第189回 スペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒氏【後半】
今回の「Musicman’s RELAY」はエディター・ライター渡辺祐さんからのご紹介で、スペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒さんのご登場です。
より広い世界を求めて21歳で単身ニューヨークへ渡った石田さんは、ニューヨークの音楽シーンに影響を受け、音楽の仕事に就くことを決意。帰国後、コンサートプロモーターH.I.P.での経験を経て、1993年にスペースシャワー(現スペースシャワーネットワーク)に入社します。
宣伝・広報の仕事を経て、イベント事業を立ち上げて2001年に「スペースシャワー列伝」、2007年には「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER」を山中湖畔に移しスタートさせます。また、2012年に始まったオーディションプロジェクトMASH A&Rに立ち上げから参画し、法人化に伴い、アーティストマネージメントも本格的に手掛けられました。
現在スペースシャワーネットワークの上席執行役員/アーティストプロデュース本部本部長としてご活躍中の石田さんに、そのチャレンジャブルなキャリアについてじっくり伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年12月15日)
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第189回 スペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒氏【前半】
コンサートプロモーターH.I.P.を経てスペースシャワー入社
──帰国されて仕事はどうされたんですか?
石田:日本の音楽業界のことを全く知らなかったので「どうしたらいいのかな?」とひとまず「ぴあ」を買ってコンサートプロモーター会社に名簿の上から順番に電話していきました。でもそこに出ている電話番号って、チケット問い合わせの電話番号なので、基本オペレーターさんが電話に出られるので「ちょっとそれは…」みたいな感じで、全然話を聞いてもらえなかったんですが、H.I.P.だけはたまたま社員の方が出られたんですよ。それで面接してくださることになって。
──それはラッキーでしたね。先日亡くなられた林博通さんが会ってくださったんですか?
石田:いえ、当時は副社長が会ってくださいました。
──石田さんの経歴を見れば「じゃあ明日から来て欲しい」という話になりそうですよね。
石田:そんなことなかったです(笑)。詳しいことは話してないですが、海外に住んだことがあって、多少英語ができますという話をしたら英会話のテストをされて合格したので、国際部のアシスタントをやってほしいとのことで、最初の頃は海外とのFAXや電話のやりとり、契約書のチェック、それと入管手続きを担当していました。入管手続きというのは結構大変な作業で、フランク・シナトラが来日した時は総勢70人とかで、その70人分の情報を一つも間違えずに資料として揃えないといけないんです。もし一つでも間違えたら来日できなくなるので、凄いプレッシャーでした。揃えた資料を持って入国管理局へ行って、外国のダンサーやホステスさんを招聘する水商売系の人とか、色んな事情で強制送還されそうな外国人の方やいろいろな人種が入り混じっている中で長時間順番を待っていました(笑)。
──怪しい人たちと一緒に(笑)。
石田:最終的に入国管理局で一番怖いと言われている担当者とも顔馴染みになり上司が驚いていました(笑)。当時のH.I.P.は招聘が中心でした。その後、林社長から「秘書になってほしい」と話があり、社長秘書と国際部を掛け持ちでやっていました。
──H.I.P.には何年いらっしゃったんですか?
石田:約2年です。私はできたら招聘の仕事をしたかったんですが、当時のプロモーター業界は男性社会で、女性がプロモーターとして仕事ができる可能性は低いと思って諦めました。
──女性は不利だと感じた?
石田:当時、女性はデスク系の仕事が多くて、秘書と国際部のあとは、チケットとチケット周りのプロモーション、ケータリング、グッズ制作と当日の販売までやるMDを担当していたんですが、それが女性の主な仕事でした。やはり男性が外に出て女性は中でという流れがあったと思います。
それでも英語ができたのでイギリスの若手バンドのツアーマネージャーを2、3回やらせてもらったことがあって、とても楽しくて、こういう仕事ができたらいいなと思いましたが、「女性が続けるのは難しいんだろうな」とも思いました。朝から深夜まで体力勝負の仕事をしていたので、健康面や生活面で体力的にかなりキツかったですが、H.I.P.での経験は後の仕事に活かされたので、とても感謝しています。
──そしてH.I.P.からスペースシャワーへ移られるわけですか?
石田:いえ、H.I.P.のあと少しだけFMの制作会社にいました。アメリカ人とカナダ人のDJがたくさん所属している会社で、彼らのスケジュール管理やブッキングみたいなことを半年ぐらいやっていました。
──ではラジオの世界にも多少精通されている?
石田:いえいえ、半年ぐらいのキャリアで、それがなにかに役立ったかというとそんなにはないですけど、DJの友だちはたくさんできました。
──その後、スペースシャワーに移られるきっかけはなんだったんですか?
石田:スペースシャワーTVはもともと一視聴者として観ていて、当時のスペースシャワーはすごくマニアックな音楽も扱っていて先鋭的で海賊テレビ局みたいな、知る人ぞ知る音楽チャンネルだったんですよね。自分はニューヨーク時代にアパートでMTVを観る生活をしていたので、日本にスペースシャワーという音楽専門チャンネルができた当初から「面白そうだな」と家でずっと観ていたんです。
それで「スペースシャワーに入りたい」と思い立って、スペースシャワーに電話をして一方的に履歴書を送ったんです。職務経歴書とか、前のFMの制作会社の上司が作ってくれた紹介状というかリファレンスレターも同封して。
──また行動に出ましたね。
石田:行動には出たんですけど、履歴書を送って1か月経ってもなにも返事がなくて、今考えたら電話をとった人が「ああ、じゃあ履歴書でも送っておいてください」みたいなことで、多分デスクの引き出しの奥に仕舞われたままだったと思います。
──誰も見ていないみたいな。
石田:多分見られてなかったです。それで、スペースシャワーのプロデューサーを知っている知人に送った資料一式を預けたら、プロデューサーが資料を見て、英語ができる人が当時スペースシャワーにいなかったので、近藤(現スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長 近藤正司氏)に渡してくれて、近藤からすぐ電話がかかってきたんです。
──今度はしっかり履歴書を見てもらえたんですね。
石田:はい。その後、近藤が会ってくれたんですが、当時のスペースシャワーには全く空きがなかったんです。というのも、ちょうど制作会社のSEPを設立するタイミングで、制作のスタッフはSEPに移籍とか、ディレクターはフリーになっていくとか、スペースシャワー内で組織改変をしていたタイミングだったんです。私はそういうことを全然知らなかったので1か月後くらいに「どうなったかな?」と思って、近藤に電話をしたら「明日もう1回会社に来てくれ」と言われました。
それで近藤に再度会いに行ったら、当時、スペースシャワーの株主の会社から出向で来ている人が急遽本社に戻ることになって、その仕事の枠が空き、仕事はケーブルテレビに情報を送ったりする広報の仕事で、そこでアルバイトという形であれば採用してもいいよと言われ、「なんでもやります!お願いします。」と即刻返事して、その日は結局、近藤と8時間話し込んだんですよ(笑)。夕方の6時に呼ばれて、終わったのが夜中の2時すぎでした。
──意気投合したんですか?
石田:音楽と趣味の話で盛り上がったんです。実は近藤もピンク・フロイドが好きなんです。それでピンク・フロイドの話と、あとは好きな劇作家・映画監督・小説家も一緒で、その話で8時間も話が盛り上がり(笑)、金森さん(元スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長 金森清志氏)も一緒だったんですが、途中から寝てしまわれました(笑)。
──(笑)。
石田:それで近藤が私を採用してくれました。ですから近藤は私の恩人なんです。
有望な新人やインディーズアーティストを取り上げる「スペースシャワー列伝」を勝手に始める
──スペースシャワーに入られたのが20代半ばですか?
石田:そうですね。最初は宣伝・広報の仕事を5、6年ぐらいやって、ステーションロゴを変えたりしました。もともとは四角くて複雑なデザインのロゴだったんです。
──ロゴを変えるのは石田さんの発案だったんですか?
石田:はい。「ロゴをシンプルなデザインに変えましょう」と中井(スペースシャワーネットワーク創設者 相談役 中井猛氏)に相談して、一般公募のコンペをして新ロゴに変えました。あとはフリーペーパーを作ったり、オンエアプロモーションを立ち上げたりとか、色々新しいことをやりましたね。当時はやりたがりだったので(笑)。
──広報のあとはどのようなお仕事をされたんですか?
石田:宣伝・広報の仕事を6年経験しているなかで、悩みがあって会社を辞めようとまで思って近藤に話したところ、「イベンターでの経験を活かす仕事を社内で始めたらどうだ?」と言われて、イベント事業課という小さな課を編成部の中に作ってもらったんです。編成部は大勢いたんですが、そのイベント事業課は私ともう1人の2人だけで始め、2000年に「スペースシャワー列伝」(スペシャ列伝)という新人の登竜門イベントをスタッフと企画しました。
当時のスペースシャワーはミュージックビデオがあるアーティストしか取り上げられないというか、有望な新人やインディーズのいいアーティストでも、ミュージックビデオがないと紹介されることが少なかったんです。それはもったいないと思っていて、取り上げられないアーティストたちのライブを映像で残して、視聴者に観てもらおうと立ち上げたのがスペースシャワー列伝です。
最初は近藤に「なんのためにやるんだ」「お金はどうするんだ」と大反対されたんですが、それでもやっぱりやりたかったので一緒に企画を考えたスタッフと勝手に始めて、2001年4月に第1回目を開催しました。出演したのはデビューしたばかりのTHE BACK HORNとMo’some Tonebender等でした。その後も毎月開催して、番組は夜中にこっそり編集室を使って制作しました(笑)。
──(笑)。
石田:一緒に立ち上げたスタッフの守隨君(今はアミューズ勤務)が当時編成で、しかも元編集オペレーターだったので、夜中にこっそり編集して、MV番組枠の毎月最終週にスペースシャワー列伝を勝手に入れ込んだんです。
──勝手に入れ込んでってすごいですね(笑)。
石田:無鉄砲にやっていました(笑)。今スペースシャワー列伝のプロデューサーは20代の8代目が頑張っていますが、スタートから22年目で通算150回近く企画・開催しています。ツアーも毎年やっていて、全国8ヶ所でもう15年以上やっているので、そのツアーを1本と考えると公演数は300回近くになっています。
SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWERを日本一のコンテンツである富士山の麓でやる意義
──あとイベントでは「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER」がありますね。これはいつからスタートしているんですか?
石田:イベント自体は近藤が1996年に日比谷野音でスタートしたんです。ちなみにフジロックは1997年からなので、考えてみたら歴史がありますよね。もともとは野音で6組から7組ぐらいのアーティストをブッキングして、生放送するイベントだったんですが、近藤が「イベント事業をやらないか?」と言ってくれてイベント事業課をスタートした年はアシスタントで手伝って、その次の年に「ブッキングを任せてほしい」と近藤にお願いしたんです。恐らく「近藤さんもそろそろ世代交代したほうがいいんじゃないですか?」ぐらいの生意気を言ったと思うんですけど(笑)。
──引きずり下ろした(笑)。
石田:いえ、そこまでは(笑)。そうしたら近藤がすごく怒って「ブッキングというのがどんなに大変なのかお前にはわかっていない!」「俺はブッキングのことを考えると眠れないんだ」と(笑)。でも、考えたら7組とかなので全然やれる思ってしまって(笑)。でも近藤から「お前にそんな苦労をさせたくないんだ!」と言われて、散々言い合って、でも譲ってくれたんです。それが2002年でした。それで野音での開催で毎年チケット購入希望者が2万人とかになってきたんです。
──野音ってキャパ3,000ちょっとですよね。
石田:そうです。ですから、もっと多くのお客さんに参加してほしいと思ったのと、私はイベントプロデュースをしたかったけど、H.I.IP.時代にできなくて一度諦めたので、ゼロから始めてみたくて場所の移転を考え、2006年に1年かけて場所を探したんです。東京湾の近くや、大きな公園、山梨のまた別の湖方面も探した中で、今開催している山梨・山中湖交流プラザ“きらら”がちょうど2006年にできたんです。そこで当時イベント事業で一緒で、今は渋谷のライブハウスWWWのボスの名取君と別のイベント開催時に会場下見を兼ねて行ったんです。そうしたら湖畔のすごく素敵な会場で、天気もよく富士山の後ろに夕陽が沈んでいくのを見て「この場所最高!ここでイベントできたらいいね。」って話になりました。
──どちらかというと、それが本当のフジロックですよね(笑)。
石田:それで「ここでフェスをやりたい」と思いました。イベンターさんからは、屋内のアリーナでという意見もあったんですが、私がやりたいのは大きな会場ということだけじゃなくて、環境が良い自然の中でという想いがあったのと、私はスペースシャワーは日本一の音楽コンテンツを発信している会社だと思っているので、世界に名だたる日本一のコンテンツである富士山の麓でスペースシャワーが日本一の音楽サプライヤーとしてイベントをやることにすごく意味があると思ったんです。
──素晴らしい考えですね。
石田:ただ当時は、全社的な大反対に遭いました。当初、山中湖という場所は東京からの交通手段が不便で観光地としてもメジャーな場所ではないイメージがあったようです。手前味噌かもしれませんが、今、山中湖は音楽好きな若者からは「ラブシャの開催地」のイメージができてきたと思いますが、当初は河口湖が観光地のイメージだとすると、山中湖は学生の合宿地のイメージが強かったので、社内から「どうやって行くの?」とか「東京のいい場所でやっているのに、わざわざなんでそんな地方まで行くんだ?意味がわからない!」「スポンサーもつかない!」と散々でした。
──そんなに大反対されたんですか…。
石田:とにかくいろいろ説得に周って、同じ開催日程のイベンターさんに同意をお願いに行ったり四面楚歌でしたが、最終的に近藤だけが「やればいい、頑張れ」と言ってくれました。アーティストブッキングに関しては「スペースシャワーが野外イベントをやるんだったら」とか「富士山が望める場所でやるっていいじゃないですか」とか、アーティストやマネージメントさんたちが賛同してくださって、本当にうれしかったです。山中湖での1回目は8,000人のキャパで、恐る恐る常設のステージと新人の小さいステージを作ったんですが、新人ステージにブッキングしたのがSuperflyで初のフェス出演だったという…(笑)。時代を感じますね。
──チケットの売れ行きは?
石田:8,000人を二日間売り切ったので正直ビックリしました。
──以後売り切れなかったことってあるんですか?
石田:それはあります。売り切れるようになったのはここ数年ですね。2011年の震災の年はブッキングも集客も苦戦しまして、この先続けていいのかと、とても悩んだ年でした。
── 一番盛り上がった年だと、動員数はどのぐらいだったんですか?
石田:コロナ前の2019年で8万人を超えました。
──キャパ的には8万人が収まるんですか?
石田:収まります。なるべくステージを同時進行にしないようにしているんですが、1日約2万7000人、3日間で、一番大きなステージで2万7000人が収まります。
──SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWERは2021年も直前で中止になってしまいましたが、やはりギリギリの判断だったんですか?
石田:今年は開催の10日前の中止決定でした。ぎりぎりまで開催を信じてスタッフで準備しましたが、スペースシャワーとしてフェスを取り巻く情勢がよくないときに強行開催して、アーティストや山中湖村、お客様の信用を失いたくないという気持ちもありました。
──いろいろなフェスが叩かれていましたよね。
石田:そうですね・・・スペースシャワーはイベントだけの会社じゃないので、様々な状況を鑑みて、中止という決断になりました。
──つらい決断ですよね。
石田:2022年はもう開催を発表していて、必ず開催したいと思っています。あとチケットの払い戻しをしていないお客様が30パーセントほどいらっしゃいます。
──そんなにいるんですか。
石田:はい。チケットをそのまま持ってくれているので、そういうお客様のためにも早めに発表しようと、通常は年明けに発表するんですが、今年は昨年10月に開催を発表してスタッフが準備しています。
あと、ここ数年はSWEET LOVE SHOWERのプロデューサーは弊社イベントプロデュース部部長の松本君に承継しており、私はEPとして彼を支える立場になっています。松本君はSWEET LOVE SHOWERの新たな領域を拡げることに挑戦しているので、とても期待しています。
これからもスペースシャワーはアーティストファーストでありたい
──スペースシャワーは、イベント事業とともにレーベルも始めましたね。
石田:レーベルが始まったのは2012年で、10年目になります。
──アーティスト事業全部を統括されているんですね。
石田:2021年4月からアーティストマネージメント、音楽出版といったスペースシャワーミュージックのアーティストプロデュース事業を担当しております。
トピックスとしてはスペースシャワー所属のアーティスト、中村佳穂が今年(2021年)の紅白歌合戦に出ます。
──スペースシャワーミュージックから育っていったアーティストは数え切れないほどいると思いますが、その特徴は何だとお考えですか?
石田:スペースシャワーミュージックのアーティストは音楽的に質が高く、エッジが効いているアーティストが多く所属しているのが特徴だと思います。Suchmos、中村佳穂、STUTS、Tempalayはじめ、所属アーティストは自分の音楽スタイルを変えないで、コアをしっかり守りながら良質な音楽を作り続けていて、そこに世の中が反応してくれることが増えているのを実感しています。
細田守監督の映画で主演し、millennium paradeと一緒に紅白歌合戦に出る中村佳穂も、ドラマの主題歌でドラマソングアワードを受賞したSTUTSも、自分たちのこだわりをしっかり持っていて、濃さは薄めずに、世の中に受け入れられていることは、とてもうれしい現象です。
──アーティストを見出すのにスペシャ列伝の存在も大きいかと思いますが、そういうアーティストを見つけてくる土壌がスペースシャワーにはあるんでしょうね。
石田:やはりスペースシャワーのスタッフは音楽が好きで感度が高いスタッフが多いですよね。そこは大きいと思います。
──渡辺祐さんは「とにかくスペースシャワーは面白いスタッフばかりいるんだよね」みたいな話をなさっていました。
石田:音楽が好きで、遊ぶことが好きで(笑)。仕事が好きというより音楽が好き、スペースシャワーが好きで働いているスタッフが多いんじゃないですかね。離職率が低い会社だと思います。
──そういった雰囲気が社風になっているのかもしれませんね。
石田:音楽ベース、アーティストベース、そこを大切にしている会社だからこそ、いろいろなアーティストや情報、面白いスタッフが集まってくると思うので、それはこれからも大事にしていきたいですね。
──中井さんがスペースシャワーを始めて現在に至るまで、すごい人たちが続けてきた会社というイメージがあります。
石田:そうですね。先駆者や先輩に恵まれてきたと思います。これからの若手にも面白いスタッフはたくさんいるので、彼らがトライアンドエラーしながら新しいことにどんどんチャレンジしていけるような会社であるべきだと思いますし、世代交代や新陳代謝も大切なことだと思いますね。
──いつの間にかスペースシャワーは音楽に関連するすべての事業をやっているイメージの会社になりましたね。
石田:スペースシャワーは放送が主力事業ではありますが、放送・テレビは、視聴者の高齢化や若者のテレビ離れいう課題がどうしてもあります。そこで最近は配信事業にも注力していて、スペースシャワーオンデマンドでは放送した番組を配信でアーカイブ視聴でき、Tik TokやLINEでの配信オンリーの番組もあり、またレーベル、ディストリビューションはじめ音源事業でもデジタル分野がスペースシャワーの中で大きな領域を占め始めています。
──今後ますますデジタル領域が増えてきますよね。
石田:当然その領域は広くなっていますが、あくまでもアーティストが真ん中にいて、アーティストと音楽を発掘・発信していく放送、配信、フェス、ライブハウス、ディストリビューションといった様々なプラットフォームを持っているのがスペースシャワーの強みだと思います。
──総合音楽企業ですよね。レコード会社でもありプロダクションでもあり、放送、デジタルコンテンツもあり。
石田:大規模な総合音楽企業がソニーミュージックさんで、スペースシャワーはオルタナティブな音楽プラットフォームという感じですかね。
──アーティストとのお付き合いも多いですか?
石田:そうですね。イベントや番組を通じて知り合います。あとMASH A&R所属のアーティストはオーディションから発掘してから一緒に育ってきたので、近い存在ですね。4月から担当しているスペースシャワーミュージックのアーティストは個性的な人が多いので、一生懸命コミュニケーションをとろうと思って、まずはライブの現場に頻繁に顔を出すことから始めています。
──石田さんはコミュニケーションをとるのが上手そうですよね。
石田:ありがとうございます(笑)。やはりアーティストとのコミュニケーションは大切で、結局この仕事は人と人の信頼関係が肝だと思います。
──石田さんはある意味、高校生のときに目覚めた趣味がそのまま仕事になり、ライフワークになっていますよね。
石田:そうですね。こんな人生になるなんて思いもよらなかったですけど。
──ちなみに他に趣味はありますか?
石田:やはり音楽を聴きライブに行くこと、あとは旅に行くことですね(笑)。自分がフェスをプロデュースする前から、休みの度に海外のフェスに行っていましたし、コロナ以前は毎年SWEET LOVE SHOWERのチームで海外のBIGフェス、コーチェラやグラストンベリーに視察に行っていました。斬新で刺激になるのでスタッフと「これを取り入れてみたい」とか「これを参考にしよう」とかアイデアを膨らませる楽しい出張でした。
──お仕事でもプライベートでもライブにフェスでは大変お忙しいでしょうね。
石田:ライブも現場が戻ってきていますからね。スペースシャワーミュージックのアーティストのライブを観に行く日もあれば、新人チェックやブッキングのために観に行くライブもありますし、もちろん自分でチケット買って行く時もありますし、ライブはよく観ている方だと思います。
自分にとってマスターピースになる仕事を目指そう
──さきほどデジタルの話が出ましたが、YouTubeやストリーミングなどの影響についてはどうお考えですか?
石田:ユーザーにとっては、Youtubeやストリーミングによって音楽に触れていく機会がより多くなっているのでマーケットの成長に繋がるとも考えます。例えば、ストリーミングで聴いた邦楽のアーティストの新しいアルバムをきっかけに旧譜も聴き、また関連するアーティストや影響を受けたアーティストを掘っていったら知らないアーティストが出てきて新たなアーティストやジャンルを知るきっかけになるし、ユーザーの嗜好性を広げて新たな音楽ファンを増やしストリーミング再生数の増加に繋がると思います。ただストリーミングはフィジカルよりも利益率が低いので、アーティスト事業のマネタイズ戦略をアップデートしないとレーベル事業は厳しくなってくると思います。
──そうなるとライブを重要視せざるを得ないわけですよね。
石田:そうですね。スペースシャワーもコロナの影響は少なからずありますが、デジタルとライブエンターテイメントの領域を広げていくということは、全社的なテーマです。最近のニュースとしては、インディペンデント・グローバル・ディストリビューター、SAPCE SHOWER FUGAがスタートしました。あとはスペースシャワーからヒットアーティストを出したいと思っています。そういう想いもあるので、中村佳穂の紅白出演は会社をあげてみんなで喜んでいます。
──このインタビューが公開される頃には紅白も終わっているかと思いますが、非常に楽しみですね。
石田:はい。私も初めて紅白の現場に行きます(笑)。
──近藤さんがいろいろなさった仕事の中でも、石田さんをスペースシャワーに採ったという仕事は大きかったんじゃないですかね。
石田:それ、近藤に言ってください(笑)。
──(笑)。時々読者の方々から「なぜMusicman’s RELAYには女性が出てこないのか?」とか「音楽業界は女性が活躍できる業界じゃないのか?」といった質問が来るんですよ。現にこのMusicman’s RELAYにも女性はほんの数人しかご出演していなくて、石田さんは本当に久しぶりの女性なんです。
石田:私も祐さんからMusicman’s RELAYのリレーインタビューの話をいただいた時、歴代が男性の錚々たるエグゼクティブばかりなので、私なんかで大丈夫かなと躊躇しました。
──やはり女性で石田さんのようなポジションまでいった方が少ないことは確かだと思います。しかも、いわゆる一般社員として入社してそれなりのポジションになられたというのは、この業界ではかなり珍しいんでしょうね。
石田:確かにそうかもしれないですね。しかも私の場合はバイトからの入社ですけど笑。でも、偉くなりたいとか出世したいとか思ってやってきたわけではなく好きなことをやってきて、まさかこういう立場でお仕事をさせていただくようになるなんて思ってもみなかったです。今のスペースシャワーの現場には女性が多く活躍していますが、執行役員や本部長になっている女性は長らく私だけなのが現状ではあります。ですが弊社には優秀な女性スタッフがたくさんいるので、微力ですが彼女たちの橋渡しになって、女性にもチャンスがある会社や社会になっていけば本望です。
──男性・女性問わず、若い社員を見ていて感じることはありますか?
石田:若いスタッフが元気に「これをやりたい」「あれもやりたい」ともっと挑戦していく雰囲気になっていけばいいなと思います。潜在能力のあるスタッフがたくさんいるので、そういう人を育てていくのが、私のこれからの大切な仕事です。
──最後になりますが、この先、音楽業界が必要とするのはどんな人たちだとお考えですか?
石田:新しいことに挑戦していくこと、失敗することを恥ずかしいと思わない人と言いますか、チャレンジャブルな人がいいなと思います。これからの音楽業界は学力だけではなくて地頭力がありアイデアを形にできる人、意志を持って挑戦的でありながらアーティストやスタッフの才能を信じて、かつ優しい心遣いができる人が必要だと考えます。
──石田さんのキャリアを拝見していると、この業界と肌が合ったというか、そういう性格と持って生まれた能力が美しい形で融合できたんだろうなと思うんですよ。でも、そういう人ばかりじゃないので、みなさん大変だとは思います。
石田:業界というか、多分スペースシャワーとウマが合ったんでしょうね。それまでは会社を短期間で辞めたこともありますし、スペースシャワーに入るまでは「私って社会不適合者なのかな?」ってずっと思っていたんですよ。それでスペースシャワーに入ったらあっという間に時間が過ぎて(笑)。
スペースシャワー列伝もSWEET LOVE SHOWERも、求められたらアドバイスやブッキングサポートしますが、スタッフがしっかり育ちましたし、継続は力なりを実感しています。また自分が0からスタートして成し遂げた大きな仕事として誇りに思っています。ですからスタッフにも自分にとってのマスターピースというか、人生の宝物になるような仕事を目指してほしいなって思います。
自分で成し遂げた仕事は苦しいこともたくさんあるけれど、かけがえのない経験と、人生にとって大きな財産になるので、次世代の人たちにも同じような体験をしてほしいです。でもそれは待っていても始まらないので、自分からどんどん動いて、自分の人生を豊かにしていってほしいですね。