『また逢う日まで 音楽プロデューサー本城和治の仕事録』刊行記念、J-POPの源流を築いた男 ― 本城和治氏
60年代、洋楽ディレクターから始まり、その後に邦楽制作に移動。スパイダースを皮切りに、グループサウンズ、フォーク、ジャズ、ロック、ポップスと、日本に幾多の新しいポピュラー音楽を根付かせた音楽プロデューサー・本城和治氏。
レコード大賞を受賞した尾崎紀世彦を筆頭に、数々のヒット曲を生み出した本城氏の仕事を詳細に綴った『また逢う日まで 音楽プロデューサー本城和治の仕事録』(構成・濱口英樹)が2024年4月に刊行された。その刊行を記念し、本城和治氏にお話を伺った。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2024年9月17日)
プロフィール
本城和治(ほんじょう・まさはる)
1939年生まれ、東京育ち。慶應義塾大学卒。洋楽ディレクターとしてフランス・ギャルやウォーカー・ブラザーズなどフィリップス/マーキュリーの60’sポップスを日本に根付かせ、邦楽ディレクターとしてもグループサウンズ最盛期にザ・スパイダース、ザ・テンプターズなど11のバンドをディレクションする一方、尾崎紀世彦、森山良子、長谷川きよし、井上順、大橋純子、マイク眞木、石川セリなども担当。「また逢う日まで」「バラが咲いた」「バン・バン・バン」「さとうきび畑」「メリー・ジェーン」「別れのサンバ」など数多くのヒット曲を生み出している。
1962年に日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)に入社。1970年に日本フォノグラム(現ユニバーサルミュージック)設立にともない、移籍。1987年NECアベニュー設立に取締役として参加。現在はフリーの音楽プロデューサーとして多方面で活動中。
本城和治氏 邦楽シングルヒット曲代表作品
- 「バラが咲いた」 マイク眞木(1966)
- 「若者たち」 ザ・ブロードサイド・フォー(1966)
- 「夕陽が泣いている」 ザ・スパイダース(1966)
- 「この広い野原いっぱい」 森山良子(1967)
- 「エメラルドの伝説」 ザ・テンプターズ(1968)
- 「小さなスナック」 パープル・シャドウズ(1968)
- 「さとうきび畑」 森山良子(1969)
- 「別れのサンバ」 長谷川きよし(1969)
- 「また逢う日まで」 尾崎紀世彦(1971)
- 「お世話になりました」 井上 順(1971)
- 「メリー・ジェーン」 つのだ☆ひろ(1972)
- 「たそがれマイラブ」 大橋純子(1978)
etc・・・
──まず、ご著書の出版おめでとうございます。60年のキャリアを振り返る大作ですね。こんな暑い日(取材当日:2024年9月17日)にもかかわらず、大変お元気そうですね。
本城:ありがとうございます。実は昨年、体調を崩して2回ほど入院したんです。肺に水が溜まって合計4リットルも抜いたりと大変でしたが、その間にも本の中身はほとんど完成させていました。
──4リットルですか!?そんな大変な状況のなかで本を完成されたんですね・・・本の制作にあたって、膨大な資料をどのように整理されたのでしょうか?
本城:90年代にレコード会社が毎年作っていた総目録を、国会図書館で見つけたんです。それを毎日コピーして、自分が働いていた時代の作品の記録は全部それでまとめました。それと、今回の本の構成を担当してくれた濱口(英樹)(※1)さんが以前に書いた本(『ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人』)で既に僕の作品目録を作ってくれていて、二人三脚で作り上げました。
※1:濱口英樹:音楽関連書籍の執筆を多数手がけ、『JAZZ JAPAN』や『ジャズ批評』などの音楽専門誌でも執筆活動を行っている。
──私は昭和31年生まれなので、本に書いてあることはほぼリアルタイムで体験してきましたが、本城さんの経歴を拝見すると、まさに日本のポップ音楽史そのものという印象です。あのレコードもこのアーティストも、目の前にいる人が作ってきたのかと思うと、感動もひとしおです。当時は一体、いつ寝ていたんですか?(笑)
本城:昔のディレクターって、そんなにヒットメーカーの意識は無いんですよ。制作ができる人間が非常に少ないこともあって、一人で何でもやっていただけなんです。本を作ってみて、自分でも信じられないくらい、たくさんの仕事に関わってきたんだなと改めて感じます。
──野球で言えば4000本ヒットって感じですよね!まさしく殿堂入りです。
本城:本当に恵まれていたと思います。好きなことをやりながら、道を切り開いてこられた。若い人がこの本を読んだら、こんな時代があったんだと驚くでしょうね。
──本当に想像もつかないでしょうね、何から何まで。そんなヒットのなか、逃してしまった魚系で言うと・・・
本城:ユーミンとDREAMS COME TRUEですね(笑)。
──元タイガースの加橋かつみ(※2)さんの「愛は突然に…」で、高校生だったユーミンを最初に作曲家として採用したのが本城さんでしたよね。
※2:加橋かつみ:ザ・タイガースの元メンバー。タイガース解散後はソロ活動を展開。1971年「愛は突然に…」で松任谷由実の作曲家デビュー曲を歌う。
本城:結果的にはそうなりますね。アルファミュージックに行ってからも彼女自身、歌う気が全くなかったですからね。
──もし、本城さんが関わっていたらどうなっていたでしょうね?
本城:どうですかね? アルファスタジオがあって、細野晴臣と村井邦彦がいて、その時に同じクオリティーを出せるかといったらわかりませんよね。
ドリカムに関しては、NECアベニュー時代のプレゼンに参加した時、吉田美和の歌唱は素晴らしいと感じたものの音楽性にはピンとこず・・・数ヶ月後のEPICからのデビュー曲「あなたに会いたくて」を聴いた時には驚いたものです。
本にも書いていますが、たまたま時代と人に恵まれてヒット曲を残せただけで、才能を見抜く点では偉そうにプロデューサーを名乗る資格は無いんです。
──ちなみに、本城さんは最初から音楽制作の仕事がしたいと思っていたんですか?
本城:そもそもはジャズ評論家か映画評論家がいいなと思っていたんです。単純なんですけど、好きな音楽、好きな映画をたくさん見られるので、高校生の頃はそういう仕事がいいなぁと思っていました。
──憧れの人はいましたか?
本城:野口久光(※3)さんや油井正一(※4)さん、この2人はやっぱり素晴らしいなと思って憧れてましたね。映画評論家では双葉十三郎(※4)さんですね。あとで冷静に考えたら、評論家も全部好きな音楽、好きな映画を見たり聞いたりするわけじゃないし、僕は好き嫌いが激しいからやめようと(笑)。
※2:野口久光:日本のジャズ評論家。日本のジャズ評論の礎を築いた人物。
※3:油井正一:日本のジャズ評論家。『ジャズ批評』での執筆や『ジャズの歴史物語』などの著書で知られる。
※4:双葉十三郎:戦後日本を代表する映画評論家。雑誌『スクリーン』での連載など映画評論の発展に貢献。
──そこで制作の道に進まれたんですね。
本城:そうですね。でも、若い頃の経験が全く無駄だったわけじゃないんです。音楽や映画への愛が、後のレコードディレクターとしての仕事に活きて、結果的に自分の好きなことを仕事にできたわけです。
──本城さんは日本のポップミュージック、J-POPの先駆者と言われていますね。
本城:自分でもそういう意識はありましたね。元々は洋楽育ちだったので、洋楽を聴いて日本の音楽に何が必要かはっきりわかったんですよね。そもそも、洋楽を聴いていなかったら歌謡曲のディレクターにはなっていなかったでしょうね(笑)。だから洋楽の影響はすごく大きいです。
──具体的にどういった影響を?
本城:ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にはすごく衝撃を受けましたね。その後は特にビートルズの影響が大きかったです。それまでは洋楽のポップスというとプレスリーとかで、僕はジャズやクラシックの方を好んで聴いていました。ただ、何年か経つとビートルズが素晴らしいオリジナルアルバムを完成させていって、これからはすごいポップスの未来になるな、と想像力をかき立てられたんです。
──ビートルズの音楽に対する評価が変わっていった。それで、日本の音楽を世界に広める取り組みもされていたそうですね。
本城:たまたま僕は(日本ビクター)フィリップス・レコードという世界的なネットワークを持つ部署にいたので、そのネットワークを使って日本の音楽を広めることができる立場でした。本当に幸運な時代を生きたと思います。
──「好きなことを何でもやらせて貰えた」と書いてありましたね。
本城:勝手にやっていただけなんですけどね(笑)。企画書は出さないし、アーティストとの契約も断りなくやっていましたから。当時の上司である、伊藤信哉(※5)さん、シンコーミュージックの草野昌一(漣健児)(※6)さんの先進性というのは、やっぱりすごかったですね。
※5:伊藤信哉:ビクター音楽産業の洋楽統括者、後の日本フォノグラム社長。
※6:草野昌一(漣健児):『ミュージック・ライフ』初代編集長。音楽出版社の先駆者として知られる。
──「夢見るシャンソン人形」(※7)のタイトル付けなど、この本を読むと本当に歴史的な局面がたくさん出てきますよね。
※7:夢見るシャンソン人形:セルジュ・ゲンズブールが作詞・作曲し、フランス・ギャルが歌唱。1965年に日本で大ヒットを博す。
本城:あの頃、タイトル付けは特に大事だったんでしょうね。「夢見るシャンソン人形」の後にヒットしたのが、「涙のシャンソン日記」という曲で、これは伊藤信哉さんが付けたタイトルなんですけど、やっぱり今でも記憶に残っていますね。もしも、原題のままだったら、こんなにも長く人の記憶に残っていなかったかもしれませんね。
──スタジオでの仕事も大変だったそうですね。
本城:当時のスタジオは今と違って、ディレクターやエンジニアもみんな年上ばかりで怖かったですね。朝9時からレコーディングを1曲1時間でピシッと・・・僕にそんなこと出来るわけないじゃないですか(笑)。
──(笑)。具体的にどんなことが大変でしたか?
本城:スタジオを押さえると、録音部長やエンジニア、文芸部の歌謡曲ディレクター等が「ちゃんと時間通りやってくれよ」と、うるさく言うんですよ(笑)。片付けも含めて時間内でちゃんとやらないといけないですから。
──印象に残っているレコーディングはありますか?
本城:ゲイリー・ウォーカー&ザ・カーナビーツ(※8)「恋の朝焼け」のレコーディング直前になって曲を作らなきゃいけなくなって、急いでブルースコードで簡単に作曲しちゃったんです。でも、スコット・ウォーカー(※9)が来てくれて、彼が全部プロデューサー仕事をやってくれたおかげで、なんとか形になりました(笑)。
※8:ゲイリー・ウォーカー&ザ・カーナビーツ:ウォーカー・ブラザーズのゲイリー・ウォーカーをボーカリストに迎え、カーナビーツと共に1968年「恋の朝焼け」をリリース。
※9:アメリカ出身の歌手、作曲家。ウォーカー・ブラザーズのメンバーとして1960年代に人気を博す。
で、その時に初めてスコットと言い合いになったんです。あの時代、イギリスは「サージェント・ペパーズ」くらいまで、タビングの時に4チャンネルで録ってましたから。
──日本とは録音事情が違ったんですね。
本城:そうなんです。67〜68年のヨーロッパはモノラルがメインで日本はステレオがメインだから、スコットは「僕は絶対に2チャンで録るのは嫌だ」と言って、少しでもダビングの回数を減らすためにピンポン録音で録りました。
──本城さんが邦楽ディレクターとして最初に手がけられたのは、スパイダースになるんですか?
本城:そうですね。スパイダースから始められたのは本当に恵まれてましたね。草野さんと堀(威夫)※10さんには大感謝です。
※10:堀威夫:ホリプロの創業者。スパイダースをはじめ、1960年代のグループサウンズ時代に重要な役割を果たした。
──特に思い出深いアーティストは?
本城:森山良子ですね。数えてみたらアルバムを32枚作っているんですよ。しかも、シングルよりもアルバムの方が多いくらいで。最近も彼女はニューヨークで大江千里と、彼のプロデュースでアルバムをレコーディングしているんですよ。来年でデビュー55周年ですから、もっと一緒にやりたかったですね。例えば、ディズニーの名曲集は絶対合うなと思っていたので作りたかったです。
あとは、菊地雅章のジャズアルバム を11 枚作りましたが、売るのには苦労しましたけどやって良かったなと思っています。その中で最大のセールスは尺八の山本邦山と共演した「銀界」というアルバムでした。
──音楽業界の雰囲気も大きく変わりましたよね。
本城:今のレコード会社だったら興味は持たなかったでしょうね(笑)。やはり年齢を重ねるにつれて、昔好きだった音楽を聴くと元の自分に戻るというか・・・もし、レーベルをやるとしたら現代版のジャズっぽいものをやりたいですね。もちろんジャズなんかは今も進化してるけど、時代は変わっても共感できる部分は多いです。
──現在の音楽シーンについて、どのように感じていらっしゃいますか?
本城:世代が違うので正直、今のJ-POPにはあまり親近感が持てないんです。でも、あいみょんや米津玄師、YOASOBI、藤井風など、才能のある若いアーティストはたくさん出てきていますよね。そのあたりのアーティストには注目しています。
──J-POPの変化についてどう思われますか?
本城:時代とともに音楽も変化していくのは自然なことです。先程の世代が違うという部分も大きいと思いますが、当時と比べて言葉も音数も多いし。でもそれがずっと続くとも思えないので、繰り返しながら変わっていくんだと思います。昔の良いところも忘れずに、新しい音楽の形を模索し続けてほしいですね。
──最近のお仕事について教えていただけますか?
本城:今年は大橋純子のデビュー50周年でした。究極のベストアルバムを作りたいということで、2枚組で。フィリップス時代(1974~1984)の選曲は既に終わっていて、ライナーノーツも用意しています。あとは婦人之友社の『明日の友』という季刊誌で「あの歌をPlayback」という音楽頁を7年間担当させて頂いています。
──音楽業界を目指す若い世代へメッセージをお願いします。
本城:全て変わっちゃったから、言いようがないですよね(笑)。数十年でこんなに変化するとは思わない。だって僕なんか、LPとEPシングル盤のアナログ時代ですから、デジタル録音を殆どやった記憶がないですし。
──そのアナログレコードを集めだしている若い人って、結構いるみたいなんですよね。
本城:僕が知らないところで、昔に作ったレコードが復刻する話を聞いたり(笑)。だから、いい時代だったということもありますよね。時代は変わっても、若者たちの音楽への情熱は変わらないんですね。自分の感性を信じて、良い音楽を作ろうとする情熱を持ち続けることが何より大切だと思います。
──自分の人生を振り返って、この道しか無かったと本に書かれていますが、そう言い切れる人間がどのくらいいるんだろうなと。
本城:レコード会社の人間として、良いセールスマンや宣伝マンになれる自信はなかったですから。考えてみると、会社に入ると普通は色んなことを経験するんでしょうけど、ずっと制作しかしていなかったんです(笑)。しかも、いわゆる芸能界的な気遣いをしなければいけない仕事とも全く無縁でした。
本当に時代と人との巡り合わせが良かっただけと思っているんですが、今もこうやって好きな音楽の仕事を続けていられることに感謝しています。