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第217回 株式会社エッグマン [NOiD]レーベルプロデューサー永井優馬氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

永井優馬氏

今回の「Musicman’s RELAY」はテレビ朝日 利根川広毅さんのご紹介で、株式会社エッグマン、 [NOiD]レーベルプロデューサー・永井優馬さんの登場です。ゲーム会社に勤めるお父さんのもと、エンタメに溢れる家庭で育った永井さんは、高校時代にダンス部と軽音部を兼部し、文化祭やイベントを通じて次第に音楽業界を志すようになります。

そして、大学在学中にshibuya eggmanにバイトで入社し、現場経験を経てブッキングを担当。イベント[NOiD]を立ち上げます。また、友人の紹介でSUPER BEAVERと出会い、[NOiD]レーベル設立を経て、彼らを再びメジャーへと導きます。そんな永井さんにキャリアのお話からSUPER BEAVERとのエピソードまでじっくりうかがいました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)

 

▼前半はこちらから!
第217回 株式会社エッグマン [NOiD]レーベルプロデューサー永井優馬氏【前半】

 

「“eggmanに行けば優馬に会える”と思わせろ」〜故 松原 裕さんの教えとイベント[NOiD]

──そこからはずっとeggman一筋ですか?

永井:一筋です、音楽業界はeggmanだけです。というか、ほかの社会経験がないです(笑)。

──(笑)。今もお店には出られているんですか?

永井:いや、お店にはほとんどいないですね。eggmanでの職歴は、最初がPAチームのお手伝いをしていて、PAチームがいっぱいの日はドリンクカウンターに立っていました。あと、たまに照明を手伝ったりとかもしていたんですが、「ブッキングをやりたい」とずっと言っていたので、「だったら受付」と言われて、受付業務で日報の書き方を覚えつつ、少しずつブッキングをやるようになりました。それでブッキングをやるために事務所へ出勤する日と受付をやるためにライブハウスへ行く日が半々になっていき、その後ブッキングだけにシフトしてからは完全に事務所出勤に変わりました。

──別のインタビューで読んだんですが、「太陽と虎」の故 松原 裕さんに大きな影響を受けたそうですね。

永井:ものすごく影響を受けました。ブッキングをやり始めたぐらいのときに「神戸にめちゃくちゃ有名な人がいる」という話を聞いたのが、松原さんのことを知った最初です。やっているイベントや箱への愛とか、すごく尊敬できることが多い方で、「業界で憧れている人は誰ですか?」と聞かれたら、松原さんは真っ先に挙げる名前ですね。初めて出会った日のこともよく覚えていますし、そこからずっと気にかけてくれましたし、なにか悩みごとがあったら電話していましたし、本当によくしてくださいました。

──このリレーインタビューでお話を伺いに神戸へ行ったんですが、もうすでに体調を崩されていて、その取材から1年後ぐらいに亡くなったときはショックでした。

永井:でも、松原さんって「オモシロ」をすごく求めている人ですから、つらい状況のはずなのに冗談を言い合ったり、そういうところもすごく好きでしたね。あるとき「松原さんは有名だし、みんな慕っているのに、なんで全国展開せずに神戸にこだわっているんですか?」みたいな質問をしたんですよ。そうしたら「俺が神戸にいたら、みんな神戸に来てくれるやん」「俺が神戸からいなくなっちゃうと、誰かが神戸へ来たときに誰に頼ったらいいかわからなくなるでしょう?」と言われたんですよね。そして、「優馬も『渋谷に行けば、eggmanに行けば優馬に会える』とみんなに思わせなきゃダメだ」とすごく言われたんです。その言葉は強く印象に残っています。

大学卒業タイミングで他の会社に行こうか考えたりすることもありましたけど、「eggmanって優馬いるよね」みたいな会話が全国各地でされたらうれしいですし、後輩がうちの所属アーティストとツアーへ行って、名刺を渡したら「優馬のところね」と言ってくれたら、すごく話がしやすいだろうなと。そういったことは松原さんから学んだことです。

──素晴らしいアドバイスですね。

永井:松原さんの言葉はずっと残っていますね。それでブッキングもやりながら、今はレーベル名にもなっている[NOiD]というイベントを立ち上げました。そのイベントは絶対にeggmanに200人以上入れる、あるいはソールドしないといけないイベントと決めてやり始めたら、「[NOiD]というイベントが渋谷で面白いらしいよ」とか、「[NOiD]に出たい」と言ってくれるバンドが少しずつ増えてきてそれで「全国各地どこでも[NOiD]というイベントやっていいじゃん」と思ったときに、初めてeggman以外でやると決めたのが「太陽と虎」だったんですよね。

その後、「もっと大きい[NOiD]をやろう」と計画して、その当時、僕が背伸び出来る規模が新木場STUDIO COASTだと思って新木場STUDIO COASTを押さえて、MAN WITH A MISSIONや、SUPER BEAVER、G-FREAK FACTORY、EGG BRAIN、リレーインタビューでも少し前に登場していた猪股(洋之)さんもNorthern19で力を貸してくれて、2013年に初回の「[NOiD] FESITVAL」を開催しました。

──2013年ということは永井さんが25歳ぐらいのときですよね。

永井:はい。この25歳というのが大きくて、松原さんがComing Kobeの前身のGoing Kobeを立ち上げたのが25歳のときなんです。だから「25歳までに大きいイベントやらなきゃダメだ」と決めて、「自分が今やれる最大規模のキャパはコーストだ!25歳でコーストをやろう」と開催したんです。

──目標通りやれたのは素晴らしいですね。

永井:ただ、2回目の開催で大挫折をするんですよね(笑)。それでも自分の好きなバンドたちを頑張って集めて、でも集客は600人みたいな挫折があって。そこから何年か開いちゃうんですが(笑)、久しぶりにやったときは全部売り切りましたし、スタジオコーストがなくなっちゃうときも、1日もらって開催したり、[NOiD]FESITVALは自分にとってとても大切なイベントですね。

──ちなみにこの[NOiD]というのはどういう意味なんですか?

永井:そこに意味があったらかっこいいんですけど、実はパッと思いついただけで(笑)。「ライブハウスに入るのに身分証=IDなんていらないよね」みたいな説明をして言います。

──なるほど。

永井:あと、ロゴ下には「No Identification For Our Sounds」と入れているんですが、僕はジャンルレスの感じがすごく好きなので、「ジャンルもへったくれもねえ」という意味も込めています。ですから[NOiD]レーベルは所属アーティストのジャンルが絶対に一緒じゃなきゃいけないなんて全く思っていませんし、イベントをやるときもギターロックとパンクロックがいても、全然融合してやれるじゃんと思っています。

 

「俺がレーベル作るよ!」メジャー落ちしたSUPER BEAVERとの出会い

──SUPER BEAVERとの出会いについても伺いたいのですが、彼らとはどのように出会われたんですか?

永井:居酒屋へ打ち上げに行こうとしていたら、道端に友だちとSUPER BEAVERのギターの柳沢(亮太)がいて「紹介するよ」みたいなのが最初の出会いでした。「メジャー落ちして大変なんだよ」みたいな話もありつつ、同い年だったのですぐに仲良くなりました。

当時のビーバーは、インディーズになって自主でCDプレスをしなければいけないとか、ポスターを作るにもお金がかかるとか、いろいろなことを自分たちでやっていたんですが、eggmanの男子トイレの扉に「CDプレスやっています!」みたいな張り紙があって、「そういえばeggmanでプレスやっているって書いてあったな」ぐらいのテンションで電話をしてきたのが柳沢で、当時プレスの業務をやっていたのが店長と僕しかいなくて、たまたま電話を取った僕が、SUPER BEAVERのCDプレスを担当するようになるんです。

──それは友だちから紹介を受ける前ですか?

永井:いや、すでに紹介は受けていて仲が良かったんですが、たまたま僕が電話を受けました(笑)。せっかくのリリース日に店舗周りしか仕事がないのがすごく嫌だったメンバーが、関わってくれた人たちを呼んで飲み会したんですよ(笑)。

──SUPER BEAVERのみなさんが声を掛けて?

永井:そうですね。メンバーたちとデザイナー、エンジニア、プレスの人、流通の担当の方とか、SUPER BEAVERを取り巻くいろいろな仲間たちが集まる会を普通の居酒屋で飲んだんですけど、僕も「プレス業務をやっているeggmanの優馬です」みたいな感じで参加して、酔っ払った勢いで「もうeggmanに入っちゃえばいいじゃん!俺がレーベル作るよ!」と言ったのが深く関わるきっかけです(笑)。

──もともとeggmanにはレーベルがあったんですか?

永井:murffin discsというレーベルがあって、僕もちょっと手伝っていました。

──それが2013年ぐらい?

永井:そうですね。誘ったのが2013年で、リリースしたのが2014年ですかね。murffin discsの中にSUPER BEAVERを入れようとしたんですが、当時所属しているアーティストたちの毛色が違いすぎて、今もあるmini muff recordsに入れないと言われちゃったんですよね。というか逆に「本当に入れたいんだったら自分のレーベルを作りなさい」とレーベルトップに言われて、それで[NOiD]というイベントをやっていた流れで、同じ名前のレーベルを作り、SUPER BEAVERが所属しました。

──それ以前からSUPER BEAVERのライブは観ていたと思うんですが、彼らに対して永井さんはどう思っていたんですか?

永井:「こんなに格好いいライブするのになんで売れないんだろう?」みたいな気持ちはすごくありましたね。

──レーベルに所属して最初の1年はどんな感じだったんですか?

永井:すごく楽しかった印象しかないですね。SUPER BEAVERのツアーに帯同するのはいいんですけど、当時動員が大阪は50人呼べても広島は15人しか動員がないような時代で、15人の動員で僕も含めて男5人のホテル代なんて出るわけないじゃないですか?だから漫画喫茶で寝泊まりしたり、車で寝るしかないみたいな(笑)。広島だからってお好み焼きを食べたこともなかったですしね(笑)。

──ツアーの醍醐味は地方のご飯だったりしますが、それもできない?

永井:はい。普通にサービスエリアの安いものを食べるか、降りたところに牛丼屋が絶対にあるのでみんなで牛丼屋に入ってお腹いっぱいにして帰るみたいな。

──ほとんど学生の貧乏旅行ですね(笑)。

永井:本当そんなレベルでしたね(笑)。そういうことにお金を使うよりも、打ち上げにお金を使ってみんなとワイワイやりたかったですしね。本当にお金はなかったですけど、すごく楽しかったですね。

 

リリース日にCDが消えたSUPER BEAVER「らしさ」

──SUPER BEAVERが浮上するきっかけは何だったんでしょうか?

永井:アルバムを1枚出して、そのすぐあとに日テレのアニメ「ばらかもん」のオープニングテーマを「らしさ」という曲で担当するんですね。

──いきなりタイアップはすごいですね。

永井:マネージャー初心者の僕が1人でやっても外に発信できないのはわかっていたので、テレ東ミュージックさんに協力してもらって、他社のものでもタイアップの案内とかがきたら「エントリーしてみる?」と全部連絡をくれて、日テレのアニメに曲を書いたら通ったんです。

──幸先の良いスタートですね。

永井:もちろんアニメをやれたからって跳ねるわけはないんですが、その「ばらかもん」というアニメがそのクールですごくバズって、SUPER BEAVERの曲にも注目が集まりました。1枚目のアルバムのイニシャルとかって、1,500枚みたいな感じだったんですが、アルバムより売れないはずのシングルを1,500枚作ったら、リリース日にお店からCDが消えたんです。リリース日にお店回りしてご挨拶しに行ったら、自分らが展開費を払って買っているはずの棚がないんですよ。

──それは置けるCDがすでにないからですか?

永井:そうです。CD屋って商品がなくなると棚がなくなるんです。「え? 今日リリース日だよね」みたいなことが起きて、それでバックヤードに行ったら展開棚があって、そこにメンバーがサインを書いて「再入荷したらもう1回出します」と。

──それはメンバーにしても初めての経験ですか?

永井:もちろん初めてです。

──アニメのパワーってすごいですね。

永井:そうですね。「らしさ」のミュージックビデオの再生数ってビーバーの中でもいまだに上位にいるので。あれは1個目の光明だった気がします。

あと、僕ってパンクやメロコアとかそっち系しか聴かない人間で、そのジャンルには強いのに、いわゆるギターロック界隈にいたSUPER BEAVERをやるというのが周りからすると不思議だったみたいなんです。[NOiD] FESTIVALでも、ほかは全部メロコアパンクみたいなところにSUPER BEAVERをピョコンと突っ込んだりとかして「なんでギターロックのバンドがいるの?」みたいな。でも、僕はメロコアが好きですけど、「僕と同じように、メロコアを聴くお客さんにもSUPER BEAVERを聴いたらいいと思ってくれる人って絶対いるはずだ」とずっと思っていましたし、それを証明できると思ったんです。

──永井さんみたいにSUPER BEAVERを好きになってくれる人が絶対いるはずだと。

永井:はい。その界隈の知り合いにはSUPER BEAVERのCDは配りまくってました。たまたまですけど、ツアーで京都に行ったときに、10-FEETのベースのNAOKIさんとROTTENGRAFFTYのNOBUYAさんがライブを観に来てくれて、最初は「お前マネージャーやり出したらしいやん」みたいな感じだったんですけど(笑)。

──(笑)。

永井:「物販やっているので話しかけないでください」とか言いながら(笑)。それで、その日のライブを観た2人がすごい顔して「こんなバンドおるん?」と言ってくれて、打ち上げまで出てくれたんです。で、その年の「京都大作戦」と「ロットンの日」にオファーをくれました。最初に出た京都大作戦は雨がすごく降っていて「誰も観に来てくれないじゃん」みたいな(笑)、フロアも割と寂しい感じだったんですけど、今年の京都大作戦は10-FEETの前をやらせてもらうことになって、感慨深かったですし、ジャンルの壁を超えていけているんじゃないかと僕は思っています。

──ちなみにチャンスがあればメジャーに戻るというのはバンドと永井さんの希望だったんですか?

永井:そうですね。インディーズって基本的には制作も宣伝もテレビとかラジオとかに出るための営業的なこととか、他にも物販周りまで基本的には少人数のチームでやらなきゃいけなくて、僕が宣伝しようとなったときに1人でテレビ局やラジオ局を何個も回れないですし、出たくても出られないものがすごく増えてきたんです。4人も「メジャーに戻りたくない」みたいなことは思っていなかったですし、とあるタイミングでメンバーには「バンドがもっと大きくなるために、いろいろな人の力を借りよう」と言いました。それで、一度落ちたソニーにもう一度戻ると決断して。

──再びソニーに戻るというのはドラマティックですよね。

永井:初期メジャーのときは契約上2枚アルバムを出さないといけなくて、1枚目のあとに渋谷が倒れて病院で「もうやめる」と言ったんです。結局4人で話し合って「バンドは続けよう」ということになったんですが、契約上もう1枚出さなくてはならなかったときに担当になったのが五十嵐(拓)さんという方で、それが今のA&Rなんです。結局、その2枚目のアルバム「SUPER BEAVER」を出してメジャーを一旦離れるわけですが、五十嵐さんはずっと「戻っておいで」と言い続けてくれていたんですよね。

 

99%のつらさを超える1%の喜びを追い求める

──ちょうどメジャーに戻った時期というのがまたすごいタイミングというか、コロナ禍が始まる時期でしたよね。

永井:当時は「運が悪かった」と思っていたんですが、今は逆に「一番運がよかった」と思うんですよ。

──それはどうしてですか?

永井:どのアーティストもライブができないし、プロモーションもできないので、曲を作ったりレコーディングするしかなかった時期に、僕らには「メジャーに戻る」というトピックがありましたから。もちろん、めちゃくちゃ大変でしたよ? 「なんでこんなことになるんだ」とか「なんでこんな発表の仕方しかできないんだ」ってすごく思いましたし、悔しかったですし、もっと華々しくやりたかったですけど、こういう状況だったからこそ目立てるような大きなトピックだったと思っていて。

──なるほど・・・。

永井:逆にラッキーだったのかもと、ここ最近になって思いましたね。

──そしてコロナも明けて、SUPER BEAVERも勢力的に動けている状態にあると。

永井: そうですね。2023年10月6日にZepp Hanedaで[NOiD]レーベル10周年のイベントをやったんですが、そのちょうど10年前にSUPER BEAVERは「SUPER BEAVER対SUPER BEAVER」というイベントを下北沢の251でやったんですね。これは、前半はメジャーにいたときのCDからしかやらないセットリストで、後半はインディーに戻って出した2枚からしかやらないというライブで、なんでそんなことやったのかと言うと、対バンが決まらなかったからっていうだけなんですけど(笑)。

──(笑)。

永井:誘っても、誘っても決まらなくて「もういいや!相手はビーバーにしよう!とか言って、結果的にワンマンなんですけど(笑)、そういうコンセプトを持ってやったライブがあって、その最後にSUPER BEAVERが[NOiD]に所属してCDを出すという発表をしたんですね。それで、その10年後にZepp Hanedaでやったんです。今回の10周年は[NOiD]レーベルのCDからしかやらない前半戦と、メジャー再契約して出しているCDからしかやらない後期メジャーでライブをしてもらったんです。

で、その日の打ち上げは、今のメジャー、昔のメジャーとか関係なく、お世話になった人全員を呼んで打ち上げやったんですが、柳沢がいろいろな人たちの顔を見て、すごく楽しそうにお酒を飲んでいて、そのときのことを曲にしたのが最新作に収録されている「切望」という曲なんです。イベントをやるのって本当に大変ですけど、それが曲になって、しかも今回ミュージックビデオも撮ってリード曲として出しているので、「こんなにいい曲できるならイベントを組んでみるものだな」って思いましたね(笑)。

──最後にこれから音楽業界を目指す若い子たちにメッセージをお願いします。

永井:僕なんかが言えることがあるのかなと思いつつ・・・すごくありがたいことに[NOiD]のホームページとか僕のSNSのDMに「採用募集していますか?」みたいな問い合わせって結構来るんです。社会人の対応としては終わってるんですけど、最初の段階で、わざと返信しないで様子を見たりはしますね。そうするとその1回の問い合わせで「返事ないならいいや」と思っちゃう子が最近はすごく多いなと思うんです。本当に入りたかったら、すごい熱意で来るだろうし、たった1回で諦めちゃう子を獲っても、いつの間にかいなくなっちゃうんだろうなって思うんです。入ってからすぐ辞めちゃう子を僕はたくさん見てきましたから。

──そういう子が増えましたよね。

永井:本当にやりたいんだったら根気強くやったらいいんじゃない?ってすごく思います。

──「なんでこんなに簡単に辞めちゃうんだろう?」って、みなさんおっしゃいますよね。逆に続く人の共通点ってなにかあったりしますか? 例えば、どんな状況でも楽しそうに働いている人とか。

永井:それはあるかもしれないですね。音楽業界じゃなくても、つらさを乗り越えるしかない瞬間って絶対にありますし、他の業界の人に「いいじゃないですか、華やかで」とか言われても「いやいや、こっちだってつらいことありますけど」って思うときはたくさんありますからね。すごく憧れて入ってきている分、そのギャップが激しくて「思っていたのと違う」と辞めちゃう若い子が多いのかもしれません。

──100パーセント楽しいところだと思われているんですよね。

永井:正直楽しいのって100パーセント中1パーセントぐらいじゃないですか?(笑)「じゃあ、マネージャーってなにが楽しくて仕事しているの?」と問われたら、つらいことが99パーセントかもしれないけど、メンバーがすごくいいライブをして「いい景色を観られたな」と思えた、あの瞬間って誰よりも幸せですし、最高に気持ちいいんですよね。僕はその瞬間のためにずっとやっていると思いますし、そういう気持ちを共有できるような人と、これからも一緒に仕事していきたいですね。