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映画『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』公開記念、鮎川三姉妹インタビュー「お父さんは最期の最期まで畳み掛けるように音楽をやっていました」

インタビュー フォーカス

Photo by 西岡浩記

1月29日に74歳でこの世を去った鮎川誠さん。1978年にシーナ&ロケッツを結成して以来、最後まで現役のロックミュージシャンとしてステージに立ち続けた彼の素顔に迫ったドキュメンタリー映画『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』が公開された。今回は映画公開を記念して鮎川誠さんの3人の娘さん、モデルで画家の長女・陽子さん、シーナ&ロケッツのマネージメントを担当する次女・純子さん、そしてシーナ&ロケッツにボーカルとして参加する三女・LUCY MIRRORさんのインタビューをお送りする。

ちなみに純子さんは2001年から2011年まで副編集長から後に編集長として弊誌『Musicman』を支え、LUCYさんも当時高校生ながら締め切り間際の最も忙しい時期にアルバイトとして手伝ってくれた間柄でもある。そんな懐かしいメンバーが久々に集まり、映画や今後について家族としての立場から語ってくれた。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、長縄健志、杉本海斗 取材日:2023年9月11日)

左より三女・LUCY MIRRORさん、次女・純子さん、長女・陽子さん

追悼映画として撮り始めたわけではなかった

ーー映画『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』を拝見したんですが、こんなに家族が密接で、濃厚な生活をしている家なんてめったにないんじゃないのかと思いました。お父さんは仕事、お母さんは家事、子どもはそれぞれみたいな家が多い中、鮎川家は改めてすごい家族だったんだなと思います。シーナさんが旅立たれて、より繋がりが強まったのかなとも感じました。

陽子:お母さんがいるときから、ずっとそんな感じでした。私たちもお父さん、お母さんの仕事が特殊な仕事というのは分かっていましたし、小さい頃からお母さんたちがツアーに出かけたときは離れて暮らすのも当たり前というか、お母さんたちが帰ってきたときに部屋が散らかっていたり、心配かけたりするのはいけないと思って、3人で一生懸命留守番していました。

ーー陽子さんと純子さんは何歳まで九州でおじいさん、おばあさんたちと暮らしていたんですか?

陽子:6歳ですね。九州にいたときは、お母さんたちがコンサートの合間を見つけては九州に会いに帰ってきてくれる感じでした。ただ、そんな生活だと寂しいからずっと一緒に暮らしたかったみたいで、お母さんたちも生活が安定してきたというので東京に呼び寄せてくれて、それがちょうど小学校に上がるタイミングだったんです。

ーー実は私にも娘たちがいるのですが、映画を観て「俺、こんなに娘たちから慕われてないな・・・」と思ったんですよ(笑)。この映画を観たら、娘を持つほとんどのお父さんはそう感じると思います。

一同:そんなことないですよ(笑)。

LUCY:お父さんとお母さんって、お互いずっと尊敬し合って暮らしていたんですよね。よくドラマとかで、お父さんのことをお母さんが馬鹿にしたように娘に話したりするシーンとかあると思うんですが、うちの家はそういうことが全くなかったんですよ。お互い尊敬し合ってラブラブというか、愛がある姿を見ているから、私たちもお父さんのことを馬鹿にしたりすることは一切なかったですし、もうめちゃくちゃかっこいい、尊敬する存在として家にいてくれたんですよね。

シーナ Photo by Fred B.Slinger

ーーシーナさんもご病気されたときに「マコちゃんを支えるために私は生きてないといけないのに申し訳ない」っておっしゃっていたと、映画でも描かれていましたね。

LUCY:お母さんってルックスは派手にしているけど、家事もしっかりやって料理も美味しかったですし、本当に古風な女性だったんです。「女は一歩引いて男を立てる」とかそういう部分もありました。

陽子:お父さんもお母さんもお互いを大事にしていたってことですよね。口では「九州生まれだから」みたいなことを言っていましたが、お父さんもお母さんも本当に自然体でした。

ーー当事者として映画を観ていかがでしたか?

LUCY:最初は、ただ単に監督の寺井(到)さんがお父さんのことがすごく大好きで尊敬していて、それでお父さんに密着したドキュメンタリーを撮りたいという企画だったんですよ。お父さんの格好良さやその人間味とか、音楽性とかに迫るみたいな企画で、私も「ずっとライブについてくる人がいるな」みたいな感覚だったんです。

純子:もともとはRKB毎日放送の30分番組(「74歳のロックンローラー 鮎川誠」)だったんです。それをYouTubeに2週間限定であげたら、ものすごく反響があったそうで、それをもう少し拡大して作ろうと。

ーー鮎川さん追悼のつもりで作り始めたわけではないんですね。

陽子:そうなんです。それなのに偶然にも、その拡大版(「シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢」)を東京のテレビ局で放映する日が、まさにお父さんのお葬式の日だったんです。放送日は前々から決まっていたのに。

LUCY:だから、寺井さんも、お父さんが亡くなってしまったということで、映画化する際に方向性を変えざるを得ない部分もあって。

純子:寺井さんが2015年から撮りだめてきたシーナ&ロケッツのライブ映像や貴重なインタビューの数々がはじめて映画になったことも嬉しいのですが、寺井さんが発掘した父のプライベートな映像や秘蔵音源も追加されていたり、あと親交の深かったミュージシャンや関係者の方々にも出演していただいて、それがほんとに素晴らしい言葉をたくさんいただいて。それが1つの作品になったんです。

ーー監督の寺井さんの印象は?

純子:本当に愛情深くマニアックな人です。もともと福岡のジュークレコードに熱心に通っていた、松本康さん(博多の“ロックの拠点”として知られる1977年に開店した福岡初・輸入レコード専門店「ジュークレコード」創立者)の門下生のような、すごく音楽好きな方なんです。

LUCY:どんどんキャラが立ってきて(笑)。寺井さんはたくさん舞台挨拶をしてくれているんですが、感動したのは「監督、一言お願いします」と司会の人に言われて「いや、僕の話なんてみんな聞きたくないと思うので、今日は鮎川誠さんとシーナさんの声を届けたいと思います」と、昔の超レアなライブ音源のMCを流してくれたんですよ。そこでお父さんが「また会おう!」とか言っていて、それでみんな泣いちゃって。寺井さんって人の心を感動させる何かを知っているんですよね。

Photo by 松村宗一

ーー映画からも、ミュージシャンやクリエイターに対する敬愛を感じました。

純子:そうですね。福岡で発祥したロックの源流やルーツ、音楽カルチャーとしての独特な魅力も広く継承していかなくてはという思いが根底にあるんでしょうね。あとすごくピュアな方だと思います。

LUCY:寺井さんは最初お父さんを中心にバンドを追いかけていたんですが、私がボーカルとして一緒にツアーを回っているのを見て、「娘たちが手伝っている」ことに気づいて、「インタビューさせてください」ってお願いされたんです。それでライブ後のぐちゃぐちゃな姿でインタビューに答えていたら、寺井さんがブワーっと泣き出して、インタビュアーが泣くなんて初めての経験だったので、すごく驚いたんですよね(笑)。

それで思い出したんですけど、その1年前にお父さんに「ライブ後にインタビューさせてくれ」という人がいて、私は端の方で聞いていたら、インタビュアーの人が泣き出しちゃったんですよね。それが寺井さんで「あのときの人だ!」って(笑)。

純子:だから「これを大ヒットさせてやろう」みたいなそういう気持ちじゃなくて、本当にお父さんやバンドのことを多くの人に伝えたいという気持ちだけで作られたのかなと思いますね。

ーーシーナ&ロケッツのファンの1人として制作されたのかもしれませんね。

LUCY:以前のインタビューで、寺井さんが「コロナになりライブをするのが難しい中で、今日ライブをやれてどうですか?」みたいな質問をしたら、お父さんは「今日やれたことが本当に嬉しい」って答えただけなんですけど、それで寺井さん泣き出しちゃって(笑)。お父さんの言葉を聞きに来たんだ、どうしてもお父さんの言葉が欲しかったって言うんですよ。

ーー多分、アーティストがライブをできない状況の中で、寺井さんの中にも色々思うところがあったんでしょうね。

純子:本当にコロナは辛かったですよね。「ライブを延期してくれ」って簡単に言われるんですけど、お父さんは70歳もとうに過ぎていたし、「1年後にまたやってください」と言われても「1年後なんて先のことはわかんないよ! そんなに悠長な時間はないんだよ!」って心の中では思っていました。

LUCY:半年ぐらいライブをやらなかったら、やっぱり楽器も重く感じますし、腕もなまる感じはありましたからね。あの休止期間はお父さんたちぐらいの年齢だと結構辛かったと思います。やはり続けることで維持している部分もありましたから。

シーナ亡き後、ステージをやることで自分を奮い立たせていた

ーー映画はシーナさんが亡くなった1ヶ月後に北九州・若松を訪ねる鮎川さんの姿から始まりますが、その頃から振り返らせてください。2015年2月14日にシーナさんが亡くなったとき、すでに純子さんはシーナ&ロケッツのマネージメントをしていたんですか?

純子:そうですね。FBコミュニケーションズ(Musicman運営会社、以下FB)を辞めたのが2011年で、そのあとからマネージャーをやっていました。最初は元・東洋化成の、当時マネージャーだったエイベックスの本根誠さんの下について見習い的な感じだったんですが、2012年からは1人でやりはじめました。

ーーやはりシーナさんというメインボーカリストが旅立ってしまったわけですから、バンドの活動や、もちろん家族の生活も一変したんじゃないですか?

純子:一変しましたね・・・。

LUCY:でもシーナ&ロケッツはしばらく3人で活動していて、お父さんが歌える曲は全部歌っていたんです。もちろん、女性のキーじゃないと歌えない曲も結構多かったんですけど、「レイジー・クレイジー・ブルース」も「ユー・メイ・ドリーム」もキーを変えずに頑張って歌っていて、それはそれで良かったんです。「それが聴きたい」という人も結構いましたし。

Photo by 西岡浩記

陽子:お母さんが亡くなって、まず47都道府県を回る「47ツアー」というのをやったんです。お父さんが「日本の都道府県はシーナと同じ47だから巡礼の旅だ」と言って日本全国をずっと回って。

純子:「ファンの人たちに直接お礼が言いたい」みたいな感じで。お母さんの葬儀には全国からたくさんの方たちが来てくださったので、今度はこっちから行きたいと、丸1年間ぐらいかけて回りました。毎年全国ツアーはやっていたんですけどね。

陽子:お父さんは気持ちを奮い立たせるつもりで、また1から始めるつもりで日本全国を回ったんです。そのときは、純ちゃんがすごくお父さんを支えていて、車も運転したりして。

ーー車を運転できるようになったんですね(笑)。

純子:なりました(笑)。やはりマネージャーをやるには車を運転できないとダメだということで、FBを辞めてすぐに免許を取って。

陽子:47ツアーのときは、純ちゃんの娘の唯ちゃん(唯子)がまだ1歳くらいだったので、私が家で面倒をみていました。そのとき「こんな小さい子供がお母さんと離れて大丈夫なのかな?」ってちょっと心配だったんですけど、純ちゃんとしては自分の娘も大事だし、お父さんも大事だしというところで、両立しようとすごく頑張っていました。

それで私も唯ちゃんが寂しい思いしないように、純ちゃんの代わりに一生懸命遊んであげたり、お父さんがツアーに行っている間の犬の散歩とか家のことはLUCYがやってくれて、本当にみんなで助け合いながら、お父さんを応援していました。やはりお父さんはすごく落ち込んでいましたし、寂しい気持ちでいっぱいだったんですが、ステージをやることによって自分を奮い立たせていたんだと思います。

ーー鮎川さんもステージをやることが生きがいになっていたと。

陽子:そうですね。ステージに生きがいを見出したというか、お母さんがいなくなった喪失感を埋めるためにすごく一生懸命やっていましたし、そういう気持ちを私たちも分かっていたから、少しでもその力になりたいと思っていました。

ーーお孫さんの唯子ちゃんが生まれたのは何年ですか?

純子:2014年です。

LUCY:生まれた日にお父さんとお母さんと私で病院に駆けつけて、お母さんも抱っこして。

純子:私が子どもを産んですぐお母さんの病気が発覚したんですよ。

LUCY:6月に唯ちゃんが生まれて、翌年の2月にシーナが亡くなったから、一緒に過ごせたのは6ヶ月くらいだったのかな。

陽子:だから唯ちゃんが生まれてから、お母さんはずっと闘病中だったんです。純ちゃんは生まれたばかりの唯ちゃんを連れてお母さんの病室に行っていましたし、みんなでほとんど病室に入り浸って過ごしていました。

ーー結構長い期間、入院されていたんですか?

純子:いや、入院している期間は短かったんですけど、やっぱりちょこちょこ入院していましたね。

LUCY:年末年始は家にいたり。やっぱりお母さんは家にいたかったし、お父さんも一緒にいたかったし。だから、入院期間的にはそんなに長くないんです。

純子:ちょうどシーナ&ロケッツ35周年の日比谷野音ライブ(2014年9月13日)が決まっていて、お母さんはそれにどうしても出たいということで、入院を止めてライブを選んだ感じでした。

陽子:だからお父さんもお母さんも同じ選択をしたんですよ。もうギリギリまでステージをこなしていたし、周りも全然分からなかったし。でも、その野音のときもお母さんが病気ということもあって、楽屋とかでそういう姿を周りに見せないようにすごく気を使っていましたね。

Photo by 西岡浩記

鮎川誠とシーナの理解者になってあげたかった

ーーLUCYさんがシーナ&ロケッツに本格的に参加するきっかけは何だったんですか?

LUCY:私は自分でもバンドを結構長いことやっていたので、お父さんは「LUCYにはLUCYの音楽がある」と思っていて、シーナ&ロケッツに縛り付けたくないとすごく気を遣っていてくれたんです。お父さんって本当にジェントルマンなので。だから「歌いたいときだけライブに来てくれ」って言われていたんですよ。

私もお父さんたち3人でやっているシーナ&ロケッツの活動がすごく好きでしたし、それを観たいというお客さんがいるのもわかっていたので、毎回行くのはちょっと違うだろうと思っていました。だから、地方のライブへはついていかないけど、東京でやるやつだけ歌うとか、そんな感じだったんです。

ーーあくまでもゲストボーカル的な。

LUCY:そうです。まあ、そういうジリジリした期間が結構あったんですが、お父さんに正直な気持ちを聞いたら、ギターを弾きながら歌うのに実際辛い曲とかも結構あって、それをお父さんは無理して歌っているんだと。「もう『レモンティー』辛いんや。お前手伝ってくれんかね」って言われたんですよ。

実際歌いながら演奏するのって大変みたいで、激しい曲だったり、ギターと歌のリズムが違う曲もシーナ&ロケッツには結構あるし、あとキーが高いとか、そういうのも結構無理してやんないといけなかったから。

陽子:お父さん、それでもやれていたけどね。

LUCY:でもツアーだと3日連続とかでやるじゃないですか。70歳超えて、それはやっぱり辛いですよ。それで2019年から正式に参加することになります。

Photo by 西岡浩記

ーーそれまでは鮎川さんは1人でギターとボーカルをやっていたわけですから、本当にすごいですよね。

陽子:しかも他に3KINGSと菊 / ft.と、他に2つバンドをやっていたんですよ。あとメモリアルな日にはサンハウスもやっていたから、そういうときは前半シナロケをやって、後半サンハウスをやって、トータルで3〜4時間のステージを1人でずーっとやっていたんです。本当に信じられないなって。

純子:ライブで3時間ギターを弾きっぱなしとか普通でしたね。

ーー映画の中でも鮎川さんはおっしゃられていましたけど、ロックというのは別に音楽のこと言っているんじゃなくて、生き方なんだと。それをご自身でやってみせて、全うされた。本当にすごい夫婦と、それを支えたすごい娘さんたちだと思います。

LUCY:私たちは全然すごくないですよ(笑)。

陽子:なんか理解者になってあげたいと思っていたんですよね。やはり特殊な仕事しているから、自分のこととかあまり周りの人には喋らなかったですし、お父さんとお母さんは同じバンドの戦友みたいな気持ちでやっていましたから、私たちも2人の理解者として応援していたんだと思います。

LUCY:お父さん、お母さんたちに対してそれぞれができることをやるだけで。純ちゃんは小さいときから「事務所を立ち上げてマネージャーをやりたい」って言っていたし。

純子:そうなんですよ。小学校のときからそういう目標はあって。

ーー実は純子さんがFBに入るときの面接は私がしたんですが、そのとき「両親はミュージシャンだし、お姉ちゃんはモデルだし、妹はまだ小さいので、自分一人ぐらい普通に仕事をする人間がいないと困るから」って言っていたのを覚えています(笑)。

純子:そんなこと言っていましたか!? もう、忘れちゃいました(笑)。

陽子:そういう風に純ちゃんは言ってくれたりしますけど、純ちゃんもLUCYと一緒にバンドやっていたりして。

純子:もともと「親のスネをかじりながらバンドやるなんて、そんな甘くないんだよ」ってお母さんに言われていて、それでバンドをやりたかったので家を出て、FBで働かせてもらって(笑)。

ーー(笑)。そして、小さいときからやりたかったマネージャーになったと。

LUCY:純ちゃんがマネージャーをやり始めたときにやっぱり女だし結構舐められたりとかもあったと思うんですけど、純ちゃんが「Musicmanの編集をやっていた」というと、業界の人の態度が変わるんですよ(笑)。みんなMusicmanのことは知っていますから。

純子:Musicmanの編集をやっていたってことはすごく信頼にもなったし、書籍に責任者として名前を載せてくれているのは本当に宝物なんですよ。今の仕事に本当に生きていますし。あと当時、サンハウス再結成で鮎川と柴山さんのロングインタビュー(2010年)を掲載してもらいましたよね!あの時とても嬉しかったのを今でもよく覚えています。

LUCY:純ちゃんもいきなり1人でマネージメントやるというのは、個人事務所ですし、すごくプレッシャーだったと思うんですが、胸を張ってやれたのはMusicmanのおかげだと思います。

純子:代わりに言ってくれてありがとう(笑)。

ーーこちらこそ大変光栄に思います。

最期の最期までかっこよかったお父さん

Photo by 西岡浩記

ーー鮎川さんは2022年5月に膵臓がんを宣告されるまで、元気だったんですよね?

純子:本当に元気で、宣告を受けても正直信じられないぐらい元気でした。ライブも普通にやっていましたしね。ステージを観ていると「病気って嘘なんじゃないかな」「間違いじゃないかな」って思っていましたし、そういう宣告は受けたけど、実際はもっと生きられるんじゃないかと思っていました。手術したりしても長生きしている人ってたくさんいるじゃないですか? 宣告を受けてから20年生きたりする人だっていますし。

ーーがんは治る病気になっていますし、余命宣告を受けてから生還する人だってたくさんいますものね。ちなみに鮎川さんはお1人で住んでいたんですか?

純子:犬と猫たちと1人で住んでいました。でも私たちも近くに住んでいたので、ほとんど毎日誰かが行っているような感じでしたけど。

LUCY:お母さんは台所にお父さんを一切入れないような人だったんですが、お母さんが亡くなってからは、お父さんが家事一切をやらなくてはならなくなったので、本当はすごく大変だったんだろうなと思います。

純子:家はすごくきれいにしていましたね。お父さんって基本的に世話を焼かれるのが嫌いなんですよ。だから、こっちも気遣いながら、作ったカレーとか持って行ったりするんですけど、「もう来んでええけ」とか(笑)。別に私たちが行くのが嫌なわけではないし、いつも喜んでくれるけど、自分から「あれをやってくれ」とは絶対に言わない。ご飯を作ったら「これで1食。ありがたい」と喜んでくれたりしましたけど(笑)。

ーー鮎川さんは病気が発覚してからもライブをやり続けたわけですよね。ステージの上で死んでもいいくらいの覚悟で。その気合の入り方が半端じゃないというか、本当にすごいなと思う反面、マネージメントする立場の純子さんには葛藤があったんじゃないですか?

純子:それはすごくありましたね。「病気を公表する気はない」ということだったので。今って割と病気になったら公表するのが普通というか、お父さんが好きだったウィルコ・ジョンソンもそうでしたし、みんな公表していたから「公表したらどうか?」と相談したんですけど、「絶対誰にも心配をかけたくない」とそこは頑なでした。

ーー鮎川さんの美学に反するんでしょうね。

陽子:「心配された状態でロックできん」みたいなことを言っていましたね。

ーー結局、昨年末のニューイヤー・ロック・フェスティバルを欠席されるまではツアーやライブは続けられたわけですよね?

純子:ニューイヤー・ロック・フェスティバルの10日ほど前の、京都・磔磔のライブまではステージに立っていました。

ーーそして、ニューイヤー・ロック・フェスティバルの直前にドクターストップがかかってしまった?

純子:本人はやりたかったんですよ。ニューイヤー・ロック・フェスティバルは(内田)裕也さんが亡くなってからも続いて、2023年は節目の50回目だったので「どうしても自分は出る」って言っていたんですが、お医者さんが「もしステージで亡くなったら、そこにいるお客さんから出演者から全員事情聴取をしなくちゃいけない」「刑事事件になってしまう」と忠告されたんです。

ーーそういうことになってしまうんですか?

純子:そうらしいんですよ。司法解剖されたり、殺人の疑いがかけられて、遺体が家に帰れるのは1週間後になるし、大変な社会問題になるから絶対にやめてほしいとお医者さんからすごく言われて、それで出演を辞退したんです。

LUCY:もちろんお父さんの身体を心配したドクターストップだったんですけど。「ステージで亡くなる可能性も高い」と。

陽子:私たちはそれを聞いても、全然信じられなかったんです。

純子:「なんか大袈裟に言っているのかな」くらいにしか思わなくて。実はニューイヤー・ロック・フェスティバルの前に入院していたんですが、お父さんは「とにかく、明日のニューイヤーのために退院したい」と。私たちもその気持ちを全面的に支持して、結局2日しか入院してなかったですね。

ーーすぐ病院を出てしまったんですね。

陽子:お母さんのときと違って、家でも入院しているときと同じ状態をキープできるとお医者さんが教えてくれたんです。それで自宅療養することになりました。

LUCY:お母さんのときは、お父さんや私たちが病院に泊まり込んだりして、ずっと一緒にいられたんですけど、お父さんの時はそのコロナで完全に面会謝絶、1日1回しかものも渡せないとか、病室にいたら音楽すら聞けないですし、入院=お別れみたいな感覚だったんです。

純子:だから「何としても家に連れて帰らなくては」と思っていました。

陽子:お父さんもそんな生活嫌ですしね。

LUCY:ただ病院の先生がすごくいい方で、家で看病できるように訪問医やプライベートナースを手配してくれたり、色々整えてくださいました。

ーーそして、ご自宅に帰ってこられて2ヶ月くらいで旅立たれたわけですか?

純子: 1ヶ月だったと思います。その間は「お父さんを絶対1人にはさせないようにしよう」と、3人で24時間を8時間ずつで交代して、お父さんのそばにいるようにしていました。

ーー3人で力を合わせて。

純子:はい。でも、お父さんは特別に介護が必要とかいうわけでもなく、普通に歩いてタバコも普通に吸うし、音楽を好きに聴いていました。それこそ(髙橋)幸宏さんが亡くなったときには、ものすごく悲しんでいましたし、ジェフ・ベックが亡くなったときも彼の音楽を爆音で聴いたり、本当にギリギリまで普通に生活していました。

LUCY:お父さんは最期の最期までかっこよかったです。

鮎川誠の意志はこれからも生き続ける

Photo by 西岡浩記

ーーお母さんに続いてお父さんにも旅立たれてしまい、やはり喪失感は大きいですか?

純子:お母さんのときもそうでしたけど、やっぱり「時が経ったら癒される」ってことはなくて、喪失感はどんどん大きくなるばかりですね・・・お父さんが亡くなって、今も本当に辛いんですけど、お父さんはギリギリまで音楽のことを考え、音楽制作に打ち込んでいましたし、やり残したこともあるので、それを形にしていかないとなと思っています。

LUCY:お父さんは録りためたものとか、そういう音源を自分のノートにまとめていたんですよ。それがすごい量あって、例えば、これからリリースする予定のアルバムのコンセプトやジャケット、それから曲順とかそういった記録がいっぱいあるので、それを純ちゃんが出そうと言っていて、私も手伝おうと思っています。

ーーでは、今後の予定としては世に出てない楽曲のリリースがあると。

LUCY:はい。映画のことでいろいろ手一杯になっちゃって、その作業がちょっと止まっちゃっているんですが、とりあえず近日中に、映画でも使いましたが、1979年に音羽スタジオで細野(晴臣)さんが立ち会って録音した「ユー・メイ・ドリーム」のデモ音源、ドラムももしかしたら幸宏さんかもしれないという、そういう謎のテープがあるんですけど、それをまずリリースしようかなと思っています。そのテープには「レイジー・クレイジーブルース」が「レイジー・クレイジー・レギー」ってレゲエ・バージョンで入っていて、「元はレゲエだったんだ」とか色々発見があるんです。このテープの音源を映画の中で少し流したら、お客さんからすごく反響があったので、予定を変更してそれを先に出します。

ーーこれまで鮎川さんが録りためたものを出していくとなると、相当時間がかかりそうですね。

純子: そうですね。あと1stアルバムの「#1」も「自分の原盤を正規盤で出し直したい」と亡くなる直前までマスタリング作業を進めていましたし、YMOとの秘蔵音源も出そうとしていたんですよ。だから、それもそのうち出さなきゃなと思っています。

LUCY:あと2019年に私とやったGOKスタジオでの録音というのもあるんですよ。1日20曲、合計で60曲くらい録った音源で、それも出したいねって話しています。

陽子:それはLUCYがシーナ&ロケッツに入って一緒にやっている音をCDにするためにやったスタジオライブだったんですよ。

LUCY:でも、いっぱい録り過ぎちゃってまとめられなくなっちゃって・・・(笑)。どれもいいからお父さんも選べなくて。また、GOKスタジオはアナログレコーディングですごくいい音で録れているんですよ。

ーー今聞いただけでも、興味深い音源がたくさんありますね。

LUCY:お父さんの頭の中には完璧な設計図があって、それをメモに残しているので私たちはやらなきゃなんですよ。

ーー映画の中にもありましたが、鮎川さんは病気だと言われたからって落ち込んで何かやる気なくなっちゃったとか、そういうことは一切なかったんですね。

LUCY:お父さんは最期の最期まで畳み掛けるように音楽をやっていました。

純子:昨年の11月23日の45周年ライブのときも、ステージから「生きとるもんはロックしていくぞ!」ってステージからみんなに向かって言っていて、弱々しい姿は最後まで、一瞬も見せなかったです。

ーー3人は今後もやることがいっぱいありますね。

陽子:そうですね。毎日3人でリリースについて相談をしたり、映画のことで連絡があったり、ずっとやっていますね。私は今画家もやっているので、展覧会の準備とかが忙しいんですが、できる範囲で2人を手伝っています。

LUCY:本当にやらなくてはいけないことがたくさんあるので、お父さんがまだ生きているような感じがするんですよ(笑)。その意志は生き続けているというか。

純子:私も本当にそんな気がしていて、肉体はないのかもしれないけど、音楽はずっと生き続けるし、誰かがその名前を呼んでくれたり、思い出してくれることでずっと生きているような気がするんですよね。

LUCY:映画の反響もあって、みなさんがお父さんのことを「かっこいい」と言ってくれるんですが、決して昔のことだけを言っているんじゃなくて、今の鮎川誠をかっこいいと感じてくれたんだと思うんです。ですから、お父さんの意志を継いで、新たなファンに向けてお父さんの作品を出していけたらなと思っています。

Photo by 西岡浩記

映画情報

『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』
全国公開中
出演:鮎川誠 / シーナ / 鮎川陽子 / 鮎川純子 / LUCY MIRROR / 唯子
ナレーション:松重豊
監督/編集:寺井到
撮影:中牟田靖 / 宮成健一 / 丸本知也
編集:高尾将
音効/MA:寺岡章人
プロデューサー:緒方寛治 / 坂井博行
配給:KADOKAWA
©RKB毎日放送/TBSテレビ
オフィシャルサイト:https://rokkets-movie.com/

シーナ&ロケッツ LIVE情報

10月  1日(日)高塔山ロックフェスin 福岡・天神
10月21日(土)高塔山ロックフェス 北九州・若松 高塔山野外音楽堂
11月23日(祝)新宿ロフト シーナ&ロケッツ46回目のバースディライブ

SHEENA’s 46th BIRTHDAY LIVE
-シーナ&ロケッツ 46回目のバースディライブ-

2023年11月23日
新宿ロフト

出演:シーナ&ロケッツ
-LUCY MIRROR、奈良敏博、川嶋一秀、澄田健

SPECIAL GUEST
※後日発表

開場 18:00 / 開演 19:00
Adv.5,500円 / Door.6,000円(+1D)

前売りチケット:
・プレイガイド(チケットぴあ、イープラス、ローチケ)発売日:9月23日10:00〜
シーナ&ロケッツOfficial Ticket Centerにて先行チケット発売中

主催:ロケットダクション
後援:ソニーミュージック、JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント・スピードスターレコーズ

リリース情報

シーナ&ロケッツ「1979 DEMO」
・鮎川秘蔵マスター A ROKKET KOLLECTION <LIMITED EDITON>
全21曲収録 (AYU001 / ayu Records)

鮎川誠、シーナによる楽曲制作のデモテープ音源、幻の真空パックDEMO音源「1979 DEMO」発売が決定。ドキュメンタリー映画『シーナ&ロケッツ鮎川誠-ロックと家族の絆』で一部使用された幻のデモ完全版。ユーメイドリームの原型「ユメ・ユメ・ユメ」や幻の「レイジークレイジーブルース」レゲエバージョンなど衝撃の音源全21曲を収録。シーナ&ロケッツOfficial SHOP限定にて9月30日発売。

鮎川陽子 絵画展情報

鮎川陽子 絵画展「AH UN」
9月22日〜10月10日
福岡・六本松 蔦屋書店
福岡県福岡市中央区 六本松4-2-1 六本松421 2F
TEL:092-731-7760
※9月22日〜24日15:00-17:00まで鮎川陽子在廊予定

鮎川陽子DJ&TALK「前夜祭」
9月21日 Open19:00(Charge:2,000円)
ジュークジョイント
福岡県福岡市中央区舞鶴1-9-23 エステートモア舞鶴2F
TEL:092-762-5596

・鮎川陽子プロフィール
画家・モデル・DJ・小倉城アンバサダー 三姉妹長女。シャネルのパリコレや国内ファッション誌で活躍後、画家になる。明るくポップな色彩の絵は見る人に楽しさや元気を与える。WAVE TOKYOや伊勢丹などで展示やブランドとのコラボなど行う。
ウェブサイト(https://yobe.com
Twitter/X:@yobecom(https://twitter.com/yobecom),
Instagram @yokoayukawa(https://www.instagram.com/yokoayukawa/