第194回 クレイジーケンバンド 横山剣氏インタビュー【後半】
今回の「Musicman’s RELAY」はローソンエンタテインメント 小松正人さんからのご紹介で、クレイジーケンバンド 横山剣さんのご登場です。横浜でまさに“クレイジー”な少年時代を過ごした横山さんは、音楽やモータースポーツに熱中。頭に湧き上がる音楽を次々と録音していきます。
やがてレーサーへの憧れとともに作曲家を志し、クールスのボーカル&作曲家としてデビュー。ダックテイルズやCK’S等を経て、“東洋一のサウンドマシーン”クレイジーケンバンドを結成します。今回はダブルジョイレコード代表の萩野知明さんにも加わって頂き、現在も衰え知らずの創作力を見せつけている横山さんに、その数奇なキャリアや曲作りの源泉についてたっぷり伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年7月4日)
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第194回 クレイジーケンバンド 横山剣氏インタビュー【前半】
クレイジーケンバンドのルーツになったダックテイルズ
──クールスには何年いらっしゃったんですか?
横山:僕は3年いて、萩野くんは4年ぐらいいました。僕は84年にやめて、ラッツ&スターの元メンバーだった山崎廣明さんが’70年代にやっていたダックテイルズというバンドを復活させる形で第2期ダックテイルズを一緒に始めて、TDKコアレコードからデビューしました。
──ダックテイルズはあまり売れなかったんですか?
横山:そうですね。最初の頃は僕と山崎さん以外は事務所から紹介されたメンバーで、みなさん音楽的にも気持ち的にもいい人たちだったんですが、不幸な結果になっちゃいましたね。
──ダックテイルズでも曲は書かれて?
横山:実は第2期ダックテイルズのデビュー曲(『真夜中のサリー』)は筒美京平さんに書いて戴いたんですよ。当時のシンガーソングライターって「人の曲なんか歌うもんか」という人が主流でしたが、山崎さんと僕はプロデューサー的な観点
──ダックテイルズはアルバム、シングルを何枚ぐらい出したんですか?
横山:TDKコア時代はアルバム2枚、シングル3枚です。第2期ダックテイルズは2年で終わって、次に山崎さんと僕は、70年代の第1期ダックテイルズのオリジナル・メンバーから2人呼び戻して、山崎さんの高校の後輩と、僕の横浜の遊び仲間を1人入れて仕切り直して、アマチュアバンドとして第3期ダックテイルズを始めました。
──アマチュアバンドというのは、どういうことなんですか?
横山:レコード会社で契約するところもなかったですし、連絡所としての事務所はありますけど、本当にインディペンデントなバンドだったんですよね。
──「音楽活動の原点に戻ろう」みたいな雰囲気ですね。
横山:そうですね。そうしたら動員数がプロでやっていたころよりも増えちゃったんですよね。音楽的にも根強いファンがついたのは、その第3期ダックテイルズからです。
──それはクレイジーケンバンドにつながる第一歩的な?
横山:クレイジーケンバンドの根っこですよね。曲調も近いものがありましたし、使うコード進行とかも自分好みのものを使い始めたので、その前のダックテイルズよりも今の形に近いかもしれないです。
──メインはライブ活動ですか?
横山:もうライブばかりですね。CDもヤマハ日吉センターというところで録音したんですけど、完全に手売りでした。店頭にも並ばないですから。
──完全なインディーズ。
横山:自主制作。友だちのお店とか車屋さんとか、そういうところには置いてもらいましたけど、いわゆるレコードショップにはないという。
──流通には乗ってない。
横山:流通には乗ってない。あと通販ですね。
──第3期ダックテイルズはいつ頃まで活動していたんですか?
横山:88年までやっていました。そのダックテイルズをやりながら、生演奏なのにターンテーブルのあるハイブリッドな編成のバンドをやりたくなって。当初の思惑としては、そこにめちゃめちゃイケメンのボーカルを入れて、自分はP-FUNKのジョージ・クリントンとか、SOUL2SOULのジャジーBみたいなよくわからない立ち位置で、時々、キーボードも弾くみたいな・・・って思っていたんですけど、そうはならなかった(笑)。
──(笑)。
横山:結局、また自分で歌うことになったんですが、それがE.R.D.(「エンジョイ、リラックス、ディライト」の略)というバンドです。最初に声をかけたのは黒人のギタリスト兼DJ兼ラッパーのアイク・ネルソンでした。彼とは音楽と全然関係ないところで出会ったんですよ。
──どこで出会ったんですか?
横山:彼は、横浜の金沢区でやっていた車のゼロヨンレースみたいなもののスターターをやっていて「面白い外人だなあ」と思って、仲良くなったら「僕は実はミュージシャンなんだ」と。「以前、どっかで見たことあるなぁ」と思って詳しく聞いたら宮本典子さんのバックでギターをやっていたことが分かって「じゃあ一緒にやろう」となったんです。その次に声をかけたのが、ダックテイルズのメンバーで、5歳の僕が肥溜めに落ちたときに逃げたリッキー坪井さんがギターで入り(笑)、さらに杉山清貴&オメガトライブが解散してフリーになった後、パーカッショニストとしてダックテイルズを手伝ってもらった廣石恵一に声をかけました。
そんな頃、僕の友人の紹介で「E.R.D.のマネジメントをしたい」という吉永さんという人が現れたんですよ。吉永さんはフリッパーズギターや、フリッパーズギターの前身のロリポップソニック、あとサロンミュージック、ZABADAK等に関わっていた人で、その事務所とマネジメント契約したんですが、「E.R.D.という名前はちょっとイマイチじゃない?」と言われて、2人でZAZOU(ザズー)という名前を思いついて、90年にワーナーパイオニアからデビューしました。
大所帯バンドCK’Sとソロアルバム『クレイジーケンの世界』
──ZAZOUは結構順調だったんじゃないですか?
横山:いや、とんでもない。デビューと同時に坪井さんが脱退しちゃって「参ったな」と思ったところに廣石さんの古くからのバンド仲間の小野瀬さんを紹介されて、一緒にやるようになりました。それが90年。それから2枚くらいアルバムを出して91年にそのグループは解散もせずに終わるんですけど、僕より先に小野瀬さんと廣石さんはバンドを脱退したんです。一番最初に脱退したかったのは僕だったんですけど、リーダーだった責任上、最後までやらないといけない営業が数本あったので「それが済んでからすぐやめるから」と。
そのあとに廣石さんと小野瀬さんがやっていたバンドを手伝うというか「別にメンバーにならなくていいから、ゲストボーカルみたいな感じで遊びに来てよ」って言われたんですよ。僕は「いや、もうバンドはこりごりだから」って言ったんですが、陣中見舞いみたいな気分でケンタッキーフライドチキンをお土産に横浜寿町のスタジオに行ったんですよ。そうしたらジェームズ・ブラウンの『パパのニューバッグ』とかやっていて「あ、いいな」と思って、マイクをとって歌ったら「このバンドいいな」と。とはいえ、当初は「週1回ぐらい顔出そうかな」ぐらいの感じで、真剣にやるつもりはなかったんです。
──時間があるときに遊びに行こうかな、くらいの。
横山:そうそう。そうしたら今度は僕のところにダックテイルズの元リーダー山崎さんから電話があって「本牧のオフィサーズクラブというお店のマネージャーをやるようになって、今ブッキングしているんだけど、剣ちゃんバンドやってないの?」って言われて、「やってない」って言えばよかったのに「やってます」って言っちゃったんです(笑)。
それで廣石さんと小野瀬さんと僕、さらに鍵盤、ホーンセクション、パーカッションが必要だということで急遽集めて、ジェームス・ブラウンのカヴァーを中心にやろうってことで、JBのマントショーでマントを持ってくるMC担当のダニー・レイ役も必要だなと思い、古くからの友だちのチャーリー宮毛にお願いして、結局11人~15人ぐらいのバンドでライブをやるようになります。まあライブやるたびに人数もメンツも若干違うんですけど、リズム隊は変動せず、あとはできる人だけやるみたいな。
──すごい大所帯になりましたね。
横山:そうですね。ジェームス・ブラウンのJB’Sの真似で、クレイジーケンのCK’Sというのをやるようになったのが91年で、これは97年まで続きました。その間の95年にCK’Sのメンバーに協力してもらって自分のソロアルバム『クレイジーケンの世界』を出すことになるんですが、「これはちゃんと流通に乗っけたいな」と思ったときに「そういえば萩野くんって自分のレーベルを持っていたな」と思い出したんです。そのとき萩野くんはリージェントレコードというレーベルをやっていて、ロカビリーのサンドラ・ディーというグループのアルバムを何枚かリリースしていたので、「その流通に乗っかれないかな」とお願いしたら「いいよ」となって、ヴィヴィド・サウンドからソロアルバムを出しました。
──そのときはまだダブルジョイレコーズはできていない?
萩野:そのときにダブルジョイを作ったんです。
横山:萩野くんは当時ワイルドダンサーという洋服屋さんを経営していて、その洋服屋さんの電話番号がダブルジョイの連絡先になっていました。
──クールス以後も萩野さんとは結構連絡を取り合っていたんですか?
横山:ちょこちょこ会ったりはしていました。ソロアルバムの前もCK’Sのグッズを作りたいときに相談して、ワイルドダンサーで作ってもらったりとかしていたんですけど、まさかCDも一緒にやるとは思っていなかったです。
萩野:ヴィヴィドと並行して、うちの卸している洋服屋にもCDを全部置いてもらったんですよ。ロカビリーっぽいファッションが好きな人って根強くいて、しかも昔のクールスのファンの人たちも多いので、結構たくさん買ってくれたんですよね。
──ソロアルバムはかなり売れたんですか?
横山:3千枚くらい売れたのでリクープはできましたね。テイチクのスタジオグリーンバードいうところで録音したので、レコーディング費用は相当だったと思うんですけど。ただ、リーゼントというかロックンロールな人たちが喜ぶような音楽じゃないので、買ってくれたお客さんはかなり混乱していましたね(笑)。
「人の嫌がるものを作りなさい」クレイジーケンバンドの誕生
──そして次はいよいよクレイジーケンバンドですか。
横山:はい。97年にCK’Sが終わりまして、時間があったので、1人で香港へ放電しに行ったら、放電どころか充電状態になっちゃって(笑)、東洋的なスタイルの、「東洋一」みたいな音楽がやりたくなったんですね。
──休息のつもりが、新たなアイデアが溢れ出てしまったと。
横山:それがなんなのか、よく分からなかったんですけどね。ただ、ビクターに曲を売り込みに行ったけどダメで落ち込んでいた17のときに、クリームソーダへ服を買いにいったら偶然、山崎社長(山崎眞行)がいらっしゃったので「すみません、僕は作曲家としてパッとしたいんですけど、どうすれば天下取れますかね?」って声をかけたら、スッといなくなっちゃって「無視かよ!」と思ったんですけど(笑)、少ししたら戻ってきて「人の嫌がるものを作りなさい」って言われたんですよ。「人の嫌がるもの? わからない・・・」ってそのときは思ったんですけど(笑)、香港に行って戻ってきたときに、あの言葉がパスワードとなって全てを解錠したんですよ。
つまり、世の中にあまり歓迎されない、人の嫌がるものって、中毒性があるんじゃないか?と思って。それがクレイジーケンバンドの根幹をなすテーマなんです。ただ、お客さんがうちらのオリジナルにすぐには馴染めないと思ったので、最初の頃のライブではクールスの曲とダックテイルズの曲でこっちに引き寄せといて、急にファンが混乱しそうなオリジナル曲をやって、ドン引きさせるみたいな、そういう飴と鞭みたいな選曲をしていました。
──(笑)。でも、変なことをやって人のリアクションを見るのは、幼少の頃から変わっていないんですね。
横山:そうです。結局「人の嫌がるものを作りなさい」ってことは「クレイジーじゃなきゃいけないってことなんだな」と。そのクレイジーって、奇抜なことをやるというんじゃなく、“違和感”みたいなスパイスがポイントかなと思っていて、その気づきが始まりです。で、1stアルバム(『PUNCH! PUNCH! PUNCH!』)をソロアルバムと同じテイチクのスタジオグリーンバードで録りました。
──確かに不思議な音楽ですよね。類似品がないという。
横山:まあ、いろいろなものが混ざってはいるんですけれども、その混ぜ具合とかが他とちょっと違ったんでしょうね。
──そこがミソですよね。「これはあれに影響されているんだろうな」とわかったとしても、横山さんが歌った瞬間に完全オリジナルになって。
横山:そういう感じを狙っていましたね。
──最初、映像でクレイジーケンバンドを観たときに、一瞬「コミックバンドなのかな・・・?」と思い、パッと浮かんだイメージが昔のトニー谷とか。
横山:ええ、ええ。
──そういう下世話チックでイロモノチックなところもあるし、不思議な人たちだなと思ったんですよね。でもイメージが香港やシンガポール、中華街とかで「なるほどな」って。
横山:昔の藤村有弘さんのような、ちょっとインチキな東洋人みたいな感じとか、あとアメリカ人が勝手に描いたストレンジな日本みたいな違和感ですよね。中国と韓国が混ざっちゃっているような。
──西洋人が勘違いした日本。
横山:ええ。勘違いとか、印刷で言うと「版ズレ感」みたいなものにグッときていたので、そういった感じを音楽で具体化できたらいいなと思ったんです。それをサブカル系や旧渋谷系の人とか、いろいろな人たちが面白がってメディアで紹介してくれて、お客さんが段々と増えていきました。
──私は小西康陽さんがすごくプッシュしている印象がありました。
横山:小西さんの場合はこちらからアピールしたんですよね。セカンドアルバム(『Goldfish Bowl』)のときにダメ元で推薦文、コメントを書いてほしいとお願いしていたんです。それで「このくらい書いてくれればうれしいな」と思う文量の何倍も書いてくれて(笑)、しまいには「リミックスしたい」と言ってくれて、アナログでリミックス盤(「ヨコワケハンサムワールド」)を出したんですが、その頃からライブハウスの現場以上にクラブフィールドで注目してくださる人たちが増えて、小西さんや須永辰緒さん、コモエスタ八重樫さんとかが、クラブでうちらのレコードをかけてくれたんです。それからは、客層がわりとオシャレな音楽通、かつて渋谷系が好きだった感じの人や、そのネクストレベルを求めている感じの人、あるいは昭和歌謡が好きな人な人たちがライブに来るようになりました。
──クレイジーケンバンドのブレイクポイントはやはりCMやドラマの曲になりますか?
横山:そうですね。2002年に出した『タイガー&ドラゴン』は、シングル発売時点ではあまり話題にならなかったんです。同時に携帯電話のCMソングになった『クリスマスなんて大嫌い!!なんちゃって』というクリスマスソングを発売したんですが、ちょっとこの曲は甘すぎるので、もうちょっとビターなものがあったほうがいいなと思って、『タイガー&ドラゴン』と2枚同時発売したんです。で、発売当時は『クリスマスなんて大嫌い!!なんちゃって』のほうが数字がよかったんですが、2005年に宮藤官九郎さん脚本のドラマ『タイガー&ドラゴン』のオープニングや劇中で使ってくれるようになってから、あっという間に10万枚売れました。
──『タイガー&ドラゴン』は、和田アキ子さんのボーカルをイメージして書かれたそうですね。
横山:ええ。運転しながら浮かんだ曲なんですけど、頭の中で歌っているのは和田アキ子さんだったんですよね。ですから、僕はセルフカバーみたいな気分だったんですけど(笑)、のちに本当に和田さんが歌ってくれて。「ハッ!」もアッコさんを意識しての「ハッ!」なので、本人の「ハッ!」を聴いたときに「やった!」と思いました(笑)。
──(笑)。横山さんは素晴らしいボーカリストなのに、自分が歌うことにあまりこだわりがないのがすごいですよね。
横山:やはり作曲家になりたかったのと、自分が有名になることよりも楽曲を有名にしたいという気持ちがずっと強かったんですよね。筒美京平さんみたいに。
──じゃあ筒美さんのようにあまり顔は出ないほうがいい?
横山:そう、表に顔を出さないで名前だけが商標として記号化する、で、自由に遊べるという。でも全然そうはならなくて(笑)、逆行っちゃいました。ただ、僕は人前に出るときに帽子とサングラスなので、むしろ素の状態こそが変装になる。だから日常生活ではそれほど不自由はないんですけどね(笑)。
──ところで横山さんの「イイネ!」ってあるじゃないですか? あのルーツってどこにあるんですか?
横山:父親と母親が離婚したときに、母親の兄が父親代わりになってくれたんですが、そのおじさんの口癖が「いいねえ」で、「イイネ!」じゃなくて「いいねえ」だったんですね。
──普通に言ってくれていたんですね。
横山:そう、どんなときも「いいねえ」って。おばあちゃんのお葬式のときも「いいねえ」って。悲しいと思いたいときも(笑)。
──剣さんは「イイネ!」をいつ頃から使い出したんですか?
横山:8歳だから1960年代から言ってました。「イイネ!」はクールスのときも言っていたんですけど、もうちょっと「いいねえ!」という感じだったんです。それが自然とトーンが高くなっていったのと、CKBのベースの信也くんがよく手をこうして(「イイネ!」のポーズ)「いいっすねえ」ってやるんですね。その「いいっすねえ」というのを真似して「イイネ!」って。
──Facebookとかの「いいねボタン」を押すと、剣さんの声が流れたら面白いだろうなと(笑)。YouTubeとかも。
横山:最初うちのホームページの各ボタンをクリックすると「イイネ!」ってなったんですけど、オフィスで働いている人が「あれ、困ります」って(笑)。結構大ボリュームだったので。今はそれ鳴らないですけど、そういう時代もありましたね。
曲作りの勢いがなくならない限り生涯現役
──その後のご活躍ぶりは、我々がいちいち言うまでもないんですが、横山さんはこの先どこを目指していらっしゃるんでしょうか?
横山:いつも「今日思ったことを今日やる」という感じですので、数年後どうなるかというのはまったくイメージがないです。アルバムも、コンセプトを考える前にできちゃうので、その勢いがなくならない限り生涯現役というか、死ぬまでやるという感じでしょうか。
──絶倫作曲家ですね。
横山:そっすねぇ、絶倫作曲家になりたいです。
──例えば、ベテランになって、曲が書けなくて困っている人ってたくさんいるじゃないですか? 10曲作るのに何年もかかっちゃうみたいな。横山さんにはそういうスランプというのはないんですか?
横山:あまりないですね。もちろん、会社のプリプロルームに来たはいいけど全然ダメだというときもあれば、なんか知らないけど、どんどん曲が浮かんだとか、色々あります。曲が毎日浮かぶのはいいけど、いいものができるとも限らないですしね。「なんでこんな曲作ったんだろう」というときもやっぱりありますよね。
──8月3日はクレイジーケンバンドのニューアルバム『樹影』が発売となりましたね。ニューアルバムはどんな感じの作品ですか?
横山:22枚目のアルバムになるんですが、自分たちの芸にあぐらをかくだけじゃなくて、ちょっとネクストレベルに行きたいなという気持がありまして、これまで以上に僕の脳内で鳴ってる感じに近づきたいという欲が出てきたんですね。
それで、その脳内アレンジをより引き出すには若い人とやるのも一つの手なのかなと思って、ベースのParkくんと一緒にやるようになったのは4年前からなんですが、今回のアルバムでは彼により内側に入ってもらって、アレンジを一緒にやったんです。それからはメロディもバンバン毎日のように、しかも今まで出なかったようなものができたりで絶好調だなって。
──若い人に触発されて。
横山:Parkくんはバイアグラみたいな感じですね。人間バイアグラ(笑)。本当になんか“勃ち”が良くなったという感じです。
──最高ですね。
横山:はい。もういっぱい出しまくるみたいな。曲がですよ(笑)。Parkくんとバンドメンバーは親子ほど歳が違うのに、彼の言うことならメンバーも聞く耳を持つんですよね。これがもし、年上のプロデューサーだったら反発して、こうはならなかったと思うんですけどね。
──Parkさんってそんなにすごい人なんですか?
横山:「なんでわかるの?」みたいなね。「こういう音を出したい。でも表現できない」って言うと「こうですか?」となって「そうそうそれそれ!」みたいな。そんな人めったにいないと思いますね。
──ちなみに、このアルバムタイトルの「樹影」って聞き慣れない言葉なんですが、どういった意味なんですか?
横山:実は僕も意味はよくわからなかったんですが、クールスのスタッフになる前に、本牧のガソリンスタンドで働いていまして、昼休みに行っていた喫茶店が「樹影」という名前だったんですよ。
自分の直感を信じ、予感するほうに舵を切ろう
──横山さんは今も横浜に住んでらっしゃるんですか?
横山:横浜です。
──ということは東京の事務所へは通いで?
横山:そうですね。昔は横浜中華街のそばにも事務所があったんですけど、スタッフの多くが東京暮らしだし、家賃もかかりますし、これは必要ないなということで閉鎖して、東京だけにしたんです。
──僕の知り合いの横浜人もなぜか東京に住まずに、東京へ通ってくるんですけど、なぜなんですかね?
横山:なんでですかね? 先ほどもちょっと話しましたが、僕も「神宮前に来れば、なにかチャンスがある」という予感だけで横浜から神宮前へ引っ越してきて、案の定クールスの人たちと知り合えたんですけど、住んでいるアパートにみんなが泊りに来ちゃったり、あと女の人を連れて来ちゃったりで「これはちょっと息が詰まる」と、もうちょっと横浜に近い用賀に逃げたんです。そうしたらそこにも押しかけて来ちゃうんですよ(笑)。
──(笑)。
横山:萩野くんとか他の人とか、みんな(笑)。これじゃ作曲なんて出来ない。それで「こりゃダメだ」って。そのときに柳ジョージさんの『Y.O.K.O.H.A.M.A.』というアルバムをヘビーローテーションしていたんです。それで「あ、横浜帰ろう」って。柳ジョージさんのおかげで横浜に帰ることになって。
──でも、東京に住んでいる人が車でちょっと足を伸ばすとなったら、やはり横浜方面で、例えば、浦和に行くとか、千葉に行くとかまずないですよね。
横山:あんまりないですか?
──ないですね。やっぱり行くなら横浜とかそっち方面になっちゃう気がします。多分、横浜方面に行ったほうが面白いことが起こる割合が高そうなイメージがあるんです。だから、横浜のそういう不思議な魅力に惹かれて、みなさん横浜から出ないのかなと思うんですよね。
横山:確かに横浜から出ない人は多いですね。東京に行こうと思えば1時間で行けるし、便利と言えば便利。車さえあれば、ですけどね。特に本牧って電車もなにもない車社会なので、車なしというのは相当キツいです。
──東京のオフィスには週何回ぐらい来ているんですか?
横山:半分以上は来ています。むしろ東京のほうが多いぐらいなんですよね。
──それでも苦にならない?
横山:そうですね。毎日、大好きなドライブができますしね。その1時間の間に曲のイメージとか、あといろいろなアイデアが浮かんだりしますし、ラジオを聴くと知らない曲に出会えるのがいいですね。気になる曲が流れた時間を頭に覚えて、メモができたらメモして、それで家に戻ってからラジコでチェックしたり、あるいは曲名で調べてレコード屋さんで買ったりとか。
──横山さんにとってラジオは大切な情報源なんですね。
横山:結構ラジオから出会う衝撃的な曲とかありますしね。あと僕は携帯がガラホなので。
──ガラケーなんですか!?
横山:ガラホと言って、ガラケーとスマホの間、4Gのガラケーみたいなやつで(笑)。ですからボタンを押すと街で鳴っている音楽の曲名が出るのとかあるじゃないですか? ああいうのを持っている人に「いまの曲、ちょっと!」と言って聞いたり(笑)。
──(笑)。
横山:その曲がすごく特別な曲になったり、そういうことは結構あります。最近だと藤井風さん、Neighbors Complain、wonk、KUROI、JINTANA & EMERALDS、洋楽ならSILK SONICやSILK SONICのアンダーソン・パークとも繋がりのあるドミ&JD・ベックとかあまりに良くてギョッとしましたね。歳は親子ほど離れていますけど、リズムやコードの解釈がモロ僕好みで、言い知れぬ懐かしさがあって、高年齢の人にも愛される音楽ですが、やっぱり今の時代にしかない質感なんですよね。
──ストリーミングで聴いたりはしないんですか?
横山:サブスクってやつですか?やり方がわからないので、萩野くんと車で一緒に出かけるときに聴いたりします。荻野くんとはクラシックカーの競技とかよく一緒に出るんですけど、そういうときに音楽があったほうがいいよねということで。ただ、今のところ僕が新しい音楽を知るメディアはラジオや街鳴りとかですね。あとレコード屋さんに行ってかかっているのを聞くとか。
──そこはオーセンティックなスタイルで。
横山:そうですね。最近は新譜もレコードで出ていたりするので、買う買わないは別にして、HMVとかレコード屋さんにはよく行きますね。やっぱりレコード屋さんでエサ箱を見ている時間というのは幸せですね。なにかに出会える予感がして。
──ちなみにクレイジーケンバンドもコロナの影響はありましたか? この2、3年。
横山:最初どうなっちゃうんだろうと思ったんですけど、コロナになる前からレコーディングはみんなで全員集まってやるというよりは、わりと分業だったので、レコーディングへの不便はなかったです。ただ、不便を感じたのはやはりライブですよね。配信ですら集まっちゃいけないという2020年で。
──無観客で配信するというやつですよね。
横山:無観客でやるにもかかわらず、撮影する場所に集まっちゃいけないと言われて。うちは11人、スタッフも入れたら30人近くになるので「絶対にダメだ」と言われて、配信すら延期ってときは、かなり絶望感があったんですけど、もう一方で「なんとかなる」という、もともとの楽観主義に助けられて、本当になんとかなりました。
──今回のアルバムリリース後のツアーとかはもうほぼ予定通りですか?
横山:はい、いまのところフルで動員する予定になっています。最初の頃はソーシャルディスタンスとか、あと日本武道館でやったときは半分しか入れられなかったとかありましたけど、今のところはフルを予定しています。
──やっとって感じですよね。
横山:まだ声を出しちゃいけないとかいろいろありますけど、それでも目の前にお客様がいるといないとでは全然気分が違いますからね。
──やっていてつまらない?
横山:そっすねぇ。アイデアひとつで最高のTVショー的なものになるとは思いますけど、僕がやりたいのはそんなんじゃなくて単純に音楽なので「これはライブじゃないな」とは感じましたね。目の前にお客さんがいるといないとでは全然違います。やはりライブってお客さんとの相乗効果といいますか、お客さんと一緒に作っている感じがありますからね。
──最後になりますが、これから日本の音楽業界で働こう、あるいはアーティストを目指そうという若い人たちに向けて、メッセージをいただけますか。
横山:他人と自分を比べずに自分の直感とか、そういったものを大事にしてください。
──自分の勘を信じろと。
横山:はい。自分の勘を信じろ、そういうことですね。予感するほうに舵を切るのがいいんじゃないかということです。根拠はなにもないですけど(笑)、僕はずっとそうしてきましたから。