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第210回 株式会社ジャパンミュージックシステム / WIRED ReCORDS 猪股洋之氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

猪股洋之氏

今回の「Musicman’s RELAY」はRAD CREATION株式会社 代表取締役社長 綿谷剛さんのご紹介で、株式会社ジャパンミュージックシステム / WIRED ReCORDS 猪股洋之さんのご登場です。

工業高校を1年で中退し、飲食業で働く中で音楽業界への道を模索した猪股さんは、バイトとして新宿LOFTに入社し、その後CATCH ALL RECORDSへ。長年の希望だったNorthern19のマネージャーに就任します。

以後、バンドの独立に伴う自主レーベルの設立を経て、ジャパンミュージックシステムに入社。現在はNorthern19とFOMAREのマネージャーを担当し、日々バンドのために尽力されています。ご自身の力で音楽業界への道を切り開いてきた猪股さんに、キャリアの話から、ライブハウスシーンの現状と未来、そして音楽業界を目指す人たちへのメッセージまで、じっくり語っていただきました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、長縄健志 取材日:2023年11月17日)

 

何事にも好奇心旺盛だった少年時代

──前回ご登場いただいたRAD CREATION綿谷 剛さんとはいつ頃出会われたんですか?

猪股:僕は2009年にCATCH ALL RECORDSというレーベルに入りまして、そこでNorthern19というアーティストのマネージャーを始めたんですが、その頃CATCH ALL RECORDSがいろいろなレーベルと共同企画をやるというのがあったんです。その名古屋編を綿谷くんのライブハウスでやることになり、そこで初めてお会いしました。ですから、もう14年くらいの付き合いになります。彼とは同世代ですし、出会った頃にはすでにレーベルやライブハウスをやっていて、いろいろなことに取り組んでいる人だったので、すごい人だなと思いました。

──大きな刺激を受けたと。

猪股:そうですね。僕より経験値がありますから、話していても新鮮でした。僕は右も左もわからずマネージャーを始めた最中だったので、すごくいい出会いだったと思います。

──綿谷さんはやることが早いというか、決断も早いし見切りも早いし、素晴らしいですよね。

猪股:あとバンド愛もすごい人ですし、ビジネスマンとしての先見の明もあるので、僕は話していていつも刺激をもらえているというか、同い年の仲間なんですが、先輩と話しているような感覚もあります(笑)。

──ここからは猪股さんご自身のことをお伺いしたいのですが、ご出身はどちらですか?

猪股:生まれ自体は青森なんですけど、1歳になる前に埼玉に家族で引っ越しまして、育ちはずっと埼玉です。今実家は岩槻にあります。

──ご家庭には、今の職業につながるようなバックボーンはあったんでしょうか。

猪股:一切ないですね。ただ、家族で毎週出かけていたんですが、その車中で両親が好きなZARDやサザン、B’zをよく流していたので、音楽はいつも車の中で聴くみたいな感じでした。

──ドライブミュージックとして聴いていたんですね。ちなみにお父さんはどんなお仕事をされていたんですか?

猪股:両親はもともと銀行で働いていたんですが、父親は、僕が小学校ぐらいのときに脱サラして自営で機械部品の製造をやっていました。

──猪股さんはどんな少年だったんでしょうか。

猪股:興味があるものは、何事も触りたいみたいなタイプで、好奇心旺盛というんでしょうかね。僕が小さい頃にちょうどJリーグが始まったので、その影響を受けてすぐにサッカーを始めたりとか、あと父親が野球好きなので野球をやったり観に行ったり。父親はとてもアクティブな人で、スポーツ観戦や釣りなど気になることはとりあえずやる人で、その父親の影響は大きかったと思います。

──アクティブなお父さんだったと。

猪股:銀行員に見切りをつけて自営をやるとか、自分でスパスパ物事を進める人ですね。ですから、そんな父親について行って、野球を観て「面白いからやりたい」とか「Jリーグが始まったぞ」とテレビで観て「面白そう、やりたい」みたいな(笑)、そういう探求心は旺盛だったと思います。

──なるほど。

猪股:それで中学に進む際、自分が通っていた小学校からは友だちが多く行く中学と、知り合いのいない中学のどちらかが選べたんですが、僕はあえて新しい出会いがある学校を選択しました。そこでいろいろな友だちや先輩と出会ったんですが、中学校になると真面目な人もちょっと悪い人も出てくるじゃないですか?(笑) 僕はその中間にいたので両方と仲良くて、真面目な子たちには勉強を教えてもらったり、ちょっと悪い子たちには音楽を教えてもらったり、あと同級生のお兄ちゃんが高校生でバイクに乗っていて、そのバイクを見せてもらったりとか(笑)、興味がどんどん広がっていきました。

──好奇心がどんどん掻き立てられていったと。

猪股:バイクに乗りたいなとか、将来こういうことをやりたいなとか、色々出てきましたね。

──ちなみにお父さんは今も工場を続けられているんですか?

猪股:コロナ禍で製造業が不景気になっちゃったので工場を畳んで、今はタクシーの運転手をやっているんですが、もともと車が好きだったので、好きなことを仕事にいうのでタクシー運転手を選んだみたいです。毎週出かけていたので道にも詳しいですし。

──「お前は将来この工場を継ぐんだぞ」みたいなことは言われなかった?

猪股:そうですね。それに関しては、僕が高校に上がるときに話をしたんです。正直、中学時代は親とそんなに仲よくなかったので。

──反抗期?

猪股:まあ、そうですね。家に帰らないとか全然ありました。それで高校に進学するかどうかのときに、「一応高校は行こうかなと思っている」と話したときに、父親から「この仕事はするな」とは言われましたね(笑)。

──(笑)。

猪股:父親の工場は、納期が厳しくて大きな会社は引き受けないような無茶な仕事とかを受けていたみたいなんですよね。だから何日も徹夜とか、家に全然帰ってこないとか結構あったんです。収入はよかったみたいなんですけど、「こういう仕事はしちゃダメだぞ」って言っていましたね(笑)。

 

黒夢の衝撃から音楽業界を目指す

──高校は地元ですか?

猪股:大宮にある工業高校に入りました。工業高校に入った理由としては、バイクとの出会いからなんとなく「整備士になりたい」と思ったからで、本当に深い意味はなくて(笑)。好きなものをいじりたいと思いましたし、手に職をつけたほうがいいのかなと思って工業高校に入りました。

──高校へ入ってバイクに乗るようになったんですか?

猪股:結局バイクは乗っていないです。

──それはなぜですか?

猪股:工業高校へ行ったんですが、入ってすぐに「なんか違うな」と思っちゃったんですよね。そのときは心変わりも早かったので「面白くないな」と思ってしまって、僕は高1で高校を辞めているんです。それで「違うことしよう」と思ったんですよね。なにがきっかけかはわからないんですけど、なにか違うと感覚的に思って。

──高校を1年で中退して、どうされたんですか?

猪股:話が前後するんですが、高校に入ってまず免許を取ってバイクを買おうと思っていたので、家の近くのファミリーレストランでバイトを始めていたんです。ファミレスなので働いている人の年齢層が結構広くて、いろいろな人から「音楽なに聴く?」って聴かれたんです。

──それってよくありますよね

猪股:ですよね。「この人を知ろう」みたいな感じで「なにを聴くの?」とか「普段なにしているの?」とか、そういう会話をしている中で、音楽が好きな方たちと出会っていたという経緯があったんです。それで僕は料理を作るのが好きだったので「飲食をやってみようかな」と思って、高校中退後も引き続きそこでバイトをしていたんです。そこから1年ぐらい飲食をやったり、それ以外で飲食に通ずるバイトとか日雇いみたいな仕事で貯金をしていたんですが、結局バイクは買いませんでした(笑)。

──(笑)。

猪股:そのバイト先で出会った10個上ぐらいの人が、ある日CDをたくさん貸してくれたんです。僕は当時、友だちの影響でヒップホップとかを聴いていたんですが、何10枚も貸してくれたCDを全部聴いて、一番衝撃を受けたのが黒夢だったんです。黒夢を聴いて「なんだこれ、超格好いい」と思って、そこで人生が変わったと思います。それで「黒夢、格好よかったっす」みたいなことをその人に言ったら、「LIVE AT 新宿LOFT」というVHSを貸してくれて、それを観て再び衝撃を受けて。

それまでは飲食を続けようと思っていたんですが、そこで初めて「音楽の仕事をやってみたい」と思ったんですよね。その後、19歳のときに先輩のツテで飲食店を個人経営されている方と出会って、その店にバイトから入って社員になり、チーフマネージャーとして商品開発とかにも携わるようになったんですが、当時一緒に働いていた店長が退職して音楽業界に入られたんですよ。

──身近に、先に音楽業界へ行った人がいたんですね。

猪股:そうなんですよ。その方はライブハウスで働き始めて、その後UK.PROJECTに入ります。今はもう別のジャンルの音楽のお仕事をされています。

当時UK.PROJECTがRX-RECORDSというレーベルを始めたんですが、RIDDLEやBIGMAMAの担当をやっている人が僕の地元の先輩で、その人からいろいろ話を聞いていて、より一層音楽の仕事をしたいという熱が上がってきていて、このまま飲食の仕事をしていると音楽の仕事をするのが何年か先になってしまうんじゃないかなと思ったので、お店を辞めました。

──それがおいくつのときですか?

猪股: 21から22になるぐらいですかね。

──それは今思えば賢明な選択だった?

猪股:そうですね。そのときの判断は間違ってなかったなと思います。

──音楽業界にはどのようにして入って来たんですか?

猪股:さきほどの黒夢の話に戻るんですが、「LIVE AT 新宿LOFT」の影響で、音楽業界へ最初に踏み込むならLOFTしかないと思っていたんです。

──黒夢から新宿LOFTへ繋がるわけですね。

猪股:当時、僕はネットとかで新宿LOFTのスケジュールを見ていたんですが、ロックだけじゃなくて色々なバンドが出演していて、僕の中では一番格好いいライブハウスなんじゃないかなと思っていたので「ここしかない」と思っていました。確か当時募集していなかったんですが、とりあえず履歴書を持っていって「面接できませんか?」と直接お願いしました。そうしたら「今は募集していません」と言われたんですが、履歴書だけ受け取ってもらって、数日後に「退職する人がいるから1回面接しますか」と連絡があったんです。それで面接させていただいてアルバイトとして入ることができました。それが音楽業界の1歩目ですね。

──自らの道を自らの力で切り開かれたんですね。それができない人ってたくさんいますよね。

猪股:そうですね。僕は自分で1歩目を踏み込まないと先に進まないなという感覚は持っていました。あと接客業をやっていたのでいろいろな職種の方とお話させてもらっていて、バイタリティじゃないですけど、遠慮せずにガツガツいかないとダメだよ、と先輩たちからお話してもらっていたので、それを実践した感じですね。ですから、飲食店をやっていたのもすごくよかったなと思います。

 

新宿LOFTで働きながら、音楽業界のどこで生きていくのか見定める

──新宿LOFTに入った当時は、東京に家があったんですか?

猪股:いや、僕は埼玉から通っていました。片道1時間ちょっとですかね。

──でも、夜も不規則にというか仕事が終わるのは遅いですよね。

猪股:いつも終電で帰っていました。入り時間はイベントにより違いますが、13時とかには入っていたと思います。

──結構ハードですよね。だってそれ以外は毎日往復で2時間半ぐらいは電車に乗っているわけですよね。

猪股:そうです。ただ忙しいのに慣れていたと言いますか、務めていた飲食店では特に決まった勤務体系じゃなかったので、やりきるところまでやって終了みたいな感じだったので、拘束時間が長いとか休みがないとか、そういうのは慣れていたのと、「自分がやりたいことだったら時間を使うのは普通じゃない?」みたいな感じでしたね。

──でも、最近の若い人はそう思わない人が多いですよね。

猪股:もちろん体力的、精神的にきついとかはあると思うんですが、それはやりたいことをやっている代償みたいな感覚だったので。当初、時給も安かったですけど、そのときは目標を持って音楽業界に飛び込んでいたので、全然苦ではなかったです。

──そのときの音楽業界での目標はなんだったんですか?

猪股:まずライブハウスという、音楽業界のいろいろな人と接触できるところに身を置いて、そこから自分が音楽業界のどこで生きていくのか見定めたいと思っていたんです。

──ライブハウスで働きながら、音楽業界について学んでいたと。

猪股:実際に音楽業界で働きたいと思っても、なにがあるかもわからない状況だったので、だったらライブハウスで働きながら、いろいろな人に出会ってお話を聞いて、自分が一番格好いいと思えて、ここで働きたいというところを見つけようと思っていました。あと、ライブハウスっていろいろなバンドの成長を観ることができるんですよね。前回は10人しか入らなかったのに、半年後に来たら動員が100人になっていたとか。そういうときに「なにが変わったのかな」というのを見られるのはすごくいいなと思ったんです。

──生で見ているんですからね。

猪股:生で感じられるわけじゃないですか?だから1日でも多くライブハウスに出勤したいなという感じで(笑)。

──それは何年頃ですか?

猪股:2005、2006年ぐらいですね。ちょうどASIAN KUNG-FU GENERATIONとかELLEGARDENとかがテレビの深夜番組「エルビス」とかに出演したり、あと「ハングアウト」にB-DASH、175Rとかが出てバンドがすごくキている時期で、そういうバンドも結構新宿LOFTに出ていましたね。

──ある意味、毎日ライブを観に行っているようなものですよね

猪股:そうですね。僕は休みの日も観たいライブがあったら新宿LOFTに観に行っていました。あとライブを観られるのもそうなんですが、プロの人たちと一緒に仕事をできるのが刺激的でした。入った最初は搬入搬出の補助とか雑用みたいな仕事をしていたんですが、入って半年ぐらいで舞台のほうに行かせてもらって、舞台進行とかやらせていただいたので、いろいろなアーティストさんと接するようになりましたし、マネージャーさんやイベンターさんと事前に打ち合わせしていると「この人は仕事できるな」「すごくわかりやすくお話をしてくれる人だな」とか、そういう仕事のできる人たちとたくさん出会うことができました。

──つまり、ライブに関するすべてを新宿LOFTで学んだということですね。

猪股:そういう意味では最高の職場だったと思います。当時、PAに同い年の人がいたんですが、その人は青森から上京してきた人で、同郷というところで仲良くなったんですが、その人はLOCAL SOUND STYLEというバンドのPAをやっていたんです。で、その人がツアーするから「よかったら一緒に行こうよ」と誘ってくれて、初めて地方にスタッフとして行く機会をいただいたんですが、そのときに「音楽業界で生きていくなら僕はマネージャーだな」と思ったんです。

──「俺の生きる道はここだな」とそこで思われたんですね。

猪股:そうですね。バンドとツアーを回って、バンドのライブをより良くするにはどうすればいいかメンバーたちと話をしたりする中で、そう思いました。「なんで?」と言われたらわからないんですけど(笑)。

──楽しかったということですよね。

猪股:シンプルに楽しかったですね。新宿LOFTには2年ちょっといたんですけど、ツアーに出たあとの1年は、新宿LOFTでマネージャーさんばかり見ていましたね。もう追いかけていたというか(笑)。

──そのときに印象的な方はいましたか?

猪股:やはり10-FEETの松川(将之)さんですね。松川さんのことは映像とかで認識していて「この人と話したいな」と思っていたんですが、LOFTのときは叶わず(笑)。でも、今ではとても仲良くさせていただいています。

あとレーベル的にすごいなと思ったのは、やはりPIZZA OF DEATHですね。PIZZA OF DEATHは毎年忘年会企画とかをLOFTでやっていたので、そこで話したりするとレーベルのファミリー感とDIY感、あと「面白いものをやるぞ」という、その一体感にすごく刺激をもらいました。自分も入ったレーベルで、誰かのマネージャーをして、こういうムーブメントを作りたいと言ったら大きな話になっちゃいますけど(笑)、みんなで結託して、なにか風穴開けていきたい、とすごく思っていました。

──目標ができたという感じですね。

猪股:目標ができましたね。ライブってどこを見るかで全然入り方が違うじゃないですか?ステージで表現してくれるのはアーティストなので、アーティストをどれだけいい状態でステージに上げるようにするかとか、ライブに影響が出るような負担をアーティストにかけないように、どう内側で作り込むかとか、僕はそういう裏方目線でライブを観るようになりました(笑)。

──そこまで考えてライブを観ている20代前半って、そんなにいないんじゃないですか?

猪股:いなかったんじゃないですかね。実際、目標を高く持っていた当時の先輩たちは、現在はレーベルで働いている方もいらっしゃいますし、一線でマネージャーをやっている方もいますし、舞台監督としてフェスとかでやっている方もいたり、当時刺激を受けていた先輩たちはみんなこの業界にいらっしゃるんですよね。

──高い志を持っていた人は音楽業界にちゃんと残っているわけですね。

猪股:みなさん残っていますね。未だにその人たちに会うと後輩感が抜けないんですけどね(笑)。

 

CATCH ALL RECORDSへ入社しNorthern19のマネージャーに就任

──その後、どういった経緯で新宿LOFTを辞めることになったんですか?

猪股:僕の性格上、居心地がいいとずっとそこにいちゃうみたいなところがあるんです。なのでLOFTに入るときに僕は「2年で学びたいことを全部学ぼう」と思っていたんです。で、その2年間でいろいろ経験させてもらった中で一番グッときたのがCATCH ALL RECORDSだったんですよね。CATCH ALL RECORDSも所属バンドがほぼ全部出るみたいなイベントをLOFTでやっていて、そのときに僕はステージのほうで携わらせていただいたんですが、全アーティストが丁寧に「ありがとう」と言ってくれて、僕は感動したんです。変な話、当時は「ライブハウスのスタッフなんて雑に扱ってもいいでしょ?」みたいな雰囲気があったりする日もあったんですが、CATCH ALL RECORDSのアーティストはみんな「おはようございます」「よろしくお願いします」「ありがとうございます」と挨拶してくれたんですよね。

──レーベルとしてその辺がしっかりしていたんですね。

猪股:そうなんですよ。一バイトに対しても頭を下げてくれたり、「疲れたでしょう?」とジュースを持ってきてくれたり(笑)。それで「このレーベルはすごいな」と思って、興味を持ったんです。その後、その日のイベントでスタッフをやっていたCATCH ALL RECORDSの方がLOFTに遊びに来ていた時に「レーベルとか興味ないの?」と聞いてきたんです。僕はライブハウスの次はレーベルに入るとなんとなく思っていたので「次はレーベルに入りたいです」みたいな話をしたら「じゃあ、ちょっと社長と話してみるよ」と言ってくれて、僕がLOFTを辞めるときに「CATCH ALL RECORDSに来ないか」と誘っていただました。

──すごい巡り合わせですね。引きが強いというか。

猪股:引きは強いですね(笑)。僕は当時CATCH ALL RECORDSにいたNorthern19というアーティストがすごく好きだったんです。

──Northern19はLOFTにも出演していたんですか?

猪股:出演していましたし、出演する前からCDを聴いていて「すごく格好いい」と思っていました。あと、LOCAL SOUND STYLEのスタッフとして行った東北ツアーでもNorthern19と一緒だったり接点はあったんです。それで「Northern19のマネージャーをやれるんだったらCATCH ALL RECORDSに入ろう、それ以外だったら・・・」と思いつつ、CATCH ALL RECORDSへ行って「もし僕が入ったらなにをするんですか?」と聞いたんです。そうしたら「君にはNorthern19のマネージャーをやってもらいたい」と言ってもらえました。

──おお! 希望通りだったんですね。

猪股:別にこちらから「Northern19のマネージャーをやりたい」とは一言も言ってなかったと思うのでこれは運命・・・と言ったらちょっと恥ずかしいですけど(笑)。それで2009年からレーベルでマネージャー業を始めました。

──Northern19は今年結成20年目だそうですね。

猪股:そうです。僕が携わる前だったんですが、ファーストアルバムの楽曲が当時ドワンゴのCMとして地上波のゴールデンタイムに流れていて、いきなり何万枚と売れたんですよ。それで僕が担当したときはライブも全箇所ソールドアウトするみたいな感じの、勢いがあるときに、右も左もわからない若造がマネージャーになったんですよ(笑)。

──Northern19のマネージャーになったときはおいくつだったんですか?

猪股:25歳ですね。メンバーは僕の1個上なので、同世代なんです。

──ここまでお話を聞いている限りは、最短距離でマネージャーに辿り着きましたよね。

猪股:そうですね。これは母親から聞いた話なんですが、僕の名前は「洋之」というんですが、もともとは洋之という名前を付ける予定じゃなかったらしいんです。でも、知り合いの霊媒師に名前を相談したときに「苦労はしても、言ったことが叶うような名前にしよう」みたい話になったそうで、結果、「洋之」という名前になったそうなんです。恐らく、そのおかげなのかな?と思ったりします(笑)。

──言ったことが実現してしまう名前なんですね(笑)。

猪股:「レーベル入りたい」とか「こういうことをやりたい」「こういうところに行きたい」と言ったら、なんだかんだで行けちゃうというか、協力してくれる方が現れるというか。そういう意味では、僕は人に恵まれているなと感じますね。

 

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第210回 株式会社ジャパンミュージックシステム / WIRED ReCORDS 猪股洋之氏【後半】