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音楽業界で働きたいと思っている若者のために〜株式会社ポニーキャニオン 執行役員 マーケティングクリエイティブ本部本部長 今井一成氏インタビュー【前編】

インタビュー 特集

株式会社ポニーキャニオン 今井一成氏

1986年に日本ビクターに入社、オーディオ製品の営業を経て、94年にソフト部門であるビクター音楽産業(当時)のスピードスターレコーズでアーティスト宣伝を担当した今井一成(いまい・かずなり)さんは、大ヒット曲「TSUNAMI」をリリースした時期のサザンオールスターズのチーフプロモーターとしてプロモーションを担当。その後、2010年からはデジタルビジネスも手掛けられ、2020年4月からはポニーキャニオンでご活躍中です。

今回のインタビューでは、30年以上に渡って、音楽ビジネスの中枢で生きてきた経験豊富な今井さんに、ご自身のキャリアと変遷を繰り返した音楽業界を振っていただきながら、これからの音楽業界に必要な人材や採用、また教育などについて話を伺いました。

入社早々味わった厳しい営業の世界

ーー就職活動時に音楽業界を志望したきっかけを教えてください。

今井:僕はロックで音楽に目覚めて、中学・高校・大学とロックバンドばかりやっていました。それで大学卒業を前にして、今後どんな仕事をするのか考えていたときに先輩にいろいろと聞いてみたら、当時はバブルだったこともあって「やりたいことがはっきりしていないのなら、とりあえずメーカーがいいだろう」と言われて、メーカー=「物を売る」というイメージでしたので、「では自分は何を売りたいのか?」と考えるために、いろんな業界をノートに書いていっていたら、やはり自分が好きなものを売るのが一番いい、そう考えたら音楽しかないと思って、それで音楽業界に絞りました。

ーーちなみに他の業界は(面接等を)受けなかったんですか?

今井:受けましたよ。バブルでしたし、受けられるところは片っ端から受けました。今の若者にも共通するかもしれませんが、「これをやりたい」というものはなく漠然としていて、片っ端から受けてそれなりに内定をもらいましたが、どうしてもリアリティがなかったんですね。

当時のレコード会社は東芝EMIやCBSソニー、ワーナーパイオニアなど、電機メーカーに紐づいている会社が多かったのですが、僕はステレオなどのハードも好きだったんですね。当時ビデオソフトが出始めていて、ビデオデッキにも凝っていましたし、音楽業界でもハードメーカーでもどっちでもいいかなって思っていました。

そう考えると電機メーカーだったら、音楽ソフトとハードの両方をやっているから、いずれかの部署に配属になるだろうと考えたんです。その点、日本ビクターは、当時レコード部門としての採用は存在しなくて、一括で採用して親会社が部門ごとに新入社員を振り分けていたんですね。

ーーそういった理由もあって日本ビクターに入社されたわけですね。

今井:ええ。僕は1986年の入社なんですが、日本ビクター(現 JVCケンウッド)は横浜にありました。当時、新子安に今よりもっと大きな工場があって、そこに行って新入社員研修を受けました。もちろん第一希望はビクター音楽産業(当時)でしたが、配属されたのはハードの営業でした。他の同期たちも希望通りにはいかなくて、ほとんどの同期が地方に配属になりました。

僕は愛媛県の松山営業所に配属になり、ビクターが製造しているテレビ、ビデオ、オーディオ製品のセールスを行う営業所です。量販店も担当していましたが、入社したばかりの僕はちっちゃい電気屋さん担当で、大企業に入ったつもりが松山の営業所に配属されて、いきなり山奥の電気屋さん相手に営業して回るための軽トラを渡されて・・・。日本は狂乱のバブル景気真っ只中、それは堪えますよね(笑)。

ーー最初から音楽部門だったわけじゃなかったんですね。

今井:最初の5年間は愛媛県松山でハードの営業だったんです。生まれは埼玉で東京の大学を出て、初めて四国に行って。最初の3ヶ月間は、仕事が終わって帰ると壁を見て泣いてました(笑)。「道後温泉でも行ってきたらどうだ?」と先輩に言われたんですが、そんな情緒を楽しめる歳でもなかったですしね。

それで東北の営業所へ行った同期から電話があって、みんなで励まし合っていたんですが、その同期のほとんどが辞めていったんですよ。営業が厳しくて。数字を見られるノルマの世界ですから、営業の本質というか、競合がひしめく中で自社商品を売っていく厳しさは、本当に勉強になりました。当時はコンプライアンスも何もないですし、先輩はもちろん、上長は怒鳴り散らすし、物は飛んでくる。今では漫画の中にしかないような世界でしたが、耐えました。

ーーいわゆる厳しい営業の世界ですね。

今井:「やめてやる」とか「このままなら辞める。異動させて下さい」とか、ごねて異動させてもらった先輩もいましたし、会社も「まぁまぁ」となだめて異動させてあげていたのも見たことありますが、そうやって異動しても行った先でいい待遇にはならないだろうなと思いながら松山で頑張っていたら、たまたま上司として東京の量販店を管轄していた所長が異動してきたんですね。

「なんで東京から来たんですか?」と聞いたら、その所長は「自分も来たくて来たわけじゃない。君も帰りたいなら、一緒に頑張って東京に帰ろう」と言ってくれたんですよね。そのボスと、とにかく頑張って結果を出しました。その一方で、「いつか戻れるだろう」という気持ちもなんかあったんですよね。それで僕は会社にとりあえず異動希望は出していて、頑張った甲斐あって営業成績も良かったので希望を聞いてくれて、異動できたんです。

スピードスターレコーズで痛感した営業と制作のギャップ

ーー結果をしっかり出されて希望が通ったと。

今井:そうですね。営業所に連絡が来て、上司から「(異動先は)ソフト部門の営業らしいよ」と言われたんですが、そのソフト部門が当時立ち上がったばかりのMC Aビクター(後のユニバーサルビクター)でした。今のユニバーサルミュージックですね。それで着の身着のまま喜んで東京に戻って、当時原宿にあった本社の人事部に行ったんですよね。そうしたら「日本ビクターの営業をよく5年も耐えられたね。念願のソフト部門だから更に頑張ってください。将来のことを考えたらまずソフト営業からやったらいいですよ」と言われて、その場で大阪行きのチケットを渡されたんです。

ーーええ!(絶句…) 東京だと思ったら今度は大阪ですか?

今井:家族も親戚もみんな実家に集まっていて僕を待ってくれていたのに、帰宅することもできず、そのまま大阪へ行きました。そして91年からはビクターエンタテインメントの大阪営業所に配属になりました。

当時、関西はビデオレンタルが盛んで、大阪営業所では最初レンタル営業を担当することになり、ソフト営業のダイナミックさを体感しました。レンタル営業っていきなりドカン、ドカンとオーダーが来るんですよ。月が変わった途端、何もしてないのに達成率70%というときもありましたし、競合も特にないんですよね。映画『ゴースト/ニューヨークの幻』がビデオになったときなどは、担当のレンタル店に1本1万円以上するビデオが100本とかオーダーが入るんです。そんなレンタル営業を半年間担当していたときに、オーディオ営業のボスから、「サザンが大阪に来てライブやるときに、CDの即売があるから手伝うか?」と言われて、西宮球場で初めてサザンのコンサートを観ました。そのライブに感動して、次の日に営業の人たちに感想を伝えたんですが、それが良かったのか、突然上司に「来月からオーディオ営業に異動」と言われたんです。

ーー突然転機が訪れたんですね。

今井:それが音楽業界でのスタートでした。入社してから苦節5年半、音楽部門にやっとたどり着いたんです。そして、大阪で老舗のミヤコレコード心斎橋店や、日本で初めて本格的に邦楽に進出したタワーレコード心斎橋店を担当しました。当時の店長が小澤さん、その下に野村さんと、タワーレコード心斎橋店の歴代の方々は、後に渋谷店に行く人たちで、現在のタワーレコード社長 嶺脇さんも当時現場でオーダーを取ったりしていて、みんな心斎橋店にいました。

そこでソフト営業の基本をすごく勉強して、ソフト販売とハード営業との間には大きなギャップがあることを実感しました。ハードは売れればいいという世界で、買ってくれた人が「安かった」とか「機能が豊富だった」とか何か一つ満足してくれて買っていただけたらそれで良かったんですが、ソフトの方はわかりやすく言うと、演歌好きな人にロックのCDの値段を下げて営業しても買ってくれないじゃないですか?ですから当たり前の話ですが、音楽ソフトの本質に興味を持ってもらえるように店頭での見せ方とか、販促を考えていかないといけないんです。

その大阪にいた3年間でいろいろなアーティストが来阪してインストアライブをやりましたが、当時インストアイベントなんて言い方がなくて、「店頭イベント」と言っていましたけど、僕が初めてインストアイベントを自分で仕掛けたのはシーナ&ロケッツでした。90年代はすごくC Dが売れた時代で98年がピークでしたが、僕は大阪でソフト営業を3年間やって、94年に東京に転勤になりました。

ーーついに東京に戻れたと。

今井:当時スピードスターレコーズが立ち上がったんです。レーベルのトップはサザンオールスターズのプロデューサー高垣健さんでした。念願の制作部に行けたというのも嬉しかったですが、僕が好きなロックの専門レーベルというおまけまでついてきて。でも、東京の人たちは結構厳しくて、最初に言われたのは「お前は営業しかやってないじゃん。制作は全然違うんだよ。お手並み拝見だな」と(笑)。当時はみんな優しくはなかったですね(笑)。突っ張っている人には厳しいですし、仕事ができない人には更に厳しくあたるみたいな。

ーー営業と制作では仕事の中身も全然違いますよね。

今井:営業と制作のギャップを痛感させられました。それまでは数字で生きていたのが、今度はアーティストの価値観で生きていく世界なんですよね。サザンもプロモーションすれば、シナロケなどロック系アーティストもプロモーションしましたし、またマルコシアス・バンプなどイカ天に出演したバンドも結構いて、僕はフライング・キッズのアーティスト担当をしていました。一番勉強になったのもこのフライング・キッズでしたね。

「失敗は許されない」サザンオールスターズというモンスターバンドのプレッシャー

ーーその後、サザンの宣伝を担当することになるんですね。

今井:そうですね。2000年にサザンのTSUNAMIがヒットしたときに、先輩が栄転されることになって僕がサザンの宣伝チーフになりました。当時はサザンのタイシタレーベルとスピードスターレーベルを兼務するスタッフが多く、自分も2枚名刺を持っていました。

僕はマスコミ媒体も担当していて、サザンが稼働するときはサザンのメディア担当にもなるという具合で、東京に戻ってきてからはずっとサザンのプロモーション現場には関わっていました。角川書店、TBS、NHKなどを担当していたのでアーティストが稼働するときはブッキングもしますし、取材や番組ゲスト時のアーティストケアもしました。

レーベル立ち上げ初期の頃に、メディアの動かし方とか、アーティスト担当、宣伝プランニングの立て方とか、いろいろ経験させてもらっていましたから、2000年からサザンの専任担当になった時にはこれまでやってきた仕事の「集大成」のようなものでした。「失敗は許されない」と先輩たちに何度も言われて、「わかりました」って何度答えたか(笑)。もの凄いプレッシャーでしたね。

ーー「失敗は許されない」は凄いプレッシャーですね。

今井:サザンはモンスターバンドですし、会社にとっても周りにとってもサザンのステイタスは本当に大きいな、と痛感しました。それをわかっているが故に、最初はチーフプロモーターになることを躊躇したんですが、同僚から「今井さん、仲間とチームを作って、みんなでやりましょう!」と言われて踏ん切りがつきました。

結果的にいろいろな苦労や失敗も成功も経験し、2007年ぐらいまでは現場のチーフをやっていました。すごく勉強になりましたし、普通の生活をしていたらなかなか体験できないようなことをサザンの現場で次々と経験できましたから、それはそれで貴重な時間だったと思います。とにかくこの頃のサザンは次々とミリオンセールスを記録して、サザン自体も激しく稼働していた時期でしたね。その時の担当だったので、充実していましたが、精神的にも体力的にも結構大変でした。

ーー一見華やかで誰もが憧れるような仕事内容ですが、想像を絶する重圧がそこにはあったのですね。

今井:それで2008年に当時の社長がたまたま食事に誘ってくれて、「これから何をやりたいの?」って聞かれたんですが、「他にやりたいことがないわけではないですが、サザンの仕事を自分から降りたいとは言えないですし、言いたくもないです」と言ったら、「いや、やりたいことがあるんだったら」と話を聞いてくださったんです。その時にふと思ったのが、「ずっと宣伝畑だったし、CD市場が厳しくなり始めていて、セールスが思う通りについてこない苦しさもあるし、将来を考えるとデジタル方面の勉強もした方がいいかな」ということでした。でも一方で、「ここで逃げ出すのもどうか…」とも思ったり、いろいろなことを考えていましたね。そうしたら突然、社長と会長から呼ばれて「宣伝の集大成的なチームを作ってやってみろ」と言われて異動になったんですね。

ーーサザンという日本のトップアーティスト担当から、今度はレコード会社全体の宣伝の統括を担うことになるわけですか?

今井:ええ。2008年に総合宣伝部、プロモーション統括部という部門を作らせてもらって、全ての制作部の宣伝を統括することになるんですが、その中にデジタルプロモーショングループもあったんです。基本はマスコミ宣伝でしたが、Musicmanを始め、ナタリー、YahooなどWEBメディアに情報を出していくチームが稼働していました。

すると会社もいろいろなこと言ってきて、「そこまでやるならデジタル営業も担当したらいいんじゃないか? 数字を持ってくれ」と言われ、レコチョク、music.jp、ドワンゴとか着うたを取り扱う営業部隊もこの部門に入れて、それでデジタル専門にシフトすることにし、2009年にデジタルビジネス部という部門を立ち上げて、プロモーション統括部を離れ、レコード会社における音楽配信に専念することになりました。

ーー音楽配信売上の目標も持つことになったことから、デジタルマーケットに専念するようになったんですね。

今井:着うたフルは2010年前後がピークだったと思います。着うたフルの契約条件は、レコード会社の先輩たちが考えたシビアな内容で、販売契約を交わすのに、かなりの契約金もいただいていましたから。MG(ミニマムギャランティ)じゃないですよ、契約金なんです。当時、着うたフルが1曲400円の時代でした。2010年前後は着うた配信で楽曲が売れていたのですが、あっという間にiPhoneが普及してスマホの時代になり、海外では1曲99セント、日本では1曲250円というiTunesでの売上が拡大していきました。

そこで事件が1つあったんですよね。着うたはDRM(Digital Rights Management)というデジタルデータとして表現されたコンテンツの著作権を保護し、その利用や複製を制御・制限する技術があって、例えばDocomoで買った曲はAUに乗り換えても持ち越すことはできませんでした。

でも、ジョブズが考えたiPhoneにおけるiTunesはNon-DRMで、サービス拡張が前提でした。つまりDRMを外さないと、iPhoneで聴けないという・・・。そこに日本のレコード会社が抵抗したので、約2年もNon-DRMを受け入れるまでに時間かかってしまいました。2011年にDRMを外し、日本の音楽業界はスマホの市場にようやく参入しました。日本はこのときやっとダウンロード(販売)時代を迎えましたが、海外ではすでにSpotifyが普及し始めていて、たまたま知り合ったIT関係の友人に教えてもらい、海外のアカウントでSpotifyを使い始めました。

再び音楽に立ち戻らせたサブスクリプションサービスの衝撃

ーーSpotifyは衝撃でしたね。

今井:衝撃でした。日本の音源はもちろんないですけど、ロックの音源を眠れないぐらい聴いていました。ハードロック大好きだったので、あるわあるわで止めどもなく聴いて。レスポンスも良かったですし、検索も速いですし、意外なレア音源があったりして、楽しくてずっと使っていました。音楽が楽しくてしょうがなかったですし、「これからは、こういう時代なんだ…」と思いました。

振り返ると2011年以前の5年間はCDを買っていませんでしたし、あまり音楽を聴かなかったんですよね。家にあるCDの中から昔のジャズとか軽めのロックをかけたりしてたぐらいで。でもSpotifyを知って、その瞬間から凄く音楽を聴くようになったんです。「俺、音楽聴かないで何していたんだろう?」って思いましたよ。昔の好きだったアーティスト、ジョン・サイクスとかジューダス・プリースト、フランク・マリノとかを聴きまくって、それでまたレコード屋さんに行ってCDを買うんですよ。

ーーそして、ビクターも日本でサブスクリプションサービスに楽曲提供をするようになりますね。

今井:その頃レコチョクが、将来を見据えて日本で初めてレコチョクBestというサブスクリプションサービスを立ち上げる話になりましたが、次へと進化する中(デジタルの)許諾をとるのは大変だったと思います。僕は(サブスクリプションサービス利用の)実体験がありましたので、ストリーミングの時代がくると、ビクターからは音源を積極的に出しました。

しかしデジタルの時代になっても、CDの売上とデジタルの売上とは乖離していて、チャレンジしたくても会社の中ではまだデジタルが無碍にされていました。デジタル担当の発言に対して会社が協力的ではなかったんです。1つだけありがたかったのは、他のレコード会社のデジタル担当は、デジタル系専門だったり元営業だったりして、制作宣伝経験のある人はいなかったのですが、自分はスピードスターのど真ん中で仕事して来た上でデジタルを担当することになったので、制作側からひどいことを言われても切り返すことができました。他のデジタル担当たちは、若い社員が担当させられたりしていて、「お前、そんなこと言うけど、事務所とかアーティスト口説けないじゃん」って言われてしまうと怯んでしまうことが多かったんです。

ビクターはデジタルを積極的に攻めるという話になったんですが、デジタルとCD売上には格差があり、会社の中で丁々発止じゃないけど、僕はもっとデジタルを前に出したいし、会社としてもデジタル時代を早く取り入れたいが、制作部門がCD先行のプランニング立てちゃうんですよね。

ーーデジタルが前に出るきっかけは何かあったのでしょうか?

今井:斉藤和義くんが作った曲(「ずっと好きだった」)をデジタルチームで聴いたとき、「すごくシンプルだし音楽配信にハマりそうだよね」となったんです。当時資生堂のテレビCMもありましたし、みんなで頑張ってプッシュし始めた瞬間に、どかーんとセールスが伸びました。

それをきっかけに、デジタル部門の売上目標数字を立てて会社に出したんですが、大きな金額だったので、みんな笑って、制作のスタッフも笑っていました。でもデジタルチームで頑張ろうよと言って始めたら、その目標額を達成したんです。もう1つのきっかけは、日テレドラマ「家政婦のミタ」の主題歌「やさしくなりたい」が立て続けにブレイクしたことです。これが会社にとって大きかったです。ダウンロードでここまで数字が上振れしていくということを体感できたんですよね。

ーーCD販売とデジタル販売にはどういった違いがありましたか?

今井:「CDの発売日より後に配信してくれ」という話は制作側からよく来ましたが、僕はそれを許さなかったです。制作に対して「デジタルをちゃんとやらないとこれからの時代大変になる。制作をやっていた自分が言うんだからわかるよね」って。それからアメリカのミュージックセミナーに参加して刺激を受け、独自のデジタル勉強会やセミナーも多数開催しました。そのおかげか、デジタルの意識改革は他社より少し早めだったと思います。

当時、サザンもSMAPも権利上の問題や、デジタルに対する考え方が色々あって許諾がなかなか出なかったので、すでに配信されている斉藤和義、星野源、サカナクション等を主軸にしてデジタル配信を組み立てていきました。結局「デジタルが重要だよね」となっていくんですが、なかなか踏ん切りつけられなくて、それがようやく2020年に実現することになるわけです。

ーー新型コロナウイルスの影響で半強制的に、ですよね。時間かかりましたね。

今井:もしコロナ禍がなかったら、日本の音楽業界はあと2年ぐらいはCDで踏ん張ってたかもしれない。もちろんそれはダメじゃないんですが、握手会などで数字が作れて売上が上がっていればそれでいいじゃんという話になっていて、でも実態はどうなんだって話ですよね。それは自転車操業と同じで、走り続けないと売上は上がっていかない。

アイドルチームを見ていると「いいな」って思うかもしれないですが、とにかく大変なんです。土日もイベントで出勤している。否定はしないですが、楽曲は本当にちゃんと聴かれているのかなと考えると、そうじゃないだろうと。1人で複数枚購入してくれたりしてレコード会社としてありがたいですけど、僕は音楽の価値としてサブスクリプションサービスでちゃんと聴いてもらうマーケットにして行きたかったんです。

またレコード会社だけじゃなくて、アーティスト自身もCDアルバムに拘りがあるのですが、コロナ以降、特にストリーミングにシフトしていくと、アルバムという概念がなくなっていきます。アルバムがリリースされても真ん中の楽曲から聴かれるし、気に入った曲だけ抜き出してプレイリストを作られてしまう。アルバム以前に、単曲(シングル)ヒットを重要視することが大切なんです。コロナ問題で半強制的にストリーミングサービスにシフトしたのは、日本の音楽業界のデジタル化という意味では、結果的に良かったのではないでしょうか。