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第200回 音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉氏インタビュー【後半】

インタビュー リレーインタビュー

栗本斉氏

今回でスタート以来、ついに200回目を迎える「Musicman’s RELAY」。ご登場はビクターエンタテインメント返田雄一さんからのご紹介で、音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉さんです。ラジオでのクラシックを皮切りに、映画音楽やラテン、ブラジル音楽、ロック&ポップス、そして日本のシティポップなど幅広く音楽に触れた栗本さんは、新卒でファンハウスへ入社。

その後、ライター活動も開始します。退社後は2年間中南米を放浪し、帰国後はフリーランスとして雑誌やウェブでの執筆、ラジオや機内放送の構成選曲などを担当。また、開業直後のビルボードライブで約5年間ブッキングマネージャーも務められました。昨年出版した書籍『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』も話題の栗本さんにじっくり話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年1月26日)

 

▼前半はこちらから!
第200回 音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉氏インタビュー【前半】

 

「とりあえずブラジルに行ってきます」会社を退社し中南米の旅へ

──いわゆる「和モノ」が栗本さんのライターとしての出発点なんですね。

栗本:そうですね。タワーレコードの『bounce』と、当時Pヴァインが出していた『ロック画報』という70年代のロック、例えば、はっぴぃえんどやムーンライダーズとかを特集するような雑誌があって、そういう媒体にたくさん書いていました。

それで2001年に「喫茶ロック」という企画を立ち上げるんです。これはなにかというと、ちょうどサニーデイ・サービスとか“フォーキー”というキーワードで語られるアーティストが増えてきたときで、サニーデイ・サービスの曽我部(恵一)さんなんかは「はっぴぃえんどとか遠藤賢司って格好いいよね」みたいなことを雑誌で言っていたりして、そういう昔の日本のフォークやフォーク・ロックが注目されるようになっていたんです。

それをひとつのジャンルみたいな形で括ろうと、当時タワーレコードにいた行(達也)さんと、インディーズ系のレーベルもやっていた田口(史人)さん、ユニバーサルにいる浅井(有)さんと4人で「喫茶ロック委員会」というのを作ったんです。当時はいわゆるカフェブームでもあったので「カフェミュージックじゃなくて、喫茶だよ」みたいな感じで(笑)。

──(笑)。

栗本:レア・グルーヴの考え方に近いんですけど、ちょっとレトロな喫茶店でかかっていそうな日本のロックやフォークを「今『赤い鳥』を聴いたらソフトロックだね」とか、新しい観点で捉え直すのが喫茶ロックで、そのシリーズのコンピをレコード会社各社から出したんですが、実はファンハウスからは出してないんですよ(笑)。ファンハウスにはカタログがないので。東芝EMIやソニーの人との宣伝ミーティングに参加しているのに、自社からは出していないって皮肉なんですけど・・・(笑)。そういう活動も含め、ライター活動がより活発になっていきました。

──喫茶ロックへの反響は結構あったんですか?

栗本:ありましたね。一緒にやっていた行さんは当時タワーレコード新宿店の副店長だったので、店頭での展開をすごくしていましたしね。それこそ、くるりやサニーデイ・サービス、小島麻由美さんとかに文章を書いてもらったり、帯コピーをつけたり、結構影響力はあったと思います。

──栗本さんはライティングの部分を担った?

栗本:解説はみんなで担いましたが、特集記事とかあったら自分が結構出て行って、そういう記事を書いたりしていましたし、ソニー・マガジンズで『喫茶ロック読本』というディスクガイド本も出しました。

──ライターとして活躍の幅を拡げる一方、会社員としての栗本さんの評価はどうだったんですか?

栗本:多分、評価は低かったと思いますよ(笑)。「こいつ仕事しているのか」という感じだったと思うんですけどね。でも、なんか変わったことをやっている面白いやつだな、みたいな感じでは見てもらっていて、制作の人とかからはかわいがってもらいましたし、よく「こういう企画どう思う?」みたいな相談も受けていました。

──BMGを辞められたのは何年ですか?

栗本:2004年ですね。ファンハウスから数えると92年から2004年なので12年半ぐらい在籍したことになります。

──辞める動機はなんだったんですか?

栗本:最後の1年、2年ぐらいで制作へ異動になって、最初はorange pekoeという男女のユニットを担当しました。彼らはファーストがすごく売れて、そのあとを引き継ぎセカンドから担当になったんですが、スタジオでなにをやっていいのか全然わからないので、一応制作ができる先輩についてもらって、僕は見習いみたいなことをやりつつ、コンピやサントラとかそんなにカロリーが高くない企画の制作をちまちまやっていたんです。

ただ、その頃からBMGが経営的にもかなり落ちてきたというか、CDも売れなくなり始めた頃にオフィスオーガスタのオーガスタレコードをBMGの中で立ち上げたんです。オーガスタレコードにはスガシカオやスキマスイッチがいましたから結構盛り上がったんですが、「制作暇そうだから、宣伝もやれよ」みたいな感じになり(笑)、仕事量がものすごく増えたんです。それで「この仕事量はヤバいな」「このままでいいのかな?」と考えるようになり、2004年に退社しまして、中南米へ旅に出るんです。

──旅というか海外旅行は以前からお好きだったんですか?

栗本:好きでした。最初の海外は大学3年生の夏休みにニューヨークに1か月間行きました。マンハッタンのど真ん中のすごくボロボロのホテルに泊まって、毎晩ライブに行ったりレコードを買いまくったりしていました。本当に音楽を楽しむために行ったようなものなんですけどね。それで「旅っていいな」と思い、卒業旅行ではアメリカの、音楽にまつわる町へ行こうと、シカゴやデトロイト、ニューオーリンズなど数か所の都市へ行きました。

そういった経験から旅そのものが好きになって、社会人になってからも主に夏休みですけど1週間とか10日休みがとれたらインドやアフリカのチュニジアに行ったりしました。チュニジアに行ったのも『チュニジアの夜』というジャズの曲があるじゃないですか? 「『チュニジアの夜』ってなんだろう?」というぐらいの動機で行ったんですよね(笑)。

──(笑)。

栗本:でも行ったら行ったで、その国の文化やその国にしかない音楽に触れたりして「すごく旅は面白い」という想いが強くなっていったんです。

──会社を辞めてから「さあ旅に行こう」じゃなくて、ちょこちょこ行ってはいたんですね。

栗本:行っていました。日本の音楽も好きだったんですが、それとは別にサルサやサンバなど中南米やブラジルの音楽がすごく好きだったので、直接聴きに行きたいといろいろ調べていたんですが、中南米って遠いですから「これ会社に勤めていたら行けないな」と(笑)。それで「もう会社を辞めるしかないな」と思って、「とりあえずブラジルに行ってきます」と言って会社を辞めました(笑)。

──つまり後先考えずに辞めてしまった?

栗本:まったく考えていないです(笑)。

──日本で住んでいた家はどうされたんですか?

栗本:東京の家は引き払って荷物は全部実家へ送りました。当時34歳だったんですけど、仕事が煮詰まっていたというのもありましたし、まだ独身でしたし、それなりに仕事もしてお金も貯まりましたから、少しぐらい自分にご褒美をあげてもいいかなぐらいの気分でしたね。親にはすごく心配されましたが、とにかく音楽の旅をしようと。

──ちなみに栗本さんは英語等、言葉の方はどうだったんですか? 

栗本:英語も全然ダメなんですけど、音楽が好きな人とはなんかしゃべれるんですよ。ライブハウスとかに行って、隣に座った人と「なにが好きなの?」って筆談で盛り上がったり。

──音楽好き同士だと通じちゃう。

栗本:そうなんです。「おススメは何?」とか「日本にこんなのがいるよ」って教えてあげたり、そういうコミュニケーションをするのがすごく楽しくて、どこの国に行ってもやっていました。

──中南米ですと英語圏でもないですが、それも平気?

栗本:最初はブラジルに3か月いたんですよ。ですからポルトガル語なんですが、これがさっぱりわからない(笑)。一応、会話集みたいなものを持って行ったんですが、それでは全く意味がないくらい難しかったですね。それでも毎日のようにライブやお祭りへ行きましたし、CDも山ほど買って、持ち歩けないから実家へ送るみたいな生活をずっとしていました。

 

2年間中南米を放浪し、各地の音楽に触れる

──ブラジルでの3ヶ月を皮切りに、中南米にはどのくらい滞在されたんですか?

栗本:2年間中南米を放浪しました。

──当時ってネットは今ほど発達していない時代ですよね? 

栗本:まだまだですね。一応ブログで「こんなライブを観た」とか「こんな世界遺産に行った」とか発信はしていました。世界遺産とかも好きなので。

──ブログの更新はノートパソコンとかですか?

栗本:ノートパソコンは持って行っていました。普通にCDドライブがついているノートパソコンでしたし、インターネットカフェでモデムにつなぐケーブルは持って行っていました。そんな時代ですよね。Wi-Fiなんて飛んでないですから。まあまあの荷物ですけど、それでもバックパック1個ですよ。着替えも本当に最小限で、基本寒いところには行かないようにしていたので。ボリビアとか結構寒いところもあったんですが、現地の古着屋みたいなところに行って冬服を買って、離れるときに売るみたいな(笑)。あとiPodも持って行ったんですが、途中で1回壊れたので、メキシコのショッピングセンターで新しいiPodを買ったのも覚えています。

──旅の間はずっとホテルに泊まっているんですか?

栗本:基本そうです。まあホテルといってもバックパッカー向けの安宿っていくらでもあるんです。結構過ごしやすいので、長期滞在している日本人もいっぱいいました。

──ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、チリ、ボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、トリニダードトバゴ、パナマ、メキシコ、キューバ、合計14か国。この順番で回ったんですか?

栗本:そうですね。ブラジル音楽が好きだったから「ブラジルに行きたい」というのが第一の目的で、カーニバルの時期に行くのは決めていたんですが、そのあとは何も決めていなかったんです。ただ、隣にアルゼンチンがあるので「タンゴか」ぐらいの軽い気持ちで行ったらアルゼンチンにハマったんですね。結局、他の国に行ってもまたアルゼンチンに戻ったりしたので、アルゼンチンが一番長く滞在しました。

──アルゼンチンってどんな音楽が主流なんですか?

栗本:アルゼンチンにはタンゴとフォルクローレという2大ジャンルがあって、フォルクローレというと『コンドルは飛んでいく』みたいなイメージだと思うんですが、そういうのではなくて、ジェームス・テイラーがボサノヴァを歌っているみたいな、そんなイメージの音楽がいっぱいあったんです。これは本当にアルゼンチンしかない音楽でしたね。しかもアルゼンチンってヨーロッパの移民が多いので、ジャズでもECMみたいな、クラシックに近いジャズが多かったり、あとブラジル音楽、ボサノヴァとかMPBの影響が大きいですね。

──やはりライブをいっぱい観たんですか?

栗本:小さいライブから大きいライブまで一通り観ましたね。ただ、スタジアムや大ホールでやっているライブって、わりとメジャーなアーティストなので、アメリカやイギリスの音楽に近いというか、メインストリームのロックやポップスが多いんです。でも小さいライブハウスでは、レゲエやクラブミュージックから、さっき話したような新世代のフォルクローレ、あるいはタンゴでもエレクトリックタンゴみたいなやつとか、色々あるんですよ。

──アルゼンチンは日本だとタンゴで語られてしまいますが、もっと色々な音楽に溢れた国なんですね。

栗本:ええ。アルゼンチンに限らず南米は全体的にそんな感じです。みんなよく歌いますし、生活の中に音楽が根付いているんですよね。

──ブラジルのライブをYouTubeでよく観るんですが、客席全体で歌っていますよね。

栗本:僕はブラジルやキューバ行って一番感動したのはそれなんですよね。本当に全員大合唱するんです。ライブに行ってもステージにいる人の声が聞こえないぐらい(笑)、とにかくずっと歌っています。サンバなんかもみんなで歌いながら踊っていて、もう自然と涙が出るというか、とにかくすごかったですね。

──旅をする中で、現地の友だちもできたりしましたか?

栗本:そうですね。特にミュージシャンとかは連絡先を交換したりしましたし、アルゼンチンのミュージシャンなんかは来日するときに連絡をくれたりとか、そういうことはあります。

──2年間で総額いくら使ったんですか?

栗本:どれぐらいですかね?400万ぐらいですかね。意外にそんなものなんですよね。本当に安いところだと一泊500円くらいなので東京で暮らすよりも安上がりだったりするんですよ。今は円安なので事情が違うかもしれませんが、当時は「物価安いな」と思いながら旅していました。

──帰国するきっかけは何だったんですか?

栗本:本当はもう1年ぐらい旅行しようかなと思っていたんです。次はアフリカとヨーロッパまで渡ろうかなと。ブラジルってアフリカから奴隷として連れて来られた人たちがいるので、そこからアフリカへ興味を持ったんです。あとスペイン語をちょっと勉強したので「スペインへ行ってみようかな」とか、いろいろ考えていたんですけど、さすがに2年間遊んだし、お金もそろそろ底をついてきたので2007年1月に日本に帰ってきました。

 

帰国しビルボードライブ東京で日本人アーティストをブッキング

──とりあえず実家に戻られたんですか?

栗本:そうですね。実は旅先で今の奥さんと知り合いまして。

──奥さんは日本の方ですか?

栗本:日本人です。彼女はエクアドルで青年海外協力隊をやっていたんです。エクアドルのすごい田舎町で、僕はその町に行くつもりはまったくなかったんですけど、ペルーからエクアドルに入国しているときに、そこから先のバスがもうないと言われて「しょうがないからここで泊まるか」と街中を歩いていたら、たまたま僕が歩いた通りにあるレストランで奥さんたちが飲んでいて「あれ、今通ったの日本人じゃない?」みたいな(笑)。それでうちの奥さんが呼びにきたんですよ。

──すごい偶然ですね。

栗本:彼女は「すいません!」って叫んでいたらしいんですけど、全然聞こえなくて。そうしたら向こうの人ってみんな親切なので、「チナ(中国人の女の子の意)が呼んでいるよ」って言うんですよ。「俺、チナの知り合いいないしなあ」と思っていたら、別のエクアドル人が来て「チナが呼んでいるよ」とまた言っているので、レストランの方を見たら誰かが手を振っているんですよ。それでそのレストランへ行ったら「初めまして。日本人の方ですか?ここって日本人があまり来ないので一緒にご飯食べましょう」と誘われて、それで仲良くなったんです。

──素敵な出会いですね。奥さんはその街に長いこといらしたんですか?

栗本:彼女も2年間いて。僕と時期はちょっとずれているんですけど。その後、僕のほうが先に帰国して、奥さんは3か月後ぐらいに帰って来たんです。

──それで帰ったらすぐに結婚した?

栗本:そんな感じです。だから結婚した当初、僕は無職だったんです(笑)。ただ旅先でもライター仕事はやっていて「ブラジルの音楽シーンについて何か書いてくれない?」と頼まれて『ミュージック・マガジン』に書いたりとか、そういうことしていたんですが、ほぼほぼ無職で(笑)。それで「せっかく旅に行って来たから」と、各国の曲を集めた『旅のお土産』というCDを作って「こういうのを紹介しませんか?」といろいろなところに売り込みに行きました。そうしたら『ラティーナ』という雑誌で連載が決まったり、J-WAVEの番組やJALの機内放送の企画・構成・選曲をやるようになります。

──一通り自分のプロモーションをされたんですね。

栗本:まあ、売り込みというか「すごかったんですよ」って旅の話をしに行ったという(笑)。そうしたらみんな面白がってくれて。もちろん「仕事に繋げたい」という気持ちもありましたけど、それよりも「面白いものがある」ということを伝えたい気持ちの方が強かったですね。

──帰国後、生活が軌道に乗るまでにはどれぐらい時間がかかったんですか?

栗本:1年ぐらいかかりましたかね。帰って来たのが1月だったんですけど「ブエノスアイレスの本を作りませんか?」という話をいただいて、その年の秋に1か月近く取材へ行き、翌年の5月に書籍(『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』)を出しました。

──今度は仕事でアルゼンチンに行ったと。

栗本:そうです。あと2007年8月にビルボードライブ東京が開業したんですが、ビルボードライブの広報が昔からの知り合いで「ちょっと観にきませんか?」と言われて遊びに行ったんです。そうしたら「ブッキングできる人を探しているんだけど、栗本さん興味ないですか?」と言われて「面白そう!やりたい!」と(笑)。その後、面談して簡単なテストをやらされたんです。テストというのは音楽の知識についてで、結構難しい問題も入っていたんですが、僕は満点だったらしいんです(笑)。「栗本さん、なんでこんなことまで知っているんですか?」「ここまで知識がある人はいないね」と言ってもらって。

──満点はすごいですね。

栗本:それで「興味ある?」と言われて「面白そうなのでぜひやらせてください」と。結婚もしましたし、そろそろ落ち着いて仕事しないとまずいなと思っていた時期でもあったのでよかったです。それが2008年1月ですね。

──ビルボードにはすでに礒崎誠二さんもいらっしゃいましたか?

栗本:いらっしゃいました。実は礒崎さんとはBMG時代から知り合いだったんです。BMGでGOMES THE HITMANというバンドをやっていたんですが、そのマネジメントが礒崎さんだったんです。ですからビルボードに入ったときに「礒崎さんいるんだ」って思いました(笑)。

──ビルボードライブでは海外アーティストのブッキングをされていたんですか?

栗本:いえ、僕は海外じゃなくて日本人アーティストの担当でした。

──南米の音楽とかじゃなくて?

栗本:実は日本人アーティストをブッキングできる人を探していると言われたんです。ビルボードライブを立ち上げたときって本当にブランディングが勝負だということで、最初は外タレしか入れてなかったんです。それで外人アーティストと並べても遜色ないクオリティの高い日本人アーティストをブッキングしていきたいから、ブランディングも含めて手伝ってほしいという話だったんです。

──そこで学生時代に聴いていたシティポップなどの知識が生かされたんですね。

栗本:昔聴いていたものとか知識を総動員しました。「僕が最初に関わったのは細野晴臣さんで、その次はCharさんがクリームの曲をジャック・ブルースと一緒にやるというライブもやりました。ドラムには屋敷豪太さんに入ってもらって。

──それは豪華な企画ですね。

栗本:その後に、今井美樹さんや杏里さん、ちょい下の世代の古内東子さんやキリンジ、土岐麻子さんなど、少しずつ日本人アーティストを広げていったのが、僕の仕事でした。昔からの憧れだった佐野元春さんや角松敏生さんをブッキングできたことも嬉しかったですね。

 

世界中の音楽にいっぱい出会ってほしい

──ビルボードライブで5年間ブッキングを務めた後、沖縄に移住されますがきっかけは何だったんですか?

栗本:大きな理由は震災です。別に直接の被害があったわけではないんですが、いろいろ思うところがあったのと、もうすぐ2人目の子どもが生まれる時期だったんですが、奥さんと「もうちょっと好きなことをやりたいね」と話し合って決めました。奥さんはもともとダイビングの旅行会社で働いていたりして海が好きでしたし、青年海外協力隊時代の友だちが沖縄に移住していたこともあって遊びに行ったりとかもしていて「沖縄に行く?」みたいな感じで(笑)。

──沖縄のどこに移住されたんですか?

栗本:糸満市です。その友だちがいたから、という理由なんですけど。

──沖縄では何をやっていたんですか?

栗本:沖縄ではいろいろやりました。最初ビルボードのブッキングを沖縄にいながらやったり、東京から原稿依頼を受けて、月に何日か東京に行って取材したりとかみたいなことをやっていたんですがなかなかうまくいかなくて、「ちょっと編集の勉強をしようかな」と思い沖縄の出版社に2年ぐらい在籍して、ローカルの雑誌の編集や地元の企業のパンフレットを作ったりしていました。それで2年前の春に東京へ戻ってきました。

──てっきり沖縄音楽への興味から沖縄に行かれたのかと思っていました。

栗本:ただ沖縄音楽の仕事もいっぱいやらせてもらいました。沖縄の音楽は好きでしたから。地元のミュージシャンにインタビューして、それこそビルボードジャパンのサイトに連載させてもらったり、そういうこともやっていました。

──沖縄時代の想い出はなにかありますか?

栗本:沖縄とは直接関係ないんですけど、行ってすぐに『アルゼンチン音楽手帖』という、アルゼンチン音楽についての本を出したんですが、その本によって音楽マニアの間にアルゼンチン音楽をちょっと広められたかなと思いますね。その後、シティポップについていろいろ言われるようになってきて、シティポップに関する記事を書くことがすごく増えてきたんです。

──その流れの延長線上に書籍『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』があるわけですね。

栗本:そうですね。この本は東京に来てから書いたものですけど、ここ5、6年はシティポップのことを書くことが多かったですね。

──書籍『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』も好評だそうですね。

栗本:おかげさまで。今4刷までいっているので音楽書としては売れていると思います。実はこれの続編と言いますか、90年代のJ-POPに関する本を今書いています。

──90年代というと、どのあたりのアーティストが中心になるんですか?

栗本:一番CDが売れた時期ですから取り上げたいアーティストは山のようにいるんですよね。いわゆる大物アーティストのサザンやユーミン、小田和正さんがミリオンを出したのが90年代ですし、90年代の終わりには宇多田ヒカルさんやMISIAさんのようないわゆるR&Bが出てきたり、あと椎名林檎さんみたいな人も出てきましたし、90年代頭はバンドブームを引きずっていて、イカ天のアーティストがデビューしていた時期だったりもしますし、あとは渋谷系があったり、ヒップホップが出てきたり、話題が豊富なんですよね。

──黄金の90年代ですね。

栗本:あと小室哲哉さんやビーイングとか、なんでもありなんです。それを総括すると言いますか、『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』と同じように、ディスクガイドを読むと90年代がなんとなく伝わるみたいな、そういうものを目指しています。

──90年代って言いますが、もう30年前の話なんですよね。

栗本:そうなんですよね(笑)。ついこのあいだのような気がしますけれどね。あと今ソニーの「otonano」というウェブマガジンの編集に携わっています。もともとソニーミュージック・ダイレクトというカタログセクションが作っている「otonano」というポータルサイトがあって、それがリニューアルして去年の4月にウェブマガジンという形で毎月特集を組んでいるんですね。

3月はシティポップの特集をやっているんですが、アーティスト特集で大江千里さんや大滝詠一さんを取り上げたり、エルダー層向けの特集記事に関わっています。その絡みでソニーからコンピレーションCDを作ってくれと言われて、『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』のジャケットをそのまま使ったシティポップのコンピレーション・アルバム『シティポップ・ストーリー CITY POP STORY 〜 Urban & Ocean』を3月に出します。

──最後になりますが、音楽業界で働きたい、あるいはアーティストを目指している若い人たちにメッセージをお願いします。

栗本:今って、本当にワンクリックで世界中の音楽にアクセスできるじゃないですか? それを存分に駆使して世界中の新しい音楽にいっぱい出会ってほしいですね。

この前、あるラジオ番組で「夢はなんですか?」って聞かれたんですが、本当に欧米の音楽や日本の音楽だけじゃなくて、アジアやアフリカや中南米など、行ったこともない、どういう国かもわからない国の音楽について、それこそ「ボリビアの今のナンバーワンの曲って格好いいよね」みたいな会話を普通にできるような時代になるといいなと思います。

──それは可能なんでしょうけど、音源が膨大すぎてなかなか難しいんですよね。

栗本:情報は氾濫しているけれど、そこにたどり着けないという問題はあると思います。ですから、知られていないけれど素晴らしい音楽を、シティポップのようにうまくキュレーションして多くの人に紹介していくこと、それが自分の使命なのかなと思っています。 

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