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第196回 MUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信氏インタビュー【後半】

インタビュー リレーインタビュー

宮田信氏

今回の「Musicman’s RELAY」はPヴァイン 井上厚さんからのご紹介で、MUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信さんのご登場です。10代後半、アメリカ発の映画やTVドラマを通じてチカーノ文化を知り、大学4年時にはイースト・ロサンゼルスに1年間滞在。帰国後、六本木WAVEを経て入社したBMGビクターでは、レーベル「ウィンダム・ヒル」やワールドミュージックのディレクターとしてご活躍されます。

その後、1999年、チカーノ音楽を中心にした自身の会社MUSIC CAMP, Inc.を設立。ケッツァルなど現行アーティスト作品から旧譜まで500を超えるタイトルをリリース。現在は代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」の企画にも参加し、2018年には自身の活動を追った短編記録映画『アワ・マン・イン・トーキョー~ザ・バラッド・オブ・シン・ミヤタ』も話題となりました。また、11月に大注目のアーティスト、ボビー・オローサの来日公演を迎えた宮田さんに話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年8月19日)

 

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第196回 MUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信氏インタビュー【前半】

 

BMGビクターでウィンダム・ヒルやワールドミュージックの担当ディレクターに

──BMGビクターはなにを募集していたんですか?

宮田:そのときは特に何も書いてなくて、洋楽のセクションだったかもわからなかったですね。それで入ったらいきなり洋楽の宣伝としてラジオの担当になり、それも1年、2年ちょっとやったのかな?

──最初は宣伝だったんですね。

宮田:宣伝でしたね。それで、あの頃はライターもずっとやっていて、80年代後半から雑誌『ラティーナ』に原稿を書いていました。ちなみにライターとして一番最初は、88年頃『ジャズ批評』に書いたオルガンジャズの記事でした。

──『ラティーナ』ってなくなっちゃいましたよね。

宮田:雑誌はありませんが、ウェブ版で続けています。『ラティーナ』では毎月のように書いていて、そのうち『ADLIB』や『ミュージックマガジン』でも書くようになったので、僕が変わった音楽に詳しいということをBMGの上の人たちも理解してくれて「早くディレクターやれ」と。ちょうどその頃アルファでやっていたウィンダム・ヒルという、ジョージ・ウィンストンとかが有名なレーベルがBMGになったんですが、ああいった音楽って普通の人はなかなか担当できないので「やってみないか」と言われました。まあ僕がやっていたチカーノとはまったく違う世界でしたけど(笑)。

──全然違いますよね(笑)。

宮田:でも、アメリカの音楽文化の豊かさみたいなものがウィンダム・ヒルというレーベルの中にはあったんですよね。ブルース的なものから、いわゆるマウンテンミュージックみたいなもの、フォーキーなものもありますしね。それをやった上でニューエイジというものが浮き上がってくるという。ある種ヒッピー文化が成熟したものとしてニューエイジをやったら成功したのがウィンダム・ヒルなんですよね。

──ウィンダム・ヒルの仕事で印象に残っていることはなんですか?

宮田:みんなが探していたジョージ・ウィンストンの『あこがれ/愛』という曲の譜面を作る作業は印象に残っていますね。これが爆発的に売れたんですよ。

──譜面を売ったんですか?

宮田:正確には譜面をライナーに入れて出したんです。当時「あの曲の譜面ないですか?」という電話が毎日のようにかかってきたんですよね。実はジョージ・ウィンストン本人は「そういう風に聴くのは困る」とすごく嫌がっていたんですね。ただ、僕の仕事ぶりを気に入ってくれたみたいで、特別に譜面を作ることを許可してくれたんですよね。それでウィンダム・ヒルをやりながら、90年代前半はワールドミュージックが人気でしたので、そういった音源もずいぶんリリースしました。因みにジョージ・ウィンストンとの縁は深く、45年前から再び代表アルバムを弊社で帯・ライナーを付けて発売しています。

──例えば、どんな作品をリリースしたんですか?

宮田:ジョージ・ウィンストンがプロデュースしていたハワイアンものとか出しました。普通のレコード会社だったらパスすると思うんですが、六本木WAVEの頃にハワイアンもちょっとやっていたので、中村とうようさんに相談してコメントを書いてもらって、『スラック・キー・ギター』というシリーズを出したら、それが結構ヒットしました。そのときに色々なハワイアン・アーティストたちを来日させて、一種のハワイアンブームみたいなのも作れました。

あと、ロンドンのインド系の若い人たちの音楽でバングラミュージックというのがあるんですね。もともとは北インドのパキスタンとの国境沿いにあるパンジャブ地方の音楽なんですが、それが移民とともにイギリスへ流れてきて、ロンドンでレゲエやダンスミュージックとかとミックスして、移民第2世代の音楽として発展して広がっていました。そのレーベルがBMGの傘下にあったので、それをピックアップしてリリースしたら話題になったり、色々なことをやらせてもらいました。

──ワールドミュージック専門のディレクターという感じですね。

宮田:そうですね。ただそれもやりつつ最終的にはトニー・ブラクストンやケニーGの担当もやっていましたけどね。また、ファンハウスをBMGが支援したときにファンハウスも洋楽部を作らなくちゃいけないと言われて、僕が1人乗り込んで洋楽部を立ち上げたりもしました。その洋楽部はたった9か月間しかなかったんですが、そこで結構大きな売り上げを作ったんです。

──売り上げの核は何だったんですか?

宮田:ウィンダム・ヒルやブライアン・ウィルソンの作品を出したジャイアント・レーベルなどですね。ウィンダム・ヒルの作品は品番を変えて全部出し直したんですよ。その作業を数人でやって。

──結局BMGには何年までいらっしゃったんですか?

宮田:98年までやっていました。

──結構長くいたんですね。

宮田:そうですね(笑)。ファンハウスでは洋楽部の次長で、BMGに戻った時は課長代理でした。外資の圧力がどんどん強くなり、売れるもののみ要求されるようになって、「こんなことをやっていたら、音楽に従事する人間として考えていたキャリアと全然違う方向にいってしまう」と思って辞めたんですよ。

──魂を売り飛ばすことになってしまうと。

宮田:僕なんかはずっと結婚もしない1人ものですから気軽ですけど、家族を持っている人はそういうわけにはいかないと思いますけどね(笑)。あと、僕がBMGビクターに入社した頃は昔ながらのレコード会社の文化があったんですよね。僕の直属の上司は川嶋文丸さんという方だったんですが、龝吉敏子さんなどをずっと担当されてきた方で、例え売れなくても音楽文化として大切な作品をしっかりリリースするのが俺たちの仕事なのだと教えられたんです。

そういう心意気みたいなものがまだ会社にあったので、小さなものでもリリースしやすかったんですが、だんだん外資の力が強くなってくると「そんなことは関係ない。ビルボードで明日1位になるような作品を早く出せ」という話になってくるので、これはもういてもしょうがないなと思いました。

──要するにビクターが抜けてBMGジャパンという外資系の音楽会社になったタイミングですよね。

宮田:そうですね。そこでまるっきり変わっちゃったんですよね。まあ仕方ないとは思うんですが。

 

チカーノミュージックを中心にしたレーベル/ディストリビューターMUSIC CAMP設立

──辞めた後のことは考えていらっしゃったんですか?

宮田:最初は自分で会社を立ち上げるのは無理かなと思ったので、そういう変わったリリースをやらせてくれるレコード会社に行こうと思っていたんです。でも、色々な人と会って話した結果、どこも同じような状況で「これは自分でやらなくちゃダメだな」と思い、細かい仕事やライター仕事をやりつつ、辞めて1年後に会社(MUSIC CAMP, Inc.)を立ち上げました。それで、マーケティングをしっかりやって、新しいものと古いものを同時に展開していたんですが、その中にいたのがケッツァルというバンドで、彼らの作品をBMGでのノウハウを使って国内盤で出したんです。

彼らは当時20代前半だったと思うんですが、のちにグラミー賞を獲り、ラテン・コミュニティを代表するバンドになっていきます。彼らは今スミソニアン・レコードからリリースしていますから、まさにそういうお墨付きのバンドになっていますし、今でも色々協力してくれています。

──『アワ・マン・イン・トーキョー』でもケッツァルの来日公演の様子が映っていましたが、最初に呼んだのも彼らですか?

宮田:そうですね。2000年に呼んで、クラブエイジアでライブをやりました。

──客席もすごい盛り上がりで、チカーノミュージック好きが日本にこんなにいるのかと思いました。

宮田:あのときは自分でも相当いろいろなところに記事を書きまくっていたので、結構集まっていましたね。

──宮田さんが集めたファン?

宮田:いや、どうなのかはわからないですけど。あと『ローライダー・マガジン・ジャパン』という、メキシコ系の人がやっていたアメ車のカスタム・カーの雑誌が90年代初頭に日本で創刊されて、僕はそこでずっとコラムを書いていて、チカーノ文化全般のことを随分紹介していたんです。それで僕のことを知ってくれる人たちもいて、結構ライブにも来てくれたんですよね。

ただ、仕方がないのですが、そういう人たちのほとんどはクルマやファッションの視点からの興味からで、それは非常に苦労しました。その人たちとの付き合いの中で「いや、そっちじゃないんだよ。本当はこっちなんだよ」ということは、心のわだかまりとして常に持っていたんです。でも、あれから30年ぐらい経つんですが、今でもイベントをやると「あのときの記事にすごく影響された」って来てくれる人もいるんですよね。

──宣伝・広報活動の賜物ですね。

宮田:宣伝というか普及活動は相当やりましたからね。雑誌の記事を音楽方面と、それからローライダー方面の両方から書いたりして。

──プロモーター兼ライター兼ディレクターですね。

宮田:あと営業マンでもありますしね。自分で全部店頭を回っていましたから。

──相当忙しいかったんじゃないですか?

宮田:会社を始めた1年間、ちゃんと休めたのは4日間だけでした。当時会社をもっと大きくするために、他にも色々なことをやっていて、ソニーがやっていたTLGというライブハウスの宣伝業務をカンバセーション経由で請け負ったりもしました。

──広告代理店機能も果たしていた?

宮田:広告代理店まではいってないですけれども(笑)、編プロみたいな業務ですよね。だから一時はスタッフが5人ぐらいいたんです。事務所も青山に構えていて。

──滑り出しはよかったんですね。

宮田:最初の年はものすごくよくて、何千万という売上がありましたね。ですから「このままなら大丈夫かな」という感じがあったんですが、世の中的にCDの売り上げが下がっていって。

──CD不況に突入したんですね。

宮田:うちの会社では、徹底的に小さいことをやろうという気持ちがあったので、頻繁にアメリカへ行って、向こうの新しいミュージシャンや、向こうでしか手に入らない作品をピックアップし、その人たちのインタビューを収録したライナーを付けた作品を毎月2〜3タイトルCDで出していたんです。

そうしたら、2005年ぐらいからCDが一気にダメになり、インターネットで簡単に情報が入るようになったり、Bandcampみたいなものが出てくると、日本のリスナーも向こうに直接連絡して作品を買ってしまったり、あとチカーノミュージックなんて昔は誰も見向きもしなかったのに(笑)、注目され出すと、僕が何十年も通って築いた地元の人や地元のミュージシャンとの関係性なんかお構い無しに直接連絡して買い付けられてしまうこともあるんです。

──人が作ったパイプを根こそぎ持っていってしまうようなのは嫌ですよね。

宮田:ですから今、非常にやりにくいんですよ。ウェブ上に情報を上げると簡単にもっていかれてしまうので。

──いやあ、それはキツいですね・・・。

宮田: Twitterやインスタで情報を上げると直接連絡して向こうで買っちゃう人もいっぱいいるんです。今は円安なのでうちのほうが全然安いんですけどね。でも、そういうことをする人もたくさんいますので、非常にやりにくいです。

──例えば、作品の独占権とかは獲れないんですか?

宮田:もちろん、そういうことをやっているレーベルもありますし、そういう関係性でいるミュージシャンもたくさんいますが、あまりやりたくないんですよね。そうするとハードルも高くなっちゃいますから。200枚しか売れないものが、今度は500枚からしか売れないとかそういうことになると、やっぱりリスキーなんですよね。これ、ビジネスとしてはいい考え方ではないのかもしれませんが、僕はあまり大きくなる必要はないと考えていて、持続できる範囲でそういった音楽が好きなお客さんとずっと一緒に歩んでいければいいなと思っているんですよね。

──それで社員を1,000人に増やそうとか思ってないわけでしょうしね。

宮田:全然思ってないですね。僕は別に自分で録音して作品を作ろうとかは全然思ってなくて、もともと海外発の異文化としてのカルチャーが好きなので、それを紹介する立場のレーベルでずっといたいんです。でも、今は「紹介者、仲介者はいらない」傾向というか、なんでも直接やる時代になっているんですよね。でも、そうなるとその音楽の背景にあるものとか全然伝わってないんです。全部浅はかなので、多分2、3年したら違う音楽にいっているんだろうなって。それってみんなにとってよくないと思うんですよね。

──『アワ・マン・イン・トーキョー』の中で、向こうのミュージシャンが宮田さんのことを「俺たちの文化を紹介してくれている。深いところからやってくれているんだ」と言っていましたよね。「珍しいやつだ」とまで言われて(笑)。

宮田:そうですね(笑)。彼はルーベン・ゲバラといって、フランク・ザッパにプロデュースしてもらってLP2枚出している、アメリカの有名なロックミュージシャンなんですけどね。

──では、現在ビジネス的に壁に当たっている状況だと?

宮田:そうなんですけど、愚痴ってばかりもいられないので、それを打破するために色々やっていて、最近はフィンランドのボビー・オローサという歌手をレーベルと独占にさせてもらって、CDとレコードにライナーを付けてうちで出していて、このアーティストの来日公演を11月にします(※本取材は8月19日に実施、チケットは追加も含む全5公演満員となった)。あと、サニー・オスーナというチカーノの世界ではゴッドファーザーみたいな人なんですが、すごく詳細な日本語ライナーを入れたZINEを封入してリリースしたりしています。

──フィンランドのアーティストとか、チカーノだけに限らないんですね。

宮田:ボビー・オローサは、一番最初にチカーノたちに受け入れられたんです。彼はもともとボリビア系の人なんですが、フィンランドで育ち、ラブソングを歌ったら、それがカリフォルニアのチカーノたちが聴いていた音楽にすごく似ていたので受け入れられて、僕はその状況を見て「これはやらなくちゃ」と思ったんです。

──しっかり関係性があるんですね。

宮田:すごく関係あるんです。あと、そういう音楽を紹介する立場において、自分がどうやってこの音楽業界の中で生きていくのかということを考えて、8、9年前からずっと代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」の企画ブッキングの一員になって、日本人ミュージシャンのブッキングもしています。また晴れ豆インターナショナルという部署を立ち上げてコロナ禍前までは多くの海外アーティストを招聘していました。ボビー・オローサは晴れ豆インターナショナルによる久しぶりの招聘となります。

その仕事をしている理由というのは、カルチャーというものにこだわりをもつスタッフが多く集まる晴れ豆の雰囲気がとても好きだということ、あといつ何時ボビー・オローサのような人たちが日本に来たときでも、場所を作ってあげることができるようにと思っているんです。あと、一緒に共演できるミュージシャンを自分の中に知識として持てるな、という思いもありました。それから、日本人のミュージシャンで「絶対にこれは海外へ連れて行きたいな」みたいなミュージシャンとも知り合いたいと思っています。

 

チカーノミュージックとは音楽スタイルの定義ではなく「あり方」

──そもそもの話になってしまうんですが、チカーノミュージックといっても色々種類があるわけですよね。

宮田:チカーノミュージックというのは、音楽スタイルの定義ではなくて「あり方」なので、もう色々なものが生まれています。ロサンゼルスに行けば、いわゆるチカーノ・ソウルと言われている、昔の人たちがずっと聴いていたようなソウルミュージックをまったく聴かない人たちもいますし、逆にインターネットを経由して、そういうものを再発見した若者たちもいっぱいいるんです。

あとはもう本当にクラブミュージック的な、レコードもCDも全然出さないような人たちもいて、日本ではどうカテゴライズすればいいのかわからないようなタイプの音楽を作っている人もいます。同時にお父さんお母さん、おじいさんおばあさんが南米、中米から移住してきたときに持ってきた音楽を改めて解釈して、伝統的な大衆音楽を自分たちの今のセンスで奏でている人たちもいたりと、とにかくたくさんあるので「これがチカーノミュージックだ」という説明はできないんです。

──YouTubeで「チカーノミュージックってどういうものだろう?」と思って観るとヒップホップがかかったりするのは、そういうことなんですね。で、チカーノミュージックのクラシックとかオールディーズとかなると、ソウルが出てきますよね。

宮田:アメリカ生まれのメキシコ系の人たちというのは、お父さんお母さんが聴いているスペイン語の音楽を聴きたいわけじゃなくて、英語の音楽を聴きたい。そして、自分のコミュニティの隣人である黒人のラジオ局が、彼らが住んでいるところに強い電波として入ってくるんですよ。

──そこでスウィートソウルみたいなのを聴いたんですね。

宮田:そうなんです。その世界観が自分たちの刹那的な価値観と一致して、ある意味、黒人のコミュニティに負けないぐらい自分たちの文化としてずっと聴き続けているんです。

──センチメンタル、メランコリックみたいな感情?

宮田:そうです。そこにローライダーの文化やギャングの文化など、色々なものが重なったんですね。で、若い人がここ5、6年、そういった音楽を「格好いい」と再発見し、自分たちで録音した曲がシングル盤として毎週のように発売されるので、それをチェックして輸入するのが今の仕事になっています。

──ちなみにチカーノのラジオステーションってあるんですか?

宮田:スペイン語の放送局はたくさんあるんですが、チカーノに向けた英語のラジオ局というのはなかなかないです。ただ、人気のある黒人ラジオ局のリスナーの多くは、実はチカーノだったりするんですよ。

今、ロサンゼルスの人口の半分がラティーノですから、チカーノという言葉が必要ないぐらい、いろいろな音楽にメキシコ系の人が参加しているわけです。もちろんアジア系の人も参加していますし、最近だと日本でも話題になったThe Linda Lindasという女の子たちのグループは、韓国系と中米系の混合編成だったりするわけで、もうそれが今後当たり前のものになっていくと思うんです。だからこそ、我々の会社がしっかりとルーツ的なものを紹介し続けるのは、業界的にも価値があるんじゃないかと僕は思っています。

──考えてみればサンフランシスコやロサンゼルスももともとメキシコ領ですものね。

宮田:そうです。とにかくアメリカ西海岸はラティーノたちの文化がものすごいことになっています。まだ日本にはあまり伝わってないですけど、これからあらゆるところで入ってくると思います。

──ケッツァルの人たちは『アワ・マン・イン・トーキョー』で「チカーノはセンチメンタルが日本人と近い」と言っていますよね。

宮田:僕もそう思いますね。すごく近いものがあります。

──それなぜなんですかね。

宮田:なんなんですかね?浪花節的な感性というか、その感傷の部分で非常に近いんですよね。あと細かいものにこだわる傾向も似ています。ローライダーのペインティングやカスタムなんか日本の民芸に近いというか、「こんなディテールにまでこだわっているんだ」みたいなところもちょっと似ていると思いますね。

──陶器とかタイルとかもすごく細かいですよね。

宮田:メキシコとかもそうですよね。あと、50年代から日本にはトリオ・ロス・パンチョスやペレス・プラードが何度も来ていたように、もともと日本人はああいった音楽が好きなんでしょうね。

 

日本の優秀なミュージシャンを海外に紹介するパイプを作りたい

──私もCDやレコードをほとんど買わなくなってしまったんですが、例えば、YouTubeで「チカーノ」って入れたら色々出て来るじゃないですか? でもそれって労力は払ってないんですよね。

宮田:そうですよね。そういった世界観に拮抗するものとしては、アナログレコードが最近少し復活しているというのはありますが、実際はそんなにレコードって広がってないんですよね。もちろん日本の70~80年代のシティポップ再リリースの世界ではすごく広がっているかもしれないですが、もっとジェネラルな意味での音楽市場においてレコードを聴く人って、実感としてそんなに広がっていないです。やはりDJ指向みたいな人たちしか買わないところがあるので、音楽市場全体としてもう少し盛り上がってくれないといい方向にはいかないかな?という感じがしています。

──ちなみに宮田さんはご自身でDJをされたりするんですか?

宮田:実は今DJいうか自分では「選曲当番」(笑)と呼んでいるのですが、ラテンやジャズのレコードを回す仕事もいろいろとやっています。京都の烏丸御池にエースホテルという人気の外資系ホテルがあるんですが、そこにロサンゼルスの人気シェフとタイアップしたメキシカンレストランがあって、なぜかアメリカ経由で「日本にこういうやつがいるから」と僕のほうに連絡がきて、そこで今年春からラテン音楽のDJをやるようになり、9月からは「MUSICA DEL ALMA」(魂の音楽)というタイトルでレギュラー化しました。また2014年から2016年までまる2年間、インターFMでも「スエニョ・デル・バリオ」という主にアメリカ発のラテン音楽を紹介する番組も週末にやっていまして、なかなかの人気を獲得していました。

日本人が従来もつラテン音楽の感覚ではなく、ボーダレスでアンダーグラウンドでストリートの感覚をもつ新旧音源をかなり深く紹介し、番組は100回やったところで終わりました。もともとやろうと言ってくれたのは、あのピーター・バラカンさんです。制作はFMサウンズのベテランディレクター、氏家美佳さんが担当してくれました。

──宮田さんもコロナの影響は大きかったですか?

宮田:そうですね。コロナで、ここ3年間はアーティストを呼べてないですからね。だから今回のボビー・オローサの来日公演は本当に久しぶりなんですけれども、コロナには非常に困っていますし、交流が途絶えるのって、そもそも面白くないですよね。

──そうなると、ここしばらくはアメリカにも行ってらっしゃらないんですか?

宮田:いえ、去年の11月に行きました。サンフランシスコからロサンゼルスまで、各ミュージシャン、レーベル全部に会いに行ってきました。

──新しい発見はありましたか?

宮田:やはりチカーノ・ソウル系がすごかったです。ボビー・オローサがライブをやるというのもあって観に行ったんですけれども、とにかく自分でちゃんと現場へ行って、音楽だけじゃなくて地元の人がどういう風にリアクションしているのかをちゃんと見届けてからじゃないと、日本に連れてきたくないんですよね。今まで何組も呼んできましたが、現地での様子を日本で再現したいので、その確証がない限り呼べないんですよ。企画者としては当然のことだと思うんですけどね。

──宮田さんの場合、メインは海外アーティストですから大変ですよね。

宮田:この2年間は、国内のアーティストを一生懸命ブッキングしていましたけど、正直に言いますと「これからどうしようかな?」みたいな感じですよね。あと昨今の過剰ともいえる急激な円安は主に輸入盤を仕入れている我々には大きな打撃です。価格改訂もしていますが、品番変更や印刷物のやり直しなど、その影響は計り知れないです。ちょっと途方に暮れているという感じです。もちろん来日アーティストへのギャラなど海外招聘の経費でも大きな障害になっています。クラシックではオーケストラが招聘できないなど、今後国際文化交流も衰えていくでしょうね。リアルのものではなく、ますますデジタルの世界へ移行していく気もします。深刻な問題です。

──宮田さんみたいな人がしっかり成り立って、余裕をもってやれるような世界じゃないと、音楽が文化として広がらないと思うんですよね。私たちは、情報を探し回って発信してくれるライターの人から色々教わって育ってきたみたいなところはありますから。

宮田:私は多分その最後の世代だと思います。レコード店でもいろいろ教えてもらったりとか。

──そういった部分が細って洋楽が売れなくなり、バックミュージシャンのことまで探し求めるようなファンも少なくなってしまいましたよね。今ではCDも少ないですから、クレジットを目にすることもなくなり・・・。

宮田:今だとサブスクとかで上がってくるものをそのまま聴いているだけですものね。でも、それもすぐに忘れてしまうみたいな、非常に表面的、表層的な状況です。知る機会自体は増えていると思うんですが、深く知る機会がすごく減ったという。その反動でこれからは一つの作品、アーティストをじっくり聴いてみようみたいな、そういう聴き方が意識的に出てくるような気がちょっとしています。

──最後になりますが、今後の目標をお聞かせ頂けますか。

宮田:先ほどもお話しました、11月にボビー・オローサを呼んで、晴れ豆と東京・小岩のBUSHBASH、大阪・東梅田のDO WITH CAFEで公演をやりますので、まずはこれを成功させたいです。今回、僕らが意識しているのはちょっとファンシーなライブハウスとかではなくて、彼には東京のリアルなものを見てもらいたいので、そういう人たちが集まってくれそうな場所でやろうと思い、今回の会場になりました。また、昨今のフェス志向みたいなものにも大きく抵抗したく(笑)、小さな箱での手作り感をしっかり感じてもらいたいと思っています

あと、会社的には引き続きリリースは細かく続けていくということと、それから晴れ豆にアーティストを呼ぶ仕事、それから、いつかは日本のミュージシャンと海外のミュージシャンを一緒にさせる機会を作っていくというのが、今後やっていきたいことです。

──チカーノの人たちに、日本のミュージシャンたちを紹介できたら素晴らしいですよね。

宮田:本当にそうですね。日本でやっているラテンのミュージシャンたちって、ちょっとビックリするぐらい技術を持っているので、地元の人たちがそれをどういう風に見るか、日本のラテンミュージシャンのライブをロサンゼルスとかでやってみたいなと思っています。それは自分が最後にやらなくちゃいけない仕事の一つとだと思います。

──そんなにレベルが高いんですか。

宮田:ええ。最近すごく注目されているギタリストの笹久保伸さんや、もともとニューヨークにいたバイオリン奏者の定村史朗さん、打楽器奏者のベテランであるウィリー・ナガサキさん、またラテンではないですが、ボビー・オローサのツアーで共演するオルガン・トリオでまさに職人的な演奏家が集まったタイニー・ステップ・“サウスサイド”・トリオなど、もうみんな海外のミュージシャンを超越するような技術とフィーリングを持っていて、「こういう人たちがいる日本ってすごいな」と思うんですよね。

50代になってからライブハウスの仕事をやり始めてよかったなと思うのは、日本のミュージシャンの中にも、彼らのようなビックリするぐらい上手い人がたくさんいるんだということに気づけたことなんですよね。こういう人たちをちゃんと海外に紹介するパイプを今後作っていきたいですね。

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