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日本のインディーズ・シーンを支えたヴィヴィド・サウンド・コーポレーション創業者 長野文夫氏インタビュー

インタビュー フォーカス

長野文夫氏

ヴィヴィド・サウンド・コーポレーション(以下ヴィヴィド・サウンド)代表として、またNPOインディペンデント・レコード協会(IRMA)理事長として長年、日本のインディーズ・シーンを支えてきた長野文夫氏が2022年7月に退任した。今回、長野氏にブルースバンドとして渡米したエピソードや、ヴィヴィド・サウンド設立から伝説のレコード店・芽瑠璃堂オープン、レーベル運営やインディーズのディストリービューション、そしてIRMAについて、その50年に及ぶキャリアを振り返っていただいた。

(インタビュアー:Musicman発行人 山浦正彦/屋代卓也 取材日:2023年1月19日 取材場所:東京・目黒 ヴィヴィド・サウンド・コーポレーション本社)

 

高校時代に結成したブルースバンドでドサ回り

──お生まれはどちらですか?

長野:1952年に目黒のこの場所(ヴィヴィド・サウンド本社)で生まれました。

──ここはご実家だったんですね。このビルはもともと建っていたんですか?

長野:いや、ここは親父の工場だったんです。

──何のご商売をされていたんですか?

長野:染め屋をずっとやっていました。私は親父から言わせると親不孝者で、「親父の会社なんか継がないよ」と最初から思っていました。

──長野さんには双子の弟さん(長野和夫氏)がいらっしゃいますが、ご兄姉はその弟さんだけですか?

長野:いえ、姉が2人いて、僕ら兄弟2人の全部で4人の兄姉なんです。

──なるほど。3人の予定がいきなり4人になってご両親はビックリしたでしょうね(笑)。

長野:そうですね。でも男の子2人だから喜んだんじゃないですか?その頃は親父の会社も結構上手くいっていたそうで、この辺の地元では、いわゆる成功者の1人だったんです。

──目黒が地元とは思いませんでした。

長野:ここは第2工場の跡地で、第1工場もマンションにしちゃいました。結局ここから離れられなかったんですが、今から思えばいい場所なので。

──音楽との出会いはいつ頃ですか?

長野:小中学生のときにベンチャーズから始まって、という世代です。若いときはグループサウンド全盛の頃ですよね。そのうちにローリング・ストーンズや、エリック・クラプトンとやっていたジョン・メイオールが好きになり、段々と「彼らのルーツってなんなのだろう?」と気になってきて、そこからマディ・ウォーターズだなんだと黒人のブルースが好きになったんです。

──当時そういった音楽の情報源はラジオですか?

長野:そうですね。FENをマストで聴いていました。比較的ヒットソングのB.B.キングとかはしょっちゅうかかっていましたけど、それ以外にもよく知らない南部のブルースもかかったりしたんですよね。そのうちに飛び込んだのが、日暮泰文さんがやっていた『ザ・ブルース』という雑誌の愛好会で、何回か顔を出すうちに日暮さんたちと仲良くなったんですが、どうしても本場のシカゴのブルースが観たい、聴きたい、できたらセッションもしたいとなり、バンド共々アメリカに行ったんです。

──そのバンドはいつ頃からやっていたんですか?

長野:高校時代にブルースバンドを始めて、卒業して本格的にプロとして事務所に所属し、仕事をもらっていたんですよ。「今月は秋田に行ってください」「来月は新潟に行ってください」と地方の箱を回るドサ周りをずっとしていました。いわゆるカラオケがない時代に、キャバレーとちょっと似たようなクラブがあちこちにありまして、歌謡曲ですけどリクエストに応えて演奏していたんです。いわゆる箱バンですよね。

──事務所がついているということは完全なプロですよね。

長野:そうです。だって結構給料をもらいましたから。それで日暮さんとの接点が生まれ、「僕らはアメリカに行ってきます!」とアメリカへ渡ったんです。高校を卒業して2年近くドサ回りしていたのでお金は結構貯まっていましたしね。

 

本場のブルースバンドとセッションしに渡米

──アメリカに行ったのは20歳くらいのときですか?

長野:そうです。僕はバンドでギターをやっていたんですが、ドラムの弟ともう1人のギター、ベースの4人で海を渡りました。バンドにはもう一人スカウトして入れた、歌謡曲を歌うのが上手いボーカルがいたんですけど、「ブルースには興味ないからアメリカへは行かない」と(笑)。

──(笑)。ちなみに約50年前当時、いくらくらいお金を貯めて行ったんですか?

長野:船代が7万円ぐらいだったので、1人30万くらいだと思います。実はハワイ航路でないコースに乗ったんですが、天候が荒れちゃって「急遽ハワイ経由にします」って変更されて、ラッキーだなと思いましたね(笑)。

──まさに憧れのハワイ航路状態ですね(笑)。それが最初の海外旅行ですか?

長野:はい。それで10日間くらいの船旅でサンフランシスコに着いたんですが、実は従妹がロスでずっと商売をやっていた成功者で、とにかくそこに駆け込んで(笑)、中古車を買って「さあシカゴを目指してルート66だ」とずーっと走り回りました。南部経由で最後はシカゴに行って、シカゴではアパートを借りて3か月ぐらい滞在していました。

──ルート66は当時すでに寂れていたとか、そういうことはない?

長野:とにかくルート66を走りたくてしょうがなかったんですよ。ブルースと言えばルート66ですから(笑)。

──映画でも有名になっていましたが、実際に行こうと思った人って少ないですよね。

長野:当時、単独で行く人はいたかもしれませんが、僕らみたいに団体で、なおかつ現地のブルースバンドのライブに紛れ込んでセッションしたいという勇気を持った人間は意外と少ないですよね。

──ちなみに目当てにしていたバンドとかアーティストはいたんですか?

長野:僕はシカゴに行って、ジュニア・ウェルズというハープを吹く人たちとか、あとはジ・エイシズという素晴らしいバンドがいるんですが、彼らのライブに紛れ込んでやりたかったんです。

──で、実際にセッションはできたんですか?

長野:やりました。でも、自分の実力を知ったというか「こりゃブルースでは食えない」と悟りましたね(笑)。それで日本に帰ってきたんですけれども、シカゴでは殺人を目の前で見てしまったり、「アメリカってすごい怖い社会だな」と思いました。本当に一発で人が死んじゃうんだなと。

──ちなみに楽器は全部持っていったんですか?

長野:いや、楽器は持っていかないで、そこにある楽器を借りてやるという。とにかく黒人たちはウェルカムなんですよ。最初「お前は中国人か?」みたいな話から「いや違う、ジャパニーズだ」と話したら、「じゃあやってみろ!」とやらせてはくれました。

──飛び入りですよね。

長野:全部飛び入り。まあそのときに黒人とのパイプが生まれて、帰国してからいろいろな意味で役には立ちました。

──結局アメリカにはどのぐらいいたんですか?

長野:1年2か月ぐらいだったと思います。2回ぐらいイミグレーションしましたから。

──30万じゃ足りないですよね(笑)。

長野:だから親父からお金を送ってもらいました。最後はみんなお父さんお母さんに泣きついて(笑)。親父もミュージシャンとしてあきらめてほしいという願望があるから、お金を送ってくれたんですよね(笑)。その願望を失ったら自分の跡を継いでくれるんじゃないか?と思ったんじゃないですかね。

──お父さんからしてみたら「これで諦めてくれるんじゃないか?」と一生懸命お金を送ったら、余計そっちに行っちゃったという。

長野:(笑)。それで帰って来てから、まずはご報告を兼ねて日暮さんと会ったんですが、そのときにちょうど日暮さんが会社を始めたときだったんです。

 

23歳でヴィヴィド・サウンド設立〜芽瑠璃堂をオープン

──そのときはもうPヴァインという名前だったんですか?

長野:違います。ファイブノーツという会社で、今のヴィヴィド・サウンドの前身なんですが、レコードを輸入して通販で売るという事業をやっていました。

──そのときは日暮さんと一緒だったんですね。

長野:そうです。「一緒に会社をやってほしい」と、そういう口車に騙されまして(笑)。そのうちに「社長をやってくれ」と日暮さんに言われました。日暮さんが会社を作って、まだ1年も経ってない頃ですよ? 結局そのときに出資をして私が社長になり、うちの弟も役員になり、それでスタートしたのがヴィヴィド・サウンドの始まりです。

──それは何年ですか?

長野:1974年、僕が23歳ぐらいのときです。で、実際にやってみたんですが、4人ぐらいの社員に給料を出せないわけですよ。それで「どうしよう」という話になって、通販はやっていたんですけれども「やっぱり店舗を出さないとまずいだろう」というので芽瑠璃堂の第1号店を吉祥寺に作ったんです。それが大ヒットして会社は軌道に乗りました。その後、渋谷店、横浜店、大阪店を作って、一番多いときは4店舗をやっていました。そのときに先日リレーインタビューに出ていた井上(厚)君が入ってきて、渋谷店の店長をやったんです。で、ラテンに走っちゃったんですけど(笑)。

──輸入販売のパイプはアメリカにいたときに培ったものなんですか?

長野:そうなんです。アメリカでの収穫の一つに仕入れ先を確保できたことがあります。当時は今みたいにメールなんてなかったので、タイプライターで文書を打って郵便でアメリカへ送り、帰ってくるまで早くても10日はかかるようなやりくりをして輸入していたんです。もちろんその当時でも、静岡のチェーン店のすみやさんや、ヤマハさんも輸入盤をやっていましたが、我々は独自に始めたんです。

──ちなみにアメリカへ行ったときに「輸入販売」というのが頭の片隅にあって、そのルートを開拓しようと思っていたんですか?

長野:それはまったく考えていなかったです。日暮さんから「会社作ったので手伝ってくれないか?」と誘われたのが本当の意味でのスタートです。

──仕入れ先は、最初はブルース系のルートから他のジャンルへ拡げていったんですか?

長野:そうですね。アメリカはワンストップというディストリビューターがあって、そことコネクションをとれば、他のジャンルも扱えたんです。まあ全部前金ですけれども、輸入はできたんです。

──全部前金ですか。

長野:前金です。あの当時はね。

──売れる自信はあったんですか?

長野:まだ大型店のタワーレコードが出てくる前なので、なんとかなったんですよ。

──当時、輸入盤を買うとしたらヤマハへ行くぐらいしかなかったところに芽瑠璃堂が出てきた記憶があります。

長野:そうですね。それから日暮さんの友であり、僕も尊敬している大先輩の小倉エージさんが「ロックの輸入もしようよ。ロックは売れるよ」ってアドバイスしてくれて、日暮さんはロックを知らないし、僕も知らないし、弟は少し知っているかなくらいの状況だったので、小倉さんを中心に仕入れをセレクトしてもらってロック部門も広げたんです。

──小倉エージさんが協力してくれたんですね。

長野:そのうちに段々と仕入れられるものが少なくなってきたので、今はないですけどカットアウト盤と言って、アナログの隅を切ったレコードがあるんですが、それをビジネスモデルの中心に置くようになったんです。

──カットアウト盤とはどういった存在なのでしょうか? 中古ではないんですよね?

長野:違います、新品です。向こうで1回廃盤にしたものを再販売する際の盤ですね。そのカットアウト業者の大手が全米に4つぐらいあるんですが、そこに頼み込んで口座をもらったんです。

──カットアウト盤ってすごく安いわけでしょう?

長野:メチャクチャ安いです。もう1ドルですから。

──それで仕入れてもなかなかの値段で売れますよね。

長野:でも、うちは良心的価格と言われていたので、お店には開店前から20〜30人並ぶような状況になりましたね。

 

実店舗の不調からレーベル運営に軸足を移す

──1970年代の日本において洋楽って爆発的なブームになっていた頃ですよね。それでみんな血眼でそういうレコードを探していたときに、芽瑠璃堂のような便利な店ができちゃったわけで、それはお客さんが殺到しますよね。

長野:そうですね。タワーレコードさんはレギュラー盤といって、新譜の輸入盤の入荷が早かったんですよ。僕らは安く仕入れるために船で輸入していたので、どうしてもタイムラグが1か月、1か月半出ちゃって売れないので、今言ったようにカットアウト盤に軸足を移し、結果それがよかったんですよね。

──埋もれた客を発見するということですね。

長野:そうですね。それとそっちのほうが粗利も大きかったですし、新譜を仮に入れてもタワーさんの方がやっぱり安いので、どうしても商売にならないんです。

──同じ土俵で戦ってもしょうがないから、ということですよね。

長野:そんなこんなで芽瑠璃堂はずっと続いたんですが、CDが出てきてアナログの売り上げが一気に下がったことにより、まず大阪店を閉店し、横浜店も吉祥寺店も閉店、最後に残ったのが渋谷店でした。それもアナログがCD化して、もちろんCDも売っていたんですが、家賃を払って人件費を払えば赤字かあるいはトントンぐらいの利益しか出なかったですし、タワーさんやHMVさんもあったので厳しかったですよね。これは芽瑠璃堂のみならず、多分ディスクユニオンさんも苦労して、今、軸足を中古盤に移したと思うんですけど。

──でも、今はその中古レコードを外国人客が買いに来ているわけで、面白いですよね(笑)。

長野:そうそう。アナログに関しては日本のマーケットって確実にあると思いますし、今レーベルもやっていますけれども、アナログは魅力ありますよね。

──実店舗の危機をどうやって乗り越えようとしたんでしょうか?

長野:簡単に言うと一旦お店は畳もうと。それで、その当時うちはレーベルをやっていましたのでそこに軸足を移しました。それは私が中心にやっていたんですけれども。

──やっぱりブルースレーベルですか?

長野:スタートはそうですね。ブルースレーベルというか、ウエスト・ロード・ブルース・バンドをはじめ日本のブルースバンドのレコーディングをして、レコードを出していました。吾妻光良&The Swinging Boppersなんかはまさにその中の一つで、種をまいた中で一番の出世頭です。

あと、うちで言うと、一番の大ヒットはアメリカ南部の、ジェイムス・カーというアーティストが所属していたゴールドワックスというレーベルと契約して、それがメチャクチャ売れたんです。結局20年近くライセンスやりましたから。

──その窓口は長野さんがやったんですか?

長野:私が中心で、弟もやりました。それで弟は録音の技術を持っているので、約30年前にこのビルを建てるときに「スタジオを作ってほしい」というのでスタジオを作りました。そこから本格的に制作というか原盤づくりを始め、それと合わせてリハーサルスタジオをみなさんに開放しました。

 

ディストリビューションのきっかけはジェイムズ・カー

──ディストリビューションを始めたきっかけはなんだったんですか?

長野:きっかけは簡単に言うとジェイムズ・カーが爆発的に売れたことですね。営業をしなくても電話がかかってくるわけですよ。富山のなんとかというお店から「売ってくれませんかね」って。あと、今でも記憶に残っているのはタワーレコード社長のキース・カフーンが会いたいというので行ったら、ジェイムズ・カーの話をされて「お前のところと卸契約したい」「応援するからやってくれ」と。彼とはとにかく息が合って「ほかにも売りますよ。うちはタワーさんだけじゃないですよ」って言ったら「それは構わないから、とにかく売ってくれ」と。それで広がっていったのが、ディストリビューションに繋がるんです。

──ジェームズ・カーのおかげですね。

長野:きっかけはね。やっぱり売れる商品を持っていると強いです。あの当時、インディーズのディストリビューションをやるところがうちぐらいしかなくて、うちによく声がかかったんですよ。

──私がやっていたレーベルもヴィヴィド・サウンドさんがあるから始められたという気がします。

長野:例えばX、今のX JAPANですが、ジャイムズ・カーの10倍ぐらい売れましたからね。

──X の最初のディストリビューションはヴィヴィド・サウンドだったんですね。

長野:そう、うちがやったんです。だから、このビルの柱の1本はXが作ったのかもしれません(笑)。当時はインディーズが活況で、ナゴムレコード関連とか、本当に面白いバンドが出ていたんです。それを一気にやっていましたので、当然「卸をしてほしい」という小売店からの連絡だとか問い合わせが多かったです。

──まだダイキサウンドとかなかったんですね。

長野:なかったですね。ダイキさんはまた違う部分の売れ線を持っていたんですけれどもね。

──ヴィヴィド・サウンドがディストリビューションとして機能していたので、あの当時のインディーズレーベルはみんな助かったんですよ。長野さんのおかげです。

長野:いやいや(笑)。僕がやらなくても誰かがやっていたでしょう(笑)。

──当時どのくらいの軒数のレコード店と取引していたんですか?

長野:200か250ぐらいは支払いがありました。今は3分の1ぐらいになっちゃいましたけどね。

──特に地方はレコード店がなくなっていますからね。

長野:なくなりましたね。ご存じのようにいろいろなところがつぶれましたから。WAVEさんだってつぶれたし、Virginもやめちゃったし。ディストリビューターも星光堂さんはハピネットが買収しましたしね。

──そんな中、ヴィヴィド・サウンドは堅調ですよね。その秘訣は何ですか?

長野:比較的、僕は安全パイ、石橋を叩くほうなのかもしれないです。某人気インディーズバンドの社長は本当に毎晩銀座のクラブで飲み歩いていましたからね。そういうのを見ちゃうと、「いくら儲かっていても俺にはできないな」と思いましたし、そういう派手なことをしていると、いずれはダメになっちゃうんです。

──大体いなくなっちゃいますよね・・・音楽業界に限った話ではありませんが。

長野:もちろん失敗はいっぱいしましたけど、最終的には会社の金なので。将来に向けての投資以外は、あまりお金は使いたくないですね。

──浮き沈みの大きい音楽業界でヴィヴィド・サウンドはもうすぐ50周年だそうですが、長野さんは昨年会長を退任されたんですよね。

長野:はい。正式には2022年7月31日をもって辞めさせてくれと。

──長野さん、会長を辞めたらすぐに遊びに行っちゃいそうだから、その前に話を聞かなきゃと思ったんですよ(笑)。

長野:(笑)。今は年間の3分の1は旅行に出たいなと思っているんですけどね(笑)。

 

インディーズ業界の発展のためインディペンデント・レコード協会を設立

──NPOインディペンデント・レコード協会(IRMA)についてもお伺いしたいのですが、なぜ発足に至ったんですか?

長野:今から20年前にインディーズレーベルってそこそこ売り上げはあったんですが、僕らが知識不足だったということもあったんですけど、放送で流れた音楽に1円も入らないことに気が付きまして、私とウルトラ・ヴァイヴの高(護)さんが「これっておかしいよね」と思ったことから始まったんです。

それでとりあえず文化庁や日本レコード協会(レコ協)に行って交渉しているうちに、これは1社2社じゃなくて団体交渉したほうが有利だろうと、高さんと僕で立ち上げたのがIRMAです。

──素晴らしいですね。

長野:本当に当時、レコ協と何回もケンカをしましたから。

──お金をもらえなかった理由はなんだったんですか?

長野:簡単ですよ。「あなたたちが請求しないから」的なことです。そのうちに放送の使用料というものの中味がわかってくるんですが、レコ協は放送局から包括契約で何十億ともらっているんです。それで文化庁からは「もらえなかったところもフォローして配ってくださいね」と言われて指定団体になっているんです。この指定団体というのがやっかいで、日本では指定団体が1社しかできない。それがレコ協なんです。

マーケットの90パーセントは当然メジャーなのでレコ協が指定団体になるのはいいんですが、でも100じゃないわけです。だから我々としては団体でもらいたいから、包括契約でくれということを言ったら「とんでもない」と。「ソニーさんだろうがユニバーサルさんだろうが、売り上げに準じて配っています。だからそれに従ってください」と言うんですよ。それで「あなたたちは包括でもらっているのに、うちらは売り上げとはどういうことだ。レコ協がそうだから右に従えというのはおかしい」ということで、約半年以上ケンカしましたね。

──なるほど・・・。

長野:ちなみにMPA(日本音楽出版社協会)は一定率でもらっているんです。だから同じようにIRMAもインディーズの団体として一定率くださいとずっと交渉をしたんです。

── 一括で日本レコード協会に支払われて、日本レコード協会に分配する権利があると。

長野:それも指定団体は1つしか認めてくれないので。私も文化庁の事務官に「うちも指定団体にさせてください」といろいろな話をしたんですけど「無理です」と言われました。

──今、分配されているのは、日本レコード協会と交渉して勝ち取った枠の中で分配していると。

長野:まあ勝ち取ったのか、うちらが妥協せざるを得なかったのか。

──やはり、相当の金額が入るようになったんですか?

長野:ええ。実は今って端境期なんです。我々の最終的な目標は、放送局が使った曲の権利者に実際に配るということをしたいんです。これは誰も反対する人はいないですよ。だけど、じゃあそのためにはデータベースどうするんですか? 漏れた人はどうするんですか?と色々な問題が山積みなんです。そういう部分で、私も文化庁の委員会に出席して発言しています。

──その溝は大分縮まってはきているんですか?

長野:溝は全然縮まっていません。我々は、今度は実演家のほうも手をつけようということで、準備はしていますし、新しく理事長になった高さんは、その辺非常にアクティブな方ですので、いずれ実演家のほうも着手して、インディーズのミュージシャンにも分配できるようになると思います。

──IRMAの理事長も退任されたんですね。

長野:同じように辞めました。今はもうただの理事です。本当は一切辞めたかったんですけど「ちょっと勘弁してよ」と高さんにも言われ(笑)。でも本当に大変なんですよ。僕らは手弁当ですし、レコ協のように社員がいるような組織じゃないですから。でも自分は20年やっていてよかったなと思っています。

 

外国人アーティストの招聘を本格化

──役職から解放されて、今後は今までできなかったこともできますね。金と暇と健康を兼ね備えた、正にジジイの三冠王ですね!

長野:そうなんですよ(笑)。果たして道筋をつけたかどうかは別にして、ロートルが前に出たって駄目でしょう? いずれ死ぬんですから。

──(笑)。

長野:趣味はいろいろあるんですけど、今は特に釣りが好きですね。中古の軽を買って、DIYでベッドを作ってね。それで釣りに行くんです。

──海釣りですか?

長野:ルアーで堤防釣りですね。釣れようが釣れまいが関係ないですから(笑)。最近は水温が高いから、千葉でも釣れなくなりましたね。船で行けば釣れますけどね。

──堤防でのんびり釣るということですね。

長野:アジを釣るのが大好きなので。それ以外の趣味だと、ギターのコレクションも好きなので、やはりオールドの出物があると欲しくなっちゃいます(笑)。

──ちなみに何本持ってらっしゃるんですか?

長野:オールド・ギターを4本持っています。うちの女房は「もうやめて」って言っていますけど(笑)。

──4本といっても1本ずつが高い?

長野:そういうことですね(笑)。高いといっても、今になれば高いものになっているという話でね。

──昔のようにバンド活動をしたりはしないんですか?

長野:やっていません(笑)。家に帰ってそれをジャラジャラ弾くくらいはやっていますけど。でも、今ってミュージシャンも70歳とかになっても頑張っているのを見るとなんかうれしいんですよね。僕が20歳代のときに70代のミュージシャンなんていなかったですしね。

──随分前に四国をお遍路で歩いたっておっしゃっていましたよね。

長野:お遍路は趣味ではないんですけど(笑)、あれは面白かったです。計1,300キロ歩きました。今からおよそ10年前にスタートして7年かかりました。10日間休むのがやっとでしたから10日ずつやって。

──疲れました?

長野:疲れたどころじゃないです(笑)。実はそのあとに東海道五十三次を歩いたんですけど、五十三次なんてお遍路に比べれば楽勝でしたからね。

──そもそも何のために歩こうと思ったんですか?

長野:歩くって本当に自己をもう1回見つめ直すみたいなところがあって、僕は特に若い子には「お遍路行きな」って勧めています。僕は自分のことを考える時期が60歳ぐらいのときにあって「お遍路に行こう!」と思ってスタートしたんですけど、思った以上に大変で、ほとんどの人がめげて止めちゃうんですが、僕はやり通しました。

──今後、仕事関係でやりたいことはありますか?

長野:今ヴィヴィド・サウンドはディストリビューションとともに、外タレの招聘をやっているんですよ。僕はずっと外タレをやりたかったんですよね。それでちょこちょこはやっていたんですが、ちゃんとやり出したのは4年ぐらい前からなんですよ。

──タイミングが悪かったですね、コロナになって。

長野:そうです。だからコロナで大ショック。イベントができないのはキツいですよ。

──事実上、外タレはほとんどストップしちゃいましたよね。

長野:まったく入れなかったですから。だからようやく最近、再スタートしまして、今年の3月からまた始まります。この仕事は楽しみですね。

──ジャンルはブルースですか?

長野:いえ、ロックです。ビルボードさんに僕らが呼んだ外タレを買っていただくという。

──例えば、どんなアーティストを呼んでいるんですか?

長野:ダニー・コーチマーとか。バンドも往年のレコード通だったら絶対に知っているメンバーたちです。

──ラス・カンケルとかリー・スカラーとか?

長野:そうそう。彼らの日本でのエージェントはうちがやっているので、ちょこちょこですけどレコーディングのお仕事をいただいたりもしています。だから是非彼らを使ってください(笑)。例えば、ユーミンとか、彼らが助けたレコードというのはいっぱいありますから。

──当時は、関係していたわけじゃないですよね?

長野:全然(笑)。あの当時は関係ないです。だからそういう意味でもアメリカンロックってすごく楽しいですし、特にウエストコースト・ロックはしっかりやりたいなと思っています。

──ジャクソン・ブラウンとかはウドーが今度やりますよね。

長野:そうですね。ジャクソン・ブラウンもいつかうちでやりたいんですよね。

──いろいろやりたいのが残っていますね。

長野:いやでもそれは会社の事業なので(笑)。

──ポジションとしては創業者というポジションでにらみを利かせてらっしゃるんですか?

長野:全然ないです(笑)。代表の韮澤(貴彦)は僕と同じように石橋を叩く人間なので「もっといけ!」みたいな部分があってもいいのかもしれないですけどね(笑)。

──今日お話を伺って、やはり長野さんは日本の音楽文化を作り上げてきたキーマンの1人だと感じました。

長野:ありがとうございます。あとはうちのアーティストたちをなんとみなさんがわかるぐらいまでにしていきたいなと思っていますけど、段々稼げるようになってくると「独立します!」という人が出ちゃうので(笑)、その間に頑張らないとダメですよね。とにかく、うちのアーティストが売れるといいなと思っています。

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