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第179回 株式会社エンズエンターテイメント 代表取締役社長 丸野孝允氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

丸野孝允氏
丸野孝允氏

今回の「Musicman’s RELAY」はインクストゥエンター 田村優さんからのご紹介で、エンズエンターテイメント 代表取締役社長 丸野孝允さんのご登場です。

大学生時代にクラブの運営会社で働くようになり、それを契機に音楽業界へ入った丸野さんは、2006年に九州男と出会い、マネジメントを開始。以後、C&K、ハジ→などを手がけ、近年はあいみょんを発掘し、大ブレイクさせるなどご活躍されています。

現在はサッカーのクラブチームの創設や飲食業など事業を幅広く展開されている丸野さんに、挫折から始まった音楽業界でのキャリアから、後輩たちへのメッセージまでお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年2月17日)

 

音楽業界をいい方向に変えていきたい

──まず前回ご登場いただいた田村優さんとのご関係について伺いたいのですが。

丸野:田村君と直接ビジネスをやっているのかと言われると、実はやっていないんです。でも、同年代で同じ音楽ビジネスをやっていて、同士であり、いい意味でライバルだと思っています。彼も含めて、同世代の業界の人はみんなで切磋琢磨している仲間だと思っているんですよね。

田村君とはしょっちゅう一緒に遊んだりもしますし、情報交換もしますし、共通の知り合いは何百人といる、という関係なので。本当になんと言ったらいいんでしょうね…友だちでありライバルですかね、やはり。

──お付き合いは長いんですか?

丸野:だいたい10年ぐらいですね。

──友だちであり、でも負けたくもない人でもあると(笑)。

丸野:そうですね。一緒にこの音楽業界をいい方向に変えていきたいなと思います。

──丸野さんはいろいろなインタビューで、「この業界がもっと魅力的になって、新しい人材に来てほしい」とおっしゃっていますよね。ミュージックマンも「音楽業界って楽しいところだから是非来てください」という想いで30年以上本もサイトも作ってきたので、そこは共通しているのかなと感じました。

丸野:ミュージックマンみたいなサイトって他にないですもんね。音楽業界とかエンタメ業界って、僕も大学生のときに入口が見えなかったんです。どこから入ったらいいんだろう?と。芸能界も含めてなんとなく遠い世界のように感じるから、挑戦をしようと思われないんですよね。だからそこをなんとかしたいんです。

 

大学受験の挫折とエンタテイメント業界への接近

──ここからは丸野さんの今日までのことを伺っていきたいのですが、先ほども少しお話に出ましたが、お生まれは横浜だそうですね。

丸野:そうです。金沢文庫です。

──お父様は警察官だそうですが、どのようなご家庭だったんでしょうか?

丸野:ごく普通の家庭ですよ。

──お父様が警察官と聞くと、すごく堅そうなご家庭を想像しますが。

丸野:いや、父親は職業のわりにすごくユニークな人というか、無口な人なんですが「自分の好きなことをやって生きていきなさい」という方針の人で、母親はかなりの教育ママで「勉強しなさい」とずっと言われてきました。いわゆる「いい大学行って、いい会社に入りなさい」と。そう言われ続けて、僕もそう思い込んで学生時代を過ごしていたんですが、学校の勉強はつまらなかったですね。ただ覚えてテストに書くみたいな。

──音楽はお好きだったんですか?

丸野:特に音楽が大好きなだったわけでもないです。好きは好きですけど普通の人と同じくらいヒット曲を聴いて、みんなでカラオケで歌うみたいな感じだったんですが、今思い返すと、小学校6年生から高校ぐらいまでは、当時のオリコン1位の曲をシングルでずっと買って聴いていたんです。

当時ってなかなか音楽を手軽に聴ける環境になかったじゃないですか? テレビで聴くとか、ラジオだってなにが流れるかわからないですし、今と全然違ったんですが、ヒット曲の情報は自分で勝手に入れていたなと。

今、僕は「この曲は一般の人にたくさん聴かれるだろうな」というのが想像できるようになったんですが、そういった感覚はヒット曲をたくさん聴くことで培われたのかなと思っています。でも「自分で音楽をやりたい」という気持ちはなかったですね。

──ご自身でピアノやギターなど楽器をやったご経験は?

丸野:ないです。ギターはちょっと触りましたが、指が全然動かなくてすぐに止めました(笑)。

──音楽はあくまでもリスナーとしての接点以外なかった?

丸野:ないですね。ライブも行ったことなかったです。それで大学受験に失敗して、浪人したんですが、「行きなさい」と言われていた大学には結局行けなくて。その時に僕は結構絶望したんです。

──挫折を味わったと。

丸野:そうです(笑)。挫折してフラフラしていたんですよ。

──それは「東大に行け」とか?

丸野:いや、早稲田なんですけど、実は僕の父親が早稲田出身だったんです。僕の弟も早稲田で、父親と兄弟とその子どもたちもほとんど早稲田に行っていて僕だけ違うんです。父親はそれをあまり僕には言ってこなかったんですが、母親はいつも言ってきて、かなりのプレッシャーでしたね(笑)。本当に嫌で嫌で「早く自由になりたい」と思っていました。

──結局、大学はどちらへ行かれたんですか?

丸野:日大です。

──就職についてはどう考えていたんですか?

丸野:特にやりたいこともなかったんですが、とにかく友だちに負けたくないという気持ちが強くて、「なんでもいいから活躍をしたい」と思っていたんですよ。

それで僕はサッカーが大好きだったので、そういった仕事も考えたんですが、音楽業界以上にサッカー業界って入口がすごく狭くて、その入口も全然見つからないんですよね。そこで「サッカーってエンタテイメントだよな…あ、音楽も同じエンタテイメントか」と思って、音楽の世界に入っていくんです。

──エンタテイメントとしてはサッカーも音楽も共通していると。

丸野:そうです。もちろん音楽業界も当時はネットなんてなかったですから、入口なんてわからないじゃないですか? それで「クラブも音楽業界か」と、渋谷にあった渋谷NUTSというヒップホップのクラブの社長を友だちに紹介してもらって、店舗で働くわけではなかったんですが、当時フライヤーとかを街中のお店に配るみたいな仕事を「お金はいらないので」ってタダでやらしてもらっていたんです。

──クラブへ遊びに行ったりはしていたんですか?

丸野:いや、ほぼしてないです。

──音楽業界やエンタテイメント業界に近づく道としてクラブに自分から行ったということですか?

丸野:そうです。クラブに行ったことがないことはないんですが、今でも別に好きではないですね。でも入口がそれしかなかったのと、当時はそんなに深く考えてなかったんですよね。

 

35才で会社を買い取る

──ちなみに大学ではプロデュース研究会とかイベントサークルとか、そういうサークルには入っていなかったんですか?

丸野:いや全く。僕は大学にほぼ行ってなくて、年に10回行ったかどうか(笑)。

──(笑)。卒業できたんですか?

丸野: 6年かかりました。大学3年からクラブで仕事を始めるまでは、ずっと遊んでいて、テストだけは受けて一応卒業はしたんです。でも、学校に行っていなかったですから、大学の友だちは全然いないです。

──大学はご実家から通われていたんですか?

丸野:大学2年ぐらいまでは自宅から通っていたんですが、クラブの仕事をするようになったり、次の別の会社で働いていてあまり帰れなくなったので、「もう東京に住むわ」と親に言って、家を借りて友だちと2人で住んでいました。今こうやって話すと、当時はなにも考えてなかったんだなと思いますね(笑)。

──確かに無謀ですよね(笑)。

丸野:とにかく「なんでもいいから業界の仕事をしよう」と思っていたので。でも最初はお金をもらってないので、バイトでもないんですけどね。

──だって自分から「お金はいらないです」って言っちゃったわけですよね?

丸野:そうそう(笑)。一番最初はそうです。とにかく入り込んで…みたいな(笑)。

──そこでの仕事はどのくらい続いたんですか?

丸野:半年ぐらいだったんですが、そこで可愛がってくれた先輩が1人いて、その人が海外に行っちゃって、そのタイミングで僕も辞めました。それで、その海外に行っちゃった先輩の知り合いの紹介で、音楽系のプロダクションへ行くことになります。

──少しずつ音楽業界の核心にせまっていく感じですね

丸野:そうですね(笑)。まあそこからが結構大変で、書けないこともいっぱいあるんですが、とにかく色々なことがありつつ、10年以上そこで働きました。

──10年はすごいですね。

丸野:しかも、僕はその会社の社長になっちゃったんですよ。実はこのエンズという会社はもともとその会社で、僕がMBOをして買い取ったんです。だから、同じ会社にずっといるのと一緒なんですけどね。

──そういった下積みというかご苦労は、結局今となったらいい勉強になりましたか?

丸野:そうですね…すごく強くなりました(笑)。もう何も怖くなくなりましたね。借金もたくさんしましたし、「死んだら終わりだからいいや」ぐらいに思ってずっとやっていましたから。

──「会社を買い取った」と簡単におっしゃいますけど、会社を買うというのは誰でも簡単にできることではないと思います。

丸野:そうですね。でも、それしか方法がなかったんですよ。

──度胸がありますね。

丸野:まあよく言えば度胸があるし、違う言い方をすると、鈍感なんじゃないですかね(笑)。

──(笑)。だってそんなに安い金額じゃないわけでしょう?

丸野:金額は言っちゃいけないんですけど、いわゆる一般の人が一生働いて稼ぐとされる額よりずっと上です。会社を買った当時、すでに僕は社長をやっていましたが、結構利益が出ている会社だったんですよね。

──それはおいくつのときの話なんですか?

丸野: 社長になったのが29で、会社を買ったのが34,35ぐらいかな? 5年前の話です。とにかく社長になってからは嫌なことの連続で、「もう1回やれ」と言われたら絶対に嫌ですね。でもそれがなかったら今はないなとも思います。

 

九州男との出会いと画期的だったミクシィでのプロモーション活動

──九州男さんはどうやって発掘されたんですか?

丸野孝允氏

丸野:九州男くんは人の紹介ですね。九州男くんが、僕が違う仕事でいたスタジオを尋ねてきたんですよ。それで持ってきたデモテープを聴いたらすごく良かったので、「一緒にやろうよ」と。九州男は当時28で、工場でバイトをしながら音楽制作をやっていて、音楽業界への入口を探していたんです。大学生のときの僕と一緒ですよね。でも「もう長崎に帰ろうと思っている」みたいな状況だったんですよ。

──背水の陣だったわけですね。

丸野:それで一緒にやり始めて、関東近郊のクラブやライブハウスでライブをやったり、曲を作ったりしていたんですが、当時ミクシィが出てきて、僕は一ユーザーとして普通に利用をしていたんです。昔の友だちとまたつながれて、その人たちがいま何をやっていて、どんなことを考えているのかがわかるのはスゴいなと思って。で、当然知らない人ともつながれるわけじゃないですか? ということは、知らない人に九州男のことを伝えることもできるんだなと思ったんですよね。

友だちに「この音楽いいよ」って薦めるのと同じ感覚で、とにかく色々なやり方で九州男の音楽を聴いてくれる人を増やしていきました。ミクシィには「〇〇好きな人」みたいなコミュニティがあったじゃないですか? あれってすごくセグメントされていて、例えば、レゲエ好きな人もどこにいるかわかりますし、九州男だったら「湘南乃風が好きな人は九州男が好きな可能性が高いから、ここのコミュニティの中に行ってこの人たちに伝えるのが一番効率いいな」とか、そういったことを地道にやっていたんです。

──ミクシィは九州男を知ってもらうにはとてもいいツールだったと。

丸野:そう、自分が好きなものをとにかく知ってもらいたかったんです。

──果てしない作業ですね。

丸野:でもSNSなので、勝手にバイラルをしていくんです。だからいいもの、この人たちが好きなものを作って上手く伝えられれば、結構な確率で好きになってくれます。当時レゲエも湘南乃風も流行っていましたし、そんなに難しいことでもなかったです。僕はPCも携帯も特に詳しくなかったですし、普通の人と同じ感覚でSNSをやっていただけなんです。

──でも、それをやった人は少ないというか、丸野さんはパイオニアかもしれないですね。

丸野:音楽で言うと多分最初だと思います。他にいなかったですから。周りの人たちは、僕はミクシィをずっとやっていて、遊んでいると思っていましたからね(笑)。

──(笑)。

丸野:当時はパソコンだったので、後ろから見えるじゃないですか? それで「なにずっと遊んでいるの?」って言われていたんですよね。だから漫喫に行って、一人でパチパチやっていました。足あとをひたすらつける作業とか(笑)。

──そして、九州男さんがブレイクしたわけですよね。

丸野:そうですね。でも面白かったですよ。ある程度のところまで行くと勝手に回りだすので。僕も九州男も一気に環境が変わりましたね。最初はインディーズだったんですが、みんなに「なんで売れたの?」「意味が分からない」ってずっと言われました。

──何が起こったのかみんな理解できなかった?

丸野:当時はまだラジオ局やテレビ局にプロモーションする時代でしたが、僕らにはそのツテもなかったですし、みんなが知らないところから一気にボンッて出てきたので、びっくりしたんでしょうね。

──気持ちよかったんじゃないですか?

丸野:そうですね、面白かったです。

 

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