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第212回 株式会社10969 代表取締役 後藤吉隆氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

後藤吉隆氏

今回の「Musicman’s RELAY」はカメラマン 橋本 塁さんのご紹介で、株式会社10969 代表取締役 後藤吉隆さんのご登場です。滋賀県出身の後藤さんは大学入学を機に大阪へ。卒業後、ソニーミュージック大阪営業所のプロモーターとして音楽業界入りします。

その後、アミューズへ入社し、マネージメント業務に従事。のちのONE OK ROCKのメンバーたちと出会い、バンド結成後は地方でのライブなど地道な活動を積み重ね、世界へ羽ばたくアーティストに成長させます。2021年にはONE OK ROCKのマネージメント会社10969を設立した後藤さんに、ご自身のキャリアからライブに対する想いまで伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2024年1月24日)

 

滋賀の片田舎で育った少年時代

──前回ご登場頂いたカメラマンの橋本塁さんとはいつ頃出会われたんですか?

後藤:ONE OK ROCKが2006年に新宿ロフトでライブを開催したのですが、そのときにカメラマンとして入ってもらったのが最初だと思います。

──それはONE OK ROCKのデビュー前ですか?

後藤:そうですね。2007年がデビューなのですが、デビュー前に是非、名だたる方々がライブをしている新宿ロフトでのライブにトライしたいということで、気合を入れて準備する中で「カメラマンはやはり塁さんだね」ということで撮影をお願いしました。

──我々が塁さんのインタビューをおこなったのが2023年12月20日で、その直前までシンガポールでONE OK ROCKの写真を撮っていたとおっしゃっていました。

後藤:去年の秋からアジアツアーを開催していて、12月17日のシンガポール公演がアジアツアーのファイナルだったんです。

──基本的には仕事のお付き合いですか?

後藤:もちろんご飯へ行くこともありますが、ほぼライブのときのカメラマンとマネージメントの関係ですね。全国津々浦々、楽器車に乗ってツアーを回っていた時期は、頻繁に会う機会があったんですが、最近は日本でのライブ本数がそんなに多くないので年に数回という感じでしょうか。

──塁さんのカメラマンとしての評価はいかがですか?

後藤:塁さんの撮る写真は本当に素晴らしいと思いますし、だからずっとご一緒させてもらっています。あと人柄もすごくいい方なので、非常に仕事がしやすいですね。

──ここからは後藤さんご自身のことを伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

後藤:滋賀県の安土町という、ド田舎で生まれました。

──琵琶湖の近くですか?

後藤:そうですね。滋賀県って、どのエリアも琵琶湖の近隣になってしまうので(笑)。

──確かに(笑)。お生まれになった家庭の環境に、今のお仕事につながるようなものはありましたか?

後藤:いや、まったくないと思います。当時は今みたいにインターネットもなかったですし、ラジオで聴くといっても田舎なので電波が届かなくて、大阪のラジオですら聴けなかったんですよ。

──そうなんですか。

後藤:その当時、僕の持っていたラジカセがダメだったのか分からないんですけど(笑)。だからほとんどラジオも聴かなかったですし、当時テレビでやっていた音楽番組を観るぐらいしかなかったですね。ですから、特別な経験から音楽に触れて、それがきっかけでこの業界入ったということではないんです。

──ごく普通の少年時代だった?

後藤:本当に普通ですよ。楽器を触っていたとかでもないですし、なにかしらレコードを買い漁っていたというわけでもないですし、ごく普通の生活をしていたと思います。もちろん音楽を聴くのが嫌いではなかったので、どこかしらで音楽を聴くタイミングはあったんですが、音楽にそこまで執着することはなかったです。

──自分でバンドをやった経験とか、そういうのは一切ない?

後藤:バンド経験も今に至るまで一切ないです。

──部活動など運動はされていましたか?

後藤:中高とずっとハンドボールをやっていました。

──ハンドボールって珍しいですよね。

後藤:珍しいと思います。どこの学校にもあるスポーツじゃないと思いますが、たまたま通っていた中学・高校にはハンドボール部があったんです。なので、ずっとスポーツ少年だったと思います。

 

ちょっとダメな学生生活からソニーミュージックの大阪営業所へバイト入社

──安土町には高校までいたんですか?

後藤:そうですね。高校卒業まで安土町で生活して、大学に進学するために大阪へ出てきました。どちらかと言うと、そこで音楽を聴く機会が増えたのかもしれないです。

──大阪ではどのあたりに住んでいたんですか?

後藤:最初は寝屋川に住んでいました。そこで今の大学生のみなさんと同じように、学校へ行き、バイトをして、遊び、みたいな感じでしたね。その中で音楽を聴く機会も増え、特に大阪という土地柄、音楽は盛んじゃないですか? もちろんライブもたくさんやっていましたしね。

──後藤さんは文系に進まれたんですか?

後藤:いや、僕は理系なんです。大阪電気通信大学という学校に進みました。近年はそれなりに有名というか、就職率が上がったとかそんなトピックで取り上げられたりもしていますが、当時は・・・(笑)。

──(笑)。学生は男性ばっかりですか?

後藤:そうですね。理系の、男9割女性1割みたいな感じでした。

──何学部ですか?

後藤:経営工学部です。いわゆるシステムエンジニアを目指すような学部ですかね。

──で、大学に入っても別に将来は音楽関係とかいうのでもなく。

後藤:もう全然。将来に対しても、なにも考えていなかったです。就職活動もほとんどしなかったですし、「なんとかなるかな」みたいな(笑)。

──後藤さんは1975年生まれとのことですが、いわゆる氷河期世代に入りかけぐらいの世代ですよね? 世の中ちょっと不景気になってきたかなみたいな。

後藤:そうなんですが、当時はそこまで実感はしていなかったのかもしれないです。ちょうど大学生になった頃にポケベルが出てきて、その後、携帯を持ち始めみたいな時代なので、意外と目まぐるしく変わっていった時代なのかなと思いますけどね。

──大学時代は何をしているときが一番面白かったですか?

後藤:これはあまり言いたくないんですが・・・本当にパチンコやるか、麻雀やるか、バイトして寝るみたいな生活だったんですよ(笑)。みんなに「あーあ・・・」って言われるような大学生というか。飲んだくれて朝まで遊んでみたいな。そんな生活の中で、これといってなにか熱中していたものもないんですよ。

──高い志も特にない?

後藤:全くなかったと思います(笑)。

──でも現在の後藤さんの姿を見ると、救われる読者の方もいると思いますよ(笑)。

後藤:こんな人間でも一応真っ当な仕事に就いているんだなみたいな感じですよね(笑)。

──つまり、後藤さんはちょっとダメな大学生だったわけですね(笑)。

後藤:ちょっとどころじゃないと思いますけど(笑)。その中で少し熱中したのは、パソコンのMacにハマったことですかね。当時、Macが出始めの頃だったので高価なパソコンだったと思うんですが、それをいじり始めて、クリエイティブなものに対して「いいな」と思うようになったんですよね。それがもしかしたら音楽との・・・まあ、きっかけにはならないですかね。

──それはMacで音楽を作ったり、グラフィックを作ったりしたんですか?

後藤:音楽は作らなかったですが、グラフィックで遊んだりしていました。なにかそれを活かしたわけではないんですが、やっているだけで楽しいみたいな。本当にそれぐらいですかね。

ただ、そんな大学生活を送っていた中で、先ほどお話させてもらったように、音楽に接する機会は少なからずあって、当時FM802を聴く機会も多かったですし、あと学生仲間でも音楽の話にもなるじゃないですか?今は無きタワーレコード心斎橋店へ行って、音楽チャートを見たり、フリーペーパーの『bounce』で最近の音楽、特に洋楽をチェックしたりする中で、いろいろな音楽に触れたり知る機会が増えました。

それで就職活動をほぼせず、そのまま卒業して「どうしようかな」といろいろ求人誌を見ていたときに、ソニーミュージック大阪営業所でのアルバイト募集を見つけて、それに応募したら、たまたま受かったんです。

──最初はソニーミュージックでお仕事をされていたんですか。

後藤:はい。本当にそれが音楽業界入りのきっかけですね。もちろん音楽を聴くのは好きでしたけれど、「音楽の仕事をしたい」という強い想いがあったわけでもないんです。あくまでもバイト先の1つとして受けただけでした。

 

アーティストと一緒になってものを作りたい〜マネージメントへの憧れ

──ソニーミュージックの大阪営業所では、どんな仕事をされたんですか?

後藤:プロモーターとして、プロモーション業務をしていました。そのアルバイトを通じて、より音楽が好きになりました。当時ソニーのバイトは2年半で契約が満了することになっていて、2年半したら誰かの紹介でソニー本社に社員登用という可能性もあるんですが、ほとんどの人が音楽業界内の別の会社へ行ったり、マネージメントやイベンター、あるいはメディアへ行ったりしたんです。

──ソニーでのバイトは業界の登竜門的役目を果たしていたんですね。

後藤:今もそうかもしれないですけど、当時はそういう人がすごく多かったと思います。僕がソニーの大阪営業所で一緒に働いていたバイト仲間の人たちは、今は東京に出て来て各プロダクションに転職したり、俳優さんのマネージャーをやったりとかすごくいっぱいいます。

──後藤さんの場合、それがアミューズだったわけですか?

後藤:ええ。ソニーでプロモーターを2年半やってみて、音楽業界の仕事って素敵だなと思ったんですよね。音楽に囲まれて仕事をするって素晴らしいですし、やはり人に向き合う仕事じゃないですか?大阪営業所時代も、ものを売るというよりは、ソニーの社員のみなさんもそうですし、アーティストの方が大阪に来られてときも、そのアーティストやマネージャーさんたち、あるいは大阪のメディアの方々とかと向き合って仕事をすることが多くて、そういった人付き合いを通じて、みなさんとご一緒できるのがすごく楽しかったんです。それで、そろそろバイトも満了になる時期に当時の上司に「マネージャーになりたいんですけど、紹介してもらえませんか?」と相談したんです。

──大阪営業所での仕事を通じて、マネージャーという仕事に興味を持たれたんですね。

後藤:大阪営業所でプロモーターをしていたときに、アーティストと一緒に来たマネージメントの方々の仕事を見て「いいなあ」という(笑)。

──マネージャーというのは音楽業界のまさに核ですよね。

後藤:僕もそう思ったのが大きいかもしれないです。ライブを観てもそうですし。

──マネージャーってすべてに関わっているんですよね。

後藤:そうですよね。先ほども話しましたが、CD盤に対して向き合うよりも、僕は“人=アーティスト”に向き合いたいと思ったんです。

──音楽業界を目指す人の一部には、マネージャーという仕事を避ける人もいますよね?

後藤:最近は特にそういう人が多いですよね。僕もマネージャーの大変さは、あとになって気づいたかもしれないです(笑)。

──(笑)。でも、そこでマネージャーという選択をされた後藤さんの判断は素晴らしいと思います。正直言って、“マネージャー=アーティスト”なんだと思うんです。それ以外は言ってみれば業者じゃないですか?ライブの部分はこの業者、レコーディングはこの業者ということで。そこで核となるアーティストと一心同体なのはやはりマネージャーですからね。

後藤:多分、アーティストと一緒になって、ものを作りたいと思ったのも大きかったかもしれないです。プロモーターもそうですけど、受ける側だと「作る」という感じにはならないじゃないですか? 「どうプロモーションしていこうか」とか「どうキャンペーンを組み立てようか」とか。ライブだと「どんなメディアさん呼ぼうか」みたいな。もちろんそれがプロモーターの仕事なのですが、やはり作る側にいたいなと思いました。

──マネージメントって、毎日、文化祭とかイベントをやっているみたいですよね。

後藤:だから楽しそうに見えたんでしょうね(笑)。来阪したアーティストさんたちとの打ち上げは楽しかったですし、遅くまで「飲もうぜ」みたいなのも多かったんですよね。

 

アミューズでマネージメントの基本を学ぶ

──具体的にアミューズへはどのように入られたんですか?

後藤:当時、アミューズのアーティストが大阪でコンサートをして、その打ち上げ会場に音楽班の役員としていらっしゃっていた畠中(達郎)さんに「マネージメントをやりたいんです」と相談したら、「じゃあ東京へ来たら電話してこいよ」と。それで毎月全体会議で東京へ行く機会はあったので、その際に「東京に来たのでちょっと会ってもらえませんか?」と連絡して、雇ってもらうことになりました。それで上京して。

──アミューズに移られて、最初からマネージメントを担当されたんですか?

後藤:最初からマネージメントでした。役者のマネージメントをちょっと経験したいなと思っていたので、一番最初は役者のマネージメントだったんですが、それは研修期間の1か月間で終わったので、やっていたうちには入らないですけど。そこから音楽マネージメントに入ることになり、2年おきぐらいにいろいろなアーティストを担当しました。その中に役者のアーティストもいましたし、もちろん音楽のアーティスト、グループもいればソロもいましたし、本当にいろいろなアーティストを担当させてもらいました。

──早いサイクルで担当アーティストが変わるというのは、アミューズのやり方なんですか?

後藤:いや、それはアーティストによるかもしれないです。やっぱりベテランアーティストであれば、そんなにコロコロ変わらなかったりするじゃないですか。僕がいた部署がたまたまそうだっただけだと思います。

──後藤さんは様々なアーティストを担当する中で、マネージメントという仕事を学んだんですね。

後藤:そうですね。ソニーミュージックにいたときのマネージメントのイメージとだいぶ違うんだなとは思いました。やっぱりいい部分しか見ていなかったというのはあったんですけど、「これは大変な仕事だ」というのはアミューズに入ってから感じました。

──東京に来て気づいたと。

後藤:もちろん頭の中では「大変な仕事だ」となんとなく理解していたつもりなんですが、それ以上でしたね(笑)。

──仕事も変わったけれど、生活環境も大阪から東京で変わったわけですよね?上京して大変だったことはありましたか?

後藤:そうですね・・・当時カーナビがなかったので辛かったですね(笑)。

──マネージャーは車を運転することも多いでしょうし、土地勘がないと大変ですよね。

後藤:当時カーナビが付いている車も数台あったんですが、ない車もあって、地図を広げて運転していたので、それが一番最初は大変だったような気がします。みなさん渋谷とか新宿と言ったら「あっちのほう」となんとなくイメージできますけど、僕はその感覚がゼロだったので「どっちが千葉なんだろう・・・」みたいな(笑)、本当にそんな感じだったんですよ。

──生活する時間も不規則になったんじゃないですか?

後藤:もちろん、時期によっては寝る時間を削って働くような時代でしたから、やはり休みという概念がなくなっていくと言いますか「土日は休み」みたいな感覚はなくなりました。そこがやっぱり一番「キツイな」と思ったところがですかね。それでも体は壊せないですし。

──プライベートがないということですよね。

後藤:特に働き始めた頃は。とはいっても、楽しいこともありますし、その楽しいことが辛いことよりずっと勝っていたんですよね。だからやれているんだと思います。

 

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