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第203回 アーティスト / フィールドデザイン / ディレクター キャンドル・ジュン氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

キャンドル・ジュン氏

今回の「Musicman’s RELAY」はグリーンルーム 代表取締役 釜萢直起さんからのご紹介で、アーティスト / フィールドデザイン / ディレクターのキャンドル・ジュン氏のご登場です。

バイオリン制作者の父のもと、ヴァイオリンのレッスンに長野から東京へ通った少年時代を経て、上京後の1994年頃よりキャンドル制作を開始。パーティシーンやフェスなど様々なフィールドで空間演出を行い、キャンドルデコレーションというジャンルを確立。2011年、東日本大震災を受けて「一般社団法人LOVE FOR NIPPON」を発足し支援活動を始め、月命日の11日には、毎月福島各地でキャンドルナイト、3月11日には「SONG OF THE EARTH 311 FUKUSHIMA」を毎年開催しているキャンドル・ジュンさんにお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年4月6日)

 

バイオリンを習いに月2回長野から東京へ通う日々

──前回ご登場いただいたグリーンルームの釜萢直起さんとはいつ頃出会われたんですか?

ジュン:最初の出会いがいつだったかは定かではないんですが、彼が横浜の大桟橋でグリーンルーム・フェスティバルを始めた頃から参加し始めて、その後、会場が赤レンガ倉庫になり、ちょっと規模を拡大みたいなタイミングで空間ディレクターとして呼んでもらうようになりました。

──グリーンルーム・フェスティバルの初期の頃からのお付き合いということですよね。

ジュン:ええ。当時はフジロックやいくつかのフェスをやっていましたし、わりと音楽業界の方々との仕事も多かったんです。でも、グリーンルームはちょっと系統が違って、主催者が一番音楽業界じゃないという(笑)。

──(笑)。

ジュン:釜萢くんは広告代理店業的というか、セールスを考えてフェスを始めるという、これまでなかった発想でのスタートだったので、面白かったんですよね。いまだにリスペクトするところは多々ありますし、いわゆる音楽業界から派生した他のフェスとはちょっと違うなという感じがします。

──グリーンルームのようなフェスの方が仕事はやりやすかったですか?

ジュン:そうですね。音楽業界って音響さんや照明さん、舞台監督さんとか、優先順位と言いますかメンバーが固定されているじゃないですか?そこではキャンドルデコレーションや空間演出って二の次、三の次的なところだったので、自分がライブ演出に入るというハードルがそもそも高かったんです。フェスなどの仕事をする前はパーティシーンというか、トランスパーティやレイブパーティとかいわれるシーンのほうを作っていて、そのあとにフジロックなどフェスの依頼が来たみたいな感覚ではあるんですよね。

──パーティシーンとフェスのギャップみたいなものは感じましたか?

ジュン:概念自体が大きく違うなと思いました。パーティシーンってみんなで作ってみんなで共感する、楽しむという感じですが、音楽シーンだとエンターテインメント提供なので、どんなステージがあって、どんなアーティストが出るのかが重要で、提供する側、お客さん側みたいな線が大きくあります。パーティは究極的には誰が出るかわからなくても問題ないというか、そういったマインドがだいぶ違うなと思いましたし、いろいろ違和感はありました。逆に言うと、いわゆる音楽業界に入っていくための礼儀作法じゃないですけど、いろいろクリアしなきゃいけないことをきちんとできるようになったので、だんだん仕事にもなってきたのかな? とは思うんですけどね。

──音楽業界というのは独特な、一種の閉鎖社会ですよね。だから新参者はちょっとやりにくい部分はあると思います。

ジュン:あと、昔はもっとジャンルの抗争みたいなものもあったんだと思います。自分が入ってきた時代ですら、ジャンルで徹底的に仲が悪いみたいな時代だったなと。

──ジャンルが入り乱れるみたいなイベント自体なかったですよね。

ジュン:クラブイベントにしても、モッズはモッズ、ハードコアはそれのみ。そんな感じだったじゃないですか。それぞれのジャンルのファッションと音楽、そして生き方において絶対に相容れないみたいな部分が90年代後半ぐらいから混じり合うようになってきたんですよね。そういう意味では、自分が若いときに一番面白い時代に巡り会えたというか、ちょうどいいタイミングだったんでしょうね。

──ここからはキャンドル・ジュンさんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは長野県の松本とお聞きしています。

ジュン:はい。松本で生まれ育って、高校卒業後しばらくして上京しました。

──お父様がバイオリンの制作者だそうですね。

ジュン:両親ともにバイオリンを作っていたので、家の隣にはアトリエがあって、家には常に親がいるという環境でした。幼稚園のときから仕事場で遊ぶのが好きで「将来これ(バイオリン制作)をやりたい」と宣言したらしいんです。兄弟が上に2人いたんですが、上の2人はバイオリンに興味がなくて、末っ子の自分だけが「やりたい」と言った結果、松本から東京・田園調布の偉い先生のところまでバイオリンを習いに行くことになりました。

東京コンセルヴァトアールの加藤潔先生のところにうちの父親がバイオリンを卸していた関係で、その大先生が特別にレッスンしてくださったんです。それで月に2回、当時土曜日は午前中授業があったんですが早退して、田園調布まで通ってレッスンを受けていました。

──子ども1人で行っていたんですか?

ジュン:さすがに小学校の高学年までは親がついていましたけどね。家から駅まで送ってもらって、特急あずさに乗って東京へ向かって。行くのに4時間ぐらいかかっていました。

──レッスンはどんな感じだったんですか?

ジュン:最初の半年ぐらいは挨拶の練習というか、頭を下げて上げるスピード感とかバイオリンや弓の持ち方とかを教わるんですよ。その後、バイエルン的な教本は使わず、先生が1分もかからないような曲なんですがコピー用紙の楽譜を練習します。それを1年間ずっと練習していました。先生の意図としては、いくら難しい曲でも練習すればできるようになるけれども、「いい音」だけは初期の段階で決定してしまうから、その「いい音」を出すためのレッスンを繰り返していたんです。子ども心にもその意図はすごくわかったんですが、問題は自分がバイオリン演奏のプロになりたいわけじゃなくて、「バイオリンを作ること」を教わりたかったんですよね。

──(笑)

ジュン:父親はバイオリンが弾けないことがコンプレックスで、作っていけばいくほど試し弾きができないストレスがあったようです。ですから、息子にはそういった苦労はさせたくないから弾けるようになってほしいという親心だったのですが、最もハードルの高いところに入れられちゃったのは自分でもわかりましたし、そんなに裕福な家ではなかったので「お前ばかりずるい」と兄弟にも責められるんですよね。

あと、コンサートもあるのですが、他の小さい子は午前の部とかなんですけど、僕は大人の部に入れられちゃって「あの子は特別に大先生に習っているらしいわよ」みたいな目でみられたり、すごく辛かったです。とにかく自分の目的と置かれている環境のギャップがひどすぎて、多分そのあたりから、いろいろ物事を深く考えるようになったのだと思います。

──ちなみに東京に行ったときは1回何時間ぐらいのレッスンなんですか?

ジュン:15時から16時くらいでレッスンを1時間ほど受けて、そこから電車であずさの最終に乗って帰ってくると23時とか24時になるという感じです。

──移動だけでもヘロヘロですよね。

ジュン:移動のほうが圧倒的に多いです。その時間も自分自身のことを考える時間になっていましたね。

 

東京の楽しみ方を覚えた中学時代

──バイオリンを習っているうちに「もっとうまくなりたい」という気持ちにはならなかったんですか?

ジュン:課題曲とかだと「なんとかこなさなきゃ」というプレッシャーが強かったので、あんまり好きにはなれませんでした。

──本当は彫刻刀を握って木を削りたかったのに、バイオリンを弾かされたわけですからね。

ジュン:そうですね。ただ、おかげさまで音だけはなんとなくわかるようになったので、小学校の高学年のときとかは父親の作っているバイオリンを弾いて、善し悪しを言ったりしていました。

あと、うちはカトリックのクリスチャンだったので、日曜日は教会のミサに出て、日曜学校でキリストの教えを学ぶみたいなこともやっていたんですよ。ただでさえ毎日3時間のバイオリンレッスンや月2回の東京行きだったり、「小学生男子なのにバイオリンをやっている」と舐められないように学校行事や運動にも積極的に参加していましたから、とにかく時間がないんですよ。

──無茶苦茶忙しいですね・・・。

ジュン:自分からすると時間をどう無駄にしないようにするか常に意識していたので、子どもの時は毎週日曜日に教会へ行って懺悔している大人たちがバカみたいに見えたんです。「毎日キリストの教えの通りに生きていれば、毎週懺悔しなくてもよくない?」って(笑)。なんて非効率なことをしているんだと思っていました。

──苦労した子ども時代ですね(笑)。売れっ子芸能人並みのハードスケジュールというか。

ジュン:東京に行くときは長い電車移動だったので憂鬱なわけですよ。忘れもしないですけど、ブルーハーツだとかそういう音楽をウォークマンで聴いてました。練習をきちんとしていたら先生の前でもそれなりにいい音が出るのですが、そうでないときにいかに誤魔化すかとか、すごく後ろ向きな思考で田園調布まで行くのがとにかく嫌でした。

──要するに好きじゃないことをやらされていたという感覚なんですかね。お父さんとしてはバイオリンを作るにしろ演奏家になるにしろ、なんとかうまく誘導したかったということなんでしょうけど、そうはならなかったと。

ジュン:父親が「作るためには弾けなきゃ」とポロッと言ったことから、周りはよかれと思った結果、大先生が直々に教えることになっちゃったので、もう止めるに止められない状況になったわけですが、同時に父親の夢が「自分が作ったバイオリンを息子がプロになって弾いてくれて、宣伝してくれる」という夢に変わったんです。

──お父さんからしたら理想的ですよね。

ジュン:父親の視点からすれば理想的なんですが、こちらからすると最初からねじれているのにさらにねじれてきたなと。自分が物心ついたときには、ちょっと歳の離れた兄と姉の反抗期がすごくなって、毎日のように親子げんかしていたんですが、僕はその光景を客観的に見ていて「そんな不満よりも自分の不満のほうがデカいぞ」という自負がありました(笑)。そこでクールかつ理論で喧嘩を止める癖もつきましたしね。

──そうなるとかなり大人びた子どもだったんじゃないですか?

ジュン:そうですね。学校の中でも大人びていたというか、考え方やそれこそファッション、髪型もちょっと変わっているというか。そういうところではオンリーワンでいたいという感覚は強かったです。

──そのバイオリンを中心とした忙しい生活はどのくらい続いたんですか?

ジュン:小学生の段階で「中学へは行かないで、バイオリンを作る学校に行きたい」って言ったんですよね。中学校ってまだ番長とかヤンキーたちの巣窟だったので、ハードな中学校生活しかないなと思いましたし、バイオリンのレッスンで東京に行くのもやめたいと思ったんです。でも両親には「中学だけは出てくれ」と言われたんですよね。上の2人の反抗期も頂点で「高校を辞める」とかそういう話もあり、家族的には上の2人がどうしようもないから、僕だけはせめてまともに・・・みたいな理論が働いて(笑)。

──(笑)。

ジュン:「せめて中学だけは出てくれ」と。それで中学に入ってもバイオリンのレッスンは続けていたんですが、その頃、東京での遊びを覚えたんです。兄がもう東京に住んでいたので、ファッションやいろいろなお店を紹介してもらったり、東京の楽しみ方がわかっちゃったというのが中学時代です。

──それはレッスンで東京に行ったついでに遊んでいたんですか?

ジュン:東京行きを1泊2日コースにしたんです。前は日帰りだったんですが1人で行くし、東京には兄貴もいるからと、金土日、東京にいるみたいな生活になりました。それってすでにバイオリンのためじゃないんですけどね(笑)。

──そして東京で夜遊びを始めたと。

ジュン:バイオリンをロッカーにぶち込んで洋服屋巡りをしたりとか。ですから田舎の中学生にしてはかなり早熟な方だったと思います。体もデカかったので中学生に見られなかったですし。

──¬¬東京をエンジョイできた?

ジュン:エンジョイしていましたね。それで中学が終わる頃には、今度は兄が「バイオリン職人を継ぎたい」と言い出したんです。そうすると長男制度が勝ってしまって、父親の「息子をバイオリン制作者にする」という夢は長男に引き継がれ、次男の僕は「やっぱり弾くほうに」みたいな。「いやいやいや」って思いましたけど(笑)。

──作るのと弾くのを分業しろと(笑)。

ジュン:このままだと本当にこのファミリービジネス的なプランに飲まれてしまうと思って、中学校卒業時・・・いや、もっと前に父親に「バイオリンを作る道に行くのか、もう辞めていいのか、逆に選んでくれ」って投げたんです。高校に行きたいかというと行きたくなかったんですが、高校に行くんだったら、これからは手に職をつけなきゃまずいと思ったんですよね。あと中学ではバスケもずっと続けていて、バスケット推薦で呼ばれている高校がいくつかあったので、「じゃあバスケで高校へ行くならバイオリンはやめるけど高校いくか辞めるか選んでくれ」と父親に再度投げたら「高校へ行ってくれ」と言われたんです。それでバイオリンをやめることになりました。

 

いろいろなジャンルにいたいという意識

──高校時代はどうだったんですか?

ジュン:高校にはバスケットで入ったので、バスケットで成果を出さなきゃと思う反面、卒業後のことを準備しなくてはと思い、飲食店でバイトをしていました。あとバイオリンじゃなくて改めて自分なりの表現はなにかということを考えていましたね。ですから、絵を描いたり、文章を書いたりとか、いろいろなことを始めていました。

──せっかく松本に住んでいるんだからスキーとかならいつでも行けるじゃないかとか思ってしまうんですけど、そういったことはしなかった?

ジュン:全然。お金をかけて遊ぶことはしなかったです。自分の中でいまだに「遊びたい」という概念があまりないというか、ほとんどを修行として捉えていて、酒飲みの場も修行だと思っていたんですよね。やはり飲まれたら終わりですし、いかに酒をコントロールして、その場でのコミュニケーションを取るかとか、なんでも修行だと思っていました。そもそも休みという設定がないですし、逆に言うと仕事という設定もない。全部やりたいことをやろうと。その反動かもしれないですけど、今はやりたいことしかやりたくないと思っています。

──ちなみにお兄さんは現在バイオリンを作っているんですか?

ジュン:兄は高校を中退して東京にいたんですが、継ぐとなってアメリカのシカゴにあるバイオリンを作る学校へ留学するんですが、そこで売れる前のスマッシング・パンプキンズとルームシェアしたりする中で、バイオリンに集中せず色々なことに楽しみを覚えちゃったみたいで(笑)、バイオリン1本でやっている感じではないですね。

──なるほど(笑)。バイオリンを作って生計を立てている人が周りにいないのでよく分からないんですが、経済的に厳しいものなんですか?

ジュン:多分うちはずっと借金状態で、父親も酒が入ると「俺がどれだけ頑張っているか」みたいな愚痴を言うので、子どもたちも荒れてしまったみたいところはあるかもしれないです。

──お父様は、技術的な評価は高い方なんですよね。

ジュン:おかげさまで、何年か前にテレビ番組で紹介されていました。それは父の作ったものと本場のものとを比べるみたいな番組で、最初はバイオリンの名産クレモナの先生が作るバイオリンと、父の作っているバイオリンのどっちがいいか、プロが目隠しで聴き比べたら1回目は圧倒的に勝ったらしいんです。それで2回目はストラディバリウスと戦ったら負けたんですけど父のバイオリンにも票が入ったという。父のバイオリンは100万円、ストラディバリウスは1億円ですからね。父親は材料も北海道などの国産にこだわっていて、それも評価して貰えてありがたいみたいなことを言っていましたね。

──その番組によってお父さんのバイオリンの価格は上がったんですか?

ジュン:多少は上がったと思いますけど、多分その番組を活かしていくこともしていないので、そんなでもないと思います。

──お父さんも要するにアーティストということですよね。社会的な父親というよりはアーティストとして比重のほうが大きいというか。

ジュン:ちなみに父親はボランティア活動も好きだったんです。

──なるほど。お父さんとジュンさんは遺伝子的には似ているんですね。

ジュン:父親はよく「みんなが優しくなれればいいのに」みたいなことを言っていたんですが、そういったボランティア精神は自分も大事にしたいなとは思っていますし、逆に理想と現実のバランスをとりながら生きていくことも大事なんだろうとも思っていました。その中で自分は「いかに日常生活の中でよりよい生き方をするべきか?」ということをすごく模索していたと思います。

まさに東京に通っていた小さいときから「なんのために生まれてきたんだろうか」とか「なにをすべきか」という問いがずっとあったんです。つまり自分が求めたことがズレて、周りを巻き込んで、自分ではどうしようもない渦の中で生かされているみたいな状況だとずっと感じていたので、早く自分の人生を取り戻そうと18歳のときに思ったんですよね。

ただ、18歳当時はバブル後半で、家賃も、飲み食いも高くて、とにかくなにかをしてお金を稼がないと生きられないとなってくると、「なにをすべきか」の目的どころじゃなくなってくるんですよ。それまでは寝る場所もあり、冷蔵庫を開ければ食べ物があった状態での悩みだったわけで、「このまま悩んでいるのはヤバいな」と思いました。それこそ自分探しの旅みたいなのが当時流行り始めていて、海外へ行く人も多かったと思うんですが、それも違うなと思って、自分は「引き籠もる」ことを始めたんです。

──引き籠もる、ですか?

ジュン:当時、赤坂にあるロックバーに社員扱いで働いていたんですが、休みの日に部屋の中でロウソクを灯して音楽をかけて、自分で自分探しをやろうと。

──そのときにロウソクに出会った?

ジュン:正確には、年に何回かあった教会でのミサが、ロウソクとの最初の出会いですね。ロウソクを灯しての瞑想に関しては、啓発本だとか、宗教本だとか、いろいろなものを漁っていたんですが、なにか特定のもので学びを得たら、その色がつくと思っていたので、ずっとオリジナリティということは意識していました。それで自分のルールとして「食べない、飲まない、眠らない」と決めて、自分と向き合う瞑想をしていました。

──その当時、同じような趣向の人たちって周りには結構いたんですか?

ジュン: 90年代前半、いろいろなのをつまみ食いしていったときに、グレイトフル・デッドやヒッピー・カルチャー、コミューンみたいなコミュニティもいいなと思っていたんですが、そっちのほうに行くとちょっと泥臭すぎる感じもあったりとか、どこのコミュニティを覗いても派閥じゃないんですが、グループがあるなと思ったときに、例えば、音楽業界やファッション業界とか、どのジャンルかわからないところにいようと意識していました。

──あえて特定の繋がりを持たなかった?

ジュン:そうですね。ですからパーティシーンでは、ある程度名が知れていたかもしれないですが、極力ファッション系のところにも顔を出したりとか、いろいろなジャンルにいたいという意識はありましたね。それは中学校ぐらいからずっと実践していた「番長グループの上下関係に入らないでどうやって過ごすか?」みたいなことと通じているような気がします。「争いを生まないためにはどうしたらいいのか?」みたいなことがテーマとしてずっとあったんです。

そこで割と救われたというか道が見えたと思ったのが、アメリカ・インディアンの考え方との出会いで、彼らに憧れるということではなく、自分のルーツや日本という地域がどんなところなのかきちんと知らなければ、いずれアメリカ・インディアンに会うときに恥ずかしいなと思ったんです。その辺から少しずつ日本に意識がいくようになりました。その後、ダライ・ラマのイベントで原爆の残り火を広島で灯す機会をもらったのをきっかけに、広島や長崎、沖縄、北海道だとか日本のいろいろな場所をめぐりながら、自分が作ったキャンドルで平和の火を灯すという旅を始めました。

 

自分で自分の命=キャンドルを作る〜キャンドル・ジュンの誕生

──ご自身がキャンドルアーティストとして本格的に活動していったのは、そのダライ・ラマのイベントに参加したことがきっかけなんですか?

ジュン:それではないですね。先ほどお話した「引き籠もり」を1泊2日でやったとしても、そこそこ悟った気分になるんですが、また日常の仕事が始まるじゃないですか。 だから「いかんいかん」と思って、また「飲まず食わず眠らず」みたいな形で瞑想をするんですが、これって昔自分が毛嫌いしていた教会のシステムとなにも変わらないと思ったんです。それで「これではダメだ」と思って、期間も決めずに飲まず食わず眠らずで続けていた時に3日間ぐらい自問自答していたら、3日目に無意識のうちに近所のスーパーへ行って弁当を買っていたんです。それで弁当を買ったときにレジのおばさんに「ありがとうございます」と言われたときに、“生きることを選択してくれてありがとう”と言われたように感じたんですよね。だいぶはしょっていますけど(笑)。

やはり「なんのために生まれてきたのか」「なんのために生きるか」ということを考えるためには死も考えないといけないと思って、そのとき死に方も考えていたんです。ただ、自分の最後のアクションが誰かを悲しませるアクションになってしまうのも違うと思って、では自殺じゃない死に方ってなにかあるだろうかとか、逆説的に言うと悲しむ人がいるんだったら、全員疎遠にしてやればいいのかなとか、それをバカみたいに一生懸命書きだしたりして、ひたすら考えていたんです。

──そういったことを自分の部屋で、飲まず食わず眠らずで、ずっと考えているんですか?

ジュン:そうですね。「飲まない、食べない、眠らない」という絶対的に決めていたルールなのに無意識のうちに弁当を買いに行ってしまったということは、もう「死ぬ」という選択肢はないなと思ったんですよね。じゃあこの弁当を食ったら「どう生きるか」だけを考え直そうと思い、部屋のキャンドルを灯そうとしたんです。そのキャンドルはお金がなかったので、いろいろなキャンドルのかけらを自分で溶かして作っていたんですが、自分で作ったキャンドルを見たときに、キャンドルって寿命に例えられたりしますけど、それで考えると「自分で自分の命を作っていたんだな」とふと思ったんです。で、即座に答えが出たというか、こんなに面倒臭い思考回路を持っている自分だから、生きると決めた以上は自分で命を作ればいいんだという風に納得して、キャンドルを作るようになったんです。

僕はよく「キャンドルアーティスト」という肩書きで言われることが多いんですが、実は自分では1回も言ったことがないんです。便宜上メディアの方たちが「つけさせてください」とつけただけで。「キャンドルを作るジュン=キャンドル・ジュン」と名前の中に肩書も入れていますしね。それで、キャンドルを作って灯した部屋にいろいろな友だちを呼んで、その友だちが「この部屋ヤバいんだよね」とまた別の人を呼ぶようになったんです。そこには芸能人や音楽・ファッション関係の人たちなどがいました。

──その場所はどこだったんですか?

ジュン:代々木上原のアパートです。スタイリストさんや面白い人が何人か住んでいて、気が付けば全員友だちみたいな感じでした。僕の部屋は24時間サロンみたいになっていて、常にいろいろな人が来て、キャンドルが灯っている空間を楽しみながらお酒を飲んで話をして、キャンドルを買って帰るみたいな感じでした。

──それはおいくつのときですか?

ジュン:21とかですかね。働いていた赤坂のバーが建て直すからということで1年間仕事がなくなるタイミングと重なって、そのままキャンドルを作るだけになりました。それで会社にしたのは2005年ですかね。

──キャンドルだけで生計は立ったんですか?

ジュン:それも「本当に好きなことだけやっていたらどうなるか?」と実験していました。本当に手元からお金が消えた、ヤバいと思った時には誰かが来てたくさんキャンドルを買ってくれるみたいなことが続いたんです。お金はなくてもまだ材料があるから作ろうかと思っていたら、タイミングよく誰かが来たり、ちょっと神がかっているというか「運命だな」と思うようなことを何回か体験して「このままで大丈夫だ」と悟ったんですよね。

 

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第203回 アーティスト / フィールドデザイン / ディレクター キャンドル・ジュン氏【後半】