集まって、ディスコとかクラブとか貸ホールとかでやっていたイベントのDJをやっていたんですよね。
インターネット創世記にDTMを始める
──当時、音楽の情報はどのように仕入れていたんですか?
田村:それこそ当時から僕はパソコンに詳しかったので、インターネットを駆使したりしていましたね。あと高校2年生から町田のレコード屋でバイトしていたので、そこからも情報を得ていました。町田にオッシュマンズというアウトドア用品を売っていたビルがあったんですが、そこの裏ぐらいにあった中古のレコード屋さんで働いていました。
──レコード屋さんでバイトされていたんですか。
田村:はい。普通に高校の授業が終わってからそのままバイト先へ行っていましたね。DJに関しては結構頑張っていて、大学2年生ぐらいまでは結構一生懸命やっていましたね。
──大学はそのまま和光に行かれたんですか?
田村:いや、国士舘大学に行きました。
──田村さんと国士舘ってイメージがあまり結びつかないです。
田村:僕の時代の国士舘ってもう普通の大学ですよ。もちろん体育会系の人もいるんですが、ごく普通の大学でした。だから大学時代はレコード屋と牛乳配達、あとクラブのバイトを掛け持ちしていました。
──牛乳配達ですか?やけにクラシックなバイトですね(笑)。
田村:そうですね。すごく給料がよかったので。クラブのバイトが終わって朝5時から出勤して8時に終わるみたいな生活だったんですよ(笑)。だから僕は、成城学園や喜多見、狛江、千歳船橋、祖師ヶ谷大蔵の地理にすごく詳しいですよ。バイクでその地域全部に配っていたので。
──DJをやりながら牛乳配達をしている人って初めて聞きました(笑)。
田村:(笑)。ただDJに関しては、高校2、3年ぐらいから「これはDJだけでは食べていけなさそうだな」と思って、パソコンを使って音楽を作り出したんです。
──なるほど。
田村:話が戻ってしまうんですが、もともと小学校時代にエレクトーンとピアノをちょっとやっていたんですよ。トータルで6年間ぐらいですけどやっていて、一応素養がありましたし、パソコンをずっといじっていてすごく詳しかったこともあって、音楽を作るようになりました。
──まさにパソコンネイティブの世代ですよね。
田村:NECのPC98からのWindows93みたいな世代ですからね。それがちょうど中学生で、インターネットも電話線から拾っていたのでメチャクチャ遅かった時代ですね。
──ダイヤル回線ですね。
田村:そうです(笑)。電話をかけてインターネットを繋ぐみたいな時代だったので。それで高校2年ぐらいにデスクトップミュージック(DTM)の存在を知るんですよね。「パソコンで音楽が作れるソフトが出たらしいよ」みたいな。僕がパソコンで音楽を作り出した頃というのは、レコーディングスタジオだとPro Tools IIIとかが出てきた頃ですね。
──90年代の?
田村: 確か95年とかじゃないですかね。僕はDTMをスタートしたのは95、6年なので。
──DTMを始めたのがすごく早いですね。
田村:早かったですね。それで周りにパソコンを使って音楽を作っている人ってあんまりいなかったので、結構重宝されたというか、DJの人たちの間でも「パソコンを使って音楽を作れるらしいよ」みたいな話になって、そこからメジャーレコード会社からお仕事が来るようになったんですよね。
大学在籍中に大量のトランスコンピを制作
──いきなり仕事の依頼が来たんですか?
田村:はい。大学の先輩のDJKAYAさんや友人を通じてダンスミュージック系の仕事ですけど。
──トラックメイキングみたいな?
田村:まさにそうです。トラックメイキングとか、音源の編集とか、あとはリミックスですよね。
──田村さんはそのハシリなんですね。
田村:第2世代ぐらいですかね。第1世代はそれこそ浅川さんですよね。浅川さんが30代中盤のときにみんなパソコンで音楽を作り始めて、エイベックスからCDを出したりしていたと思うんですけど、そのあとぐらいなんです。
エイベックスの初期作品が一通りリリースされて、パラパラがもう一回流行り始めた頃に音楽をパソコンで編集し出して、自分で言うのも何ですが、結構作業が早いし上手かったので、依頼が来たんですよね。ちなみに僕が大学2年生ぐらいのときに作ったCDがすごく売れたんですよ。
──それはメジャーからリリースしたんですか?
田村:そうです。一番最初に出したのはビクターエンターテイメントの洋楽部の金子さんと言う有名なA&Rの方から「田村くん、全部お任せするから作ってよ」と言われてそれで作ったら10万枚ぐらい売れて(笑)。
──すごい。もう牛乳配達はしなくていいですね(笑)。
田村:牛乳配達は大学2年のギリギリまでやっていましたけど、忙しくなってきちゃって辞めましたね。そこからはビクターさんや東芝EMIさんワーナーミュージックさんとか、色々なレコード会社の洋楽部から連絡が来るようになってひたすら仕事をしていました。
──つまり、そこから先は今やっていることと大して変わらないということですよね。
田村:そうです(笑)。大学2年ぐらいからやっていることはほぼ変わらないですね。それでダンスミュージックのなかでトランスというジャンルがあったんですが、そのトランスというジャンルが大ブレイクして、それを僕は本当にたくさん作っていたので、あまりの忙しさに大学へ行けなくなっちゃったんですよ(笑)。
──たくさん作ったというのはオリジナルのトランスですか?
田村:楽曲も作りましたし、洋楽を集めたコンピレーションCDを制作をして、全てのシリーズ累計で300万枚以上は売れたんじゃないかな?
──すごい、天才ですね。
田村:いやいや、ただ波に乗っただけです。でもその前にDJをやっていたからとか、そういうことはあったと思いますね。
──ちなみに田村さんのようにDJ出身で、DTMで曲を作ってという人はあまりいなかったんですか?
田村:これが意外に少なかったんです。当時MacintoshもG3の一歩手前ぐらいだったんですよね。
──つまり重宝されたということですね。
田村:重宝されて、さらに僕がやっていたジャンルが大流行しちゃって、結局、大学時代はそれをずっとやって過ごした感じです。高校生とか大学生の人はみんなトランスを聴いていたので、「こんなに流行るんだ」と思いましたね。それで2004年に24歳で起業しました。
初音ミク初のメジャー作品「Re:Package/livetune feat. 初音ミク」をリリース
──それで今のインクストゥエンターですか?
田村:そうです。大学4年が終わったあとに作ったんですよ。CDがかなり売れていたので、レコード会社から「これ以上は個人と取引できないよ」と言われたんですよね。それで会社を作ったんです。
──「法人作ってよ」っていう感じですね。
田村:はい。それで会社を作って3年ぐらい経った頃に、ニコニコ動画をたまたま観ていたら、初音ミクを使って投稿していたクリエイターがいっぱいいたんですよ。それで僕がやっていたダンスミュージックに近いような初音ミクの曲を作っているクリエイターがいて、ビクターの洋楽部の人と声をかけて、「じゃあCDを出そうか」とトントン拍子で話が進んだんですね。
ちなみにそのクリエイターも当時大学生だったんですよね(笑)。それで、試しにリリースしてみたら10万枚ぐらい売れたんですよ(笑)。
──いきなり10万枚はすごいですね。
田村:それは「Re:Package/livetune feat. 初音ミク」という作品で、初音ミクの初めてのメジャーCDで、それをリリースしたら売れたんです。アーティストのlivetune=kzは今もまだうちに所属しているんですが、そのヒットの後にGoogleと初音ミクのCM曲を作ったり、今もアニソンやボカロで何曲もヒット曲を出しています。
──kzさんの才能にいち早く目を付けたのは田村さんだったんですね。
田村:ビクターの金子さんと始めて聴いたときに「いい曲だな、売れそうだな」と思って出したらすごく売れて(笑)。初音ミクの誕生が13年前なので、まさに13年前の出来事ですね。会社を作って3年目ぐらいでダンスミュージックが終わりかけて「これはちょっとまずいな」と思って、ちょうど初音ミクに注目した頃だったんですよね。
──まさに次の波に乗れたわけですね。
田村:そのときに「こういう優秀なクリエイターがいるんだったら、もう僕が曲を作っている場合じゃないな」とも思ったんですよね。実はレコーディングの仕事も20代ぐらいからやっていて、このコロムビアスタジオを借りたのが13、4年前なんですが、結構本格的なレコーディングもできるので、普通にEXILEさんや安室奈美恵さんとかエイジアエンジニアやTiaraのレコーディングも僕がやってた時もあったんです。
──エンジニアとしてですか?
田村:エンジニアとして(笑)。なんかよくわからないんですが、いつの間にかエンジニアとしてもやることになっちゃって。
──俗にいうエンジニア、ミキサーとDTMミュージシャンが融合しちゃった感じですね。
田村:融合しちゃったかもしれないですね。それで初音ミクのCDはもっと売れるだろうなと思っていたときに、supercell=ryoと当時ソニーミュージックの清水一光さんとお会いしまして、ソニーミュージックさんからCDをリリースさせて頂き、10万枚以上売れて、初音ミク関連の作品で一番売れたCDになったんですね。
──そのときの田村さんはどういう役割だったんですか?
田村:事務所の社長、プロデューサーですね。
──ボカロPの所属というのは、いわゆる事務所とアーティストみたいな関係なのですか?
田村:そうですね、まあそれよりももう少しライトな関係ですね。僕もクリエイターでしたので、クリエイターサポートみたいな感じでスタートしています。
──それからそういった所属アーティストが増えていったと。
田村:ええ。2つの初音ミクのアルバムがヒットしたあとに、アニプレックスさんからsupercellに「初音ミクでこんなにいい曲を書ける人だったらアニソンも書けるんじゃないですか?」と依頼が来て、それで出来たのが「君の知らない物語」という曲で、それもすごくヒットして、今でもカラオケランキングの上位に入っています。
──そこから田村さんやクリエイターさんのお名前がアニメの世界でも認知されたと。
田村:アニメ、ボカロ界だったら、僕のことを知っている方もいるんじゃないですかね。
──やはり仕事の依頼も増えましたか?
田村:増えましたね。仕事がドンドン来るようになって、「新しいクリエイターを入れなくちゃ」と言っている間に、所帯が少しずつ大きくなっていった感じです。
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