第199回 ビクターエンタテインメント 制作本部 A&R3部長 返田雄一氏インタビュー【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社シャ・ラ・ラ・カンパニー 代表取締役会長 中曽根勇一郎さんからのご紹介で、ビクターエンタテインメント 制作本部 A&R3部長 返田雄一さんのご登場です。高校時代にジム・ジャームッシュの映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』に衝撃を受け、大学は芸術学部に進学。映像関連のバイトをしつつクラブイベントを主催していた返田さん。
ビクター入社後は、仙台営業所を経て洋楽部で宣伝・編成を担当。その後、邦楽部ではSOIL&”PIMP”SESSIONSとの出会いから、レコード会社におけるマネージメント分野などの新たなビジネスを模索。サカナクションやTHE BAWDIESを担当しつつ、現在はGetting Better、CONNEXTONEなどのレーベルを擁するA&R3部のトップとして、数多くのアーティストに携わられています。
今回は、ご自身のキャリアを振り返って頂きつつ、コロナ禍以降のレコード会社の現状などお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2022年12月5日)
「落ち着きがない」と書かれ続けた少年時代
──前回ご登場いただいたシャ・ラ・ラ・カンパニー 中曽根勇一郎さんと出会ったきっかけは何だったんでしょうか?
返田:僕がビクターに入社して3年目だったと思うんですが、当時、洋楽部のラジオ担当としてbayfmの番組でディレクターをしていた中曽根さんのところへプロモーションに行ったのがきっかけです。そこでいろいろな企画を提案したり、中曽根さんからも番組の中の企画を提案されたり、そこからずっと付き合いが続いています。もう30年弱ぐらいになるんですかね。長いですね(笑)。
──番組ディレクターとレコードメーカーの担当者として出会われたと。
返田:そうです。今でも年に2回ぐらいご飯を食べに行ったりしています。
──その頃、中曽根さんが担当していた番組はなんですか?
返田:中曽根さんは色々なところで番組をやっていたんですが、確かbayfmの深夜番組だったと記憶しています。その後もラジオを通じてお付き合いが続いていきました。
──それだけ続いているということは、なにか感性が合うとか?
返田:多分、好きな音楽の傾向が近かったり、あと年齢も同じなので話のバックボーンというかベースがすごく似ているので合うんでしょうね。イギリスのレーベル・プロデューサーでラジオDJとしても影響力のあるジャイルス・ピーターソンとお互いに繋がっていたというのも大きいです。
僕が担当していたSOIL&”PIMP”SESSIONSはジャイルスが立ち上げたブラウンズウッド・レコーディングスの第1号アーティストとして海外での契約を結んでいたのですが、同じ頃に中曽根さんはJ-WAVEでジャイルスの番組を立ち上げたりされていて、それが後々リンクしていったことも大きいと思います。中曽根さんはアイデアマンで、僕にとっては気兼ねなく相談できる知恵袋のような存在です。
──ここからは返田さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?
返田:生まれは茨城県那珂市です。高校生までそこに住んでいました。
──どのようなご家庭だったんですか?
返田:父親は日立製作所に勤めるサラリーマンで、ごく普通の一般家庭です。茨城って日立製作所の事業部や研究所がたくさんあって、いわゆる日立のおひざ元みたいなところなんですよ。
──企業城下町?
返田:そんな感じです。日立市からひたちなか市、水戸市にかけては製造拠点や研究拠点がたくさんあるんです。父は茨城の人間じゃないですけど、勤務地が茨城だったということで居を構えて、僕もそこで生まれました。小学校のクラスメイトの大半は、農家だったり自営業をやっている家庭なんですが、全体の4分の1くらいが日立製作所関連に親が勤めているみたいな感じでしたね。
──日立製作所関連がそんなに多いんですか?
返田:僕が通ってた小学校はすごく多かったです。だから同級生の親同士が同じ職場だとか、そういうことが結構ありました。
──何年生まれですか?
返田:1969年12月31日生まれなので、60年代を1日だけ味わっているという(笑)。
──(笑)。あと1日遅かったら70年代生まれでしたね。
返田: 60年代の空気はほとんど吸えませんでしたけどね(笑)。
──どんな子だったんですか?
返田:ずっと喋り続けてるようなうるさいタイプだったと思います。通知表に「落ち着きがない」って6年間書かれ続けましたから(笑)。担任が代わるのに毎年「落ち着きがない」と書かれ続けていたので、母親は頭を悩ませていたんじゃないかと思います。自分はそんなに落ち着きがないとは思わなかったんですけど、多分ちょろちょろしていたんでしょうね。
──普通にちょっとちょこちょこしている明るい子。
返田:そうですね。小学校の学級委員とかに選ばれるタイプだったんですが、それって真面目だからというより、一番ふざけているお調子者だから選ばれるみたいな(笑)。
──いわゆる人気者ということですね。
返田:(笑)。まあ元気がよくて面白い子みたいな、きっとそういう感じだったんだと思います。
──スポーツは何かなさっていましたか?
返田:剣道をずっとやっていました。小学校3年生の頃に道場へ入って、中3まで6年間は剣道をやっていました。ただ剣道がすごく好きだったかというとそうではなくて、友だちに誘われるまま始めて、ズルズル6年間やったという(笑)。
──段はとったんですか?
返田:中学に入って初段は取りました。その道場は地元では有名な歴史がある道場で結構練習も厳しかったんですよね。週に3、4日稽古があって、水戸市内にある道場まで、自宅からバスで通っていました。
──剣道って夏は暑そうですし、冬は寒そうですし大変ですよね。
返田:冬は寒稽古というのが辛くて、1月1日の朝の6時ぐらいから稽古するんですよ(笑)。もちろん裸足でやるんですけど、道場の板張りが氷のように冷たくて。そういえば、寒稽古にテレビの取材が毎年来て「今年も恒例の寒稽古が始まりました」みたいな中継をやっていたのを今思い出しました(笑)。
自分から音楽の情報を探す面白さ
──音楽との出会いは?
返田:小学校のときからテレビで『トップテン』や『ベストテン』みたいな歌謡曲を中心とした番組を観ていましたが、小学校5、6年生くらいからラジオでTOKYO FMの『ポップスベストテン』みたいな洋楽の番組を聴くようになって、そこから本格的に音楽に興味を持つようになりました。中学校に入ってからも引き続き情報源というと、洋楽だとほとんどラジオからで、近所にはレコード屋さんがなかったので、剣道の稽古の帰り道とかに水戸のレコード屋さんに寄って、レコードを眺めたりお年玉で買ったりしてました。
──洋楽だと当時は何が流行っていましたか??
返田:ヴァン・ヘイレンとかカルチャー・クラブ、デュラン・デュラン、カジャグーグーとか。アメリカのポップスも聴きましたが、自分はヨーロッパのポップスが好みでしたね。中学校では尾崎豊やBOØWY、米米CLUBなどの邦楽を周りのみんなが聴いていたので僕も自然と耳には入ってきてはいましたが、でも、やっぱり中心は洋楽で。少数派の洋楽が好きな友達とラジオをエアチェックしたテープなんかを貸し借りしていました。
──ちなみにバンドをやったりはしなかったんですか?
返田:中学校のときに1回ギターを買ったんですが、難しくて弾けなくて(笑)。バンドをやりたいというよりは、リスナーでいたいタイプだったと思います。
──今から思えば、その時代にサブスクがあったらなとか思いませんか?
返田:確かにあったらいいなとは思うんですけど、検索して簡単に情報を得られる時代ではなかったですから、自分から労力と時間を使って調べる面白さって当時はあったと思うんです。高校ぐらいになると、水戸にある珍しい中古盤なども置いてあるようなレコード屋さんへ行くようになって、いかにもパンクが好きですといった風貌の店員のお兄さんのおすすめを試聴させてもらったり、「○○が好きだ」と言うと「じゃあこんなの聴いてみたら」と教えてもらったり。そのうちに音楽だけじゃなくて、いろんな相談にも乗ってもらったり。今ではデジタルを介して簡単にできますけど、実際に人と人を介して情報を得るような、出会いや楽しみ方はあったと思います。
──高校はそのまま地元ですか?
返田:ええ。水戸の高校に進学をしました。
──高校で部活はなさっていたんですか?
返田:剣道はもう十分と思っていたので、高校からはラグビーを3年間やっていました。僕の叔母がラグビー好きで、僕も小さい頃から一緒に観戦するのが好きだったんです。中学校にはラグビー部が無かったので、高校からはラグビーをやりたいとずっと思っていたんです。
──ポジションはどこだったんですか?
返田:ウィングでした。
──足が速かったんですね。
返田:入部するときに1年生全員をヨーイドンで走らせて、たまたま一番速かったのでウィングにされたという、それだけです(笑)。本当はスクラムハーフがやりたかったんですけどね。ただ、そんなに強い高校ではなかったので、ウィングといっても実戦ではトライを獲りに行くというよりは、相手から蹴り込まれたボールを処理したり、攻めてくる相手をタックルするような守備のほうが多かったと思います。
──練習は大変でしたか?
返田:週6で部活はありましたね。でも当時の部活って週6あるのが当然でしたよね? いまは週3とかそのぐらいの学生も多いと思いますけど。
──そうなると部活の後は疲れ果てて帰るみたいな感じですか?
返田:いや、疲れてはいるんですけど、ラグビーの部活が終わったあとは麻雀をしていました(笑)。特にサッカー部とラグビー部に好きなのが多くて、部活が終わると雀荘に行って(笑)。よく高校生で雀荘に入れてくれたなと思うんですけど(笑)。今は全然やらないですが、高校生のときが一番やっていましたね。
──麻雀はいつまでやっていたんですか?
返田:大学受験手前ぐらいまではずっとやってましたね。息抜きと称して(笑)。
──(笑)。大学生になったらやるというのはわかるんですけど。
返田:そうですね。ちょっとスタートが早すぎたんですね。
ジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の衝撃から映画学科へ進学
──大学はどちらを受験したんですか?
返田:日本大学の芸術学部です。高校入学直後にたまたまジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を観て、衝撃を受けたんです。それまで僕は、映画といえば『ゴジラ』や『スター・ウォーズ』のようなメジャーな作品をたまに観るくらいで、特に関心があったわけではなかったんです。
でも、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のような、自分が思っていた映画と違う世界観を持った作品を初めて観て、映画という概念が変わったというか「ハリウッド映画とは全く違うインディペンデントな映画がある」ということを初めて知ったんですね。それはかなりカルチャーショックで、それまで僕は「普通のサラリーマンになるのかな」と思っていたんですけど、「これだったら自分もできるかも」と思っちゃったんです。大いなる勘違いなんですけど(笑)。
──(笑)。
返田:それで漠然と大学受験をするというよりは「映画や映像を学べる大学へ行こう」と高校1年ぐらいから想定していたんですよ。
──それが日芸だったと。
返田:そうなんです。日芸は2教科なので「2教科だけ勉強すればいい」と完全に割り切った高校生活をしていました。
──日芸は映画学科ですか?
返田:ええ。映画学科に行きました。
──大学時代はひたすら映画を作っていたんですか?
返田:映画をきっかけにして、ミュージックビデオなど映像全般に興味が移っていたので、映画学科の中にある映像コースというところに進みました。そこは映画だけでなくビデオアートや映像を使ったコミュニケーション、メディア論などを学ぶところだったので、実習で映画も作りましたけど、座学も多かったんですね。
そのうち学校での授業は必要最低限になっていき(笑)。ただ、社会に出ていて、映像の仕事をされている先輩が多かったので、いろいろなアルバイトに誘ってもらったりして、そこによく行っていました。その一つがとあるレコード会社のミュージックビデオを作る制作室で、そこで制作のアシスタントをやらせてもらってました。
あと当時NHKのスタジオで海外の映画監督がハイビジョンを使ってよく映画を作っていたんです。それでピーター・グリーナウェイというイギリス人の監督がカンヌ映画祭に出品予定の作品の仕上げをするために来日するのでアテンドを探しているというので、英語もできないんですけどアテンドを2週間程やりました。
アテンドと言っても、ホテルの送り迎えやずっと近くにいるだけなんですが(笑)、最新のテクノロジーを使った制作の現場を間近に見れたことは貴重な経験でした。あとスペースシャワーがちょうど開局前の試験放送の時期だったんですが、先輩から人が足りないので手伝って欲しいと誘われて、半年ぐらいお世話になりました。
──スペシャにいたんですね。
返田:学生のときのアルバイトですけどね。学校での勉強はほどほどでしたけど、面白くてかっこいい大人の人たちの熱気や熱量に触れることが出来たのは、本当によかったと思ってます。
──充実した大学生活ですね。
返田:社会体験みたいなこともできて、良い経験を沢山させていただいたなと思います。
──当然、卒業後は映像の道に進もうと?
返田:いや、映画カルチャーショック的なものを受けたので、それをきっかけに日芸へ行ったんですけど、映像の片側には常に音楽というものがあったんですよね。
ちょうど80年代後半から90年代頭はクラブミュージックが流行ってきた時期で、それこそ先ほど話に出ましたジャイルス・ピーターソンがロンドンで巻き起こしたアシッド・ジャズのムーブメントに凄く影響を受けて、彼が関わったレコードは欠かさずチェックしてましたし、「ストレートノーチェイサー」というファンジンみたいな音楽誌のチャートを見たりしていたんですね。
そのうちそういう音楽が好きな仲間と「ワンオフクラブパーティー」と当時言っていたんですが、場所を特定せずに一晩限りのパーティーを始めたんです。深夜の美容室にPAを持ち込んで、お客さんを呼んでやったのが一番最初でした。その後、深夜の撮影スタジオを借りてやったり、あとは貸ホールみたいなところでやったり毎月1回くらいイベントをやっていた時期があったんです。
──イベント主催者として?
返田:そうです。イベントを主催して、自分もDJをしたり。ただ、僕はどちらかというとレコードを回すよりも、イベントを運営したりするほうが向いているなという気持ちもあったので、場所を押さえたりフライヤーを配ったり人を集めるみたいなことをやっていました。そのイベントは最終的には当時渋谷にあったインクスティックDJバーというクラブのレギュラーに発展して、卒業するまで続いてました。
──そのイベントは儲かったんですか?
返田:儲かりましたね(笑)。「こんなにお金入っていいのかな?」と思ったときもありました。クラブを借りてやったりしたときは店のビールが足りなくなっちゃうぐらい人が来たときもあって、全部チャージバックで戻ってくるので。それで得た資金でまたレコードを買ったり、みんなもそういうサイクルでやっていました。
──儲かったお金はレコードに再投資すると。
返田:全部レコード買っちゃうみたいな感じでしたね。ただ、お金よりも、このときに知り合った友達や人脈の方が自分にとっては大きな財産でしたね。
クラスメイトの女の子の影響でビクターを受験
──就職活動はどうされたんですか?
返田:そもそも将来何をするかまだ決めかねていたんです。ですからもうちょっと見聞を広めるために大学生を延長できる方法もあるかな、なんて思って(笑)。
──(笑)。
返田:もう一度勉強して大学院に行くか、バイトして海外に行こうかなとか甘えたことを考えていたんです。でも、4年生の春先に大学のクラスメイトの女の子が、学校の中庭みたいなところにある公衆電話でずっと電話しているんです。「なにやっているの?」と聞いたらマスコミやレコード会社、ラジオ局に勤めるための就職ガイドみたいな本を見せられたんです。当時は就職協定があったので、その手前で会社説明会やセミナーみたいなのがあって「それを受けに行かないとそもそも受験資格がないのよ」みたいなことを言われて「え?そうなの!?」って(笑)。
──何も知らなかったんですね(笑)。
返田:本当に偶然なんですけど、その女の子から「今日はビクターが締め切りだから」と言われて。「だったら僕もちょっと申し込んでみようかな」と(笑)。
──参加してみようかなみたいな。
返田:はい(笑)。それでその場でビクターの人事部に電話をしたんですが、既に定員がいっぱいだと断られまして。でも、そのちょっと前に電話をしたクラスメイトは受け付けてもらえてたことを知っていたので、ちょっとだけ粘ったんですよ。そしたら感じの良い男性の方が出てきて「この日でよかったら特別に入れてあげる」と言って下さって、指定された日にノコノコと出かけて行ったんですよ(笑)。
それで20人か30人ぐらいの学生がビクタースタジオのロビーに集められていて、会社の説明を受けたりスタジオ見学をしたんですけど、それが某国立大学の学生の回だったことが後でわかって、本当に無理して入れていただいたんだなと思って、少し恥ずかしくなりました(笑)。
──その後、選考があるわけですか?
返田:そうですね。試験をやって何回か面接をして運良く通ったんですけどね。
──その年は何人採用されたんですか?
返田:僕の時代はバブル最後の年で、大量採用の最後の時代だったんです。ですから短大も合わせると30人ぐらい採用していたと思います。翌年から5人とか6人になったので。だから僕はバブル期の一番最後のどさくさに紛れてビクターに入社したんです(笑)。もし翌年だったら入れてなかったかもしれませんね。
──ちなみに他の会社は受けなかったんですか?
返田:他も数社受けましたけど、一番先にビクターから内定をもらえたので(笑)。もともと就職をあまり意識していなかったところから始まって、あっという間に決まっちゃったというのもあるので。今考えると本当にラッキーだなと思いますね。
──無欲の勝利ですね。
返田:無欲というか、行き当たりばったりというか(笑)。大学を選んだのも偶然観た映画がきっかけでしたし。
──確かに映画1本観ただけで「大学ここにしようかな」ってあまり思わないですよね(笑)。
返田:ですよね。もちろん、レコード会社に入ったのも、もともと音楽に興味はあったからなんですけど、たまたま近くにいた友だちがきっかけとなってスイッチが入ったみたいな。
──就職で苦労した人たちにあまり聞かせたくない話ですね。
返田:就職活動のきっかけを作ってくれた女の子にはよく言われました。「私なんて何社受けたと思っているの」とか(笑)。でも、ちょっと真面目な話をすると、ジム・ジャームッシュの最新作に親会社の日本ビクターが出資をしていることを会社説明会の後に知って、その映画のプロデューサーがビクターのレーベルにいた音楽ディレクターの方で、自ら監督に手紙を書いて実現に漕ぎ着けたという話を聞いたんですね。これはもうビクターしかないと思いを強くしたことを覚えています。