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第215回 株式会社ダダミュージック 代表取締役副社長 須藤敏文氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

須藤敏文氏

今回の「Musicman’s RELAY」はTYMS PROJECT 代表取締役社長 青木しんさんのご紹介で、ダダミュージック 代表取締役副社長 須藤敏文さんのご登場です。

仕事の傍らでバンド活動もするお父さんの影響で、子供の頃から音楽好きだった須藤さんは、BOØWYの影響でギターを始め、バンド結成。JR北海道へ就職後も続けていたバンドSOULSBERRYでメジャーデビューを果たすも結果が出ず、職人の道へ。その後、IRc2 CORPORATION 糟谷銑司氏の誘いから布袋寅泰のディレクターに就任します。

布袋寅泰の独立、ダダミュージック設立、現在もマネージメントとして布袋寅泰の全アーティスト活動を支える須藤さんにじっくり話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗 取材日:2024年4月11日)

 

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第215回 株式会社ダダミュージック 代表取締役副社長 須藤敏文氏【前半】

 

バンドSOULSBERRYでメジャーデビューも芽が出ず職人の道へ

──その当時のIRc2との契約って、どんな感じだったんですか?

須藤:小樽に住んでいた頃は専属契約というより、スタジオ代を出してもらったり、レコーディングやライブで上京させてもらったり、色々と面倒をみてもらっているみたいな感じです。他のメンバーは仕事をしていたり、大学に通っていましたから。

──では、東京にはちょくちょく来るようにはなっていた?

須藤:そうですね。ゴールデンウィークで学校や仕事が休みだったりしたときに東京に行って、レコーディングして、ライブを何本か入れてもらって帰るみたいな。

──その後、SOULSBERRYはメジャーデビューしたんですか?

須藤:2000年11月にエイベックスからメジャーデビューするんですが、それに合わせて上京しました。22歳の頃です。

──東京に出てきてからの生活はいかがでしたか?

須藤:大変でしたね。デビューしたばかりですから取材もありますし、ライブはもちろん、新曲のレコーディングやそのプリプロなど、スケジュールがたくさん入っていてバイトをする時間もなかったです。

──事務所から給料は出ていたんですか?

須藤:出ていましたけど、家賃と光熱費を払ったら手元に残るのは3万円ぐらいじゃないですかね。もちろんライブが終わったあとは事務所のマネージャーさんとかが「飯食いに行くぞ」と連れていってくれたり、レコード会社の人にごちそうになったりしていましたから、そこまでお金は使わなかったんですけどね。それで3年ぐらいやったんですが、結果は出なかったです。

──そのとき須藤さんはどういう決断をしたんですか?

須藤:諦められないというか・・・まだ続けられるはずだと思い、家で曲を作ったりしつつ、引っ越しとか建築現場とか日雇いバイトに行くようになったんです。

──いわゆるガテン系の仕事ですね。

須藤:ヘルメットと安全帯と安全靴を借りて現場へ行っていました。そのときに年配の方とか学生もいましたけど、さまざまな境遇の人たちと1日一緒に働くわけです。「どんな状況でも仕事ってあるな」と思えるような貴重な体験でしたね。

──そう思えると強いですよね。

須藤:それで色々な現場に行っていたら、本棚を作る現場の職人さんが「うちで仕事しないか?」と誘ってくれて、棚工になるんです。

──棚工って「棚を作る職人」のことですか?

須藤:そうですね。大学の図書館のラックになっている本棚とか、あとボタンを押してレールの上を自動で動く本棚とか、そういった棚を作るんです。その仕事を4年ぐらいやりました。

──そんなに長くやったんですか?

須藤:4トントラックを運転して現場に行って、そこで部材を組み上げるんですよ。

──その間、音楽活動もやっていたんですか?

須藤:音楽活動もやっているつもりでいるんですが、仕事で疲れてそういう感じになっていかないんですよね。

──そういった状況で「俺の人生この先どうなるのか」とか考えましたか?

須藤:それはあまりなかったですね。当時、職人仕事をやると1日1万3,000円もらえたんですが、このまま腕の良い職人になって1人立ちすればもっと増えるんだと思って(笑)。月25万円もらえれば十分暮らしていけるなと(笑)。好きなときにギターも弾けますしね。

 

糟谷銑司氏の誘いから布袋寅泰のディレクターに

──須藤さんはポジティブ思考なんですね。

須藤:かもしれないですね(笑)。もちろんこのままではヤバい・・・とは思っていましたけど、深刻にはなっていなかったですね。

──でも、ご両親は「バンドで成功してくる」と言った息子が何をやっているのかな? と不安にはなっていたんじゃないですか?

須藤:それはあったでしょうね。デビュー当時、地元のレコード屋とか全部僕らのポスターでしたし、北海道のCMにも出ているわけですよ。ラジオも地元だから応援してくれていますし、親としては嬉しかったと思うんですけど、結果売れなかったことによって、ちょっとかわいそうな思いをさせたな・・・というのはありますね。

──下手に目立っていたがゆえに・・・。

須藤:ですね(笑)。そうこうしているうちに、もともと僕たちのマネージメントをしていた人がマネージメント会社を作るという話になり、「手伝ってくれ」と言われたのが一番最初のマネージメント経験です。29歳のときでした。

ただ、その会社があまりうまくいかなくて、そこでやった新人がメジャーデビューすることが決まるところまでは関わっていたのですが、ちょうどそのタイミングで糟谷(銑司)さんにお会いしたときに「お前は器用だし色々できるから重宝されるかもしれないけど、40歳、50歳になったときにそれでいいのか?」と言われたんです。

──キャリアとしてそれでいいのかと。

須藤:「お前は便利な人のままで40、50迎えるんじゃないの?」と言われて「布袋のディレクターを担当しないか?」というお話をいただきました。

──話がいきなり飛びましたね。

須藤:「お前はミュージシャンをやっていたんだから、音を作るのはできるだろ」と。でも、「布袋さんか…」と正直思って(笑)。新人でもないし、中堅でもないですしね。

──糟谷さんは須藤さんのことを買っていらしたんですね。

須藤:裏方に向いていると思っていたみたいです。デビュー後も花田(裕之)さんのライブやフジロックのTHE ROOSTERSのライブの時に楽器のチューニングをしたり、運んだりさせてもらっていたので、そういう姿を見てくれていたんだと思います。

──マネージメントの才能があると見込まれていた?

須藤:どうなんでしょうね。ただ、「お前は段取りができる」と言われていました。棚職人時代に、糟谷さんから「自宅の引っ越しを手伝ってくれ」と言われて、やったことがあるんです。そのときに部屋をばーっと見て、資材やバイトの手配を全部段取ったんです。それって棚職人のときの経験が生きているんですよね。

──そこで「向いている」と高い評価を得た?

須藤:「段取りができるやつだな」と思ってくれたんでしょうね(笑)。

──人生なにが評価されるかわからないですね。もちろん糟谷さんはバンドデビューまで面倒を見ていらしたので、須藤さんの音楽に対する姿勢とか「こいつなら大丈夫」みたいに思ってくださっていたんじゃないでしょうか。だって段取りだけで布袋さんの・・・(笑)。

須藤:(笑)。

──ちなみに布袋さんは須藤さんのディレクター就任をすんなり受け入れたんですか?

須藤:布袋さんも僕を知っていてくれてはいましたけど、だからといっていきなりディレクターというのは・・・実際どうだったんでしょうね?(笑)

──それまでは布袋さんとはしょっちゅう接点があったわけではない?

須藤:ほとんどないです。

──(笑)。それが30歳くらいですか?

須藤: 31歳でしたかね?だから僕が本格的なスタッフワークを始めたのって30歳を過ぎてからなんですよね。

 

布袋寅泰のロンドン移住&独立とともにダダミュージックへ

──その後、布袋さんはIRc2から独立されますが、どういったいきさつだったんですか?

須藤: 2012年に布袋さんが「ロンドンへ行って世界に挑戦したい」と。それにあたって自分でやっていきたいという話があり、糟谷さんも「応援するよ」ということで、独立してダダミュージックという会社を作ります。同時に今井(美樹)さんも一緒に移ることになり「須藤も一緒に手伝ってくれないか?」と誘って頂き、僕もIRc2からダダミュージックに移りました。ただ、僕はロンドンへは行かず、布袋さんと今井さんの日本窓口として日本で仕事をしています。

──布袋さんがロンドンに行かれてからは、どのように活動を進めていったんですか?

須藤: 2013年からイギリスのマネージメントとエージェント契約し、イギリス人のマネージャーに加わってもらい、そのリレーションに僕も入り、海外での仕事を進めていきました。布袋さんのレーベルはユニバーサルなので、ユニバーサルのUKオフィスに本人や現地マネージャーが行って情報交換をしたり、やはりライブがやりたいという想いもあったので、ロンドンのラウンドハウスという歴史あるライブハウスやシェパーズ・ブッシュ・エンパイア等で何本かトライしてみたり、ヨーロッパツアーも車でみんな一緒に移動したりしましたね。

──そのヨーロッパツアーには須藤さんも同行されたんですか?

須藤:行きました。任せて同行しなかった期間もありますけど、ツアーの最後は僕も一緒に回りました。

──布袋さんをプロモーションする上で心がけていたことなどありますか?

須藤:映画『キル・ビル』のテーマ曲「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」という世界中どこへ行っても知られている曲があるので、「この曲は布袋の楽曲だ」というのをまず伝えるようにしていました。

──海外アーティストとの共演も増えましたよね。

須藤:そうですね。2014年にイギー・ポップと布袋で楽曲を作ったんですが、それもドン・ウォズというローリング・ストーンズやボブ・ディランなどを手掛けたプロデューサーと繋がって、ドン・ウォズから「イギーが興味があると言っている」ということで、布袋さんがマイアミまで行き一緒にレコーディングをしました。あとイタリアのスーパースター、ズッケロもユニバーサルの現地担当者の紹介で出会い、すごく意気投合して、彼のマネジメントとは今でも連絡を取り合っています。

──ズッケロとはライブでも共演されていますよね。

須藤:ええ。ライブもそうですし「今度サンレモ音楽祭に出るけど、布袋さん来ますか?」みたいな感じでテレビでの共演もありました。サンレモ音楽祭は視聴率70パーセントとか80パーセントとかすごいんですよ。

──そんなに人気があるんですね。

須藤:ズッケロはイタリアでは誕生日がニュースで流れるような国民的なアーティストで、彼が世界遺産のサンマルコ広場でライブを開催したときも「布袋さん、ゲスト出演で来れますか?」と連絡が来て、あのときは僕もベニスへ行きました。

──イタリアでは布袋さんの名前は広まっている?

須藤:声を掛けられたとかはありますけど、そんな簡単には広まらないですよね。ストリーミングが急に上がったとかそういうこともないですし。昔ズッケロはエリック・クラプトンにすごく目をかけられていたんです。彼はイタリアで成功していたけれど、ヨーロッパのほかの国では成功していなかったときに、クラプトンがヨーロッパツアーを回るときにオープニングアクトでずっとズッケロを呼んでいたそうです。

ズッケロはクラプトンに親切にしてもらったという想いがあって、だから布袋さんに対してもすごくフレンドリーに接してくれるんです。2人とも母国語が英語じゃないというところで、ズッケロは布袋さんのことをすごく気にかけてくれますし、布袋さんもズッケロとの協力関係をすごく楽しんでいます。

──須藤さんは普段ヨーロッパとか海外でのツアーがないときはずっと日本にいるとおっしゃっていましたが、いわゆる制作が中心なんですか?それとも日本での全ての業務をやっていらっしゃるんですか?

須藤:全部やっています。スタートが「原盤ディレクターをやれ」ということなので、原盤制作はやりますし、コンサートの制作というか基本的な舞台とか演出回りも本人と話しながら基本全部僕がやっていますね。

──全てに関わるってメチャクチャやりがいのある仕事ですよね。結果がすぐに出ますし。

須藤:たまに「こんなオファーが来るんだ!?」みたいなこともありますしね。ローリング・ストーンズの東京公演でのゲスト出演もそうですけど、たまたま僕がロンドンのユニバーサルでミーティングをしていた時、インターナショナル担当の女性が「布袋さんは東京ドームのストーンズ行ける?」というような感じだったんですよ。確か「ミックが呼んでいるけど、どう?」みたいな(笑)。

──話がデカいですね(笑)。ミック・ジャガーは布袋さんのことを知っていた?

須藤:知っていました。2013年に僕らがロンドンで行った単独公演にストーンズの関係者が観に来ていたんです。で、東京公演でのゲストを誰にするか?というときに彼が布袋さんの話をミックにしたら、ミックも知っていて。もちろんこちらは「こんなに光栄な話はない」と出演することになったんです。

──断る理由はないですよね。

須藤:それも布袋さんがロンドンで単独公演をやっていなかったら、なかったかもしれない話だったんです。

──ちなみに須藤さんもミック・ジャガーとは会えたんですか?

須藤:ミックとは直接会えなかったんですが、キース・リチャーズとロン・ウッドとはステージに出て行く前に紹介してもらって握手してもらいました。

──すごい・・・。

須藤:ロンドンへ行くと、自分が昔から知っていたアーティストやプロデューサーと普通に一緒に仕事をするようになるんですよね。例えば、僕が昔好きだったリーフというバンドがあるんですが、リーフのボーカルが布袋さんのライブのゲストボーカルとして歌うとか・・・亡くなってしまいましたがギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルと共演したり、ジェフ・ベックのギターテックがスタッフで来てくれたり。

 

海外でできた仲間たちが財産

──洋楽アーティストって日本にいると別の惑星の人というか、現実感がないですよね。

須藤:恐らくコンプレックスになっていたと思うんですが、実際に現地に飛び込んでみると、いい音楽を作るために一緒にやることができるんだと肌で感じることができました。でも、布袋さんは一番最初のソロアルバム(『GUITARHYTHM』)を作るときからロンドンへ行って、仲間をたくさん作っていた人なので、その感覚をもっと前から持っていたんです。

今はSNSが発達していますから、みなさんそれぞれのやり方で海外の人脈作りをしていますよね。僕らのときってまだ今ほどそういったものがなかったので、直接飛び込んでいくしかなかったんですよね。

──でも、それによって海外にたくさんの仲間が増えたと。

須藤:それが一番大きいですね。誰かに頼んでヨーロッパのスタッフを発注するところを、PAにしろ、ギターテックにしろ、直接頼める仲間たちがいますから。

──海外に日本の音楽を輸出するという話のときって、どちらかというとデジタルの話ばかりになってしまうじゃないですか? でも結局は布袋さんのようにイギリスやヨーロッパで仲間ができたとか、そういうことがすごく大事ですよね。

須藤:本当にそう思いますね。「久しぶりだね!」と普通にハグできるアーティストやスタッフがいるというか、そういった仲間たちが協力してくれますし、「なにかあったら言って」と言ってくれる人もいます。

──コロナ以前と以降で音楽業界というか音楽シーンが変わったとみなさんおっしゃるんですが、やはり影響はありましたか?

須藤: 約10年、海外と交流を続けてきましたが、それがコロナで止まってしまったのはもったいなかったなと思いますね。実はコロナ以降、ヨーロッパでのライブをまだやっていないんですよ。

──ライブは復活していない?

須藤:日本よりも早くライブは再開していました。ただ僕らはまだ始められていないんですよね。この間ソウルで単独公演をやったんですが、日本の状況とは違って、韓国もヨーロッパ同様にライブの復活が早かったそうなんです。日本みたいに抑え抑えじゃなくてすぐに解禁してやっていたと韓国のスタッフから聞いていて「そんなにも差があるのか」と思いました。

──ロンドンと日本と離れて制作されるわけですが、時差とかそのあたりはやりづらくないですか?

須藤:逆にロンドンと日本とでやりやすい部分もあって、むしろ日本にいたときよりレスポンスがお互い早いかもしれません。ちょうど時差が8時間あって、午前中にこっちでまとめたものをメールで送っておくと、18時ぐらいに戻ってくるわけですよ。翌日それをこっちで整理して「こうなりました」とまた報告して、みたいな感じですね。たまにリモートもやりますし、本当に便利な時代になったと思います。

──今、ダダミュージックは布袋さんと今井さん以外のアーティストは所属しているんですか?

須藤:いえ、その2人だけです。

──では、彼らのパフォーマンスをどこまで引き出すかということが中心になる?

須藤:そうですね。2人ともキャリアを重ねてきて、あと何枚作品を出せるかとか、あと何回ツアーをやれるかとか考えるようになりました。仮にあと10年活動するとして、年間30本のツアーを切ったとしたら「あと300回しかライブができないな」みたいな会話もしますし、だからこそ1本1本のライブをものすごく大切にするようになっています。

──確かに年齢を重ねれば、誰だって残り回数が少なくなるわけですから、1本1本をどういう風に作るかというのはすごく大事ですよね。

須藤:関わっているスタッフのみなさんも一緒に歳を重ねていくという中で、お互いに終わりをどういう風にしていくか、というところにきているアーティストだと思うので。まだちょっと早いかもしれないですけどね(笑)。

──どんなアーティストも当然それを考えながらやっているんでしょうね。

須藤:そうでしょうね。アーティストの永遠の課題だと思います。

 

嘘をつかず、きちんと謝れる人になろう

──須藤さんご自身はもうギターは弾かないんですか?

須藤:全然弾いてないですね(笑)。僕以外のメンバーとか、みんな田舎へ帰ってもスタジオに入ったりしているんですよ。僕は多分、ギターを引く目的が別に有ったんでしょうね(笑)。

──ちなみに仕事以外の趣味はありますか?

須藤:うーん・・・「趣味はなんですか?」と聞かれたら本当に困りますね。

──そうなるとやはり、仕事が趣味という?

須藤:多分仕事と思っていたら今のポジションにいないと思うんですよね。音楽業界って結構そういう方が多いんじゃないですか?

──この業界は特に多いですよね。やっていることがすごくクリエイティブですし。

須藤:楽しいですよね。思ったことを色々な仲間たちと実現できるという。もちろん結果は必要ですけど。

──ご両親は現在の須藤さんの姿を見て、何かおっしゃっていますか?

須藤:まさかこんな風になるとは考えていなかったでしょうし、正直どうなるか心配はしていたと思います。ただ、母親は「私は心配してなかった」と言い張るんですよね。

──素晴らしいですね。Musicmanは音楽業界を目指す若い人たちが多く読んでいるんですが、そういった人たちに向けてメッセージはありますか?

須藤:「謝って許される人になったほうが得だよ」というところですかね。

──それはなぜですか?

須藤:どんなに頑張っても失敗ってするじゃないですか? でも、失敗しても「すみません!」と謝って「しょうがねえやつだな」と許される人というのは、コミュニケーションをしっかり取れる人だと思っています。あと、いろいろトライアルする人だと思いますし。

──おっしゃり通りだと思います。でも、どうしても謝れない人っていますよね。

須藤:いますよね。僕は小さい頃から両親に「絶対に嘘つくな」と言われ続けてきたので、それだけは守るように心がけているんですが、残念ながら社会には結構嘘つきがいますし、そういう人とは仕事したくなくなっちゃいますよね。

──嘘やハッタリで自分を大きく見せる人ですね。

須藤:だから若い子には「嘘をつくな」じゃないですかね。嘘をつかず、ちゃんと正直に謝まろうと。それができれば、例えどの世界に行ってもしっかり仕事ができると思います。