第209回 RAD CREATION株式会社 代表取締役社長 綿谷 剛氏【後半】
今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社CLOUD ROVER 代表取締役 / 「見放題」主催の髙橋“民やん”祐己さんのご紹介で、RAD CREATION株式会社 代表取締役社長 綿谷 剛さんのご登場です。
サッカー少年だった綿谷さんは、中学時代に出会ったGLAYやラルクの影響でバンド活動を始め、高校卒業後は名古屋で結成したバンドの活動の傍ら、上前津ZIONでバイトを始めます。次第に裏方業務の楽しさを知った綿谷さんは、バンド活動をやめ、TRUST RECORDS設立したのちに独立、最初のライブハウス「R.A.D」をオープンさせます。以後、ライブハウスや飲食店など店舗数を拡大。無料のロックフェス「FREEDOM NAGOYA」や「でらロックフェスティバル」の主催など、名古屋の音楽シーンの中心でご活躍する綿谷さんにじっくり話を聞きました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、長縄健志 取材日:2023年10月24日)
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第209回 RAD CREATION株式会社 代表取締役社長 綿谷 剛氏【前半】
独立して最初のライブハウス「R.A.D」を一から作る
──2009年3月にRAD CREATIONを設立されますが、ZIONはスパッと辞めたんですか?
綿谷:いや、ライブハウス「R.A.D」を2009年の7月にプレオープンするんですが、それまではZIONを手伝っていました。
──今、簡単におっしゃっいましたけど、ライブハウスを作るというのは結構大変ですよね。
綿谷:多分なにも知らなかったので、逆にできたのかもしれないですね。
──資金とかはどのように調達されたんですか?
綿谷:長尾にはずっと「貯めておけ」と言っていたので、長尾はちゃんと貯めてくれていて(笑)。あと長尾の実家から最初は資金援助いただきました。僕は多分20万ぐらいしかなかったので。
──月13万しかもらってなかったら貯めようがないですよね。
綿谷:そうなんです(笑)。なので僕が20万で、長尾はその10何倍お金があって、それを出し合って資本金としました。
──裏方に徹しようと思ってからはわずか3年で最初のライブハウスを持てたのはすごいです。
綿谷:キャパ200人ぐらいの小さいハコですけどね。
──名古屋の家賃相場がよく分からないんですが、200人が入るハコって家賃は高くないんですか?
綿谷:家賃50万ぐらいなんで、かなり安いんじゃないですかね。東京だったら100万、200万とか余裕で3ケタだったりじゃないですか。それに比べたら名古屋は全然安いと思います。
──もちろん最初は大変な苦労をなさったと思いますが、すぐに軌道に乗ったんですか?
綿谷:家賃も先ほどお話したぐらいでしたし、スタッフも基本、僕と長尾とPAの3人でお店を回せていたので、そこまで苦労はなかったですね。僕と長尾が受付かドリンクをやって、PAが音を出してだったので。そんなに営業数はなかったですけど、赤字とかにはなってなかったと思います。ムチャクチャミニマムでやっていたので。
──でも、その体制だとちょっと忙しくなったらすぐパンクしますよね。
綿谷:まさに、最初3人でやっていて「さすがに無理」となってすぐに人を雇ってという感じで大きくしていきました。
──そして今は何店舗を運営されているんですか?
綿谷:ライブハウスでいうと6店舗になっています。あと飲食店5店舗ですかね。名古屋と大阪にバーと、あと立ち飲み屋のフランチャイズを3店舗やっています。
──ライブハウスだけで6店舗はすごいですね。名古屋でそれだけライブハウスを運営して、正直お客さんってそんなにいるんですか?
綿谷:どのハコも入りますね。ライブハウスの中で住み分けがされていて、アイドルが多かったりとか、パンク系が多かったり、歌ものが多かったりとか店ごとに特徴があるんですよ。
──では、ついているお客さんもライブハウスごとに違う?
綿谷:特にアイドル中心のところは全然違いますね。
──ちなみに今まで作ったお店を畳んだ経験はなしですか?
綿谷:いや、全然ありますよ(笑)。岐阜や京都にもライブハウスがあったんですが、岐阜は畳んでしまって、京都は当時の店長に譲りました。お店は4つ5つぐらい閉めていますし、そういう経験も結構しています。
──それはオペレーションがうまくいかなかった?
綿谷:岐阜と京都はそうですね。自分たちが日々行けなかったので、どうしても他の競合に勝てなかったというか、地元の人たちには勝てなかったというところです。本当は「名古屋に来るから、岐阜にも来てください」「京都もあります」みたいな感じでやっていきたかったんですが、やはりその街にはその街に根付いた人たちの方が一枚上手なんですよね。
──ライブハウスやお店を増やすのは計画的に増やしているんですか? それとも「ここで店をやらない?」的な話が来たりするんですか?
綿谷:基本、後者ですかね。もちろん常になにかやりたいなとは思っているんですが、だいたいは「ここが空いたよ」という話から始まります。うちのライブハウス2個は、もともと別のライブハウスがあって、そこを閉めるから「継がない?」みたいな感じで話をもらって、名前を変えてやりました。
──困ったときには「とりあえず綿谷さんに話を持っていこう」みたいになっているのかもしれませんね。
綿谷:多分「困ったらとりあえずあいつに言っておけ」みたいな感じで(笑)。
──ちなみに最初のR.A.Dはゼロから作ったんですか?
綿谷:R.A.Dはゼロからですね。でも、一番苦労したのはRAD HALLですね。キャパ300人の、アイドルが結構多かったりするライブハウスなんですが、そこは完全にスケルトンから始めたんですよ。R.A.Dがライブハウスとしては天井がメチャクチャ低いのがずっとコンプレックスで、とにかく天井が高い広い場所を探そうとしたんですが、やはりそういう場所って全然出てこないんですよね。ですからRAD HALLは物件探しから2年ぐらいかけて作りました。
R.A.Dへ来るバンドや客に還元するために始めた「FREEDOM NAGOYA」
──RAD CREATIONのお仕事を大きく分けると、ライブハウスと飲食店の経営と、イベンター、レーベルのマネージメントになるかと思うんですが、売り上げ比は大体どんな感じなんですか?
綿谷:やはりライブハウス、飲食の売り上げでレーベル、マネージメントに投資している感じですね。
──それはLD&Kの大谷秀政さんと一緒ですね。大谷さんも音楽制作をやるためにカフェをやっているとおっしゃっていました。
綿谷:僕たちもそういう感じです。一応安定収入があるので、自分たちがやりたいレーベルやイベント関連の仕事もできています。
──現在、綿谷さんが主催されているイベントというかサーキットが、「FREEDOM NAGOYA」と「でらロックフェスティバル」ですか?
綿谷:あと東京でやる「TOKYO CALLING」ですね。
──「FREEDOM NAGOYA」は入場無料のイベントですが、始めるきっかけはなんだったんですか?
綿谷:もともとはR.A.Dを作って、R.A.Dに来てくれるバンドと、R.A.Dに来てくれるお客さんに1年に1回還元したいと思って始めました。入場無料でアーティストにとってはプロモーションの機会に、お客さんにとっては無料でライブが観られるみたいな感じで。あと、太陽と虎の松原裕さんがやっていた神戸の入場無料フェス「COMIN’KOBE」に大きな影響を受けました。
──松原裕さんにはこのリレーインタビューにご登場頂きました。神戸までお会いしに行って、そこから1年後ぐらいに亡くなってしまって・・・。
綿谷:そうだったんですか・・・僕は松原さんにすごく影響を受けました。本当にすごい人だなと思っていました。松原さんは人望も厚いですし、メチャクチャ賢くて、いろいろ手広くやられていましたからね。
──綿谷さんは今、アーティストのマネージメントやレーベル業務がメインの仕事なんですか?
綿谷:自分の仕事の比重的にはマネージメント業務というかTRUST RECORDSの業務が一番を占めています。TRUST RECORDSは今ビクターさんとも一緒にレーベル(D.T.O.30.)をやっていて、ビクターからメジャーデビューしているんですが、お陰様で好調ですね。
──調子いい?
綿谷:はい。東京はZepp ShinjukuやO-EAST、EX THEATER等を売り切って。なので、いい状況かなと思います。
──この先はどのように事業を拡大していこうと考えていますか?
綿谷:来年がR.A.D15周年なので、色々計画しています。あと事業的にはさっきの話じゃないですが、いい話があったら乗っかるというか、どんどん店舗を増やしていきたい気持ちはあります。うちの社員はバンドマンが多くて、社員たちがバンドを自由にやれる環境を作りたいなと思っていて、そのために店舗を増やしたりとかして、労働環境を整えていきたいなと思っています。
──すばらしい。「バンドマンは何故もっとうちで働かないんだ」って別の取材でおっしゃっていましたよね。
綿谷:そうですね。うちの会社はバンドマンにとって悪くない環境だと思うんですけどね。
社員のバンドのライブは出勤扱いするRAD CREATION
──綿谷さんがバンドマンからこの業界に足を踏み入れたときから15年以上経っているわけですが、自分の時代と、今のバンドをやろうとしている人たちとの間に、なにか違いを感じることはありますか?
綿谷:バンドを取り囲む環境はよくなっていると思いますけどね。特にうちの会社は、社員のバンドのライブは出勤扱いなんですよ。ライブを何本やっても給料はちゃんと払うみたいな。
──会社のライブハウスでやればですか?
綿谷:いや、全国、国外どこでもです。ツアーでライブをやっても、その分の給料は払ってあげるという。なので多い時には月15本ぐらいライブをやっている人もいるんです。月15本ライブして休みが6日、7日ぐらいあって、だから実質10日ぐらいしか出勤していないんですけど、給料は変わらずに支払っています。
──それは・・・全バンドマンが綿谷さんの元で働くべきですね(笑)。でも、そんな会社って他にあります?少なくとも私は聞いたことがないです。
綿谷:それは自社のバンドじゃなくてもそういう感じですからね。バンドマンって意外と優秀なやつが多いんですよね。普段コミュニケーションをいろいろな人ととっているので人付き合いも上手ですし、賢かったりしますしね。あとタフですし。
──綿谷さんと同じようにバンドをやめた人も会社に残っている?
綿谷:何人かいますね。
──失礼ですが、今何名ぐらい社員がいるんですか?
綿谷:社員的に言うと40名ぐらいはいます。バイトも含めるともっとたくさんいますね。
──すごい。50人超えると中小企業じゃない扱いになりますよ(笑)。でも、それだけの社員にお給料を払っているんですからすごいですよ。
綿谷:そのなかでバンドマンは10人ぐらいですかね。
──その社員のバンド活動にも給料を払うという仕組みは何かヒントがあったんですか?
綿谷:先ほども言いましたが、自分が働いていた環境が給料13万で1日10何時間勤務、休みは月4日とかだったわけで、仕事自体は楽しいけど、楽しいだけではやっていけないみたいな環境だったので、その経験は大きかったかもしれないですね。なんか音楽の仕事をしている人って、意外とお金稼ぎにいきたがらないじゃないですか? でもお金も大事ですから、楽しくてなおかつ給料もちゃんともらえるような環境にしたいなと思ったんです。それが独立した理由ですしね。
──本当に志が高いですね。
綿谷:いやいや(笑)。最初に働いた会社がすごく整っていたら、もしかしたらそのまま働いていたと思います。
──トゥー・ファイヴ・ワンの安田 弾さんが、ライブハウスって大体30代で辞めちゃうと。そこから先はなかなか残れないというか、雇うのも大変だし、本人たちも大変で、そこは大きな問題だとおっしゃっていたんですよね。せっかく長年キャリアを業界で積んだ人にどうやって仕事を与えるかというのが一番課題だと。
綿谷:本当にそうですよね。うちも30ぐらいになって優秀な人は独立するんですよね。ですから、うちを辞めて独立した人間が3人、4人ぐらいいます。
──それは同業者になっちゃうんですか。
綿谷:いや、ライブハウスとかそういうところではないので、そこは被らないですね。アイドルを運営していたりとか、実家を継いで音楽のマネジメントをやっていたりとか。なので、全然ぶつかったりはしていないです。
──それにしても、社員が40人で、11店舗にレーベル、イベントと想像していた規模では全然なかったです。
綿谷:いや、これからです。これからもっと大きくしていきたいので。
──民やんさんは「名古屋が今面白い」とおっしゃっていましたが、来年「見放題」を名古屋でやるんですよね。
綿谷:ええ。民やんさんがおっしゃるように、名古屋のシーンは今面白いことになっていると思います。最近だと“ねぐせ。”というバンドがすごくて、結成3年ぐらいしかまだ経ってないんですが、とんでもない人気になっていますね。
──ちなみに名古屋から出てくるバンドの特徴って何かあるんですか?
綿谷:なんなんですかね?(笑)でも、結構いいバンドが出てきますね。フォーリミ(04 Limited Sazabys)もそうですし。でも街の規模の割には出てないのかもしれないですし・・・。ちょっと分からないですね。
──岐阜や京都にも店舗があったということですが、東京へも事業拡大しようとか、そういう野心はあるんですか?
綿谷:東京では多分店は持てないと思っているんです。家賃とかいろいろ考えるとリスクしかないかなと思っていて。でも、実は東京には住もうと思っていて、一応来月から東京にもマンションを借りて、月の半分ぐらいは東京にいようかなと思っているんです。
──名古屋と東京の二重生活ですね。
綿谷:はい。家族は名古屋の家にいて、僕は行ったり来たりする予定です。
──なぜ東京にも拠点を作ろうと考えたんですか?
綿谷:ずっと東京に出たいとは思っていたんですよ。正直、住みたくはないんですけど(笑)、東京でしか得られないものも多いなとずっと思っていて、長年悩んではいたんですが40を目前にして、もう1回気合入れようかなと思って。
──民やんさんもまさに同じようなことをおっしゃっていました。もう1回新しいところで勝負してみようと。
綿谷:その気持ちはすごくよく分かりますね。
──東京に拠点を置くのはレーベルの営業というかマーケティング業務で、ライブハウスなどの店舗は名古屋のスタッフにある程度任せるわけですか?
綿谷:それは今もそうですね。基本的に僕は日々どこかに行っているので、現場は任せちゃっています。
音楽業界で今も夢を見ている
──ちなみにコロナの影響は受けました?
綿谷:時短協力金ってあったじゃないですか? 1日2万から6万みたいな。多分東京のお店とかだとそんな金額ではどうにもならない感じだったと思うんですけど、名古屋は先ほども言ったように家賃が50万とか、それ以下もいっぱいあるので、意外とその金額で社員をまかなえたんですよね。それもあって乗り越えられたというか。
──とはいえ、その人数を抱えて、すごいことだと思います。
綿谷:本当に時短協力金でなんとかなった感じですね。営業はできなかったんですけど、ランニングコストは払えましたから。東京だったら絶対こうはいってないですよね。
──借金は特に増えなかった?
綿谷:一応、なんとかなりました。
──ライブ自体は結構止まっている時間は長かったんですか?それとも意外と早く再開させられたんですか?
綿谷:確か2020年4月に本当にライブができなくなったんですが、6月には一応再開はしていました。キャパ200のところでも30人限定とかにして、メッチャ間隔を取って・・・みたいな。そういった感じを2〜3か月ぐらい続けました。
──そして、完全にライブが復活しているライブハウスは今絶好調だと民やんさんはおっしゃっていたんですが、そういう印象は名古屋でも同じですか?
綿谷:今はもうコロナ禍前よりも忙しい感じがしますね。お客さんもバンドもすごく若返りましたし、名古屋はコロナで逆にバンドが増えたというか、コロナ禍でバンドを始めた若いバンドが多いですね。多分、やることなくて始めたんじゃないですかね。
──(笑)。
綿谷:普段だったら飲みに行ったり、遊びに行ったりしていたけど、コロナ禍でなにもすることがないから(笑)。そんな感じはしますけどね。
──最後になりますが、音楽ビジネスを目指している若者に何かアドバイスはありますか?
綿谷:僕は、成績はオール3で勉強も運動も普通でしたし、なんの才能もなかったんですが、いろいろな人に出会って助けてもらってここまで来られたと思っているんです。人と人のつながりが結果的に仕事になったというか、結構特殊なケースだと思っているので、アドバイスできる立場じゃないんですが、音楽業界って自分の頑張り次第でいくらでもひっくり返せる業界でもあることは確かだと思うんですよ。僕はほかの仕事だったらなんの変哲もない普通の人間だなと思っているので。
──私も音楽業界だから今日まで生きていられると思っています(笑)。
綿谷:本当に友だちや仲間、色んな人のつながりだけでここまで来たと思っているので。アーティストたちとの出会いもそうです。
──他の業界っていろいろなシステムがかっちりできあがっていて、そこを乗り越えたところで順番が決まっているみたいな印象がありますよね。一発逆転しづらいというか。
綿谷:でも、音楽業界は自分次第でなんとでもできるし、なんとでもなれると思うんですよ。僕はこの音楽業界で夢を見たというか、今も夢を見ているんですよね。だから、若い人にもどんどんチャレンジしてもらいたいなと思いますね。