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第211回 カメラマン 橋本 塁氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

橋本塁氏

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社ジャパンミュージックシステム / WIRED ReCORDS 猪股洋之さんのご紹介で、カメラマン 橋本 塁さんのご登場です。北海道で生まれ、小6から中3までインドニューデリーで過ごした橋本さんは、ジーンズのパタンナーとして就職するもHAWAIIAN6のライブをきっかけに、24歳のときにカメラマンへ転身。雑誌『ollie magazine』の社員カメラマンを経て2005年にフリーランスに。名刺代わりの写真集『LOVE』を自費出版します。

その後、2006年から自身の写真展&ライブイベント「SOUND SHOOTER」を定期開催しながら、ONE OK ROCK、FOMARE、ストレイテナー、the band apart、HAWAIIAN6、THE BACK HORN、Nothing’s Carved In Stone、THE BAWDIES、androp等のオフィシャルライブ、アーティスト写真を担当されます。また、DOTブランド「STINGRAY」のプロデュースなど、幅広く活躍される橋本さんに、驚きの経歴からカメラマンとしての信条までたっぷり話をうかがいました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、長縄健志 取材日:2023年12月20日)

 

家族旅行の車中で聴いた浜田省吾、佐野元春、BOØWY

──前回ご登場いただいた猪股さんとは、いつ頃出会われたんですか?

橋本:猪股くんと出会ったのは10年以上前ですね。僕はHAWAIIAN6を2000年から撮らせてもらっていて、それがカメラマンとしてのキャリアのスタートなんです。猪股くんもNorthern19のマネージャーとしてメロディック・ハードコア業界の現場にいたので、顔見知りで。彼がチーフマネージャーをやっているFOMAREというバンドを僕はここ4、5年、自分が稼働できる限り撮影をさせていただいていまして、そこでチーフマネージャーとオフィシャルのスチールカメラマンという関係になりました。

──猪股さんとは年齢的にも近いですか?

橋本:いや、猪股くんは僕の7個下ですね。お互いマネージャーとカメラマンという感じですけど、もはやバンドマンの先輩、後輩みたいなノリで(笑)。メロディック・ハードコア業界は体育会系のノリと言いますか、気合で楽しむみたいな部分があるんですよね(笑)。

──今もそうなんですか?

橋本:そうですね。今の若い子と僕らと同じ世代のバンドマンのノリは明確に変わってきていますけど。それはどっちが良い悪いじゃなくて時代が変わったんですよね。「あ、打ち上げないんだ・・・」と思ったり(笑)。

──(笑)。では猪股さんは仕事仲間であり、友だちでもあり。

橋本:はい。特にメロディック・ハードコア業界の人は仕事という概念でやっていないというか、好きなことが仕事になっている感覚の人が多いんですよね。猪股くんもそうだと思いますし、僕はそういう人たちが大好きなんです。

──ここからは塁さんご自身のことをお伺いしたいのですが、ご出身は北海道だそうですね。

橋本:1976年北海道伊達市生まれです。室蘭とか登別、昭和新山、洞爺湖とかあのあたりですね。

──(自分と比べて・・・)お若いですね(笑)。

橋本:いえいえ(笑)。でも、音楽業界の人って年齢不詳の方が多くないですか?仕事とはいえ自分が好きなことを純度100パーセントでやっていたら、途中でみなさん年齢が止まるんだと思うんですよね。特にアーティストの人とか見ているとそう感じます。

──塁さんはどのようなご家庭に育ったんですか?

橋本:父が小学校の教員、母が幼稚園の保母という、教育系の家庭で育ったんですが、父がとにかく音楽好きで、車の中でカセットテープをよく聴いていたんですよ。それこそ洞爺湖とか温泉に月1ぐらいで家族旅行に行っていたんですが、ちょっとしたドライブになるわけじゃないですか?そのときに車の中でいろいろな音楽がかかっていまして、そのときに父がよく聴いていたのが浜田省吾さんやオフコース、チューリップのようなニューミュージックで、基本男性ボーカルのバンド曲が多くて、それが刷り込まれたんじゃないかと思っているんです(笑)。あと、佐野元春さんもすごく好きだったので、よくかけていましたね。

──車の中でそういった音楽が自然に流れていたと。

橋本:父が「これはハマショーと言ってね」とか「これは佐野元春」とか説明しつつ聴いていたんですけど、あるとき僕が「これ何?最近の西城秀樹、格好いいじゃん」と言ったのが、BOØWYの「BEAT EMOTION」で(笑)。それが小3のときですね。

──氷室京介さんを最近の西城秀樹さんと思ったんですね(笑)。

橋本:声がちょっと似ていると思ったんですね(笑)。西城秀樹さんがテレビの歌番組とかで歌っているのは聴いていたので。そうしたら2歳下の妹から「これBOØWYって言うんだよ」と言われて「BOØWYって何?」となって。そこで初めてバンドという存在を知って、家にあるBOØWYのレコードを見ると、髪を立たせて黒い服を着た4人組がいて「格好いい!」と思ったんですよね。

その後、小6になる前の春休み中に家族でインドへ引っ越すことになるんですが、当時、夕方にテレビで「ミュージックトマトJAPAN」が再放送していて、そこでブルーハーツの「キスしてほしい」がかかって、BOØWY以上の衝撃を受けたんです。やんちゃな坊主頭のボーカルが、メチャメチャわかりやすい単語で、ただひたすら「キスしてほしい」と歌っていて。

BOØWYは詞の世界観があったので、小学生にはまだわからなかったんですよね。「“マリオネット”ってなんの意味なんだろう?」って(笑)。でも、ブルーハーツの歌詞は子どもでもわかる。「『リンダリンダ』ってタイトルの意味はよくわからないけど、ドブネズミはわかるぞ!」と衝撃を受けた1か月後にインドへ旅立ったんです。そこから日本の情報が遮断されて、ネットもない時代ですから、ダビングしてもらったブルーハーツの1stアルバムをずっと聴いていました。

 

多感な時期をインド・ニューデリーで過ごす

──インドへの引っ越しは、お父さんのお仕事の関係ですか?

橋本:父がインド・ニューデリーの日本人学校の先生として赴任することになり、小6、中1、中2という多感な3年間、インドに住んでいました。それでインドの街に行くとカセットテープ屋というのがあって、ほぼ全部海賊版のカセットで洋楽ばかりなので日本語の曲は聴けなかったんですが、新しいロックは聴きたかったですし、カセットテープ1本2、30円とかだったので、片っ端から買って聴いていました。

──例えば、どんなアーティストのカセットがあったんですか?

橋本:ボブ・ディランやローリング・ストーンズ、ビートルズとかのカセットテープが、もうタダみたいな値段でしたからバカスカ買えるわけです。それで「ボブ・ディランもストーンズもかったるいな・・・」と思いながら聴いて(笑)。

──激しいロックをイメージするとちょっと違うかもしれませんね(笑)。

橋本:レッド・ツェッペリンは格好いいなと思いましたけど。英語なので詞の凄さもわからないですしね(笑)。それで「もっとギターがひずんでいるほうがいいな」と思っていたら、当時は80年代後半なので、ガンズ(ガンズ・アンド・ローゼズ)やスキッド・ロウなどハードロック系がインドでも流行っていて、そのへんを聴くようになりました。もちろんハードロックはハードロックで好きだったんですが、「いまいちピンとこないな」と思いながら聴いていましたね。

──ちなみに学校の友だちに音楽好きはいましたか?

橋本:日本人学校の同級生は音楽が全然好きではなかったんですが、一緒の校舎だった中等部の先輩がちょうど音楽を好きになる頃で、みなさん商社マンの息子だったり、外交官の息子だったので、夏休みは日本へ帰るわけです。そのときに「CDを買ってきてくれ」と頼んだり、「どうやら日本では『イカ天』という番組をやっているらしいからダビングして来て欲しい」とお願いしていました。

──「イカ天」ということはバンドブームの頃ですね。

橋本:バンドブームが始まるぐらいのときですね。そういった先輩たちに日本の音楽を教えてもらいつつ、半年に1回家族でシンガポールへ1週間ぐらい行って、ヤオハンとか日本のスーパーで冷凍食品を買い込んでいたんですが、そのときにヤオハン内のCD屋でソニーの海賊版カセットテープを買っていました。ユニコーンやスカパラ、エコーズとか。

──インド音楽に魅せられたりは?

橋本:今考えたらものすごくいい経験だと思うんですが、父がラヴィ・シャンカールのコンサートに連れて行ってくれたんですよ。父にとってラヴィ・シャンカールは、ビートルズのジョージ・ハリスンの師匠みたいな認識だったと思うんですけどね。ラヴィ・シャンカールは当時もシタールのトップ奏者でしたし、そのライブをインドで観られたというのは貴重な経験だったと思います。

──先ほど学校には商社マンや外交官の子どもがいたとおっしゃっていましたが、いわゆるエリートの子どもたちですよね。

橋本:成城から来ているような超エリートの軍団で、かたや僕は北海道から行っているじゃないですか?小6でインドへ行って周りが勉強しているということにまず衝撃を受けたんですよ。「あれ、みんな勉強をしているぞ」と思って(笑)。それで、夏頃になったら友だちの1人が「中学受験をする」と言いだして、中学受験って初めて聞いた単語だったんです。

──なんだ、それと(笑)。

橋本:高校卒業まではみんな公立に行くものだろうと思っていたのに、「慶応義塾を受ける」と言って、突然勉強しだすんです。昨日まで一緒に遊んでいたのに「だから遊ばない」とか言って、本当に慶応に受かって(笑)。彼はそのまま大学までストレートで行って、その後JALのパイロットになったんですが、「これがエリートって言うのか」「ドラマみたいな人っているんだな」と思いましたね(笑)。

──北海道でのびのびと暮らしていた少年が、ひょんなことからニューデリーの日本人エリート集団に叩きこまれて。

橋本:本当にそうです。三井、住友、丸紅、伊藤忠、そんな単語を覚えちゃいました(笑)。リアルに「北の国から」の逆バージョンです。富良野から東京の私立に行く、みたいな(笑)。そのときに同級生の中で僕がぶっちぎりに知識で勝っていたのが音楽だったんです。マウントじゃないですけど、唯一みんなに勝てる知識が音楽やバンドだったので、みんなに教えたりしていました。勉強では全く勝てなかったんですけど(笑)。それで、みんなも音楽を好きになってくれて、一緒にカセットテープを聴いたり、「格好いいよね」みたいな会話をするようになりました。

──その年代でのインドというのは強烈な体験ですよね。

橋本:強烈だったと思います。妹がインドにいたのは小4~6年生の3年間だったんですけど、僕とはまた感じ方が違うんですよね。妹は中学に上がるタイミングで日本に帰ってきているので。そういう意味では、当時親をちょっと恨んでいました。僕は行くんだったらヨーロッパやアメリカに行きたかったのに「なんでインドなの?」と。でも、この海外の日本人学校への赴任って希望地を書いたら落とされるんです。「世界中どこでも行けます!」という熱い気持ちがないと受からないそうなんですよね。

──「フランスに行きたい」とか書いたら受からない?

橋本:「海外旅行じゃないんだから」と落とされるらしくて、アフリカだろうが中近東だろうが「どこでも行きます!」という熱い人が受かるらしいです。

──要するに自分で選べないんですね。

橋本:で、インドだったというだけで。あと「3年間は日本へ帰って来てはいけない」という決まりもあったんですよ。途中で日本へ帰って「やっぱり日本がいい」と職務放棄する人が出ないように、冠婚葬祭以外は日本へ帰っちゃいけないというレギュレーションだったんです。

──心変わり防止措置ですね。

橋本:そうです。僕はインドに行くまで「砂漠のテントみたいなところに住むんだ!」と勝手に思っていたんですけど(笑)、いざニューデリーに行ってみると80年代後半とはいえ首都ですし、日本人なのでものすごい家に住めるわけです。

──豪華な家に住めたんですか?

橋本:いま考えると豪華な家だったと思います。1人1部屋ありましたし、お手伝いさんも2人いたので。ある程度雇用を創出しないといけないので、日本人学校から「お手伝いさんを何人か雇ってください」と言われるそうなんです。

──商社の人は運転手からなにからですよね?

橋本:門番、運転手、サーバントという掃除をする人、料理を作る人と4~5人いましたね。僕はそういったお手伝いさんのたくさんいる環境がとても居心地悪かったです。

 

日本へ帰国後、一気に邦楽バンドにのめり込む

──帰国は中3のときですか?

橋本:そうですね。戻った瞬間にすぐ受験というタイミングで、伊達市に戻りました。これもまたドラマみたいだなと思ったんですが、「帰る」と小学校の頃の友だちに連絡して、1週間後に中学校の始業式だったんですが、いつも間にか「インドからインド人が転校してくる」という話が広まっていたんです(笑)。

──塁さんがインド人にされちゃったんですね(笑)。

橋本:そうです、独り歩きしてインド人になっているんです。同じ小学校だった友だちはみんな「塁が帰ってくる」とわかっているんですが、他の小学校から来た生徒たちは「インド人が来るらしい」と話に尾ヒレがつくわけです。「ターバン巻いているらしい」とか(笑)。それで入ったクラスには10人ぐらい小学校のときの友だちがいたので、そこはスムーズだったんですけど、転校初日に他のクラスのみんなが僕を見に来て「なんだ、インド人じゃねーじゃねえか」となるんです(笑)。

──(笑)。

橋本:「だから日本人だっつーの!」って(笑)。まあ1か月ぐらいでその噂は是正されたんですが。で、日本に帰ってきたら何をやるかと言ったら、勉強じゃなくて、町に唯一あったレコードショップと、あとツタヤみたいなレンタルCDショップに毎日行くわけです。

──そういう音楽を聴きたかった時期に日本から遠ざかっていたから、反動は大きかったでしょうね。

橋本:もう「シャバに出たらこれ食うぞ!」みたいな感じです(笑)。本当は札幌まで行きたいんですけど、中3なのでまだ一人で行けなかったですし、とりあえず伊達に帰ったら、近くのレコードショップに行こうと。かといってお金があるわけでもないので、CDを買うのは本当に欲しい一軍中の一軍。当時は氷室さんか布袋さんかブルーハーツ。それ以外の聴いてみたい作品は全部レンタルCDでした。1泊2日だったら300円とか290円で借りられたので、月にお小遣いが3,000円あるとしたら10枚CDレンタルして「うわあ、外れた」「当たった」というのを繰り返していました。

──全て邦楽ですか?

橋本:邦楽のバンドだけでした。洋楽は一切聴かなくなって、とにかく日本語で歌っているバンドを聴いていました。もちろんローカルテレビの深夜番組とかで洋楽とかも流れていたので、そこでは聴いていましたけど。あと、フェスとはまだ言えないようなロックイベントが札幌でやっていて、そのダイジェスト版を深夜番組で観たりしていました。

──欲求不満はだいぶ晴れたんですか?

橋本:晴れましたね。とにかく「バンド格好いい!」と。それで地元の高校へ進学して、学校には軽音楽部がなかったんですが、文化祭の時期になったら好きな人がバンドを組んで発表会みたいなのを体育館でやっていたので、高1でギターを買ってバンドを組んでコピーバンドをやりました。

──もう、その辺りからは音楽漬けですか?

橋本:音楽中心で、全く勉強していませんでした。もっと言うと「なんで僕はこの高校に受かったんだろう?」と(笑)。一応、伊達市の中では進学校と呼ばれる高校で、本当にギリギリで受かったんだと思うんです。ですから、高校に入っても成績はビリ中のビリだったんですが、成績は本当にどうでもよくて、音楽さえ聴ければいいと思っていましたし、自分が好きなバンドをテープに入れて、音楽が好きな友だちとかにガンガン配っていました。

──高校時代に一番好きだったバンドはなんですか?

橋本:the pillowsですね。インドにいたときに友だちに頼んで買ってきてもらった雑誌『宝島』で「KENZI & THE TRIPSのリズム隊、新バンド結成。ボーカル&ギターは札幌出身」というニュースを読んで、気になったんです。それがthe pillowsで「日本に帰ったら聴いてみたい」とずっと思っていて、日本に帰って、メチャクチャ聴くようになりました。もちろん売れているバンドも好きなんですが、伊達の片田舎でみんなが知らないバンドを見つけた優越感といいますか(笑)、俺のアイドルを見つけたと思いましたし、当時ドラムのシンイチロウさん以外みなさん北海道出身というのもデカかったと思います。

──その後、大学へ進学されたんですか?

橋本:僕は短大へ行ったんです。周りは全員大学に行くんですけど、全然勉強しなかったので、卒業式になっても僕だけ学校が決まっていなくて。

──(笑)。

橋本:北海道って旭川から札幌の間に、旭川、深川、滝川と「川」がつく町がいっぱいあって、そこに点々と東京の専修大学、拓殖大学、国学院の短大があって、「2年短大に通ったら、スライドで東京の本校へ編入できる」を謳い文句に学生を集めていたんです。

──学生を地方でリクルートしているみたいな感じですね。

橋本:僕はそこに引っかかりました。全部落ちたら専門学校へ行こうと思っていたんですが、「1人暮らしできるんだったらなんでもいい」と藁にもすがる思いで深川の拓殖大学北海道短期大学に入りました。

──深川というのはどのくらいの大きさの町なんですか?

橋本:伊達と同じ3万人都市です。でも、バイトして原チャリを買って、バイクで30分頑張れば旭川というデカい町がありましたしね。ちなみに高校のときは札幌まで高速バスで行っていました。ライブは夜遅くなっちゃうので許してもらえなかったんですが、日曜日の朝っぱらから札幌へ行って、タワーレコードとかで伊達には売ってないインディーズを買って帰る生活をずっと繰り返していました。

──札幌に行けば、欲しいものは大体手に入った?

橋本:だいたいありましたね。当時パンク系のインディーズものが強い小さなショップがあったり。それで当然、短大での2年間は勉強せず(笑)、学校の軽音でひたすらコピーバンドをやりつつ、高速バスで札幌に行って、ブランキー・ジェット・シティ、ミッシェル・ガン・エレファント、真心ブラザーズ、カステラ、ピーズとか思いつく限り全部ライブは観に行っていました。

──片道1時間かけてライブを観に行くわけですか?

橋本:ええ。高速バスだったら片道1,500円ぐらいで行けましたし、叔母の家が札幌にあったので叔母さんの家に泊まらせてもらったりして、しかも基本全部1人で行っていました。

 

HAWAIIAN6のステージを衝動的に撮影する~カメラマン橋本塁の誕生

──深川での2年間のあとはどうされたんですか?

橋本:ほぼみんな受かると言われる編入試験を受けたんですが、まんまと落ちちゃったんです。それで親に「浪人させてくれ」と懇願して、編入浪人という謎の浪人をしました。

──編入浪人ってあるんですね(笑)。

橋本:あるんですよ。それで編入浪人予備校というのが全国に1校だけあって、それがよりによって東京の高円寺にあるんですよ(笑)。中央ゼミナールという中央大学の試験に強いから多分中央ゼミナールと言うんですけど、東京の学校へ進学した妹と一緒に住みつつ、半年間高円寺まで通っていました。それで学校が終わったあとに高円寺をフラついちゃうじゃないですか?

──橋本さんにとって最高な環境ですよね(笑)。

橋本:でも、さすがに次落ちたら親から勘当させられますし(笑)、一応勉強はしたんですけど、そのとき妹と一緒に溝の口に住んでいたので、田園都市線で渋谷まで行って、渋谷から山手線で新宿まで行って高円寺へ行っていたんです。で、「結構長いな」と思いながらも、その途中途中でディグりの日々が始まりました(笑)。

──その後、編入試験は上手くいったんですか?

橋本:1年勉強して、拓殖大学を受けようと思ったんですが、中央大学の編入試験にとにかく強い予備校ですから、ちょっとだけ背伸びをして中央大学も受けたら、拓殖大学は落ちたのに中央大学は受かったんです(笑)。

──学歴ロンダリングですね(笑)。

橋本:この頭脳のまま中大卒という称号が手に入るぞと(笑)。でも短大から編入なので、認められる単位が結構少ないんです。ましてや拓大じゃないので、さらに認められる単位が少なくて、3年4年なのに週5フルで学校に通わないと大学卒業できない状態でした。さすがに卒業したかったので、真面目に通いつつ、せっかく上京できたんだからバンドもと思い、ディスクユニオンに貼られたメンバー募集に電話して、1年くらいバンド活動もしました。

──結局、中央大学は卒業できたんですか?

橋本:卒業できました。それで就職活動中は何社受けたかわからないぐらい受けたんですが、1個だけ受かったところがジーパンのパタンナーのアパレル会社で、専門学校のパターン科を卒業した人ばかりが受けていた中で、唯一大卒で受けたのが僕だけらしくて、しかも僕だけ受かったんです。後日、聞いたところでは、僕は筆記とか全部最低ランクで、しかも面接で「パタンナーって何するんですか?」って言っちゃったんですよ(笑)。パタンナー課の部長と社長はそんな質問をされるとは思っていなかったらしいです。

──酷いですね(笑)。

橋本:その会社はエドウィンやリーバイスのジーパンを生産して納品する会社で、そのパターンを是正したり、シルエットを変えたりするパタンナーを募集していたんですが、中央大学卒でちょっと頭がいいだろうと思ったら、筆記もでたらめ、一応スーツは着ているけど髪は茶髪のやつが「パタンナーって何するんですか?」と面接で言い出したと。

──(笑)。

橋本:その会社は何十年もパターン科卒業の人を入れていたらしいんですが、パターンの知識があり、パターンも引けるけれども、なまじ知識があるから、パターンに対する偏見とか哲学みたいなのがあって教えづらいと。だったら僕みたいな知識のない人を入れてみて実験してみようと思ったと言われました。「何年か工場に飛ばして、ミシンから勉強させて、会社の色に染めてみたらどうなるかと思って、君が受かったんだよ」と言われて(笑)。

それで、最初2、3か月は秋田・大曲のジーパンを作っている工場に行って、「ミシンとは」から始まり「裁断とは」「パターンとは」「ジーパンを作るとは」というところまで2か月勉強して、東京の本社に戻りました。

──その会社はファッションが好きだったから受けたんですか?

橋本:そうですね。実は就活のときにトイズファクトリーのディレクターも受けていたんです。僕の年にディレクターの募集をかけていたのが唯一トイズファクトリーだけだったんですよね。書類選考で落ちましたけど(笑)。実は受かったアパレル会社がトイズの真向かいだったので、「トイズファクトリーいいな」と思いながら毎日出社していました(笑)。

それで2週間に1回生産管理で茨城の工場へ行って、ちゃんと生産できているかチェックしたりしていたんですが、この生まれもった大雑把な性格がミリ単位の緻密な仕事を求められるパタンナーにはまったく合ってないと早々に気づいてくるわけです。「めんどくせえ。CADってなんだよ」と思いながら。とにかく計算ができないので(笑)。

──CADってどちらかというと理系というか数学の世界ですものね。

橋本:そう、全て数学なんですよ。要はリーバイスとかのデザイナーのデザインを、日本人の体形に合うようにシルエット調整する仕事だったんです。つまりデザイナーの理想と現場の現実を調整するような作業で、かなり難しい仕事なんですよね。そうこうしているうちに、社会人生活に慣れてくるとちょっと余裕ができてきて、仕事帰りに渋谷のタワーレコードへ行くようになるわけです(笑)。

──昔の習慣が戻ってきたわけですね(笑)。

橋本:最高な帰り道だなと思いながら。それで2000年にHAWAIIAN6というバンドの初単独作「FANTASY」というアルバムが、タワレコ渋谷で大プッシュされていて、そこで1曲目の「FANTASY」という曲を聴いたときに、久しぶりにガツンとやられたんです。メロディック・ハードコアなのに、旋律が歌謡曲っぽいというか、山口百恵さんみたいな暗めのメロディラインで、「なんだ、このメロコアは」と思ってCDを買ったら、帯の後ろにチケットインフォメーションがあって、そこに携帯番号が書いてあったんですよ(笑)。「携帯番号を載せるなんてパンチがあるバンドだな」と思って、そこに電話をしたら、ハタノ行広くんの個人の携帯番号で(笑)。

それで「今度の下北沢シェルター、DOPING PANDAというバンドとかが出るライブのチケットを買いたいんですけど、どうすればいいですか?」と訊いたら、「あ、この電話で受け付けています」と。その頃、妹が上京予定だったので「妹と2人で観に行きたいので、チケットを2枚買いたいです」ってお願いして、シェルターへ観に行きました。

──お客さんは結構入っていたんですか?

橋本:いや、その日のシェルターはガラガラで、DOPING PANDAは当日風邪かなんかでキャンセルになっていて(笑)。でも、そこで初めて観たHAWAIIAN6のライブに強い衝撃を受けました。ボーカルのYUTAの動きやルックス、ギタープレイが鬼のように格好よくて、衝動的にバッグの中の「写ルンです」でステージ写真を撮ったんです。

──勝手に撮り始めたんですか!?

橋本:シェルターの階段のところから。で、「すごいライブだったね」と妹と外に出て、横のローソンで買ったお酒を飲みながらダベっていたら、ドラムのハタノくんが外に出て来たので「今日メチャメチャ格好良かったっす」と話しかけたら、ボーカルのYUTAも出て来て、また感想を言って。

 

名刺代わりの写真集『LOVE』発売で借金数百万円

──橋本さんとHAWAIIAN6のメンバーたちは同世代だったんですか?

橋本:ハタノくんは僕の4個上で、ボーカルのYUTAは4個下ですから、ほぼ同世代です。それで「またライブ行きます」と言って、2回目のライブに「写ルンです」で撮った写真をプリントして持って行って見せたんですよ。なんで見せたかもよくわからないですけど(笑)。そこで「次のライブも写真を撮ってみたい」と言ったら「勝手に撮りにくれば?」と言われて。それもすごい話なんですけど(笑)、僕はビックカメラへニコンの一眼レフを買いに行って、次のライブからはスタッフとして入れてもらい、写真を撮っていました。それが2000年の夏ですね。

──いきなりカメラマンになったんですね。

橋本:はい。そこからHAWAIIAN6の対バンだったSTOMPIN’BIRDや、ちょっとあとになりますけどthe band apartとかのバンドたちと仲良くなって「写真を撮るの面白いな。よし、パタンナー辞めよう」と(笑)。

──決断が早いですね(笑)。

橋本:「パタンナーは僕には向いてない。あんな緻密な仕事」と思って、親に電話したら「塁、大学の浪人までして大学卒業して、やっと安定した正社員になったのに・・・」と泣かれるわけです。しかもアパレルって、はたから見たら結構自由な仕事じゃないですか。茶髪、金髪OKでしたし「一体何が不満なんだ、写真は趣味として休みの日とかに撮ればいいじゃないか」とも言われました。

──親としてはそういう気持ちになりますよね。

橋本:でも、親も僕がやりたいと言い出したら、絶対に言うことを聞かないこともわかっていたので、「1年経って何も状況が変わらないんだったら再び就職しなさい」と言われて、1年間バイトしながら様々なバンドのライブを撮影していました。

──当時はフィルムですか?

橋本:フィルムです。とにかく安いネガフィルムを買って、安いプリントのお店に出して、その写真をセブンイレブンのカラーコピーで大きくしてファイリングした手作りブックを作っていました。それで「バイトもしなきゃな」と思って求人誌を見たら『Ollie magazine』というストリート、スケボーの雑誌の、社員カメラマンを募集していたんです。カメラマン募集だし、スケボー、ファッションも好きだったので受けたら、また僕だけ受かったんです。

──すごいですね。

橋本:周りはフリーランスのファッション系のカメラマンが多かったんですが、社長面接のときに「バンドをいっぱい撮っています」「ファッションも好きです。アパレルでパタンナーやっていました」みたいなことをダーッと言ったら受かりました(笑)。そこで3年社員カメラマンとして働かせていただき、実践的な技術はそこで学んだ感じですね。

──でも、最初は我流で始めたわけですよね。

橋本:我流で始めて、何が何やら分からないまま撮っていたんですが、自分で見てもあまりにも写真がひどいなと思ったんですよね。「なんでこんなに写らないんだ」とか「メッチャ写る日あるな」とか良く分かってなくて(笑)。それでSTOMPIN’ BIRDのドラムがその界隈で唯一音楽系の専門学校に通っていて、メチャクチャドラムが上手かったんです。その演奏を観て「メロコアなのにちゃんと学校行っていてすげえな・・・あ、技術って必要だな」と(笑)。

──(笑)。

橋本:もうちょっと知識が必要だなと思って、まだパタンナーをやっていたときに、東京写真学校の夜間の、プロカメラマンコースに週2で通いました。そこが管理していた松濤スタジオで実習したり、土日はみんなで上野公園へ行ってテーマを決めて撮ったスナップを先生が品評したり、そういう授業を受けました。でも、半年後には『Ollie magazine』に受かっちゃったので学校には行けず。そこと『Ollie magazine』の社員カメラマンでちょっとした写真のいろはは学んだ感じです。で、『Ollie magazine』は3年で辞めようと最初から思っていましたし、辞めるタイミングでライブばかり撮るフリーのカメラマンになろうと思っていました。

──それで食べていけるという確信があったんですか?

橋本:いや、なにもないですよ(笑)。またバイトすればいいやと思っていたので。その独立するタイミングで、名刺代わりに当時撮っていた16バンドの写真集『LOVE』をTシャツ付き3,500円で自主制作して、通販とタワーレコードで売ったんです。

──タワーレコードには営業したんですか?

橋本:当時タワーレコードに書籍を卸していた原楽器に電話して「バンドのライブ写真集を作ったからタワーに卸したい」と相談したら、タワーレコードのバイヤーのリストをいただいて、自分で全店舗に電話したんです。「こういうバンドを撮っていて」と。そうしたらバイヤーの3、4割は「ああ、橋本塁さん知っています」と知っていてくれたんですよね。CDのクレジットだったり、当時からアルバムをリリースしたらパネル展とかやってはいたので「あ、写真集出すんですね。じゃあ取り扱います」と言ってくださって、通販と全国のタワーレコードだけに卸して、当時3,000部売れました。

──自主制作の写真集で3,000部はすごいですね。

橋本:ただ馬鹿だったので、「パンチを出したい」と思って「ロックなんだから」と6,969部作ったんです。

──そんなに作ったんですか・・・(笑)。

橋本:ですから3,000部余りまして、数百万円の借金ができるわけです。そもそもTシャツ付きで3,500円というのがあり得ないぐらい安いじゃないですか? それで「Tシャツ代は払えるけど、これでは印刷代が払えないよ、塁くん」と言われても、どうしようもできないので、親に泣きつくわけです。ありがたいことに親は出してくれたんですが、フリーになったばかりの名刺代わりで突然数百万円の赤字、負債を抱えることになり、仕事と言ってもあまりないわけで。フリーになっても『Ollie magazine』からストリートスナップの仕事をもらえたりとかポロポロはあったんですけど、とてもじゃないけど社会人として生活できるレベルの稼ぎではなかったので、メチャクチャ考えて「よし、写真展とライブイベントをやろう!」と思ったんです。

 

写真展&ライブイベント「SOUND SHOOTER」をスタート

──借金があるのに、そこで「写真展とライブイベントをやろう!」と思うのがすごいですよね(笑)。

橋本:当時、自分が撮っているバンドを集めてロフトやO-WESTとかでカメラマン主催のイベントとかはあったんですが、それでは弱いなと(笑)。写真展とライブイベントをやって、なんだったらシリーズ化しようと考えました。それで当時ビンテージロックにいた、現ライブマスターズ社長の岩下(英明)さんにのっぴきならない事情を説明しつつ、「写真展とライブのイベントをやりたいんですが、渋谷や下北の小さなギャラリーでやっても何の意味もないのでデカくやりたいです」と相談したんです。借金もすごいから、やるなら派手にやらないと返せないと思ったので「イベントはZepp Tokyoでやって、写真展をラフォーレミュージアムでやりたい」とお願いしたら「塁くん、頭おかしいね」みたいなことを言われて。

──(笑)。

橋本:「これは断られるかな」と思ったんですが、「じゃあ森ビルに行こうか」と六本木の森ビル本社へ連れて行ってくれて、ラフォーレは1日借りると数十万円かかるので、1日だけ写真展をやろうと。それで、当時撮らせてもらっていたストレイテナーやELLEGARDEN、HAWAIIAN6、DOPING PANDA、the band apartの1日だけの写真展をやって、そこでZeppのチケットを売る流れにしました。

──それが2006年のSOUND SHOOTER初回ですか。

橋本:はい。ストレイテナーのホリエ(アツシ)くんが名付けてくれて。それでラフォーレの写真展を開催したら、朝1,000人以上並んでいたんですよ。ラフォーレの人に「橋本さん、正月セールばりに並んでいますよ」と言われて。2006年3月11日にZeppでやったライブイベントも応募総数数千人ぐらい来て、満員でした。

──どんなライブイベントにしたんですか?

橋本:初回はELLEGARDEN、ストレイテナー、DOPING PANDA、WRONG SCALE、THE BACK HORN、オープニングアクトでLITEの6バンドが出演しました。でも、単なるライブイベントだったらつまらないと思ったので、バンドの転換中にライブ写真のスライドショーをやろうと。そうしたら誰がやっているイベントなのか、ある程度周知してもらえるかもと思ったんですが、それでも弱いと思ったので、当時好きだったフジテレビの「ファクトリー」みたいにバンドを紹介するMCを僕がやろうと思い付いて(笑)。そうすれば、他のバンドや僕のことに興味を持ってもらえるかもしれないと、全バンドの前に15分スライドショーをやって、最後の5分で「初めまして。橋本塁って言います。今日の主催者です」とMCをやりました。もちろん借金のことは言わないですけど(笑)。

──それは言えないですよね(笑)。

橋本:でも、みんな話半分、3割ぐらいしか聞かないわけですよ。転換中はドリンクを取りに行ったり、トイレに行ったりしちゃうので。それでも6バンド出るので6回前説やるわけじゃないですか? 「誰だろうこの人・・・」と思われながらも、最後のほうは少し話を聞いてくれました(笑)。イベントのトリはELLEGARDENにやってもらったんですが、イベントの翌々日からELLEGARDENにくっついて、SXSWの「ジャパンナイトツアー」を撮るためにアメリカへ向かいました。

──SXSWの「ジャパンナイト」は麻田浩さんがやっていたイベントですね。

橋本:その当時、ELLEGARDENとPE’Z、つしまみれというガールズバンド、あとRODEO CARBURETTORとSTANCE PUNKSというエルレの事務所のバンドで6か所ぐらいツアーを回りました。このSOUND SHOOTERとジャパンナイトツアーという一連の流れから業界の人にも認知してもらえるようになり、グッと仕事が増えました。実はその2年ぐらい前から「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」のオフィシャルとかも撮ってはいたんですが、イベント後に仕事が一気に増えた感じですね。

──カメラマンでそういったイベントをやるのは橋本さんが初めてですか?

橋本:あそこまでの規模は僕が最初だと思います。もちろん借金返済とか、仕事を増やすためとか、色々理由はあったんですが、一番思っていたのは「誰よりも先に誰もやっていないことをやりたい」ということでした。当時、ライブカメラマンには有賀幹夫さんや三浦憲治さん、久保憲司さんなど素晴らしい方々がたくさんいたんですが、あくまで写真というカテゴリーが中心なんですね。でも、僕はいまだにそうなんですけど、写真にも機材にも一切興味がないんです(笑)。単純にバンドが好きなだけで、写真展とライブを通して、僕が撮っているバンドを知ってもらって、好きになってもらえたらうれしいと思ったんですよね。

──あくまでも主体はバンドなんですね。

橋本:そうです。ライブには5、6バンド出ますし、写真展も16バンドぐらい展示するので、例えば、ONE OK ROCKの写真を観に来た人が、会場内でかかっているHAWAIIAN6にピンと来て、CDを聴いてくれたら嬉しいなと。ですからミックスカルチャーというか、ジャンルはぐちゃぐちゃのイメージでやっています。

──SOUND SHOOTERは地方でも開催されていますね。

橋本:10周年のタイミングでずっと東京でやるのも飽きちゃって(笑)、「よし、次は地方だ!」と、11回目はZepp Sapporoでやったんですが数百万円の赤字を出してしまいました(笑)。

──(笑)。それまで地元・北海道でイベントはやらなかったんですか?

橋本:10回目までは地元で写真展をやらないようにしようと思っていたんです。写真展も5周年のときに東京と大阪でやって、大阪ではBIGCATでライブイベントもやりました。で、6回目から東名阪、福岡、仙台と写真展の開催も年々増えていき、10周年のタイミングでは全国10か所ぐらいで写真展をやってはいたんですが、11回目でやっと「札幌で写真展をやりたい」と思ったんです。

──満を持して。

橋本:自分の中でだけですけどね。地方でライブイベントをやるからには札幌でやりたいし、札幌でやるんだったらZeppでやりたいなと思って、仲が良かったウエスの西木(基司)さんに相談してゴールデンウイークにやることにしました。そこでまた悪い癖が出て(笑)、ジャンルをばらけさせようと、ヘッドライナーはandropにお願いしたんですが、andropとハードコアをどうしても共演してもらいたくて、札幌のSLANGというハードコアの重鎮バンドやHAWAIIAN6、LOW IQ 01というパンク・ハードコア系3バンドを呼んで、そこに弾き語りっぽい感じでReNちゃんと、僕が大好きなKUDANZという仙台の弾き語りをやるアーティストの6組でやったんですが、ジャンルがバラバラすぎて客が入るわけないんですよ(笑)。結果、観客は300人ぐらいで、前方エリアはスタンディングにして、1階の途中から椅子席にしたら、図らずもコロナ禍みたいな会場になっちゃって・・・(笑)。

──先取りしすぎましたね(笑)。

橋本:本当ですよ(笑)。PAの前ぐらいで仕切って、そこに物販を並べて。でも、僕はすごく楽しかったですし、親も呼んだりしたんですよ。母親にKUDANZをメチャメチャ観せたいなと思って。それでKUDANZを泣きながら観てもらったあとに、座りながらSLANGのハードコアを聴くというメチャクチャシュールな空間になって(笑)。僕としては大成功だと思ったんですけどね。

──SOUND SHOOTERは今年(2023年)で何年目ですか?

橋本:18年目になりました。今年のイベントは地元の伊達市で予算を組んでもらったので写真展もKUDANZのライブも無料にしてやりました。伊達市民の方たちも無料だったらフラッと来られるじゃないですか?おじいちゃんとかフラッと来たらいいなと思っていたら、結構来たんですよね。でもKUDANZは1曲も知らなくてもグッとくるような曲を歌う人ですし、是非多くの人たちに観てもらいたかったんですよね。

──写真展もイベントも18年続けてきたのは本当にすごいと思います。

橋本:「すごいね」とよく言われるんですが、自分の中ではやりたくてやっているだけなので(笑)。仕事とも思っていないですし、赤にならなければいいやという感じです。

──それで大儲けしたいとかではないと。

橋本:全然思ってないですね。だったらまず職業を変えています(笑)。イベントとか終わる瞬間までは「2度とこんなことやるか!」って思うんですけど、終わったらもう次のことを考えているというか、中毒になっていると思うんですよ。

──学園祭の実行委員長みたいな。

橋本:そうです。みんな泣きながら毎日学校に残って準備して。それを今もずっとやっているんですよね。多分、僕は中二病なんだと思います(笑)。

 

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第211回 カメラマン 橋本 塁氏【後半】

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