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第204回 株式会社スローハンド・リレイション 代表取締役社長 佐藤亮太氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

佐藤亮太氏

今回の「Musicman’s RELAY」はアーティスト / フィールドデザイン / ディレクターのキャンドル・ジュンさんからのご紹介で、スローハンド・リレイション 代表取締役社長 佐藤亮太さんのご登場です。

大学卒業後、新宿リキッドルームのバイトとして音楽業界に入った佐藤さんは、トイズファクトリーの販促部を経て、27歳のときにスローハンド・リレイションを設立。ウェブなどのクリエイティブ制作プロデューサーやアーティストのマネージメントに従事。近年は六本木ヒルズアリーナで開催された「福島フェス」や地元・福島開催の「LIVE AZUMA」などイベントも手掛ける佐藤さんにお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年5月8日)

 

キャンドル・ジュン氏との出会いはNew Acoustic Camp

──前回ご登場頂いたキャンドル・ジュンさんとはいつ頃出会われたんですか?

佐藤:最初の出会いは「New Acoustic Camp」というアウトドア・ミュージックフェスだったと思います。「New Acoustic Camp」は、群馬県水上のゴルフ場でやっているフェスで、僕はその立ち上げからお手伝いとして参加していて、ジュンさんは装飾のメインプロデューサーとして参加されていました。

僕はそのフェスでフォローしている範囲がオフィシャルバーやグッズだったりして、ジュンさんとは範囲が違ったので特に面識があるわけではなかったのですが、打ち上げ等で少しずつお話しするようになりました。ジュンさんは3.11に福島で毎年イベントをやっているのですが、「今後イベントを続けていく上でどんな場所がいいかな?」とご相談頂いて、僕は「福島フェス」というイベントをやっており、その繋がりの中からJヴィレッジを紹介させていただきました。それでJヴィレッジでやるとなったときから僕もスタッフとしてジュンさんのイベントに関わるようになりましたね。

──「New Acoustic Camp」でご一緒されたのは何年ごろなのですか?

佐藤:初回からだったので2010年ですかね。で、次の年に震災が起きたんですよね。

──それ以来、お互いにフェスやイベントの主催者など、いろいろな形でずっとつながってきたという感じですか。

佐藤:そうですね。出会ったとき僕はイベントを主催していたわけではなくて、ただイベントを手伝っていたというだけなんですが、やはり3.11というのが僕にとって大きな転換期で、僕自身が福島出身というのもあるのですが、そこから福島を軸としたイベントをやることが多くなっていきました。

──ここからは佐藤さんご自身のことを伺いたいのですが、先ほども少し話に出ましたが、お生まれは福島だそうですね。

佐藤:はい。産まれは福島県福島市です。

──どんなご家庭だったんですか?

佐藤:父は中古車屋をやっていて、ずっと働いている印象でしたね。

──現在の職業なりポジションにつながるような音楽的バックグラウンドはあったんでしょうか。

佐藤:特になかったですね。高校生のときに軽音部のようなところにいたぐらいのレベルで。もちろん音楽は大好きでしたが、それは普通の音楽好きの人とあまり変わらないと思いますし、仕事にすることは考えていなかったです。

──例えば、家の中でよく音楽が流れていたとか、小さいときに音楽を習ったとか、そういう感じではなかった?

佐藤:そうですね。僕は長男なので、友だちみたいにお兄ちゃんやお姉ちゃんの影響を受けてではなくて、同級生の中に先走っている人っているじゃないですか? そういう人から影響を受けて音楽を聴いていた感じでしたが、そこもあまり特別なことはなかったと思います。

──ちなみに小さいときに流行っていた音楽はなんですか?

佐藤:洋楽でいうとボン・ジョヴィとかですね。一番売れたアルバム(「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」)が出たのが、僕が小学校2年生か3年生の頃だったと思います。あと、邦楽はブルーハーツとかですかね。

 

家業のため理工学部に進学〜クラブ・カルチャーとの出会い

──佐藤さんはどんな少年だったんですか?

佐藤:なにかで目立ったという記憶も特になく(笑)いたって平均的だったような気がします。ただ協調性がないのは自覚していて、バンドというのが自分の中ではあまりしっくりこなかったですね。今はもう子どもがいるのでなかなかできないんですが、以前はたまにクラブでDJをやっていたんですが、そっちのほうが僕には合っていると思います。

──チームプレイはそんなに好きじゃない?

佐藤:そんな人間が会社をやっている場合じゃないんですけど(笑)、性格的にはそうなのかもしれないです。

──バンドで楽器は何をやっていたんですか?

佐藤:ドラムとベースですね。ベースは中学校のときに弾き始めました。とはいえ、大学生のときに音楽業界で働くことを考えたときも、プレイヤーになることは1ミリも考えていなくて、どちらかというと裏方として盛り上げる方をやりたいなと思っていました。

──大学はどちらに行かれたんですか?

佐藤:上京して日本大学に入りました。親の後を継ぐことも視野に入れて、理工学部 機械工学科に進学したんですが、そこはほぼ自動車について勉強する学科なんですよ。

──機械工学科を出た人はみんな自動車メーカーに行くような?

佐藤:自動車メーカーに行けるのは本当に一握りで、部品メーカーとかに進む人が多かったですね。僕の時代はいわゆる就職氷河期だったので、トヨタとか日産とかそういうところに行ける人は本当に成績上位者だけでした。

──ご実家が中古車販売業という環境でお育ちになって、バイクや車とか小さい頃からお好きだったんですか?

佐藤:実はそうでもなくて(笑)、「なんでこの大学を選んだのかな」という感じだったんですよね。もちろん家業のこともありましたし、F1とかをすごく観ていた時期もあったので、好きではあるんだろうなと思うんですが、公道を走っている車とかに興味があるかと言われるとそうでもなく・・・(笑)。

──(笑)。自動車雑誌とかを読みまくって車にすごく詳しかったりは?

佐藤:全然です(笑)。どっちつかずで20代ぐらいまできていた感じがします。車の運転は嫌いじゃないですが、バイクは乗ったことないですし。

──上京されて、なにかカルチャーショックみたいなものはありましたか?

佐藤:やはり東京のクラブやライブハウスには影響を受けました。地元でもライブハウスやホールでライブを観たりしていたんですが、東京に来てクラブに行ったり、大学の友だちがクラブを借りてイベントをやったりとかそういうことも含めて、夜遊びを経験していく中で、大学で出会う人と夜の街で一緒に遊ぶ人というのがどんどん乖離していきました。

──バイトは何かやっていましたか?

佐藤:夏休みなど長期休みのときにはしていましたが、理系って課題が多くてバイトがなかなかできないんです。製図もCADとかあったんですが、まだ手書きの時代で、ずっとデカい製図台に向かっていましたね。

──では、学校には真面目に通っていらしたんですね。

佐藤:4年で卒業しています。「なんとなく違うかな?」と思いつつも、大学を辞める度胸もなかったですね。

──でも、夜のクラブで音楽を聴くとかそういうことはずっと続けて。

佐藤:そうですね。3年の終わりぐらいに大学の研究室に配属されるんですが、そこの先生にも「ちょっと違うかもしれません」「このラインじゃないかもしれない」という話を少しずつし始めて、実はその先生が大学院にも誘ってくれたりしたんですが。

 

「バイトでいいので雇って欲しい」新宿リキッドルームのバーテンに

──就職活動はどうされたんですか?

佐藤: 2、3回ぐらい自動車部品関係等の会社の面接試験を受けたんですが「やっぱり止めよう」と思って(笑)、電話帳を広げて、とにかく上から下までライブハウスに「バイトでいいので雇って欲しい」と電話して「すぐ面接に来てください」と言われたのがリキッドルームだったんです。

──いきなりライブハウスへアルバイトの電話ですか!素晴らしい行動力ですね!

佐藤:そうですね(笑)。それで面接したら「じゃあ、明後日から働いてください」といった感じで決まって。

──ライブハウスで働きたかったんですか?

佐藤:なんとなくライブハウスに電話していましたね。大学の理工学部を卒業して一体なにやっているんだと思われますが(笑)。

──リキッドルームがまだ新宿歌舞伎町にあった時代ですか?

佐藤:そうですね。僕は新宿時代の最後の方でした。

──リキッドルームでの日々は、それまでの大学生活とはまったく違ったんじゃないですか?

佐藤:ぶっちゃけてしまうと、大学のときって片手どころの話じゃないといいますか、本当に3人ぐらいしか友だちができなかったんです。女子も1学年で2名くらいの学科でしたし、楽しくなかったんですよね。でも、リキッドルームで働くようになって、夜の仕事が終わったあとに「これからイエローに行くけど一緒に行こうよ」みたいな感じで誘ってもらう中で、あっという間に友だちや知り合いが10人単位で増えていったんですよ。「僕の居場所はここなんだな」って思いましたね(笑)。

──当時は都内のクラブに出没しまくっていた?

佐藤:そうですね。若造なのでいろいろな人にかわいがってもらっていましたし、友だちもたくさんできました。リキッドルームってもともとライブハウスなので、近郊のクラブとの接点って元々あまりなかったみたいで。それが、僕らが遊びに行くことで開拓されていって、向こうがリキッドルームのイベントに遊びに来てくれたり、クラブ同士のつながりができました。クラブっていろいろな人がいるじゃないですか?お金持ちの人がいたり芸能人もいるし、かと思えば真反対な人種もいて。さまざまな人たちとクラブで出会えて本当に楽しかったですね。

──当時盛り上がっていたクラブというとどこになりますか?

佐藤:イエロー、マニアックラブとかですかね。ジャンルによっていろいろありましたよね。

──通い始めた頃ってクラブ文化がピークを迎えていたときですか?

佐藤:どこがクラブ文化のピークかと言われるとわからないのですが、盛り上がっていたと思います。僕は行ったことがないですが、その前の時代の芝浦ゴールドとかそういう時代を経て音楽性も多様化していった頃だったのかなと。リキッドルームでもトランスからプログレッシブハウス、ドラムンベース、ハウス、テクノ、そしてエレクトロニカと様々なジャンルのパーティが開催されていました。

──新宿リキッドルームというと生のバンドがやるスペースみたいなイメージが強かったですよね。

佐藤:ええ。土日だけクラブ営業をするみたいな感じです。ですから土日は17時から21時ぐらいまでライブがあって、中2時間開けて23時から朝までクラブ営業していました。リキッドルームはもちろんクラブミュージックもあるし、アイドルの日もあれば、たまに桑田佳祐さんが超シークレットライブをやっていたり、すごくスペシャルな箱だったので、そういった音楽を毎日聴けて最高だったなと今でも思います(笑)。ビジュアル系やジャムバンドとか、とにかくいろいろなジャンルのアーティストが出ていましたから。

──佐藤さんご自身もジャンルは幅広く聴かれる?

佐藤:もちろん苦手なものもありますけど、聴かないことには始まらないですしね。

──リキッドルームでの佐藤さんの仕事はなんだったんですか?

佐藤:そのときはバーテンです。だからお客さんとも仲良くなれるんですが、多分僕の今の土壌はそこからなんです。そのときに出会った人たちが偉くなっていっているだけで(笑)、名刺交換みたいなところから始まってない感じですね。

──結局リキッドルームには何年いらしたんですか?

佐藤:2年ぐらい働いていました。それで24のときにトイズファクトリーに転職しました。

 

スローハンド=職人たちといい仕事をしたい〜スローハンド・リレイション設立

──トイズファクトリーに転職するきっかけはなんだったんですか?

佐藤:漠然とレコード会社で働きたいと思っていたんですよね。リキッドルームでずっとフリーペーパーを出していたんですけど、その編集も手伝わせてもらっていて、そこでライターさんやいろいろなミュージシャンと接点がありましたから、そういった人たちと会うたびに「レコード会社に入りたい」と言っていたんです。そうしたら、ある人が「トイズが募集しているよ」と教えてくれて、直接トイズの方を紹介してくれたんです。

──トイズファクトリーではどんな仕事をしていたんですか?

佐藤:販促ですね。そもそも当時のトイズファクトリーって営業部がなくて、バップさんが営業をやっていたんです。ですからトイズ側のA&Rとバップの営業とのつなぎのような仕事が多かった気がします。もちろんタワーやHMVといった旗艦店の営業のサポートもやらせてもらいました。

──実際にトイズファクトリーに入ってみてどうでしたか?

佐藤:ライブハウスの生活とはまた全然違った刺激的な日々でしたね。「CDはこうやって売れていくんだな」とか、アーティストさんに対する接し方とか、もちろんCDショップに対するプレゼンだったり、そういうことを勉強させてもらいました。あと、偶然ですが同じような趣味の同年代の人が働いていて、彼らと一緒にクラブや野外でイベントやレイヴパーティのようなことをやれたので、それはすごく良い経験でした。今となっては、この辺りから僕の中で「イベントやりたい」という熱が出てきたきっかけだったと感じています。

──そしてトイズファクトリーを2年で辞められますが、やはり「あまり長くいる場所ではないな」と思われたんでしょうか?

佐藤:社内がいろいろ削減されていく中で肩を叩かれたといいますか、そんな中、ありがたいことに僕のことを気にかけてくださっていた人たちがたくさんいらっしゃって、「今こういう会社が募集しているよ」と紹介をしてくれる人がいて、結局2、3社ご紹介いただいたのですが、それもあまりピンとこなかったり・・・。

──紹介してくれたのはレコード会社ですか?

佐藤:レコード会社だったり、ライブハウスだったり、複合的にやられている会社さんだったりですね。それで「一人でやってみようかな」と思ったんです。

──そして2005年に独立してスローハンド・リレイションを設立されますが、どういった業務から始めたんですか?

佐藤:そのとき預けていただいたバンドが1つあったのですが、そのバンドは自走しているバンドだったので僕があまりやることがなくて、他に自分でやれることを考えたときに、まだレコード会社にウェブの部署とかが無かった時代で。僕は多少プログラミングを理解できていたので、そこに勝機があるのではないかなと考えたんです。そこでウェブ制作という切り口で営業してみたら、結構すぐにリアクションがあったんです。

──いいところに目をつけましたね。

佐藤:今から考えるとそうですね。だから今もうちの会社にはウェブ制作部門があります。あと、ウェブ制作と並行してアーティストのマネージメントや、クラブミュージックのレーベル業務もやっていました。これは今でも続いているものもあって、そのお仕事の中でも今の自分の仕事につながっているものが沢山ありますね。

──ちなみにこのスローハンド・リレイションという社名には由来があるんですか?

佐藤:僕は特別なスキルがあるわけではないですから、スローハンド=職人さんという風にとらえて、職人さんたちといい仕事をしていきたいなと思い付けました。なので“スローハンドのリレイション”なんですよ。

──なるほど。最初にやったウェブのお仕事はなんだったんですか?

佐藤:L’Arc〜en〜Cielさんの案件ですね。当時Myspaceってあったと思うんですが、彼らは世界中でライブをやるので、当時ワールド版のウェブサイトがマイスペースだったんです。あれってデザイン的にいじろうと思えば結構いじれたので、世界発信のゴージャスなページを作りたいという依頼でした。

──それは納得のいくものができたんですか?

佐藤:今となってはもうないですけど、納得のいくものができたと思いますね。

──今もウェブ制作は事業の大きな柱のひとつになっているんですか?

佐藤:そうですね。ただウェブの制作といっても、作って渡すだけの業務ではなくて、どちらかというとそこからさらにSNSなどを使ってブランディングしていくとか、イベントの裏側を見せていくとか、そういう方面に広がっている感じで、今はフェスのSNSの運用もやっていたりします。

──制作と運営を一体で請け負っているんですね。

佐藤:やはり、中に入って理解しないとできないんですよね。ですから定例会とかには毎週参加しています。

──そうなると長いお付き合いになってきますね。現在は何社ぐらいとそういうお付き合いをしているんですか?

佐藤:イベント、フェスで言うと4つで、あと先日トレイルマラソンという160キロぐらい山の中を走るマラソンがあるんですけど、そのイベントのSNS運用みたいなのをやったりもしています。あと、イベントに紐づいて、マーチャンダイズ(グッズ)のデザイン・製作や、場合によっては販売管理まで請け負う事業も数年前から始めています。

 

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第204回 株式会社スローハンド・リレイション 代表取締役社長 佐藤亮太氏【後半】