第200回 音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉氏インタビュー【前半】
今回でスタート以来、ついに200回目を迎える「Musicman’s RELAY」。ご登場はビクターエンタテインメント返田雄一さんからのご紹介で、音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉さんです。ラジオでのクラシックを皮切りに、映画音楽やラテン、ブラジル音楽、ロック&ポップス、そして日本のシティポップなど幅広く音楽に触れた栗本さんは、新卒でファンハウスへ入社。その後、ライター活動も開始します。
退社後は2年間中南米を放浪し、帰国後はフリーランスとして雑誌やウェブでの執筆、ラジオや機内放送の構成選曲などを担当。また、開業直後のビルボードライブで約5年間ブッキングマネージャーも務められました。昨年出版した書籍『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』も話題の栗本さんにじっくり話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年1月26日)
リコーダーの先生の影響でフルートを習う
──前回ご登場いただいたビクターエンタテインメント 返田雄一さんとはどういったご関係なんでしょうか?
栗本:僕は1992年にファンハウスに入社して、まったく知らない土地である仙台支店に配属されたんです。そうしたらビクターの仙台営業所にも新入社員がいるぞと(笑)。そこで出会ったのが返田くんです。
──まさに同じタイミングで返田さんも仙台にいらっしゃったんですね。
栗本:そうですね。彼とは同い年で、しかも右も左もわからない新入社員の宣伝プロモーター同志だったんです。
──新卒でいきなり仙台に勤務だったんですか。
栗本:はい。僕は3か月くらい研修期間があったので、返田くんの方がちょっと先に仙台に行っていて「同じ新人だよ」みたいな感じで紹介されて、そこからすごく仲良くなりました。彼は言ってみればライバル会社ではあるんですけれども、情報交換をしたり、一緒にご飯を食べたり、あと彼も僕もクラブミュージックが好きだったので、一緒にクラブに遊びに行ったり、そんな仲間でした。
──レコード会社の場合、例えばビクターの商品を買った人はファンハウスのものは聴かないということはあり得ないでしょうから、仲良くしてもなんの問題もないですよね。
栗本:そうなんですよね。競合と言いながら、実は競合ではないという。特に地方では会社を越えて仲良くなりやすいんですよね。みんな同じような境遇で来ていますから、「今度はこんな新番組ができるよ」とか「このディレクターを攻めるにはこうしたほうがいいんじゃないの?」とか情報交換して(笑)。あと媒体の人とも一緒に飲みに行ったり、冬はスキーやスノーボードをしに行ったりもしていました。
──返田さんもそんな仲間の一人だったと。
栗本:それ以来、つかず離れず、ずっと仲良くさせてもらっています。彼とは気心が知れていますから、なんでも話せますね。
──わかりました。ここから先は栗本さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?
栗本:大阪の羽曳野市です。南河内と言われている、奈良県にくっついたところの南のほうです。
──最寄りの鉄道は何線になるんですか?
栗本:近鉄南大阪線です。富田林や河内長野とか、そっちにつながっている路線ですね。
──ご家庭には今のお仕事に繋がる部分とかありましたか?
栗本:うちは音楽がどうこうという感じは全然なかったですし、ピアノやヴァイオリンを習ったりすることもなかったですね。小学校の低学年の頃は藤子不二雄の漫画が好きで「将来、漫画家になりたい」と思っていたような少年でした。ただ、小学校3、4年くらいから音楽に少し興味を持ち始めて、その時代はちょうどゴダイゴやサザン、ツイスト、原田真二さんとか、ロック系のミュージシャンが「ベストテン」など歌番組に出始めた頃で、漠然と「格好いいな」と思い、そういった音楽を聴いていた記憶があります。あとラジオから聴こえてくる流行歌もよく聴いていました。ですから聴くのは結構好きだったんですが、そんなに能動的に聴いているという感じでもなかったです。
──普通の小学生?
栗本:ごく普通だったと思います。ただ、小学校5年生のとき周りに音楽好きがいっぱいいて、自分も「音楽をちゃんと聴いてみようかな」と思い、なぜか「クラシックかな」と思っちゃったんです(笑)。なぜそう思ったのか自分でもよくわからないですけど、音楽の授業の音楽鑑賞が好きだったので「クラシックいいな」と思ったんでしょうね。でも、小学生ですからお金がないのでNHK-FMをずっと聴いていました。
その後、小学校5年生のときにはリコーダークラブというのに入ったんです。それで顧問の先生のところへリコーダーを教えてもらいに行ったら、フルートのレコードが置いてあって「これ、実は僕が吹いている」って先生が言うんですよ。
──その先生はフルート奏者だったんですか?
栗本:セミプロのフルート演奏家だったんです。それで先生がフルートを吹くのを聴かせてもらったりするうちに、自分でもやりたいと思い、母親にねだってフルートを買ってもらって、家から自転車で行ける距離にあったヤマハ音楽教室でフルートを習うようになりました。わりとそこが自分の音楽的バックボーンだと思います。
──なるほど。ちなみにお父さんはどんなお仕事をなさっていたんですか?
栗本:園芸業をやっています。店舗があるのではなくて、いわゆる卸ですね。花を育てるのと、園芸資材とかを仕入れて花屋さんに持って行くみたいな仕事です。
──では、ご実家にはお花を育てる畑があって?
栗本:畑や温室があって、そこで花を作っていましたね。
──そのお手伝いはなさっていたんですか?
栗本:ちょこちょこはしていました。小学生はお小遣いが少ないので(笑)、手伝ってはちょっとお金をもらって、それでカセットテープを買ったりしていました。
──ご兄弟は?
栗本:3人兄弟の真ん中です。ただ、兄も弟も特別音楽が好きってこともなかったですね。
──お兄さんの影響を受けたとか、そういうのは一切ない?
栗本:ほぼないですね。兄はわりとミーハーで(笑)、「松田聖子が好き」と言っていたら、その次は「菊池桃子がいい」みたいにアイドルを聴いていて、僕はそういうのにまったく興味がなくてラジオでクラシックばかり聴いていたんですが、途中からジャズ、それこそチック・コリアやキース・ジャレットみたいなアーティストを聴くようになりました。
──ジャズを聴くきっかけもラジオですか?
栗本:そうですね。「これはなんだろう?」と思いながら聴いて、その後、本や雑誌で調べて「これがジャズなのか」と知るみたいな感じでしたね。ジャズだけでなく、ラテンやブラジル音楽もラジオを通じて触れました。
──早熟な少年ですね(笑)。
栗本:今思えばそうなんですけど(笑)、そのときは全然そういう意識で聴いていなかったです。普通に「音楽って楽しいな」「世の中にはいろいろな音楽があるんだな」と思っていました。
──ちなみに学校の吹奏楽部とかに入ったりはされなかったんですか?
栗本:そもそも中学に吹奏楽部がなかったんです。多分あったら入っていたと思うんですけど、孤独に1人家でフルートを吹いていました。ただ、中学に入るとロックが好きな友だちからいろいろな情報が入ってきて、ラジオでロックも聴くようになりました。ですから中学2年、3年と歳を重ねるごとに洋楽のロックやポップス、あと日本のニューミュージックとか、そういう音楽も聴くようになっていきましたね。
映画音楽の影響とシティポップとの出会い
──自分のお金で買った最初のレコードは何だったか覚えていますか?
栗本:実ははっきりと覚えていないんですが(笑)、中古盤でゴダイゴやピンクレディーのシングルを買った記憶があります。アルバムは中学生の時にビリー・ジョエルをラジオで聴いて「すごいな」と思って『52nd Street』を買ったのが最初です。でも、その前にクラシックのレコードやカセットとかは買っていました。
あと中学時代にすごく影響を受けたのが、たまたま父親が買った『映画音楽大全集』というボックスセットで、うちの父親は独身のときに映画がすごく好きだったらしくて、映画音楽を聴きたいからとそれを買ったんだそうです。でも父親はあまり聴いてなくて(笑)、代わりに僕がよく聴いていました。ヘンリー・マンシーニやエンニオ・モリコーネ、あとミュージカルの『ウェストサイド物語』とかいい曲がたくさん入っていて大好きでした。
──いいものが家にありましたね。
栗本:その中にあった映画『黒いオルフェ』の曲でボサノヴァを本格的に知ったり、そのボックスセットの影響は結構大きいかもしれないです。
──昔の映画音楽って名曲だらけですよね。
栗本:本当にそうですね。だから、いまだにバート・バカラックとかすごく好きなんです。
──高校は地元の学校に進学されたんですか?
栗本:地元の高校です。高校に入ったら、より音楽好きな友だちがいっぱいいて、中でもすごく仲良くなった親友が、当時全盛だった貸しレコード屋でごそっとレコードを借りて、カセットにダビングして貸してくれたんです。それを家で聴くのがその当時の日課になっていました。
──いいお友だちですね(笑)。
栗本:はい(笑)。それがすごい楽しみで。それこそシティポップ、山下達郎さんも大滝詠一さんもそうですし、あと佐野元春さんやレベッカとかいわゆる80年代中盤以降のロック、ポップスを聴きまくりました。
──それ以前の70年代のものは、そのときは聴いてなかった?
栗本: 70年代のものを聴く機会はそのときはなかったですね。それこそ81年の『A LONG VACATION』とか、82年の『ナイアガラトライアングルVol.2』を「こんなすごい作品があるんだ」と遡って聴くくらいで。そこで杉真理さんを知って、「杉さんのアルバム持ってない?」と友だちから借りたりしましたね。竹内まりやさんとかもそうです。
──高校時代は音楽一色ですか?
栗本:わりとそれに近いです。学校最寄の駅前に本屋さんがあって雑誌『FMステーション』が発売日になると山積みにされるんです。それで放課後に親友と早足で行って(笑)、一緒に『FMステーション』を買って帰って、エアチェックするみたいな生活でした。
──野球やサッカーといったスポーツには一切興味なしですか?
栗本:小学校の高学年のときにはサッカーをやっていて、中学校になってもちょっとだけやっていたんですがすぐにやめましたし、高校もハンドボール部に入ったんですけど、先輩とケンカしてやめちゃって(笑)。やはり音楽の方が好きで、運動に本気になれないんですよね。それで高2のときに仲のいい友だちと何人かでバンドを組むんですが、ものすごくヘタクソで(笑)。僕はそのときにベースを担当していて、友だちから借りて演奏していました。
──フルートじゃなくて?
栗本:そうですね(笑)。それでバービーボーイズと米米クラブをやろうという話だったんですけど、彼らの曲ってものすごく難しいんですよね(笑)。もちろん今の高校生はもっとうまい子ってたくさんいますが、あの当時「これは無理だな」とか思いながらも、タブ譜とか買ってきて見よう見まねでコピーして文化祭に出たりしていました。ですから高校3年生ぐらいまでは本当に音楽漬けで、特に佐野元春さんが大好きでした。当時の佐野さんは自分の雑誌を作ったり、ポエトリーリーディングをやったり、いろいろな発信をしていて、そこにすごく影響を受けました。
あと映画音楽の影響もあったんだと思いますが、映画もよく観ていて、大阪の西梅田にある大毎地下劇場という名画座2本立てをよく観に行っていました。そこは毎日系の映画館だったんですが2つホールがあって、1つは2本立てで 700円、もう1つのホールは400円で、会員になると割引になるシステムで、そこに土日の度に行っていましたね。
──大変アカデミックな高校生ですよね。
栗本:そういうカルチャー自体に興味と憧れがあったんです。本を読むのも好きでしたし、映画館に行く道中にギャラリー街みたいなのがあって、面白そうなので入って、よくわからないのに見ていたりしていましたね(笑)。
マスコミ志望からレコード会社へ方向転換〜絶頂期のファンハウスに入社
──大学はどちらへ進学されたんですか?
栗本:神戸の甲南大学 法学部です。たまたまそこしか受からずで(笑)。自慢じゃないですけど勉強はほぼしていなかったので。
──しなくてもできるタイプ?
栗本:いやいや、全然違います。卒業は結構ギリギリでしたし(笑)。それで大学では軽音楽部に入りました。大学に行ったら音楽を本格的にやろうと高校のときから決めていたんです。
──楽器は?
栗本:引き続きベースです。
──フルートは復活しなかったんですか?
栗本:復活しなかったです。フルートは中学2年ぐらいでやめてしまったので。楽器は持っていましたからタイミングをみてやろうかなとか、サックスもいいなと思ったりしていたんですが、とりあえず高校のときにちょっとかじったベースの方が手っ取り早いですし、ベースなら需要はそれなりにありますからね。結局ベースを4年間やりました。
──どんな音楽を演奏していたんですか?
栗本:ジャンル的にはいろいろやったんですが、その頃からブラック・ミュージックとか、70年代のフォーク・ロックやカントリー・ロック、あとエルヴィス・コステロみたいなパブロックと呼ばれるちょっとマニアックな音楽に影響されつつ、ロック・バンドやファンク・バンドを組んでいました。
──ファンク・バンドは何人組のバンドだったんですか?
栗本:10数人の大所帯で。自分がリーダーではないんですが、そういう音楽が好きな友だちや先輩がいて「スライ&ザ・ファミリー・ストーンやPファンクみたいなオリジナルやろうよ」って(笑)。
──いわゆる16ビートのバンド?
栗本:そうですね。でもスライもPファンクもベースは特に難しいじゃないですか?(笑) ですから全然上手にできなくて、一生懸命練習したんですが、大したことはなかったです。それよりもやはり聴くほうが好きで、大学に入ってオーディオも一式揃えてレコードをいっぱい買うようになりました。
──それはバイトとかで稼いだお金で買っていたんですか?
栗本:バイトもいっぱいしましたね。最初はレンタルCDショップでバイトをしました。結局、全部音楽関係なんですよね(笑)。僕の大学時代ってバブル経済が崩壊していった88年から91年までなんですが、まだ学生アルバイトの需要がたくさんあり、お金になるバイトって結構あったんですよ。学生相談所というところに行ったら日給1万とか1万2000円の日雇いのバイト案内がいっぱい貼ってあって、それにパッと行って稼いだお金で全部レコードを買うみたいな生活でしたね。
──実家暮らしですと、ある程度金も貯まりますしね。
栗本:そうです(笑)。「いい加減勉強しろよ」って親に言われながらもそういうことばかりをしていました。
──就職活動はどうされたんですか?
栗本:ラジオが好きだったので、ラジオ局に就職したいなと思っていました。それでマスコミセミナーに通って小論文の勉強をしたりして、とにかくテレビ局でもラジオ局でもなんでもいいからどこかに引っかかればいいな、ぐらいの感じでいました。それで大学在学中の89年にFM802ができて、メチャクチャ行きたいなと思ったんですけど、ものすごい倍率で(笑)、書類審査で速攻落ちました。のちに高校の同級生の女の子がFM802に入っていたことを知るんです。
──それは残念でした。他の媒体もたくさん受けた?
栗本:関西のマスコミ媒体とかいっぱい受けましたが、なかなか受からなかったです。
──今も昔もマスコミは狭き門なんですね。
栗本:同じ大学のマスコミ志望の人もみんな落ちていましたからね。ただ、マスコミセミナーにはNHKに受かった子や読売テレビに入った子とかいて、うらやましいなと思いましたね(笑)。ちなみにNHKに入った女の子はのちに独立して映画監督になった三島有紀子さんという人です。当時からすごくとんがった感じの子で「すごいな、この子」と思っていたらやっぱりNHKに入りましたね。
──その後、栗本さんの就職活動はどうなったんですか?
栗本:いろいろ書類は出すんですがなかなか引っかからなくて、あるときに「レコード会社という手もあるな」と思ったんですよね。よく考えたらレコード会社って大阪にもブランチはあるんですが、基本東京採用じゃないですか? それで「東京に行くのもいいな」と思ったんです。
──レコード会社へ入ったら東京へ行けると気づいた(笑)。
栗本:そうです(笑)。で、レコード会社へも書類をいっぱい出すんですが、その中からファンハウスがあれよあれよという感じで決まったんです。
──あの頃のファンハウスってすごかったですよね。
栗本:僕が入る前年の91年は小田和正さんの『ラブ・ストーリーは突然に』と辛島美登里さんの『サイレント・イヴ』、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』という3曲のミリオンがファンハウスから出ていますからね。その頃の新入社員はボーナスが「立った」という伝説があって(笑)、入社したらみんな外車に乗っているみたいな時代でした。
──絶頂のときのファンハウスに入社されたと。
栗本:インディペンデントであそこまで作り上げた新田(和長)さんは本当にすごいですよね。
──ちなみに最終面接は誰がやったんですか?
栗本:新田さんはやってないんです。確か制作本部長だった広瀬(将俊)さんが最終面接の面接官でした。
──その頃の役員って芥川(澄夫)さんとか金子(文枝)さんとかがいらっしゃった?
栗本:そうです、まさにその黄金メンバーです。日本青年館に千人以上集めた会社説明会があったんですけど、ヘリコプターで空撮した映像から始まり、役員が全員ずらっと並んで、新田さんが1人1人紹介するんです。「元トワ・エ・モワで岡村孝子をヒットさせた芥川さん」「金子さんは久保田早紀の『異邦人』を大ヒットさせた敏腕プロデューサーです」って1人ずつ紹介されて「うわ、格好いい!」みたいな(笑)。
──それは格好いいですね。
栗本:「これはすごいな」と思って。まさか受かるとは思っていなかったんですけど。ただ、僕らの世代が一番人数を採ったときで、同期は14人いました。
──それは返田さんもおっしゃっていました。バブルのギリギリ就職の調子がよかった世代だと。ちなみに同期の方々は今でも音楽業界にいらっしゃいますか?
栗本:残っている同期も何人かいますねファンハウスはのちにBMGと合
──受かったというときはやっぱり「やった!」という感じでしたか?
栗本:「東京に行ける!」という感じだったんですけど、なぜか仙台だったという(笑)。結構、唖然としたんですよね。うちの親も心配するのかなと思いきや「仙台はいいところらしいよ」ってあっけらかんと言われて(笑)、「仙台は行ったことないし、行ってみるのもいいかもな」と気持ちを切り替えました。
紙媒体へのプロモーションをきっかけにライターデビュー
──レコード会社のキャリアは仙台でのプロモーションから始まったわけですね。
栗本:はい。4年間仙台で媒体プロモーションをやりました。
──仙台での生活は、返田さんとほぼ時期はかぶるんですか?
栗本:彼の方が少し先に東京へ帰りましたね。ですから、東京出張のときは返田くんの家へ行って泊めてもらったこともありますし(笑)、一緒に飲んだりしていました。
──でも4年って結構長いですよね。
栗本:そうですね。でもあっという間でしたけどね。
──当時ファンハウスの仙台営業所には何名いたんですか?
栗本:僕が行ったときは自分も入れて3人でした。一番最初はポリドールの営業所の中にいて、しかも僕以外の2人は女性だったんです。だから結構大変というか(笑)、お姉さん2人にしごかれた感じです。すごく勉強にはなりましたけどね。
──仙台の雰囲気はいかがでしたか?
栗本:行く前はずっと大阪だったので、関西弁しかしゃべれなくて(笑)、仙台に行く前に「絶対大阪弁は嫌われるから、標準語にしろ。直したほうがいいよ」って脅されたんです。「特に東北の田舎のほうの人はちょっと嫌がるかもしれないから、気を付けたほうがいい」みたいなことをすごく言われて(笑)。
──(笑)。仙台は遊びに行ったことしかないですけど、住みやすそうな街ですよね。
栗本:住みやすいですね。適度に田舎で適度に都会というか、一通りなんでも揃いますし、東京に行くのも新幹線で、2時間で行けるので、フラッと遊びに行くこともできますしね。
──4年の仙台勤務の後、東京に呼ばれたときはうれしかったですか?
栗本:そうですね。ちょうど「もうそろそろいいかな」と思っていた時期だったので。なにかのキャンペーンのときに携帯に電話がかかってきて「東京へ戻らない?」って言われて即「戻ります」と言いました。
──結構、唐突な感じだったんですね。
栗本:わりと急でしたね。それで東京に戻った頃はファンハウスとBMGが資本提携をし始めた時期で、BMGの一部洋楽レーベルをファンハウスに置いて、そこでファンハウス洋楽部というのができたんです。ジョージ・ウィンストンのウィンダム・ヒルレーベルとか、そういういくつかの小さいレーベルはファンハウスでやって、アリスタとか大きいレーベルはBMG本体がやると。
そのときにBMGから来たのが宮田信さんで、宮田さんと一緒にレゲエのビッグ・マウンテンの取材でロサンゼルスへ行ったりしました。結局、会社のいろいろなしがらみもあって、BMGに洋楽レーベルを戻すということになり、たった1年ほどで邦楽のプロモーターになります。その前後でTHE YELLOW MONKEYがコロムビアから移籍してきたりとかしたんですが、他に大きなヒットはあまりなくて(笑)、それでも地道にやっていました。
──邦楽のプロモーションも放送局担当ですか?
栗本:長くやっていたのは紙媒体のプロモーション担当で、音楽誌や女性誌、一般紙に『オリコン』のような業界紙も含めてのプロモーションがメインでした。ラジオもちょっとやったんですけど、基本雑誌が多かったですね。
──要するに雑誌に記事を書いてもらう。
栗本:そうですね。当時はソニー・マガジンズや角川の『CDでーた』、あとシンコーミュージックやリットーミュージックとか、どの音楽誌も元気だった時代ですね。僕はリットーミュージックの担当をしていたんですが、そこに『GROOVE』というDJ向けの雑誌があったんです。僕はその頃クラブミュージックが好きだったので、編集部の人とすごく仲良くなって、編集部へ行くと「最近のハウスはこんなだよ」とか「ヒップホップ、こんなのがあるよ」とか、いろいろ教えてくれるんですよね。僕も「こういうのを買ったんです」とか仕事の話そっちのけで(笑)、自社のものなんてなにもしゃべらないけど編集部に行っているみたいな状態でした。そうこうしているうちに編集部の人に「栗本さん、そんなに音楽が好きだったら書いてみたら?」と言われたのが、音楽ライターの第一歩でした。それが99年ぐらいですかね。
──プロモーションのトークはしていたけど、それまではあまり自分で書いてはいなかったんですね。
栗本:仕事で文章を書くということはまずなかったです。読書感想文みたいなのとか昔から作文とか文章を書くことはわりと好きなほうではあったんです。
──最初に書いた原稿って覚えていますか?
栗本:なにを書いたのかな・・・いわゆるレア・グルーヴが流行っていた時期だったので、昔の日本の歌謡曲やロックを「この曲クラブで使える」みたいに紹介した原稿だったと思います。それこそ、はっぴいえんどや筒美京平さんの歌謡曲とか、クラブで使える曲みたいな。これはピチカート・ファイヴの小西(康陽)さんの影響なんですが、小西さんがはっぴいえんどや、いしだあゆみさんの作品を、ソウルやファンクのレコードと一緒に並べて『ブルータス』とかで紹介しているのを見て影響を受けて、歌謡曲のレコードとかも買うようになりました。本当になんでもありだったんですよね(笑)。
──ライター業務に関して会社には報告していたんですか?
栗本:最初は誰にも言ってなかったですね。そのうちに「お前、あそこで書いているだろ」って言われるようになって(笑)。
──本名のままでやっていたんですか?(笑)
栗本:そのまま出していました。副業という意識もそんなになくて。それこそ宮田さんとかもそうなんですが、みなさん結構ライナーノーツとか書いていたので「別にいいのかな」って思っていました。正式にはダメらしいんですけど(笑)。
── 一応ダメなんですね。
栗本:でも、みんなやっているし逆にそれが仕事につながるみたいな感覚もあったので、割と黙認して面白がってくれていたと思います。ただ、自社のものを書くときもあったりして、それこそ「オフコースの記事を書いてくれ」と言われて「小田さん読んだらどうしよう」みたいな(笑)。だからそういうときは変名で書いたりしていたんですが、基本は自分の名前を出してやっていました。
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第200回 音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉氏インタビュー【後半】