第181回 TikTok Japan 音楽チーム シニアマネージャー 宮城太郎氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」はユニバーサル ミュージック 岡田武士さんからのご紹介で、TikTok Japan音楽チーム シニアマネージャー 宮城太郎(みやしろ・たろう)さんのご登場です。
幼少期にお父様の転勤で数年間海外生活を送った宮城さんは、海外と日本のギャップに悩みつつバンド活動に邁進。大学時代、丸山茂雄氏の講義を受けたことをきっかけに音楽業界を志し、ソニー・ミュージックエンタテイメントへ入社。エピック洋楽やTKルームでの宣伝を経て、転職したエイベックスでは邦楽の制作や新規事業に取り組まれました。
その後、TikTokへ活躍の場を移し、音楽チームのシニアマネージャーとして音楽のプレイリストの管理やレーベル、事務所などと様々な企画を行っている宮城さんに今までキャリアからTikTokの今後までお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年4月8日)
「主張しないと何も与えられない文化」で培ったもの
──前回ご登場いただいたユニバーサル ミュージック 岡田武士さんとはどういったご関係なのでしょうか?
宮城:実は岡田さんとは家が近くて(笑)、近所のファミリーレストランで打ち合わせをする仲です。リモートになってからはよく「昼飯でも食べましょう」とか、「ファミレスで打ち合わせしましょう」みたいなことでご近所付き合いをしている感じです。
──仕事ではそんなに絡んでないんですか?
宮城:仕事上で岡田さんと直接みたいなのはあまりないですね。もちろんユニバーサル ミュージックさんのアーティストのプロモーションみたいなことをTikTok上でやったり、ということはもちろんあります。
──わかりました。この先は宮城さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?
宮城:東京です。大田区西馬込で生まれてそのままずっと住んでいます。
──どんなご家庭でしたか?
宮城:ごく普通の家庭に生まれて、育ったという感じだと思います。父は銀行マンだったので、父の転勤で小学校2年くらいから約2年間半、香港とロスで過ごして、小学4年生で日本に戻ってきたら早速いじめられ…(笑)。日本の文化になじめなかったんですよね。
その後、地元の中学に入り、高校・大学も普通に進学してみたいな感じで、起伏があるような学生時代ではなかったですね。
──たった2年でも、海外から戻ってくるとズレが生じるものなんですか?
宮城:主張しないと何も与えられない文化から、主張することをあまりよしとしない日本の文化みたいな感じでしたね。帰ってくるなりハッキリとした物言いをすると「なんかあいつ生意気だよね」みたいな(笑)。
それは僕のなかでずっと続いている気がします。ハッキリものを言って「君は一言余計だよね」とか言われちゃう感じは海外で培っちゃったのかもしれないですね。
──海外での思い出というのは何かありますか?
宮城:実はそんなに鮮明に覚えてないんですよね。香港からロスに行ったんですが、香港のことは全く覚えていないです。あと当時、英語もしゃべっていたらしいんですが、帰国して「英語をしゃべれよ」みたいな感じでいじめられるので、あんまりしゃべらなくなっちゃいましたね。
──なるほど。
宮城:とにかく覚えてないので、何も懐かしくないですね。後に香港へ1回行ったんですが、ノスタルジックな気分にはならなかったです。ロスも自分が仕事をするようになってから何回か行っていますが、懐かしさは覚えなかったですね。
──「あそこで食った中華美味かったよな」とか、そういうのが全くわからない?
宮城:全くわからないです。ただ自己主張をしたり、地元の人と喧嘩をしたりという記憶はあるんですよ。その当時はアジア系というか日本人が海外にあまり行っていなかった時代なので、物珍しさで結構いじめられたりするんですよね。
──で、日本に帰ってくるとまたいじめられるという。いじめられっぱなしですね。
宮城:いや、本当にそうなんですよね。
──そして、地元の中学に進まれたとのことですが、そのころにはもう帰国子女という感じじゃなかったですか?
宮城:ええ。ようやく空気を読むようになって、みんなとも馴染むようになりました。そして、その頃から音楽も聴くようになっていきました。音楽的にはいい時代というか、80年代後半ぐらいから、邦楽もBOØWYとかバンドブームが起きたり、洋楽は80年代のいわゆるMTVヒットみたいなものが出ていたので、接する機会が非常に多くなっていたような気がします。
──中学からちょっと音楽に目覚めた?
宮城:そうですね。聴く方も演奏をするようなこともちょろっとやったりとか。バンドを組むのが普通みたいな時代でしたから。
──バンドをやってらっしゃった?
宮城:はい。ギターを始めたのは中学校かな? BOØWYのコピーバンドとかやっていました。
──バンドで成功したいみたいな気持ちはなかったんですか?
宮城:高校に行ったらライブハウスでやりたいみたいなことは思っていました。ですから高校でも軽音楽部…あ、違うフォークソング部と言ったかな?そういう部活があったので入りました。
音楽業界を志すきっかけとなった丸山茂雄氏の講義〜ソニーミュージック入社
──バンドはどのくらいまでやっていたんですか?
宮城:バンドは高校3年間やりましたね。高校生になるとやはり洋楽がメインになって、当時はハードロックブームだったので、ボン・ジョヴィ、ガンズ&ローゼズとかをやるのが当たり前みたいな空気でした。
──髪を伸ばしたりとか、そういうことは?
宮城:僕はやっていなかったです。僕はエディ・ヴァン・ヘイレンに憧れていたので、笑顔を磨くみたいな感じでやっていましたね(笑)。
──笑顔を磨く?(笑)
宮城:はい(笑)。爽やかにハードなことをやるみたいな。
──大学はどちらへ進まれたんですか?
宮城:早稲田です。大学でもバンドサークルに入ったんですが、そこは「ギターをひずませるなんてダサいよ」みたいな感じのサークルだったんですよね(笑)。「ジャズファンクを極めるんだ!」と言われて、いきなりカッティングの練習させられるみたいな。
──フュージョンぽいギターですか?
宮城:そうですね。「裏拍取りなさいよ」みたいな感じのサークルでした。世の中的にも「渋谷系」みたいな空気もあって、なんかゴリゴリのロックよりはポップでお洒落なものが受けるみたいな時代だったようにも思います。
──その後、宮城さんはソニーミュージックに行くことになるわけですが、きっかけは何だったんですか?
宮城:大学3、4年生、どっちの時だか忘れたんですが、ソニーミュージックの丸さん(丸山茂雄氏)が、学校へ授業をしにきたんですよ。それで「音楽サークルにいる連中を集めてくれ」みたいなことを大学に言ったようで、当時いくつかあったバンドサークルと、あとDJ系のサークルの3年生、4年生を集めて、「別にソニーじゃなくてもいいから、音楽業界に来なさい」みたいな話をしてくれたんです。
──そんな授業があったんですか。
宮城:そうなんです。講義か講演か忘れちゃったんですが、そういう話を聞く機会があって。そこに行った何人かは実際にソニーミュージックへ入っていると思うんですが、丸さんは「レコード会社はここ何年も音楽好きな人を採用してないんじゃないかという危惧があって、音楽好きな人たちに直接話に来た」みたいなことをおっしゃっていたんです。
そのときに僕らは学生の立場で丸さんを見て、ジーパン姿で現れて、僕たちと同じような目線でしゃべる白髪のおじさんって格好いいなと思ったのはすごく覚えています。それで「バンドを極めてプロのミュージシャンになって」みたいな考えはなかったので、だったらこういうおじさんみたいになるのもいいなって思ったんですよね。
──丸山さんに会ってそう思ったんですね。
宮城:それが直接の原因になったという感じはないんですが、音楽業界の年齢不詳のおじさんって格好いいなと。あと「スーツを着なくて済む」というのも、そのときにインプットされました(笑)。
──(笑)。丸山さんはその講義を早稲田だけでやったんですか?
宮城:いや、多分色々な学校を回ったんじゃないですかね。
──それでソニーミュージックに行きたいと思われた。
宮城:そうですね。ソニーミュージックだけ受けたわけじゃないですけど、ソニーが一番行きたかったですね。
──今も昔もソニーミュージックの試験って結構な倍率ですよね?
宮城:ええ。しかも僕が卒業する頃は第何期目かの就職氷河期でしたからね。すでにバブルも吹っ飛んで「あんまり採用しないよ」という時代でした。
──そのときソニーミュージックは何人採用したんですか?
宮城:そのときでも今よりは多かったと思います。同期が50人ぐらいいましたから。多分、その講義に来ていた人は、1次試験くらいはパスさせてくれたんじゃないですか?(笑)わからないですけど。書類は通してくれたんじゃないかな。
──でも、当時はまだレコード会社も盛り上がっている時代ですよね。
宮城:僕が入社したのが96年ですので、CDバブルちょっと前ぐらいでしたが、それでも盛り上がっていましたね。特に90年代後半はどんどんミリオンが出ていましたからね。
エピック洋楽からアソシエイテッドレコーズへ〜TKルームの記憶
──ソニーミュージック入社後、最初はどの部署に配属されたんですか?
宮城:最初に配属されたのはエピックの洋楽でした。
──それは自分で志望を出したんですか?
宮城:いや、出しても通らなかった気がしますね。特に洋楽に行きたいと言っていたわけじゃないんですけどね。
──でも、最初の配属としては結構いいところですよね。
宮城:そうですね。でも制作をやりたかったので「洋楽じゃ、ちょっと制作できないな」みたいにも思っていました。ただ、当時のエピックはアーティストが良くて、マイケル・ジャクソン、セリーヌ・ディオン、オアシス、ジャミロクワイとか、そのレベルのアーティストたちが軒並みまだ来日してくれていた時代なので、仕事のダイナミズムをすごく味わえましたし、楽しかったですね。
──洋楽は制作、宣伝、販促とかありますが、実際には何を担当されていたんですか?
宮城:最初は宣伝ですね。ラジオ局を回るんですが、「J-WAVEに行ってかけてこい。かかるまで帰ってくるな」みたいな(笑)。そういう感じです。
──まだそういう時代だったんですね(笑)。
宮城:ラジオでかけることがまだまだ重要視されている時代でした。実際にラジオヒットが出ていましたからね。例えば、ジャミロクワイの「Virtual Insanity」はラジオきっかけで100万枚売れましたから。
──旧態依然のシステムの頃ですね。
宮城:皿をたくさん紙袋に詰めて、販促物も入れてみんなに配って。でもかからないみたいな。
──宣伝は何年ぐらいやっていたんですか?
宮城:1996年から98年くらいまでやっていました。とにかくスタッフも、上司も面白い人たちが多かったですし、海外のアーティストたちもやはり面白かったので、仕事は楽しかったですね。
──その後はどちらに行かれたんですか?
宮城:会社に邦楽をやりたいと希望を出したんですが、1998年に丸さんがアソシエイテッドレコーズというのを作って、小室哲哉さんや小林武史さん、織田哲郎さんといったプロデューサーをたくさん集めて、それぞれ部署を作ることになり、人手が足りないから「そこだったら行けるよ」と。
それで最初は織田哲郎さんの部署に配属になって、織田さんの出すプロデュースものの宣伝をやったりしていたんですが、織田さんのリリースするものが少なくなっていたので、小室さんが鈴木あみを出すタイミングで「やっぱりそっちを手伝って」とどんどん大きくなっていたTKルームの宣伝をやるようになりました。
──絶頂期の小室さんとの仕事はいかがでしたか?
宮城:僕ら宣伝は小室さんと直接会うということはなくて、どちらかというとプロデュースされる方の鈴木あみの取材をセッティングしたりしていたんですね。僕はそのとき雑誌班だったんですが、そういうことをメインでやっていました。
当時、鈴木あみは人気絶頂だったので、どの取材をやるか選べる側だったので、そんなに嫌じゃなかったんですが、彼女はまだ高校生だったので取材はほぼ学校終わってからと土日みたいな感じで、その土日の取材が本当に嫌でしたね(笑)。もちろん本人も嫌だったと思いますけど(笑)。
──音楽業界って土日関係ないですからね(笑)。
宮城:まだ入社して3年目ぐらいですから遊びたい盛りで、金曜の夜とかも遊び倒していたんですよ。でも土日は朝から取材みたいな感じなので、本人にもよく「酒臭い」って怒られていました(笑)。
──では、小室さんから直接、厳しいご指導を受けるような立場ではなかった?
宮城:なかったですね。当時小室さんはめちゃくちゃお忙しかったので、直接お会いすることはまずなかったんですが、気合が入っている作品のときとかは完成したタイミング、多分ミックス終わりぐらいのときにスタッフ全員を集めてアルバム1枚を聴かせて、感想を求めるみたいな時があって、そのときはその他大勢として聴きに行きました。
本流とは違うエイベックスでの仕事
──その後、エイベックスに移られていますが、きっかけはなんだったんですか?
宮城:僕はTKの部署から、birdや中島美嘉をリリースすることになるオフィス1という部
今となっては権利ビジネスを学べてあの期間は非常に大事だったんですが、その時は「この仕事を今やるのはもったいないな」と思ったといいますか、「もっと歳とった時にもこの仕事はできるな」と思ったんですよね。とはいえ、ソニーのシステムだとその契約の部署に1、2年はいなくてはいけなかったので、エイベックスへ転職しました。
──言葉は悪いですがやはり「左遷された」という風に思ってしまった?
宮城:当時はそう思っていましたし、自分もこのままソニーミュージックにいてもヒットが出なさそうだなと思いました。音楽好きであるがゆえにどうしても…まあアーティストの方もそういうマインドだったんですが、どうしても「格好いいものを作ろう」みたいな考え方になっちゃうんです。まだ若いですし「売れるか売れないかなんてどうでもいいよ」ってどこかで思っていたんですよね。本当は売れなきゃ駄目なんですけど(笑)、「恰好いいもの作ろうぜ」とひたすら走るみたいな。確かに恰好いいものはできたのかもしれないんですが、自己満足に陥って、全くマーケットに合ってなかったんですよね(笑)。あとその当時は歌詞にあまり興味がなかったんですよ。
──サウンド志向だったと。
宮城:洋楽部にいたこともあって「サウンドがよければいける」みたいなマインドセットもありましたし、「歌詞で人の心を動かすのはダサい」とか思っていましたね(笑)。だから飛ばされたんだと思うんですけど(笑)。
──(笑)。
宮城:「向いてないなアイツ」という風になったんじゃないですか?
──エイベックスに移られたのはおいくつのときですか?
宮城:2005年12月ぐらいに移っていますから、32歳ですね。
──すんなり転職できたんですか?
宮城:当時ソニーミュージックからエイベックスに行く人というのはそんなにいなかったみたいなので「珍しいね」みたいな感じで入れてくれたんだと思います。
──ちなみにエイベックスでは誰が面接してくれたんですか?
宮城:そのときは伊東宏晃さんが面接してくれました。人事の面接のあとに伊東さんかな?
──それで「すぐに来いよ」という話になった。
宮城:そうですね。ただ僕も、いわゆるど真ん中のエイベックスというのはあまり得意ではなくて、もし「浜崎あゆみをやってくれ」と言われたら多分断っていたと思うんですが、当時、伊東さんってエイベックスの本流とは別の新しい流れを作りたいと、例えばSEAMOやmihimaru GTとかをやっていたんですね。
それってエイベックスがマネージメントをやるけど、レーベルはユニバーサルだったりBMGだったりで、いわゆるエイベックスという看板ではできないようなことをやろうとしていたので、ちょっと面白そうだなと思って移りました。
──本流とは違うエイベックスに興味を持ったと。
宮城:伊東さんはtearbridge productionという部署を作ったんですが、そこはレーベルもやっていい、マネージメントもやっていい、作家も抱えていいみたいな、なんでもやりたいことをやっていいよみたいな部署でした。「何やってもいいよ」と言われると結構カオスになっちゃうというか、あまり統制は取れてなかったような気もしますが(笑)、そこで伊東さんが「洋楽をやりたい」「グラミー賞をとりたい」と、無茶なことを言い始めて(笑)、やるんですけど、エイベックスはワーナーやユニバーサル、ソニーのようにグローバルディールがないので、Myspaceとかで検索して「やんない?」と声かけてやってもらう、みたいなところから始めて、アドバンスでいくらか払って、お店に何枚か入れてみたいなこととか結構こまごまやっていました。
──また思い切ったことをやりましたね。
宮城:伊東さんは海外のバンドの原盤を作ってリリースをしたりもされて
──すごく自由な感じですね。
宮城:あと邦楽もやりたくなったので、ホリプロさんにお願いしてAKBを卒業する大島麻衣さんのソロデビューのプロジェクトもやりました。その後、新規事業企画開発部へ異動になったのが2011年とか12年とかだったと思います。そこはCDに頼らず売り上げを作れみたいな部署で、TRFの「ダンササイズ」とかを売ったりしていたんですが、そこで始めたのがミュージックカードというビジネスでした。
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第181回 TikTok Japan 音楽チーム シニアマネージャー 宮城太郎氏【後半】