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音叉点──音楽と●●の交差点 第八回ゲスト:YOUNG BLOODSオーナー・山本裕太

インタビュー 音叉点

山本裕太氏(写真左)河野太輔氏(写真右)

っっ「音叉点(おんさてん)」とは「1.音楽と●●が交差するところ 2.チューニングされるきっかけ」を意味する言葉である。ライブハウスでは日々沢山の音楽が鳴り、音と音が混ざり合い音色となるように、人と人が出会うことで新しい物語が始まっている。

この対談ではそんなライブハウスの一つ、渋谷La.mamaでブッキングを主として物語を紡ぐ河野太輔が、音楽に関わるゲストと毎回異なるテーマを切り口に相手との「音叉点=チューニングされるきっかけ」を見つけていく。河野とゲストの会話で、誌面がまるでライブハウスのように広がりを持っていく過程をお見せしよう。

第八回のゲストは、吉祥寺で古着屋・YOUNG BLOODSを営む山本裕太さん。旧い友人が作ったという青い看板が目印のお店は、2018年のオープンから11月で早くも3周年を迎えた。音楽評論家でDJの山名昇氏が店員として立つ日もあり、昨今はAnalogfishの下岡晃氏がモデルを務めるなど服好きの音楽人も通い詰め、密かに話題になっている。

ミュージックバーで働いていたこともある山本さんの佇まいで、大きな台がまるでバーカウンターのようだった2時間半、お互いに共感が絶えなかった。人が集まり交流して、想いや体験を持ち帰る。そしてそこでの時間が、誰かの人生の核にもなっていく。服屋とライブハウスは案外似ているのかもしれない。本文最後にあるおなじみのプレイリスト、今回は山本さんにも選曲いただいた。対談のテーマは「贈りもの」。

取材日:2021年11月23日 取材・文:柴田真希 撮影:加藤春日

プロフィール

河野 太輔(かわの・だいすけ)


1985年1月生まれ。宮崎県出身。自身のバンドでドラマーとして活動後、2005年にLa.mama に入社。入社後はイベントの企画制作、新人アーティストの発掘や育成、レーベル運営など活動は多岐にわたる。


山本 裕太(やまもと・ゆうた)


1988年8月生まれ。山梨県出身。文化服装学院卒業後、アパレルブランド、ビンテージショップで経験を積み2018年、YOUNG BLOODS開店。
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古着屋で買ったリーバイス505ばかり履いていて、それだけを探しに色んなところに行っていました

河野:これつまらないものですけど…3周年、おめでとうございます。

山本:一ノ蔵だ。ありがとうございます、日本酒大好きです。

河野:震災のときに、東北の日本酒をLa.mamaで売って売り上げを寄付してたんです。そのとき取り寄せた中で、これが一番好きだったので持って来ました。ちょこちょこお話はうかがってはいますけど、初めてお会いしますね。古着屋さん、久しぶりに来ました。

山本:普段「古着」って言ったらどこに行きますか?

河野:古着は好きな時期と、買わなくなる時期があって、今はお休みしているんですよね。中目黒に住んでいた時は、JANTIQUESとか、JUMPIN’ JAP FLASHとかによく行っていました。

山本:老舗ですね。

河野:18年前とかですけど、当時は中目黒も今とは全然違うし、隣の祐天寺とかも今ほど古着屋さん、なかったですよね?

山本:祐天寺に古着屋さんが増え始めたのは、ここ7、8年とかですね。東横線だと、学芸大学あたりも最近は増えてます。

河野:雑誌とかで、古着の特集はよく見かけますね。

山本:そうですね。今、きっと流行っていますね。

河野:あんまり実感はないですか?

山本:うちは若い子のイメージしている古着とはまた別で、お客さんがバンバンくるような感じでもないんですよね。ライトではないし、場所もメインの人通りからは外れていますしね。

河野:個人的には、たくさん洋服が並んでいるよりも、ここの並び方くらいがちょうどいいです。買い物をしたくなる空間かどうかって、ありますよね。

山本:お店の見せ方の流行も変わってきているかもしれないですね。昔はたくさん積んであって、そこから宝を探すみたいな感じだったと思うんですけど、今はどちらかというと、厳選してきれいに並べるほうが主流です。下北沢とか高円寺とかには、まだまだ洋服の山から宝探しをするようなお店もありますけどね。

河野:スケートボードをやっていたとき、原宿で見つけては、高くて買えないので高円寺に探しに行く、っていうのをよくやってました。

山本:高円寺だと安かったですか?

河野:安かったんですよね。そのときは古着屋で買ったリーバイス505ばかり履いていて、それだけを探しに色んなところに行っていました。懐かしいなぁ。股のところが破けるんですよね。ダメになったら買いに行く、みたいな感じだったので、大体カットオフで、ほつれさせないようにしてもらって。

山本:505とか501とかは、世の中のデニムのベースというか、一番オーセンティックな形ですね。昔は古着屋に行けば絶対ありましたけど、今は球数も少ないので、高くなっていて。うちも仕入れられないわけではないんですけど、それよりはイギリス軍のパンツとか、うちに合わせたものをやろうかな、といったところですね。うちで505、売れるかな?という疑問もあって。吉祥寺は絶妙な場所で、中目黒とも違うし、高円寺とも違うので、同じ値段でやっても通用しないこともあって難しいと思いますね。

 

緊張すると思うことには、どんどん飛び込んで行ってほしい。怖いと思うことって、求めていることでもあるんですよ

河野: YOUNG BLOODSを始めようと思ったとき、吉祥寺って決めていたんですか?

山本:中目黒とか祐天寺、下北沢、代々木八幡、あと三軒茶屋とかも考えました。でも前のオーナーに「三茶は勢いのある町」って言われまして。

河野:そうなんですか?

山本:三茶はゴリゴリ接客して、新規の人にどんどん売る、勢いが必要なんですよね。僕の場合はお客さんと話をしっかりするタイプで、話しに来るだけの人とかもいて。だから色々悩んだ結果、自分が一番慣れている場所で、街に地盤がある吉祥寺にしました。

河野:お店だと「その人がいるから行く」っていうのはありますよね。

山本:常連さんはたしかに、会いに来てくれている感覚がすごく強いです。話しながらほしい服を提案したり、仲良くなって、「実は大事にしているデニムがあるから、今度修理してよ」ってリペアをお願いされたり。僕がいるからっていう言い方はおこがましいですけど、会いに来てくれているから成り立っている、っていう感覚はすごく強いですね。

河野:話をすると、お互いにどういう人なのか感じるじゃないですか。そうすると、そこに来た意味も生まれて、いい時間になりますよね。普段の人付き合いの影響もありそうですね。

山本:そうかもしれないですね。専門学生のときベルギービールの専門店で働いていたんですけど、店長によく「お客さんと話をするのが仕事だから」ってカウンターにぶちこまれていました。そこで初対面の人たちと話をしていたのは、今の人付き合いのルーツな気がします。うちみたいなところって、お客さんもきっと緊張するじゃないですか。だからその緊張を解くのが仕事の一つだと思っていて、それは常に心がけています。肩の力が抜けたら買ってくれる、みたいなイメージがあるんですよ。

河野:地下に降りてくる感じも緊張するんでしょうね。ライブハウスも地下にあることが多いんですけど、階段で不安や期待を感じることが多いのはなぜだろう、って思います。

──La.mamaもここも、たしかに緊張します。

河野:緊張することって、求めていることでもあるんですよね。若い子から「緊張しちゃうんです」みたいな話はよく聞くので、「なんでもないことって絶対緊張しないから」って伝えていて。緊張の中には自分の期待と他者の期待が確実に存在していて、その期待がぶつかり合うことで生まれるものなので、本当に尊いと思います。

山本:それを乗り越えて何年か経って、同じ状況になったときの感覚は絶対違いますよね。あの時はあんなに緊張していたことが、今はこういう気持ちでやれている、って成長を感じられると思います。

河野:そう。だから緊張すると思うことには、どんどん飛び込んで行ってほしい。怖いと思うことって、求めていることでもあるんですよ。これ伝えたいですね、Musicmanで(笑)!

山本:就職の面接とか、絶対緊張しますもんね(笑)。僕も初めてのイベントに出たり、出店するときとか、大変なときっていっぱいありますけど、大体何にしても終わったら「よかったな今日」って思いますね。

河野:不安もあるだろうけど、でも自分が求めていることなのは間違いないです。あとはこれも若いバンドマンによく話すんですけど、ライブは目の前のお客さんにどれだけ100%近く向き合えるか、っていう時間だと思うんです。面接も同じで。僕にとってはこの対談がそうで、もちろん準備はしますけど、山本さんと向き合ってからの時間が全てというか。“準備”って備わってないと意味がないし、備わっているかどうかは実践に入ってみないとわからないので、「準備した通りにやろう」と考えて目の前の人に向き合えないのはもったいないです。

山本:僕も今日、対談とか初めてなので、失礼なこと言っちゃだめだなとか、何を話そうとか、考えていましたけど、答えが出ないので考えるのをやめました(笑)。計画って、大体思い通りにいかないんですよね。

河野:そうですね。どんな時間になったとしても、はじめましての現場に立ち会えることがもう既に尊いんですよ。だからとにかくシンプルに今思いついたことを話しています。でもテーマだけはちょっと忘れないようにしておかないと(笑)。

 

「何があっても服に携わる仕事をしなきゃいけない」という使命感があって

──今回のテーマは「贈りもの」です。

山本:今流れているヤングブラッズのレコード、いただきものです(笑)。

河野:お店の名前、やっぱりここからですか?

山本:ここからです。でも開店当時レコードを持ってなくて、お客さんが「見つけたから買ってきました」と言って持って来てくれたので、いただきました。このプレイヤーも、もらったんですよ。この後ろの絵もいただきものですね。このカウンターももらいました(笑)。

河野:この台、どうやってもらうんですか!?(笑)

山本:100kgとかで超重かったです(笑)。100年前のバーカウンターで、昔いたアパレルのフラッグショップで使ってたんですけど、独立するなら持って行っていいよ、ってことでもらいました。

河野:YOUNG BLOODSの前も、アパレルだったんですね。

山本:祐天寺にON THE HILLという古着屋があって、そこの社長に長いことお世話になっていました。専門学校を卒業した後はバイクで日本一周したり、ふらふらしていて、25歳でなんとか就職しないと、と思って、何社かのブランドで働いたのちON THE HILLに入りました。

河野:服飾の専門学校だったんですか?

山本:そうです。家が看板屋で、母親は美大を出ていて、父親は字を描いていて。そういう環境で育っていたので、小さい頃から将来はものづくりがしたいと思っていました。高校のとき、一番仲が良かったやつに誘われて文化服装学院のオープンキャンパスに行ったのがきっかけで進路を決めて。

河野:もちろん服飾の専門に行ったからってその道に進まなきゃいけない、というわけじゃないと思うんですけど、高校生の時にある程度の選択肢を絞るのって酷じゃないか、と思うことがあるんですよね。

山本:僕の場合はもちろん服は好きだったんですけど、どちらかというと「何があっても服に携わる仕事をしなきゃいけない」という使命感があって。性格もありますね。裕福な家計ではなかったので、姉が専門の学費を払ってくれたりとか、色んな人に助けられてきたから、「とりあえずこの道でやろう」って決めてました。

河野:それで祐天寺のお店に。

山本:当時好きだったブランドに「お金いらないんで働かせてください」って言って飛び込んだのが最初ですね。ブランドの時は社員として働かせてもらってたんですけど、立ち行かなくなってオーナーが代わったり、空中分解していたので生活ができなくなって、途中から夜はクアトロのミュージックバー*で働き始めました。

*編注:パルコが運営するライブハウス「クラブクアトロ」がプロデュースするミュージックバー「クアトロラボ」。2019年8月に吉祥寺の店舗は閉店し、渋谷パルコに移転。

河野:なるほど。じゃあダブルワークをしてたんですね。

山本:そうですね、ずーっと。その後ここで独立しました。そうしたら店を出してすぐ、Analogfishの下岡さん*がふわ~っとお店に入ってきて。完全にAnalogfishを聴いていた世代だったので、「あれ?もしかして」と思ってたんですけど、別に触れもせず。何度か来てくれて買い物もしてくれて、次第に話すようになって、気付いたらうちでモデルをやってもらったりとか、謎の関係性に…(笑)。

*編注:本連載の第三回ゲストに登場

河野:健全な関係性だと思いますよ(笑)!

山本:うちは分かりやすい古着はあんまりなくて、ラインナップで言ったらわりと渋めなんですけど、それが良かったみたいで。応援してくださっていて、色々とアドバイスをくださるんですよね。「クアトロの偉い人に相談して、誰か有名な人にモデルやってもらえばいいじゃん」と提案してくれたり。「それもそうなんですけど、下岡さんにやってもらいたいんですよね」って言ったら、「俺なんていつでも呼んでよ」って言ってくれて。それで最近は月に1回くらい写真を撮りに行ってますね。

河野:Instagramを拝見したんですけど、結構な頻度で出られているな、と思いました(笑)。

本:はい、がっつり出てもらっています(笑)。それで「そういえば、今度シングル出すんだよね、置いてくれない?」って言われて、「もちろんです」って。そこに2作目の「うみべのみらい」のカセットが置いてあります。

河野:ちょうど1作目「どこまでいけるとおもう?」のリリースの直後、この連載の3回目に出てもらいました。Analogfishも、昔は所属がパルコでしたね。

山本:そうだったんですか?全然知らなかったです。

河野:今は解体しちゃいましたけど、マネジメントの部署があって、AnalogfishとMO’SOME TONEBENDERと、SISTER JETとかSPANK PAGEとかが在籍していました。

山本:繋がった場所は違うけど、実はみんな繋がっていたってことですね。クアトロの同期で働いていたタケダさんも、La.mamaにすごくお世話になっている人がいるってよく言ってたんですよね。

河野:共通の知り合いがいるかもしれないとは聞いてましたけど、タケダか!予想外でした。 THE STRIP HENDERSONっていうバンドをやっていましたね。かっこよかったんですよ。

山本:本当にお世話になった、って言ってました。合わせる顔がないって。

河野:勝手に決めつけるんですよね(笑)。尖っていたし、人としてダメな部分もたくさんあったから、怒ったこともありましたけど、そういう人間くさい人たち大好きなので。声は渋いけど、中身は少年のような感じですからね。

 

平坦な道を歩くよりも茨の道の方が、歩いている実感があるじゃないですか

河野:僕も一時期ダブルワークしていました。ライブハウスで働き始めたとき、時給500円なのに家賃8万のところに住んでいて…。

山本:めっちゃいいところに住んでますね(笑)。生活はできていたってことですよね?

河野:いや、回らなくなって、漫画喫茶でも働きました。そしたら今度は身体が無理になって、そこで「マジで音楽で何かやらないと」っていうスイッチが入って、そこから今も続けている感じですね。

山本:腹を括らないと見えないことって、結構いっぱいありますよね。日本一周が終わった23とか24のとき、バイクで“九死に一生を得た”くらいの大事故に遭ったんです。その事故に遭ってなかったら、この店もなかったんですよね。

河野:そうなんですか。

山本:はい。その事故、地元のニットの企業の面接に行く途中だったので、面接に行っていたら、おそらくそのまま就職していました。一度そこで「あ、死んだ」って思って。入院中「こんなこともあったし東京に戻るか」と思って、家もないけどとりあえず戻って。当時付き合っていた彼女の家に1ヶ月居候して、一月で稼いだ15万で引っ越せる家を探して、契約して。またゼロから始めた、というところです。だから店を出す時も人に言わせると向こう見ずだったそうなんですけど、自分ではそんなつもりは一切なくて、腹だけは括ってたと思います。腹を括れない人って、話をしていると、いつまでも憧れが憧れのままで止まっているような感覚がすごくあります。どっちがいい、というわけでもないですけどね。

河野:もちろん「苦労したくない」って本気で思っているけど、最近はもしかしたら本気で苦労を選んでいるんじゃないか、って感じるようになってきました。やっぱり自分だけの道を行きたいんでしょうね。

山本:そうかもしれないですね。「人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。」って、『耳をすませば』でしずくのパパが言っていました(笑)。

河野:それは間違いないですね(笑)。でも僕は茨の道こそ、歩むべきだと思います。平坦な道を歩くよりも茨の道の方が、歩いている実感があるじゃないですか。

 

自分で店をやっているけど、店を作っているのは自分じゃない、っていう感覚はすごくあります

山本:本当にそうだと思います。店をやっていると、一人で抱えられないこともちょこちょこあって気持ちが落ちたりするんです。もちろん最後は自分で考えるしかないんですけど、でもそういうときに限ってお客さんがぽっと現れて、ぱって買ってくれたり、常連のおじさんが来て、話を聞いてくれたり。なんでこんなに嬉しいんだろう…みたいな、生きている感じもすごくあって。

河野:人が来るっていうことは、それだけで感謝ですよね。コロナ禍、大変だったじゃないですか。ライブハウスも同じで。すごくわかります。

山本:店をやっていて、人が来ないことほどきついことってないですからね、本当に…。ニット一着、持って行ってください。

河野:えぇ!?話の流れがよくわからないです(笑)!

山本:ふと思ったんです。せっかくだから、うちの服を着てもらいたいな、って。タケダさんとか、下岡さんとかも繋がりがあるからというか、プレゼントしたくなっちゃって…。

河野:いやいやいや(笑)。大変な状況ですね、っていう話の流れでは考えられない!

山本:僕、そういうタイプなんですよ。この間も、近所のカフェで働いている子がいて、その子が彼氏を連れて来たんですけど、彼、真面目な雰囲気のめちゃくちゃいい子で。洋服は全然わからないって言うから「任せろ」って言って、色々試してたんです。そしたら「指輪とかしたいんですよね」って。そういえば、昔自分でしていた指輪があるのを思い出して。それが彼の指に入ったので、プレゼントしました。大事にしてくれるなら、持って行っていいよ、って言って。

河野:それ、二人で執り行う儀式ですよね(笑)。

山本:物あげたくなりがちなんですよね。自分もいただきものが多いので、その分、みたいな感じもあるかもしれないです。

河野:心を配りたくなっちゃうんですよね、気持ちはわかります。

山本:古着屋で服を売っているのに、若い子が「僕これもう着ないので、よかったらあげます」って服をくれるパターンとかもあるんですよ(笑)。

河野:ははは(笑)。

山本:ここに来てくれているお客さんに、何をして返したらいいんだろう、といつも思っています。お買い物もしてもらっているし。だから買い物をしなくても、その人の話を聞いたりとかは、別に意識しているわけじゃないですけど、やっているからこそ来てくれている人たちがいる、っていうことは、それが返しているっていうことなのかな、と思ったり。

河野:僕も気持ちの部分で、ちゃんと恩返しができているか、っていう自問自答はよくしています。場所って、そこにいる人の時間と気持ちが折り重なってできているんですよね。

山本:自分で店をやっているけど、店を作っているのは自分じゃない、っていう感覚はすごくあります。昔から知っている人が久々に来ると「こなれてきたね~」とか言われたりするんですよ(笑)。自分は毎日来るから気づかないけど、そう言われて店内を見回すと、店が勝手に人の想いをもらって成長しているんだろうな、ってたしかに感じます。もちろん洋服のピックとかは全部自分ですけど、それを選んで買ってくれるお客さんがいて、店内も大体いただきものでできていて。だから頑張ってここを維持することも、一つの恩返しなのかな、と思ったりしますね。

河野:コロナ禍、大変じゃないですか。それで「存在している」っていうことがどういうことなのか、僕もこの2年間くらい向き合ってたんですよ。La.mamaも39年渋谷の道玄坂にあって、自分も長くいるじゃないですか。そうすると、“ない”ってことがまず考えられないですけど、実際はそういう危機でもあったわけで。

山本:タケダさんと話していると思うのが、La.mamaでやっていたことはあの人の中で、自分を作っているものの一つになっているんですよね。それは多分タケダさんだけじゃなくて、色んな人の心の中でLa.mamaでの体験がベースになっているんだな、って思います。僕も業界は違いますけど、ここをそういうお店にしたいです。

河野:結局お店とか場所って、「そこにある」っていうことが、それだけでものすごいことで、それ以外の何でもないんですよね。

山本:そうですね。現実的にいつくじけるかわからないですけど、売れてない日々が続いたりすると思い出す、店を出す前に50代の飲み友達のおじさんに言われたことがあって。

河野:友達の幅が本当に広いですね(笑)。

山本:飲み屋で働いていたときの常連さんで(笑)。そのおじさんに「人が来なくなったら終わりだけど、人が来るんだったら売れてなくてもまだいける」って言われたんです。その言葉に勇気付けられていますね。だから僕は人が来るうちは、大丈夫だと思っています。

河野:大丈夫です!人が来て、その時間を大切にすると、そこから始まっていくことが多いんですよね。だからとにかく誰かが来てくれて一緒にいるときは、その時間を大切にする。いつからか僕はそういうふうになりました。