第202回 株式会社グリーンルーム 代表取締役 釜萢直起氏インタビュー【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は阪神コンテンツリンク Billboard Live TOKYO 長崎良太さんからのご紹介で、グリーンルーム 代表取締役 釜萢直起さんのご登場です。
中学生のときにサーフィンやスケートボート、ストリートカルチャーと出会い、のめり込んだ釜萢さんは、大学在学中にオーストラリアへ留学。サーフィン三昧の日々を送り、帰国後、出版社の広告営業を経て、1999年にグリーンルームを設立。サーフブランドのブランディング業を主軸に活動する中で、2005年より音楽フェス「グリーンルームフェスティバル」をスタート。以後もイベント業やアートギャラリー、映画の配給などに多岐に活動されています。
今回はサーフィンやスケートボートとの出会いから、グリーンルームフェスティバルを始めるきっかけ、そして今後のグリーンルームの活動について話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年3月8日)
サーフィンやスケートボードに目覚めた中学時代
──前回ご登場頂いたBillboard Live 長崎良太さんとはどのようなご関係なのでしょうか?
釜萢:長崎くんとは海外のアーティストを一緒に招聘して、グリーンルームフェスティバルとBillboard Liveでライブをしたりなど、付き合いはもう10年以上になりますかね。
──グリーンルームフェスティバルとBillboard Live、一石二鳥な関係なんですね。
釜萢:お互いに埋め合えるというか、Billboard Liveもやりつつフェスも一緒に出られると、アーティストにとっても演奏の機会が増えますからね。
──長崎さんは非常に魅力的な面白い方でした。
釜萢:彼は仕事もしやすいですしね。長崎くんが昔、名古屋のブルーノートにいる時から知っています。僕は今でもBillboard Liveによくライブを観に行くので、そのときはいつも「あ、長崎くん」って挨拶する感じですね(笑)。
──ここから先は釜萢さんのことを伺いたいのですが、東京・町田のご出身だそうですね。
釜萢:町田駅からは車で15分ぐらいのところで、中心部というよりはちょっと郊外という感じでした。一番近い最寄りは玉川学園になるので、ちょっと鶴川側に行くというか・・・薬師池という公園があるんですけど、そっち側のほうですね。藤の台団地という昔で言う都営団地のどデカいのがあって、いかにもベッドタウンの郊外という感じでした。僕が小さい頃の町田って田舎でしたし、ヤンキー文化が絶好調の時代でしたね。
──国道16号線沿いはそういう文化が華やかですよね(笑)。
釜萢:ヤンキー文化ど真ん中みたいな(笑)。でも小田急線で江の島や鵠沼まで一本でいけるので、中学生ぐらいになると、ヤンキーになる子もいればスケートボードやサーフィンを始める子も出てきて、ボンタンを履きながらスケートボードをやったり、サーフィンで鵠沼に行ったりみたいなやつが結構いましたね。
──釜萢さんもその1人だったと。
釜萢:そうですね。中学になるとスケートやサーフィンを始めて、音楽にも少しずつ興味を持つようになりました。
──ご両親はどういったお仕事をなさっていたんですか?
釜萢:両親は2人とも公務員でした。当時の運輸省、今で言うと国土交通省に2人とも務めていました。
──ご両親とも堅いお仕事ですね。
釜萢:堅いですね。でも親父はすごくお酒が好きな人で、明るいタイプの人です。
──ご兄姉は?
釜萢:男3人で僕が真ん中です。兄と弟は結構真面目で、兄は薬剤師として製薬会社に勤めていて、弟は赤ちゃん用品のメーカーに勤めています。
──では、釜萢さん以外のご家族は音楽やサーフィンには無関係だったと。
釜萢:まったく関係なかったですね。父もサーフィンとか全然やらないですし(笑)。中学校に上がったときの仲間たちがちょっとヤンチャなタイプだったんですけど、みんなバイオレンスなのは好きじゃなかったので、自然とスケートボードやサーフィンのほうに行ったんです。
──ちょっとおしゃれ系な。
釜萢:そうですね(笑)。町田はスケートやサーフィンも盛んでしたし、ライブハウスやクラブもあるような町だったので、のめり込んでいった感じですね。
──昔の町田駅周辺って結構ハードな雰囲気が漂っていましたよね。
釜萢:バイオレンスなこともよくありました(笑)。刺激的な毎日だったので、楽しかったですけどね。
──(笑)。釜萢さんご自身は道を外さずにスポーツが好きな普通の少年だったと。
釜萢:はい(笑)。悪い方向にグイグイ行くようなアグレッシブな性格ではなかったと思います。
サーフィン三昧だったオーストラリア留学
──学生時代、音楽は聴かれていましたか?
釜萢:好きではありましたけど、バンドをやった経験もないですし、そこまでのめり込んでいなかったですね。高校のときはラグビー部だったんですが、普通に部活をやっていました。初ライブは、中学1年の時のブルーハーツの国立代々木体育館のライブでしたね。
──ちなみにサーフィンは何歳から始められたんですか?
釜萢:サーフィンは中学1年の夏休みからです。
──その時代には電車にサーフボードは持ち込めたんですか?
釜萢:持ち込めました。大体友だちの兄貴とかがサーフィンをやっていて、その板を借りて5、6人、多いときは10人ぐらいで1枚の板を回すような感じでやっていました。鵠沼海岸のプールガーデンの前あたりで。サーフボードを買うお金もなかったですしね。
──高校も地元ですか?
釜萢:そうです。町田の都立高校です。高校時代もサーフィンとスケートボードをやりつつ、町田の街に夜な夜な遊びに出ていました。
──サーフィン、スケートボードは相当お上手なんですか?
釜萢:そんなこともないですけど、若い頃は大会に出たりしていました。あと大学在学中にシドニーに留学したのもサーフィンがやりたくて、オーストラリアを選んだという感じでしたね。
──大学はどちらに進まれたんですか?
釜萢:一浪して拓殖大学です。
──オーストラリアには大学何年の時に行かれたんですか?
釜萢:オーストラリアは大学3年のときに1年間行って、大学4年のときに戻ってきました。今思えばこのオーストラリア留学は大きかったと思いますね。
──オーストラリアはどちらの街に?
釜萢:シドニーです。
──シドニーってサーフィンできるんですか?
釜萢:街から30分ぐらい行くと海がずっとあるので、大体どこでもできる感じでしたね。ゴールドコーストほど南国ではないですけど、サーフィンがライフスタイルの中にあるような感じでした。ライフセービングクラブがビーチ毎に整備されていて。
──それはサーフィン留学だったんですか?
釜萢:いえ、普通の交換留学で、オーストラリアの英語学校と大学に通っていました。でも、真の目的はサーフィンだったという感じですよね(笑)。毎日サーフィンをしていました。
──オーストラリアはやはり波が大きいんですか?
釜萢:そんなにデカくないですけど、コンスタントにやれる感じでしたね。それでも日本よりは全然デカいですけど、ハワイやタヒチみたいな感じではないです。
──オーストラリアでの1年間の思い出はやはりサーフィンですか?
釜萢:やっぱりサーフトリップが一番楽しかったですね。向こうに行って車を買って旅して行くので。今でも好きですけど。
──オーストラリアでは1人で部屋を借りていたんですか?
釜萢:初めの1か月だけホームステイしたんですが、毎日食パンとか決まった食事が多い家だったので、なかなか口に合わず、結局、自分でアパートを借りて自炊しながら住んでいました。
出版社の広告営業から独立しグリーンルーム設立
──1年間オーストラリアで過ごして日本へ帰ってきたときには、卒業後どんな仕事をしようと思っていたんですか?
釜萢:そのときはサーフィンにまつわる仕事をしたいと強く思っていたので、帰って来てすぐにサーフィンの世界大会でアルバイトをしていました。当時、千葉とかで世界大会をやっていた時代で、成田まで選手を迎えに行って一緒に寝泊まりして、というようなアルバイトを始めたんです。
その後、サーフィン専門誌の出版社にアルバイトで入ったんですが、その出版社がなくなってしまったので、就職活動をして新卒で『ワープマガジン』というストリートカルチャーや音楽などを題材とする雑誌を出版していたトランスワールドという会社に入りました。そこで広告営業の仕事を2年間ぐらいしていました。
──その雑誌は今もありますか?
釜萢:今は人気のウェブマガジンとして配信されています。裏原ブームやメロコアブームの頃はすごく勢いもあって格好いい雑誌でした。
──そこで得た仕事上のつながりは今に繋がっていますか?
釜萢:そうですね。やはり『ワープマガジン』での経験は大きかったですね。「ワープド・ツアー」というライブツアーもやっているような出版社で、『ワープマガジン』ってもともとはアメリカの雑誌なんですけど、そのライセンスを獲って日本で出版していたのがトランスワールドという会社だったんです。
『ワープマガジン』の他にも『トランスワールド スノーボーディング』という、スノーボードの専門誌を出したり、僕の好きなストリートカルチャーやアクションスポーツを題材にする出版社でした。
──釜萢さんの趣味趣向にあった会社で社会人デビューしたわけですね。そういった仕事をすることに対してご両親は反対とかされなかったんですか?
釜萢:全くなかったですね。親も「自由にやりたいことをやっていったらいいんじゃない?」というスタイルでした。
──「国家公務員試験を受けろ」とか、そういう感じではなかった?
釜萢:なかったですね。多分兄が真面目でいてくれた、というのがデカかったのかもしれないです(笑)。自分が独立するときも「まあ、やるだけやってみたらいいんじゃない?」と応援してくれました。
──そして、1999年に独立しグリーンルームを設立されますが、もともとグリーンルームはどういった業務を行う会社だったんですか?
釜萢:サーフブランドの広告やデザインとか制作物をやらせていただく仕事をしていました。フリーランスの営業マンが会社を作った感じですよね。それプラス編集プロダクション業をやっていまして、宝島社『smart』の別冊を作ったり、マガジンハウスの『relax』の広告とかもやっていました。僕はサーフブランドやスケートボードのブランドが大好きだったので、日本でのプロモーションのお手伝いみたいな形ですね。
──会社は1人で始められたんですか?
釜萢:1人で始めました。渋谷並木橋にアパートを借りて、そこを事務所兼住居にしていました。その1年後ぐらいに初めての社員が1人入りまして、そこから今年で25年目という感じですね。
──当時、サーフィン関係のブランドというのはそれなりの予算を広告に使っていたんですか?
釜萢:当時はまだ雑誌がメインの媒体だったので、いろいろな雑誌に広告を出していましたね。そのデザインを作るためにカメラマンとやり取りしたり、広告のビジュアルを作るためにアーティストに色々なイラストをお願いしたりする中で、アートの世界にも関わるようになります。僕は学生のときからずっとサーフィン、スケートボード、音楽、アートというジャンルが好きなので、今もそこを突き詰めているという感じですかね。
カルチャーの匂いがするフェスへの憧れ〜グリーンルームフェスティバルをスタート
──2005年にグリーンルームフェスティバルを始めるきっかけは、2004年にアメリカ・カリフォルニアのラグーナでのムーンシャインフェスティバルを観たことだそうですね。このムーンシャインフェスティバルはどういったフェスだったんですか?
釜萢:ムーンシャインフェスティバルは、通常のフェスと違って、映画監督やアートギャラリーのオーナーたちが組んで立ち上げたフェスだったんです。まだ有名じゃなかったジャック・ジョンソンが出演していたり、いろいろなフォトグラファーやペインターたちがアートをやったり、あとフィルムのセクションもあって、そこではサーフィンの映画とかを流しているようなフェスでした。
その噂を聞きつけて観に行ったんですが、すごく格好良くて、心を動かされたんですよね。それですぐにムーンシャインフェスティバルのオーガナイザーを紹介してもらって「ぜひ日本でやろう」と提案したら「やろうやろう」と話が進んだんです。でも日本に帰ってきてほどなくして、そのムーンシャインフェスティバルは資金難でなくなってしまったんですよ。
──本家がなくなってしまった?
釜萢:僕が観に行ったのは3回目だったんですが、その回で終了してしまいました。
──つまりその志を引き継いだのが翌年から開催しているグリーンルームフェスティバルであると。
釜萢:そうですね。
──正直、音楽業界の方でもなく、イベンターの経験もない人が「格好いいから」とフェスを始めるってすごい話だと思うんですよ。しかも釜萢さんはすごく若かったわけじゃないですか?
釜萢:フェスを始めたのは30歳のときでした。でも、ムーンシャインフェスティバルは本当にすごく格好いいフェスだったんですよね。それまでもオーストラリアや日本でコンサート主体のフェスは観たことがあったんですが、なんというかカルチャーの匂いがするフェスというのはムーンシャインフェスティバルが初めての体験でした。
当時ジャック・ジョンソンとかもペインターやフォトグラファーと談笑しながら、その辺をふらついていたり、そういうサーフコミュニティみたいな形がすごく格好よく見えたんです。日本はどちらかと言うと、まだもう少しコンペティション思考だったというか、サーフカルチャーもそこまで洗練されていなかったんですよね。
──なるほど。
釜萢:ですから、そういうスタイルを日本でも是非やりたいなと思いましたし、仕事でずっとサーフィンとかも扱っていましたから、音楽やスケートボード、ファッションのリアルな現場としてフェスをやってみたいと強く思っちゃったんですよね。
──とはいえ、現実的に1人でできるわけもなく、例えばスタッフなり陣容を整えたり、いろいろな根回しなど結構大変な作業だと思うんですが、なぜ翌年すぐにできたんですか?
釜萢:それはもう友だちや仲間、知り合いに助けてもらいながらという感じですよね。ライブ自体、それまで1回もやったことがなかったですし、第1回目はチケットも600枚ちょっとしか売れなかったのですごい赤字で、結局会社で補填しました。
──グリーンルームという会社は2005年の段階でそこまで余裕があったんですか?
釜萢:いや、やっぱり当時の社員とかは苦い顔をしていましたね。完全に会社の利益をフェスで食っているという構図だったので。でも広告代理って刹那的なところがあるじゃないですか?メディアは出版社とかのものですし、ブランドはメーカーさんのもので、広告代理はその間のブローカーのようであり、実際には何も作っていないわけで。
──不動産屋に近いブローカー的存在ですよね。
釜萢:そういうことに対してもどかしさをずっと感じていましたし、自分たちがちゃんと発信できるものをグリーンルームとしてやりたいという気持ちがすごくありました。広告代理とかブランディングの仕事をすればするほど、ブランドは他人様のものと実感するので。自分たちでもカルチャーを作っていけるようなことをやってみたいという気持ちは当時からすごく強かったです。
──でも、600枚しか売れないとなるとしんどいことになりますよね。
釜萢:ええ。当時の会社にとっては大きな赤字でしたが、その1回目で僕はフェスにのめり込んだんです。それまでは会社対会社の仕事が多かったんですが、グリーンルームフェスティバルで初めて自分とオーディエンスという関係ができたというか、ダイレクトにオーディエンスの歓声や笑顔を感じることができたのはすごく大きかったと思います。
実は1回目は2月開催で雪が降っていたんですけど、雪が降っている中、並んでいるお客さんがいたりとか、そういうのもすごく嬉しかったんですよね。
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第202回 株式会社グリーンルーム 代表取締役 釜萢直起氏インタビュー【後半】