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第187回 株式会社J-WAVE コンテンツプロデュース部長 渡邉岳史氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

J-WAVE コンテンツプロデュース部長 渡邉岳史氏

今回の「Musicman’s RELAY」はビクターエンタテインメント 鵜殿高志さんからのご紹介で、J-WAVE コンテンツプロデュース部長 渡邉岳史さんのご登場です。

学生時代、「人力車を引く」という一風変わった活動に熱中していた渡邉さんは、マーケティングへの興味などから1996年にJ-WAVEへ入社。以後、営業・制作・編成・イベント企画などに幅広く従事。2018年からはコンテンツプロデュース部 部長として番組制作を統括されています。

また、コロナ禍では音楽業界を支援する「#音楽を止めるな」や、J-WAVEを聴いている会社やお店を応援する「TEAM J-WAVE ACTION FOR TOMORROW」、また高輪ゲートウェイ駅前の「J-WAVE NIHONMONO LOUNGE」立ち上げなど、多くのプロジェクトを率いてきました。そんな渡邉さんにご自身のキャリアから、J-WAVEやラジオが直面する課題と未来について話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年10月12日)

 

3年と同じところに住んだことがなかった少年時代

──前回ご登場頂いたビクターテンタテイメント 鵜殿高志さんとのご関係からお伺いしたいのですが。

渡邉:私は97年から番組制作の現場に入って2006年までいたんですが、鵜殿さんはJ-WAVEの担当ということで局に出入りしていらっしゃいました。鵜殿さんは割と長くビクターの洋楽として来ていましたね。その前にこのインタビューに出演していた対馬くん(origami PRODUCTIONS CEO/A&R 対馬芳昭氏)もそうですけど。

──対馬さんとも面識が?

渡邉:対馬くんは鵜殿さんの下についていたんですよ。それでビクターを辞める最後の最後にJ-WAVEを担当していたんです。対馬くんはリレーインタビューで「TOKYO FM担当」と言っていましたが、確か最後はJ-WAVE担当で、「ビクターを辞めて、独立するんです」と言っていたのをよく覚えています。鵜殿さんの方が私より年齢はちょっと上なんですが、番組制作とレコード会社の担当者としてお付き合いするようになり、今もずっと関係が続いています。

──プライベートでもお付き合いはありますか?

渡邉:鵜殿さんも含めJ-WAVEに来ていた若い人たちがみんな仲良くなって、未だによくお酒を飲みに行ったりしますね。

──ここからは渡邉さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

渡邉:東京です。生まれた場所だけで言うと新宿なんですが、その後、住んでいたのは足立区だったそうです。というのも、うちの父親が転勤の多い仕事だったので、3年と同じところに住んだことがなかったんです。

──そんなに転勤されていたんですか。

渡邉:生まれて少ししたら千葉に引っ越したので、足立区に住んでいたという記憶がないんです。千葉では佐倉という場所に住んで、幼稚園になるぐらいのタイミングで今度は九州の博多へ行き、幼稚園が終わる前に一瞬だけおばあちゃんの住む東京・立川に引き取られて、そのあと千葉市の、今で言う幕張の辺りに引っ越しました。当時は本当になにもないところで「あそこが栄えるんだ」という感じの土地に父親は家を買ったんですが、家を買ったにもかかわらず小学校の途中で名古屋へ転勤となり、中学校1年まで名古屋にいたんですが、そこから神奈川県の厚木市へ移り…。

──めまぐるしいですね…子どもとしてはかなり負担が大きい話ですよね。そんなことは考えなかったですか?

渡邉:そうですね。まあ引っ越したいとは思わなかったですし「またか」という感じでしたけどね(笑)。

──ちなみにお父さんのお仕事はなんだったんですか?

渡邉:ホテルマンでした。新しくできるホテルの立ち上げをやっていたらしく、新しく立ち上げると次のホテルへとあっちこっち動いていたようです。

──でも「こんなに引っ越ししたくないな」と思うのは、子どもとしては当たり前ですよね。

渡邉:今になってみると、友だちがあちこちにいるのは大きいと思うんですよね。今みたいにインターネットがあったらもっと繋がっていたんでしょうけど。例えば、J-WAVEで色々なデザインを頼むのは、小学校のときの友だちだったり、そういうつながりは今も生きているんですよね。

──そこまで引っ越しが多いと、やはり社交性が身につくものなんですか?

渡邉:社交性があったからかどうかはわからないですが、よく周りは見ていたかもしれないです。ですから社交性と言うよりかは一歩引いて「この環境に適応しなきゃ」という気持ちはありましたね。

──ポンと入った場所の人間関係や力関係とかをまず最初に見極める?

渡邉:そうですね。だから黙って場を見ていることのほうが多いかもしれないです。「ここはどういう場だ?」みたいな(笑)。特に神奈川の厚木に引っ越したときとかはちょうど漫画『湘南爆走族』が流行っている頃で、ヤンキーだらけだったんですよね(笑)。

──暴走族とか。あの辺は本場でしたからね。

渡邉:ええ。授業中に暴走族がグルグル校庭を回っているとか、本当にそういうのがありましたからね。あと、授業中に緊急で「帰れ」と言われて「なんでだろう?」と思っていたら先輩が暴れていて「こりゃ帰ったほうがいいわ」って(笑)。

──確かに学校がちょっと荒れている時期ですよね。

渡邉:漫画『ビー・バップ・ハイスクール』とかの世界ですよね。そういう漫画に感化されて。

──じゃあ怖い人が周りに一杯いた?

渡邉:でもそれをあんまり怖いとも思わなくなってきてしまいましたね(笑)。「しゃべると別に普通だな」みたいな。

 

日清カップラーメンCMの衝撃

──高校はどちらに行かれたんですか?

渡邉:高校は神奈川県立大和高校に進学しました。自分で言うのもなんですが、そこは学区の中では良い学校だったので、荒れてはいなかったですね(笑)。

──やっと平和な環境に(笑)。

渡邉:そうですね。公立のそこそこの偏差値というとちょっと語弊があるかもしれないですが、あまりうるさくないというか、わりと自由な校風で途中から学生服を着ていくのを止めました。

──学生服を着なくてもOKだったんですね。

渡邉:勝手にOKにしていたんでしょうね。学ランは肩が凝るのでやめてました(笑)。

──(笑)。

渡邉:卒業アルバムの写真を撮るときに学ランがなくて困って「ヤバい、誰か貸してくれ」って横のやつから借りたりしていました。

──なにか部活はなさっていたんですか?

渡邉:最初バレーボールをやっていたんですが高校1年でやめて。それ以降はアルバイトと、なぜかスキーがしたくなったんですが、スキーは部活にないので自分でお金を貯めてやっていました。ですから、ここまではほとんど音楽に触れていませんでしたね(笑)。全く触れていなかったわけじゃないんですけど。

──現時点では音楽的背景が見えないですよね。例えば、当時ラジオ少年だったとか、そういうのはないんですか?

渡邉:あ、それはありますね。小学生のころからずっとラジオは聴いていました。私の引っ越し遍歴で言うと名古屋にいるときにラジカセブームが起こって、SANYOのダブルデッキの「おしゃれなテレコU4」というのを買ってもらって、それでラジオを聴き始めました。

──聴いていたのはAMですか?

渡邉:AMですね。当時FM愛知もありましたが、子供にとってはそんなに面白くなかった…と言ったら怒られてしまいますが(笑)。そもそも私がこの業界やラジオの仕事に興味を持ったのは、小学校5年生のときにテレビコマーシャルで日清のカップラーメンのコマーシャルがあって、曲は大沢誉志幸さんの「そして僕は途方に暮れる」だったんですが、あのテレビコマーシャルが流れたときに「なんだこのCM」って思ったんですよね。

──あのCMは格好よかったですよね。

渡邉:そうなんですよ。CMでは断片的に大沢誉志幸さんの曲が流れていますが、それが丸々流れていたのがラジオなんですよね。「なんだこの曲は・・・!」とその辺から大沢さんや浜田省吾さん、佐野元春さんといったアーティストたちに興味を持ちだしました。

日清のコマーシャルってそのあと中村あゆみさんの「翼の折れたエンジェル」、ハウンドドッグの「ff」、鈴木雅之さんの「ガラス越しに消えた夏」とシリーズになっていて、どれも外国人の女の子が出ていて風景描写と最後にちょっとだけカップラーメンが出てくるという、その当時の概念からするとなにもかもが斬新なCMだったんです。これを観たときに「こういうものを作る仕事をしたい」と思ったんですよね。あと、自分の親父を見て「転勤ばかりしているサラリーマンには絶対になりたくない」とも思ったんですよね(笑)。

──(笑)。

渡邉:やりたくない仕事に「サラリーマン」と書いていたので(笑)。結局今サラリーマンなんですけど、父のような転勤族みたいなのは嫌だなと。それで「なにをやったらこういう作品を作れるようになれるんだろう?」と考える中で、マーケティングの勉強をしないといけないと高校に入ってすぐに知ったんですよ。さきほど偏差値のいい高校に行ったなんて言いましたが、そんなに頭がよくなくてギリギリ入ったようなものなので、勉強を全部やるというのは無理だから自分のできること、将来必要な勉強だけやればいいやと思ったんですよね(笑)。だから学校の成績は酷かったです。

──「将来必要な勉強だけやればいいや」という気持ちよくわかります。私も同じでした(笑)。

渡邉:(笑)。ですから高校生のときの成績は見られたものじゃないというか、冗談みたいな成績だったんですよ。

──でも、ピンポイントでやるべきものは見えていたんですよね。

渡邉:大学のこの学部だけに入れば、あとは自分のやりたそうなことはやれるという考えでしたね。

──では、かなり早い段階でラジオやCMを意識し始めたと。

渡邉:そうですね。ラジオはずっと聴いていましたし、それにつれて音楽も好きになり、ギターをやっている友だちも周りにいたので、自分もやりたいなと思ったんですが、親から「お金がなくてギターは買ってあげられない」と言われ(笑)、しょうがないと思ったんですが、親も歳をとってきて最近介護の手伝いをしていると「あれ、金がないと言っていたけど大分あるな」と思って(笑)。「自分で稼いで買え」ってことだったのかなって今頃になって思ったりもするんですよね。もし、あのときギターをやっていたら、もうちょっと音楽寄りの人生になっていたかもしれません。

──ちなみに高校時代にJ-WAVEは始まっていましたか?

渡邉:始まったのがちょうど高校1年生のときだったと思います。神奈川県に引っ越してきてFm yokohamaができ、そのあとJ-WAVEができてという流れだったと思います。J-WAVEに関しては当時そんなに情報もなかったので、それこそラジオを聴いていて「なにか引っ掛かる放送局ができたぞ」というのはわかったんですが、神奈川県って厚木があるので割とFENが入るので聴いていたんですけど、「FENっぽいけどちょっと違うし試験放送みたいなこれはなんだろう?」と思っていました。

──J-WAVEは長いこと試験放送をやっていましたよね。

渡邉:ええ。言葉もあまり出てこないし「これは一体なんだろう?」と思ったのがJ-WAVEの最初の体験です。それが高校1年生の冬ですかね。ちょうど昭和天皇が崩御する頃なので。

ただ当時はAMがすごく流行っていて、それこそ三宅裕司さんの「ヤングパラダイス」とかみんな聴いていたんですよね。「オールナイトニッポン」を一番聴いていたのはもうちょっと前かな?一番聴いていたのは、とんねるずとかがやっていた時代ですね。

──普通の子どもたちはテレビを観ていますよね?

渡邉:あの当時はどうなんでしょう?テレビがまだ1家に1台で、1部屋1台とはなっていなかったので、そこまでテレビを観ていたという記憶があまりないんですよね。

──確かに自分の部屋に行ったらラジオって感覚はありましたよね。

渡邉:少しずつ1人1部屋になり始めていた時代ですしね。テレビの深夜放送は見ていましたけどね。フジテレビの深夜番組が面白かった時代で「カノッサの屈辱」とかあの辺がやっていた時代は「なんて面白いことをやるんだろう」と思ってよく観ていましたが、それでもテレビはあまり観なかったです。

 

人力車を引く活動を通じたイベント企画

──大学はどちらに進まれたんですか?

渡邉:1年浪人して明治大学の商学部に入りまして、入学後は人力車を引くという活動をしていました(笑)。

──それは相当面白い活動ですね(笑)。

渡邉:時代屋というところがあるんですが、そこが最初は学生とプロの人たちが一緒に人力車を引いていたらしいんですね。その後、社会人と学生が分かれて、学生側がサークルという形になり、我々はその7代目でした。

──それは明治だけの話なんですか?それとも大学中にネットワークがあった?

渡邉:関東一円というか、早稲田と明治、中央がなぜか多かったんですが、ほかの大学も「興味があればどうぞ」みたいな状態でしたね。早稲田に人力車を保管していたんじゃないかな。

──それは別に「割のいいバイト」ということでやり始めたわけではないんですよね。

渡邉:バイトではなかったですね。今考えてみるとイベント企画みたいなところが大きいかもしれないです。要は人力車を持って行くと、ビジュアルのインパクトもありますし面白いので、例えば、よみうりランドでホワイトキャニオンというジェットコースターができるとなったときに「僕らが盛り上げます! お金はいらないので、その代わりに顎足(※)は出してください」と売り込んで、よみうりランドで顧客さんを無料で乗せて、盛り上げると。我々からしてみるとお金もかからず遊べて、最後は「じゃあ君たち特別にホワイトキャニオンに乗っけてあげるよ」と(笑)、そういうことをやっていたんです。

※顎足(あごあし)・・・旅行に要する宿泊費、食費、交通費

──イベントプロデュースみたいな感じですね。

渡邉:それに近いですね。そういう概念もなかったんですが「なんか面白そうだから、あそこのお祭り行こうよ」という感じでした。我々が入学したときはまだ原宿ではホコ天(歩行者天国)をやっていたので、ホコ天に行って外国人が面白がるから外国人を乗せて、その外国人とのコミュニケーションを面白がったりしていました。

──それにしても面白い活動ですね。

渡邉:結果的になんですが、こういう変わったサークルなので業界に行く人が多くて、みなさん活躍されています。例えば、テレビ東京で出川さんが原チャリに乗る旅番組(「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」)をやっているのはご存知ですか?

──電気スクーターの充電させてくださいってやつですよね。

渡邉:そうです。あの番組のプロデューサーの平山大吾さんは1個上の先輩です。

──お金のかかっていないエコな番組だなって思っていたんですけど(笑)。

渡邉:あの番組は私たちが昔、学生のときにやっていたノリそのまんまなんですよね(笑)。とにかくアホみたいなことばっかりやっていたので。それこそ東海道を歩いて京都まで行って、京都の映画村で人力車を引くみたいなのを毎年夏にやっていたんですが、それにすごく近いんですよね。行き当たりばったりで歩いて行くけど、別になんの予定も立てていなくて、その辺の人に助けてもらいながら前に進むみたいなことを学生のときからずっとやっていたんですよ。

──そもそも何でそのようなサークルに入ったんですか?

渡邉:テニスサークルやオールラウンドサークルみたいなのはいっぱいあったんですが、別にテニスをやりたいわけでもなかったですし、たまたま目に入ったのがこのサークルだったんです。あまりにもビジュアルが変わっていたので「なんだろうこれ…?」という興味本位ですよね。

──そのサークルは大学4年間続けたんですか?

渡邉:続けました。まったく余談ですが、今このサークルがすごく大変なことになっていて、コロナでサークル活動ができないんですよね。しかも活動できないと人力車を引くことを継承できないですし、勧誘も一切できないので継承する人がいない状態なんですよ。

──存続の危機ですか?

渡邉:なくす方向になっているようです。就職活動をしながらできないですしね。コロナってこういうところに影響するなと痛感します。J-WAVEでは数年前から「WACODES」という大学生のコミュニティを作って、彼らに課題を与えたりとか番組作りに参加させたりしているのですが、毎年1回の採用に今年は応募が殺到して、しかもやる気に満ちあふれた人たちだらけだったので「なんで?」と聞くと「ほかにやることがない」と。活動する場も楽しいこともなにもないし、このまま4年間終わっちゃうのはまずいという危機感というか焦燥感みたいなのがあるようなんですよね。

──就職活動はどのように進められたんですか?

渡邉:大学ではマーケティングを学んでいて、ゼミも広告関連だったので、そういう職種を選ぼうとはしていましたね。

──真っ先に放送局とかに焦点を合わせていたわけではない?

渡邉:そうですね。マーケティング、広告、メディアとかだと思っていたんですが、ちょうど我々の世代って人数ばかり多い世代なんです。いわゆる96年入社組、私は一浪しているので72年生まれですが、現役入学の73年生まれって団塊ジュニアなので、受験は大変だわ、就職しようと思ったらバブルがはじけて就職氷河期に突然なって…みたいな世代なんですよ(笑)。そういう状況ですから、入る気がなくても、面白そうだからと片っ端からいろいろな会社にコンタクトしたんですよ。

──それは例えば広告代理店、映画会社やレコード会社とかそういうのを含めてですか?

渡邉:全然関係ない銀行とか、果ては生協とかまで連絡しました。大手を振って人の会社に行くのも今ぐらいしかないだろうと思って。

──好奇心旺盛なんですね。

渡邉:間違いなくそうですね。まあ、人力車を選ぶ時点でそうかもしれないです(笑)。

──(笑)。

渡邉:それであちこち受けて。実際にたくさん受けてみて良かったなと思ったのは、「これはなんか違うかも」とそういうことに多く気付けたのは良かったですね。

 

マーケティングの先にあったJ-WAVEという存在

──ちなみにJ-WAVEは新卒の募集はしていたんですか?

渡邉:いや、J-WAVEは募集すらしていなくて、感じがつかめないんですよね。自分から電話をしたんですが、やる気があるんだかないんだか「連絡しますね」って言われたのに全然連絡がこないし「なんだこりゃ」みたいな感じがあって・・・でも最後の最後に内定が出たのがJ-WAVEだったんです。

──受けたのは面接だけですか?

渡邉:試験もやって面接も3回ぐらいやりました。あの当時の就職って7月とかにみんな内定が出るような時代で、実は10月に別の会社の内定式が終わったあとにJ-WAVEから「すみません、このタイミングですけど、うちどうでしょう?」みたいな電話がかかってきて「いやいや、内定式出ちゃったよ」って思ったんですよね(笑)。

──(笑)。それまでに内定をもらっていたところがあったと。

渡邉:ありましたし、内定式に出ちゃったところもあったので、そういった会社を蹴らなくてはいけなかったんです。一応、その企業には「J-WAVEの結論が来ない」とは言っておいたのでどうにか内定を辞退しましたが普通は怒られますよね(笑)。

──でも、無事にJ-WAVEに入社が決まって嬉しかったですか?

渡邉:そうですね。正直に言うとJ-WAVEは第1志望ではなかったんです。なぜかと言うと、私が就職活動をしていた96年って、ちょうどオウム真理教の問題とか報道の仕方がすごく問われている時代だったんです。それこそ先輩にテレビ関係者もいて、その実態も聞いていたので「これはちょっと違うかな」と思いましたし、自分がなにを志望しても配属がどうなるかわからないですし、テレビ関係は積極的に受けなかったんです。

ただ、メディアでJ-WAVEだけは「多分ここは違うな」と感じていましたし、ラジオ局は受けようかなと思っていました。TOKYO FMも一部聴いている番組があったので、受けようと思っていたんですが、確か日程が東急電鉄と被ってしまって、東急電鉄を選んだんですよね。当時、東急電鉄は単なる鉄道会社ではなくて、ちょうどJ:COMのようなケーブル事業とか新しい街づくり、メディア作りみたいなことをしていて「これは面白そうだな」と思っていました。

──Bunkamuraとかを作り始めた頃ですよね。

渡邉:はい。それでTOKYO FMは諦めたんですが、逆に言うとJ-WAVEはちょっとズレた時期だったので、他社と被らず受けることができたというのはありますね。当時、食品メーカーから内定を頂いていたんですが、マーケティングを考えて結局それをどこか別のところ、例えばメディアとかで吐き出さないといけないわけじゃないですか?その吐き出す先の方がもっと面白いことができるかなと思って、最終的にJ-WAVEを選びました。

──その結論は正しかったですか?

渡邉:そうですね。若い子にもよく言うんですが「J-WAVEです」と言うと会ってくれる方も多いんです。話を聞いてくれますし、それってすごくありがたいことなんですよね。「君のことはよくわからないけれど、J-WAVEの人だったら会ってもいい」と。ですから、この会社だからできたこととか実現できたことというのは、個人の力ではなく会社の力を借りているなと思うことは本当によくあります。

──それは「朝日新聞です」って言われたら…みたいなことに近いですよね。メディアパワーというか。

渡邉:特に音楽で何かやろうとしたときに「だったら」と声をかけて頂くことも多いですし、そこは本当にありがたかったなと思います。これからはもっと努力をしていかなければいけないと思っているので、あえて過去形にしますけど。

──入社された96年は音楽業界にとってもまだ黄金時代だったわけで、2000年ぐらいまではとにかく調子がよかったですよね。

渡邉:私は知らなかったんですが、入社した96年ってJ-WAVEのレーティングが実はあまりよくなかったらしいんです。開局したときはすごくよかったし、売り上げも失礼なことに広告を断るぐらいよかったと。でも実際に入社したらそうでもない。そもそも、そういう数字ってあまり開示されていなかったので「意外とよくないんだな」と入社して思ったんですよね。結果的に、開局して盛り上がり、それが少し落ち着いて、ゴタゴタし始めたタイミングで入社したんです。そういうことを言うと当時いた人に怒られそうですが(笑)。

──(笑)。

渡邉:ですから、そこから盛り返すところも見られましたし、おっしゃる通り音楽業界も売上がすごく上がっていくようなタイミングだったので、そこも見られましたから、自分としてはいいタイミングで入社できたなと思います。

──しかも1997年から2006年まで一番盛り上がっているときに制作として携わることができたと。

渡邉:本当にイケイケのときですね(笑)。結果的に見るとそうだったのかなという感じもありますが運が良かったですね。

 

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第187回 株式会社J-WAVE コンテンツプロデュース部長 渡邉岳史氏【後半】

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