第189回 スペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」はエディター・ライター渡辺祐さんからのご紹介で、スペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒さんのご登場です。
より広い世界を求めて21歳で単身ニューヨークへ渡った石田さんは、ニューヨークの音楽シーンに影響を受け、音楽の仕事に就くことを決意。帰国後、コンサートプロモーターH.I.P.での経験を経て、1993年にスペースシャワー(現スペースシャワーネットワーク)に入社します。
宣伝・広報の仕事を経て、イベント事業を立ち上げて2001年に「スペースシャワー列伝」、2007年には「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER」を山中湖畔に移しスタートさせます。また、2012年に始まったオーディションプロジェクトMASH A&Rに立ち上げから参画し、法人化に伴い、アーティストマネージメントも本格的に手掛けられました。
現在スペースシャワーネットワークの上席執行役員/アーティストプロデュース本部本部長としてご活躍中の石田さんに、そのチャレンジャブルなキャリアについてじっくり伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年12月15日)
ニューウェーブからピンク・フロイドへ傾倒した学生時代
──前回ご紹介いただいた渡辺祐さんとのご関係について教えてください。
石田:祐さんにはスペースシャワーTV開局時から構成作家やご出演者としてお世話になっています。開局当初、私はまだスペースシャワーにいなかったですが、一視聴者としてスペースシャワーの番組でよくお見掛けしていました。また祐さんは「宝島」でVOWというコーナーを担当されていて少女時代に「宝島」を愛読していたサブカル好きとして「あのVOWを編集していた人だ!」と。そういう方とスペースシャワーを通して知り合えたのは嬉しかったですし、今でも祐さんには周年や節目節目のイベントや番組で、スペースシャワー全体でお世話になっております。
──スペースシャワーに入られる前から渡辺さんのお仕事には触れていたんですね。
石田:ええ。お会いしたときは「VOWの人」という感動がありました。最近はB.Y.Gという渋谷のロック喫茶で、BEGINとGLIM SPANKYでスペースシャワー主催のライブ番組の収録があって、祐さんにMCで入っていただいて、そこで久しぶりにお会いました。
──ここからは石田さんご自身のことをお伺いしたいのですが、出身はどちらですか?
石田:大阪の高槻市という京都と大阪の県境のベッドタウンで育ちました。
──どんなご家庭でしたか?
石田:父親は繊維関係の仕事をしていまして、自分が中学校ぐらいのときに独立、前の会社の人と一緒に会社を立ち上げて、繊維問屋の町の本町でずっと働いていました。母親は私が子どもの頃は専業主婦でしたが、小学校高学年ぐらいからパート勤めを始めて、ごく普通の家庭だったと思います。ただ、母親が音楽好きで、ボズ・スキャッグスやフリオ・イグレシアス等、洋楽のコンサートによく行っていました。父親は演歌が好きな人だったんですけど、母は洋楽やポップスが好きでしたね。
──コンサートに連れて行ってもらったりはしたんですか?
石田:連れていってもらってはないです。母はお友だちとコンサートに行くのが好きで、パンフレットを買ってきて「ボズ・スキャッグス、格好良かったのよ」みたいなこと話してくれて(笑)。その影響はあったかなと思います。
──お母さんの影響で洋楽を小さいときから聴かれていた?
石田:そうですね。あと私はラジオが好きでした。私の子どもの頃って、テレビは家のリビングに一台でよく妹とチャンネル争いしていましたけど、ラジオは自分の部屋にありましたから、部屋でラジオをよく聴いていました。MBS「ヤングタウン」や音楽番組とか深夜ラジオが好きでした。
──「ヤングタウン」は関西でしか聴けないですよね。
石田:ヤンタンはそうですね。あと深夜1時になると「オールナイトニッポン」を聴き、土曜か日曜の昼間にジーン長尾さんというDJの洋楽ヒットチャート番組を毎週聴くのが楽しみでした。
──本格的に音楽に目覚めたのはおいくつときですか?
石田:本格的には高校に入ってからですかね。中学校まではラジオのヒットチャート番組で音楽を聴いたりしていましたが、高校にニューウェーブやインダストリアルとかかなりマニアックな音楽が好きな友だちがいたんです。それで、大阪ミナミのアメリカ村にキングコングというレコード屋さんがあって、当時レコードは高かったのでなかなか買えなかったんですが、お店に行ってレコードを眺めたり、店員さんにいろいろ教えてもらったりしていました。
──具体的にどんなアーティストが好きだったのですか?
石田:ニューウェーブやインダストリアル系の音に傾倒していた頃は、イギリスのバウハウス、P.I.L.、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、ケイト・ブッシュやドイツのDAFとかをよく聴いていました。その後、ピンク・フロイドの映画『ザ・ウォール』を映画館に観に行ったら、それまで聴いていた音楽と違う、深みとストーリー性を感じたんですよね。「ザ・ウォール」はアラン・パーカーが監督でボブ・ゲルドフが主人公ですけど、メンバーのロジャー・ウォーターズの幼少期とシド・バレットの後期をモチーフにした映画で、観た瞬間からピンク・フロイドの音楽の世界観に陶酔してしまい、後に全アルバムを買い揃えました(笑)。
一方で、ピンク・フロイドより下の世代ですけど、アイルランドから出てきたばかりの頃のU2も好きでした。「ヨシュア・トゥリー」以降は世界中で人気になりましたが、私は初期の「ボーイ」「WAR」とかの頃のU2が好きで、ボノの姿勢やメッセージに共感していました。
──日本人のアーティストで好きな方はいらっしゃいましたか?
石田:高校時代はスネークマン・ショーをよく聴いてました。あとミュート・ビートとかショコラータとか。そういったアーティストのライブを大阪で観に行っていました。
──やっぱりマニアックですね(笑)。
石田:そうですね(笑)。あと憂歌団はドラムの方が遠い親戚だったので子どもの頃から知って聴いていました。その方を直接知っているわけじゃないんですが「親戚やで」っておばあちゃんに教えてもらっていたので(笑)。あと友だちがRCサクセションのコピーバンドをやっていたのがきっかけで、RCを聴き出して好きになりました。
同世代の人たちの経験を飛び越えてみたい〜単身ニューヨークへ
──高校は女子校ですか?
石田:いえ、共学です。マニアックな音楽好きや美大目指してる芸術家肌の友人が多かったんですが、学校自体はいたって普通の学校でした。私は中学までテニス部でスポーツ少女だったんです。でも高校に入ってからは帰宅部みたいな感じになり、おとなしい子じゃなくて、どちらかというと目立つ子だったと思います。勉強はそんなに好きじゃなかったので…(笑)。
──ヤンチャな面があった?(笑)
石田:ヤンチャな方だったと思います。先生に「授業を真面目に受けない」ってよく注意されていましたが成績は悪くなかったです(笑)。真面目だったら今の仕事を選ばなかったとも思いますけど(笑)。
──(笑)。自分で音楽を演奏したりはしなかった?
石田:聴く方がメインでしたね。「アメ村でレゲエのライブがあるよ」と聞いたら観に行ったり、あと当時はアメ村にパームスというカッコいいクラブがあったんです。私は最後の世代だと思うんですけど、そこに遊びに行ったりしていました。でも10代だったのであまり大きな声では言えないんですが(笑)。
──もう時効じゃないですかね(笑)。高校を卒業されてからは進学されたんですか?
石田:はい。高校のときの友だちグループは、私以外はほとんど東京に行きました。バンドを組んでいた子や芸術系の友達は東京の美大に行っちゃったんです。私も東京に行きたかったのですが、私の家は経済力がなかったので行けずで・・・大阪に留まりファッションの仕事を目指して勉強しました。
──ファッションと音楽は密接に繋がっていますからね。
石田:そうですね。ファッション系の人は音楽が好きなことが多いので、学校帰りに友達とアメリカ村に通ってました。
──その後、石田さんはニューヨークに行かれたそうですね。そこに至るまでに大阪で働いたりしていたんですか?それとも学校の途中で行ったんですか?
石田:学校を出てからスタイリストのアシスタントや小さな仕事を自分でやり始めたりしていたんですが、「大阪を出たいな」と思い始めたんです。東京で大学に通ったり、仕事をしている友だちをみていると、自分は大阪でこのままファッション業界の中にいていいのかな?と。あとファッション系の仕事は女性が多くて、一番年下で意地悪もされて馴染めなくていろいろと考えて「ちょっと大阪を出よう」と思ったんです。
──東京への憧れがあった?
石田:東京への憧れはありました。でも東京に行って、友達と合流してまたティーンエイジャーの頃と同じような時間を過ごすのか?といったらそれも違うと思って、新しいところ、誰も行ったことがない場所に行ってみたいと思ったんです。
──それがニューヨークだったと。
石田:ニューヨークに行くことで、同世代の人たちの経験を飛び越えてみたいと思ったんです。それでスタイリストアシスタントの仕事だけではお金が貯まらないので、バイトもしながらお金を貯めて、21歳のときにニューヨークへ行きました。
──その行動力はすごい。ちなみに英語はできたんですか?
石田:英語は全くできなかったですね。片道チケットを持って「なんとかなるさ」で行きました(笑)。当初は3か月で帰る予定で行ったんですが、行ったら行ったですごく楽しくて、向こうで友だちがたくさんできて、結局3年間いてしまいました。
──ちなみにニューヨークに知り合いはいたんですか?
石田:友だちが1人いました。彼女はニューヨークで結婚してグリーンカードを取得していたんですが、知り合いはその彼女だけで、最初はルームシェアでアパートを借りました。ニューヨークでは住まいが全然落ち着かなくて、合計で7回引っ越しました。
アルバイトでニューヨークの観光ガイドに
──ニューヨークのどの辺に住まれていたんですか?
石田:基本的にはダウンタウンの、若い人たちが住むエリアにいましたね。イーストビレッジ、グリニッジビレッジが中心でした。あとはもうちょっと下のロウアーイーストサイドあたりにも住んだりしていました。
──ニューヨークではバイトをしていたんですか?
石田:そうです。バイトしながら、カレッジに通って英語を学び、FIT(Fashion Institute of Technologyニューヨークファッション工科大学)というファッションの学校があるんですが、そこでも勉強していました。
──そのFITってどんな学校なんですか?
石田:FITはカルバン・クラインやマイケル・コースとかが出身のファッション系の学校ではかなり有名です。フルタイムでは通えなかったのですが、手に職を付けたくてジュエリーデザインのクラスを受講していました。そのクラスで、彫金などアクセサリーの作り方を学びました。ニューヨークはいろいろなマテリアルが安く売っているので、それらを組み合わせてアクセサリーを作り、売り歩くようになりました。
──路面でお店を広げたり?
石田:ええ。ストリートでお店を出していました。ソーホーやイーストビレッジに画家や写真家等、芸術家が作品を売っているストリートがあり、私も一緒に並んで売っていました。
──怖い思いはしませんでしたか?
石田:はい、しました(笑)。アーティストはほぼ無許可でお店を出していて、私も一度ポリスに作品を全部没収されて、ものすごく悲しい想いをしたことがあります。
──それでもまた懲りずにやるわけですか?
石田:そうですね(笑)。場所を見つけてまたやっていました。それでストリートで売っていると、「お店に置かないか?」とショップのオーナーに声をかけてもらい、委託という形でお店にコーナーを作ってもらって、グリニッジビレッジやイーストビレッジのアクセサリーショップに商品を置いて売ってもらっていました。
あとソーホーのウェスト・ブロードウェイ沿いのショップのスタッフたちと仲良くなって、ソーホーで人気のショップだったんですが、「オープン中だったら前で出してもいいよ」と言ってくれて、お店の前にテーブルを広げて売っていました。スタッフはベトナム人、ガーナ人、ペルー人とインターナショナルで、彼らがシェアするアップタウンのお家でディナーをご馳走になったり、楽しかったですね。
──アクセサリーの販売は生計を支えるだけの売上があったんですか?
石田:いえ、生計を支えるほどではなかったです。大体土日にストリートで売って、お店に置かせてもらって売れたら1か月に一度、売上分配をもらっていたんですが、日本だと多分お店の取り分が30〜40%ぐらいだと思いますが、当時は私の知識不足だったのかもしれないんですけど、私が40%でお店が60%みたいな感じだったんですよ。原価があるのでほとんど利益は残りませんでしたが、今となれば楽しい思い出です。
──かなりお店に持っていかれちゃうんですね。
石田:私がアクセサリーを置いてもらったニューヨークの店はほとんどそうでしたね。あと「自分の会社の女の子たちに見せたいから会社に来て」と言われて、ストリートで知り合った人の会社にアクセサリーを持って行って、そこで買ってもらったりもしました。
──ちなみにアルバイトはどのようなことをしていたんですか?
石田:最初は日本食レストランで働いていたんですが、後半はJTBとANAハローツアーズの観光を受託するガイド会社でアルバイトをして日本から来るツアー客のガイドをしていました。例えば、自由の女神へ行くのに「地下鉄に乗ってみたい」という新婚カップルを連れて、私が地下鉄に乗せて行くみたいな。私だったら地下鉄に乗るのにガイドとしか行けない男の人とは結婚したくないなあ…とか不謹慎にも思いながら(笑)。
──頼りない感じの男性で(笑)。
石田:はい(笑)。あとハーレムのナイトツアーでは、観光バスに乗ってマイクで「右手に見えますのは、あのアポロシアターです!」とかやっていました。
──そのバイトを始めるきっかけは何だったんですか?
石田:年上の友だちの紹介でアルバイトを始めました。当時の私はチャカ・カーンみたいなヘアスタイルに(笑)、ヒョウ柄のミニスカートでヘソ出しみたいなかなり派手なファッションで、ガイド会社の社長がビックリして「普通の洋服は持っていないのか?」って聞かれたので「持ってないです」と答えたら、先輩の女性たちが「これを着て行きなさい! そんな格好じゃ仕事に行けないよ!」って何着かスーツをくださったんです(笑)。
──でも石田さんの普段の格好の方がウケそうですけどね(笑)。
石田:(笑)。それでガイドのアルバイトを始めたんですが、観光地に行って人とコミュニケーションをとるのが好きだったので、気に入られて、最終的に発注元の大手旅行会社のニューヨーク支店長から「よかったらうちに就職しないか?」とスカウトしていただいたんです。だけどその時には帰国を決めていたので、お断りしました。もしそのオファーを受けていたら、今もニューヨークで働いていたかもしれません(笑)。
──石田さんはガイドの仕事に向いていたんですね。
石田:向いていたかはわかりませんが、楽しかったです。会社で働いたのが初めてだったので、最初は右も左もわからず、社長には「まずは掃除からやれ!」と言われ、毎日事務所の掃除をしながら、ニューヨークの歴史や観光地を勉強するところから始まったんですけどね。
──あっという間にエキスパートになっちゃった。
石田:エキスパートとはいえませんが、旅行が好きなので楽しい仕事でした(笑)。
日本で音楽の仕事をするために帰国を決意
──ニューヨークの音楽シーンはどうでしたか?
石田:ニューヨークは街のいたる場所で毎日ライブをやっていて、家からちょっと歩くとブルースのライブハウスがあったり、ロック、ジャズ、R&B、プログレと様々な音楽のライブを楽しむことができました。ですから毎日のようにライブを観たりクラブで遊んでいました。大阪にいた頃はマニアックな音楽ばかり聴いていましたが、ニューヨークで一気に音楽の世界が拡がりました。
──当時はどんなバンドが人気でしたか?
石田:ちょうどレッド・ホット・チリペッパーズの人気がカリフォルニアからニューヨークに飛び火した頃で、Ritz(現ウェブスターホール)という老舗のライブハウスに観に行きました。GUNS、ジェーンズ・アディクション、FISHBONEなんかも人気でしたね。ヒップホップではRUN DMCが大人気で「Walk this way」でクラブで踊るRUN DMCのメンバーに遭遇するというレアな体験があります。ちなみに今は閉店してしまいましたけどCBGBは住んでいたアパートのすぐ裏だったんですよ。
──CBGBの近くに住んでいたんですか?
石田:はい、CBGBはバワリーストリートというところにあって徒歩1分でした。あとブルーノートも近所だったのでたまに行きました。小さいライブハウスからスタジアムまでライブはたくさん観ました。
──素晴らしい経験ですね。
石田:はい、貴重な経験でした。好きだったピンク・フロイドのライブを観たのもアメリカが初めてでした。その後アメリカで何回か観ているんですけど。あとグレイトフル・デッドのライブも体験しました。当時アメリカで興行動員トップクラスのアーティストだったと記憶しています。
──グレイトフル・デッドって西海岸のイメージですが、東海岸でもかなりライブをやっていたんですか?
石田:はい、ツアーで必ずニューヨークに来ていました。マディソンスクエアガーデンはもちろんですけど、ジャイアンツスタジアムというニュージャージーの巨大なスタジアムにも観に行き、そこでは大きな衝撃と洗礼を受けました。
──音響がすごいそうですね。
石田:ウォール・オブ・サウンドというサウンドシステムで音が凄くて、野外だったのですがライブ中に凄い雷雨になり稲妻がまるで演出のようでした。あとデッドヘッズと言われる人たちが、パーキングエリアで勝手に出店したり、ライブやったり踊ったりと自由に楽しんで暮らしているあの感じって、それまで見たことがなかったので本当に刺激的で驚きの連続でした。
──日本に帰る頃には英語での会話は問題なくなっていたんですか?
石田:その頃はかなり話せていましたね。今は大分忘れちゃいましたけど(笑)。
──日本でライブ関係の仕事をするために帰国を決意されたと。
石田:ニューヨークでファッションから音楽の方に興味が移っていって、日本に帰って仕事をするんだったらライブの裏方の仕事をしたいと思い始めたんです。あと、日本は年齢社会なので、仕事をするなら20代前半に帰国したほうがいいと思ったんですよね。日本に帰国して仕事したら、ゆっくり旅行する時間もなくなりそうだと思い、世界各地を旅したいとずっと思っていたので、ニューヨークで貯金して、約半年かけて旅行しながら日本に帰ったんですけどね(笑)。
──どのようなルートで帰国されたんですか?
石田:西から東へのルートです。ニューヨークからロンドンに飛んで、そこから25歳以下は半額で回れるユーレイルパスで、ヨーロッパを周遊しました。イギリスからオランダ、フランス、スペイン、イタリア。それでスペインからアフリカのモロッコを経由して、今度はギリシアに行って、ギリシアの格安航空券でインド行きのチケットを買いました。インドには2か月いました。
──楽しそうですね。
石田:インドは最高に楽しかったです。インドのアラビア海沿いのゴアという村で小さな家を借りて住んでいました。その後インドからタイに向かい、タイの島でゆっくりしてから日本に戻ってきました。
──ほぼ世界一周じゃないですか。
石田:世界一周って程じゃないですけど、ヨーロッパからアフリカ少しと、アジアを巡りました。
──アフリカまで足を伸ばしたのは珍しいですよね。
石田:そのときはモロッコだけだったんですが、その後1999年から2000年のミレニアムのタイミングで南アフリカにも行きました。
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第189回 スペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒氏【後半】