広告・取材掲載

広告・取材掲載

第218回 株式会社FM802編成部長 「RADIO CRAZY」プロデューサー・今江元紀氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今江元紀氏

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社エッグマン [NOiD]レーベルプロデューサー・永井優馬さんのご紹介で、株式会社FM802編成部長 今江元紀さんの登場です。

京都の老舗玩具屋と和装卸売業の三代目の間に生まれ、立命館中学・高校・同大学法学部卒業後、2004年にぴあへ入社。『ぴあ』編集部の音楽班を経て、2010年にFM802へ入社後、「RADIO  CRAZY」のプロデューサーを務めるなど、音楽イベントの企画制作にも携わる今江さんにじっくりお話しをうかがいました。

 (インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)

 

小さい頃から自然と調整役に

──前回ご登場いただいた [NOiD]レーベルプロデューサー・永井さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

今江:SUPER BEAVERのマネージャーとしてからの付き合いなんですけど、2015年3月に初めて自分が担当する番組に出ていただいてから、2016年頃からイベントにも出演いただくようになりました。

──10年程のお付き合いになるわけですね。

今江:そうですね。SUPER BEAVERが色んなメディアに取り上げられる少し前にお声掛けさせていただいて、一緒に駆け上がれたみたいなところはありますね。SUPER BEAVERを好きになったのが他の皆さんより少し早かったという感じで、そこから深いお付き合いをさせていただいています。

──ご年齢は近いんですか?

今江:永井さんは少し年下ですね。私が大阪に拠点を移してから19年とかになるんですけど、東京でのライブやキャンペーンの打ち上げの時に一泊するので色んなマネジメントの方と仲良くさせていただいて、その中の一人といった感じです。

──わかりました。では、ここからは今江さんご自身のことをお伺いしたいのですがお生まれは?

今江:四条室町という京都のど真ん中ですね。新京極の老舗の玩具屋と四条室町の老舗の和装卸売り業の3代目との間に生まれて。

──生粋の京都人ですね。

今江:今は両方とも無くなっちゃいましたけどね。高校生の頃に実家が滋賀の方に引っ越したんですけど、学校は京都だったので大学卒業まではほぼ京都で生活を送っていたような感じでした。大学時代はまだ祖母が京都にいたので、居候手前と言いますか、いつでも泊まれる場所として使わしてもらって。

──ご兄弟は?

今江:弟が一人います。

──ではご長男で、親から家業を継ぐような話はでなかったんですか?

今江:中学3年の時に親が会社を畳んだので、そのまま滋賀に引っ越しました。

──今のお仕事に繋がるような環境はありましたか。

今江:特に意識はしていなかったですけど、子どもの時から人のために時間を使うことはあまり苦に感じませんでしたね。クラスの委員長をするとか、中学と高校で生徒会長をやったり、アルバイトの接客業もそんなに苦じゃなくて。

──完全に今のお仕事へ繋がっていますね。

今江:中学くらいからは学校での流行もあって、なんとなくギター弾きたいなとかバンドやりたいなとか、友だち同士で話すようになって音楽も聴くようになりました。

──どんな音楽を聴いていたんですか?

今江:最初は親の影響でサザンオールスターズでしたね。そこから中学の頃は音楽番組に勢いがあった時代で「HEY!HEY!HEY! 」とかで色んな音楽をまず知るようになって。今ラジオのお仕事をしていて言うのもなんですが、学生時代にラジオを聴く習慣はテストのときと、桑田さんのレギュラーを聴くくらいでした。

──京都のFMに「α-STATION」ってありますよね?そういった番組で音楽を聴いたりとかは?

今江:ラジオで音楽を見つけるというよりは、当時MDが流行っていて、CDレンタル屋がたくさん出来始めていた頃だったので録音したものを貸し借りしたり、洋楽もボン・ジョヴィやオアシスを聴いたりしていましたけど、広く浅く聴いていた感じで。ちゃんと音楽を意識するようになったのは大学生くらいからでした。

──その頃って色んなバンドが音楽番組に出ていましたよね。

今江:そうですね。ビジュアル系も音楽番組によく出ていた時で、BUCK-TICK、L’Arc〜en〜Ciel、GLAY、SOPHIAのコピーバンドがいるような感じでしたね。そこから少しラウド寄りになっていって、山嵐やKEMURI、Hi-STANDARDをコピーするようなバンドも増えていったような気がします。

──立命館中学・高校って共学ですか?

今江:そうです。

──では、女の子をボーカルに入れるようなバンドも。

今江:いました。ただ当時は軽音楽部が無かったので、文化祭以外は学校でバンド活動をできる場所が無くて外のライブハウスでやるしかないような環境でしたね。でも、やっぱり学校で音楽祭みたいなのをやりたいと声が挙がった時に気づいたら学校との交渉役をやっていました。

──要するにプロデューサーみたいなことを学生時代に自然とやっていたんですね。

今江:クリエイティブな方じゃないかも知れないですけど、プロデューサーのような調整役に向いていたんですかね。少し話が飛ぶんですけど、後にぴあに入って雑誌の編集をやることになり、自分で原稿を書くというよりはライター、カメラマン、デザイナーの場を整えてコンテンツを作るにはどういうチームでやるか、といった調整役が肌に合ったんですよね。

それが理由で同期の中で唯一編集のセクションに入ったんですけど、元々本を作りたいわけじゃ無かったんですが本を作る手段だったり、雑誌を使うということを考えながらコンサートをどう転がしていくのかとか、音楽を広めていくのか、みたいな感じの発想に近かったんですよね。

 

ゼロからの野外コンサート開催で大赤字

──学生時代のお話しに戻りまして、今江さんもバンド活動を本格的にするようになっていったのですか?

今江:学校で音楽活動をする内に先輩とバンドを組んで、THE HIGH-LOWSを聴くようになってバンドそのものを好きになっていったんです。それで、音楽を聴くところからライブに行くっていう行動喚起までいって、THE HIGH-LOWSを見たくて2002年に初めて野外フェスの「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に行きました。その時にこういう景色を作れるような仕事に一生関わりたいなと、音楽業界で働くことに決意を固めた出来事になりました。

──当時は就職氷河期で音楽業界も狭き門でしたよね。

今江:100社エントリーして1社決まるか、みたいな時代でしたね。「エンタメ」「イベント」「音楽」といったキーワードだと何社も引っかかるので、自分の行きたい業種トップ10の会社に入社できれば最終的にやりたいことをやれるんじゃないかみたいなことは思っていて、絞っていく中で「ぴあ」という会社に出会いました。

もちろん他の会社の面接も受けるんですけど、自分が面接する側になってわかったことなんですけど、ふわっと「音楽に関わることをやりたい」「イベントをやりたい」と考えているだけだとやっぱり面接に通らないんですよね。

そんな中で面接を繰り返す内に方向性も見えてきて、「ぴあ」の面接になった時に面接官の方から「次回までにぴあのことをいっぱい調べてきて欲しい」と言われて、入社前に、面接の段階で「ぴあ」という会社と向き合うこともできて・・・その過程ですごく良い会社だなって(笑)。

──面接終わりにそんな言葉をかけてくれるのは嬉しいですね。

今江:それで、内定をいただいた後は大学での空き時間があったので2003年の秋に野外コンサートを主催するんです。

──コンサートは大学で開催したんですか?

今江:最初は立命館の体育館を借りる企画書を書いて、一般学生と同じように企画書からエントリーしました。実行委員会の前でプレゼンをするんですけど、3年生までは自分も学園祭実行委員で準備をやっていた側だったので、そこの人たちはもはや全員知り合いで(笑)。

ただ以前に大きな赤字を出して以来、立命館のびわこ草津キャンパスではプロのタレントのコンサートが無かったんですよね。それで、その企画が目立ってしまったこともあり、大学の体育館を借りられなくなっちゃって白紙になりかけたんですけど、その時点でキャスティングは全部終わっていたんですよ。

そのキャスティングの中に、当時ユニバーサルでデビューしたての10-FEETがいたんですけど、 元SEIYU跡地の滋賀県・草津の駅前の空き地を借りて結局ステージ立ててやることになって。

──規模はどのくらいだったんですか?

今江:2,000人が目標だったんですけど、1,000人ぐらいしか来なかったです。ただ、滋賀県に1,000人って当時で言うとまあまあの数字だったと思いますけど、結局大赤字を背負って友達同士で負担してみたいな(笑)。

──学校側が危惧していた通りになってしまったと(笑)。ちなみにどのくらいの赤字になったんですか?

今江: ひとり2〜30万ぐらい出したんじゃないですかね?お金もそうですけど、友達関係もぐちゃぐちゃになったり、経験が未熟な中で1000人呼んで、しかも野外で開催という規模感を今考えると、色んなものが足りてなかったと反省しています。

そのコンサートには、FM802の中島ヒロトさんがMCに来ていただいて、この赤字を背負ったコンサートでFM802と初めて関わっているんですよ。当時を振り返ってヒロトさんに聞いたら、「ギャラが缶コーヒー1本だった」みたいな話をされて弁当すら出してなかったのか!って自分ながら驚愕しました(笑)。

──(笑)。大学の体育館を借りられていたら、もう少し赤字は少なくて済んだと思います。

今江:そうですね。ゼロの空き地でイチからイベントやることになったので、控え室もないですし、トイレもないですし、夜警も入れなきゃいけなくなりましたし、ステージの設営も目隠しも必要で・・・とにかくインフラを整えなきゃいけないっていうのが、金額的には大きかったんだと思います。

──でも、若かりし頃の経験として見れば貴重な失敗でしたね。

今江:そのコンサートから未だに10-FEETとの皆さんやスタッフの皆さんとの関係は続いていますし、 その時から10-FEETが好きだった、みたいな事ってすごく嬉しい出来事ですね。ただ一緒にコンサートを作り上げていった大学のメンバーがこの業界にあまりいないので・・・(笑)。ひどいものに関わって業界に対する悪い印象を持たせてしまった、と償いたい気持ちがまだあります。

 

「10年後に関西で大きなフェスを作る」有限実行のRADIO CRAZYのプロデューサーへ

──そんなほろ苦い想いを抱えつつぴあに入社されたわけですね(笑)。

今江:ぴあに入社した時の社内報みたいなのものがあるんですけど、その表紙に新入社員10人が将来の夢を書いたものが載っていて、発見してみたら「10年後に関西で大きなフェスを作る」と書いていましたね。

──おお、まさに有限実行ですね!

今江:10年後にちょうど「RADIO CRAZY」のプロデューサーになっていたのでまさにタイミングもドンピシャで。お陰様といいますか、本当にいい進路を歩ませていただいているなと実感しました。

ぴあって本当に関係性がフラットで色んなイベンターさんとお仕事させていただいたり、業界の構造とか流れは早く飲み込めた気がしますね。そんな中でぴあの編集の仕事は苦じゃなかったんですけど、後に編集長になる副編集長だった谷岡(正浩)さんが大阪から東京に異動になるので、関西版の編集部に異動して欲しいと通達が届くんですね。

大阪の副編集長と東京2年目で何をやっているかわからないヤツをトレードした形になるので、いざ大阪に行った時の空気はすごかったです。コイツのせいで愛されていた谷岡副編集長が・・・みたいな構図だったので。当時の関西の上司に「エース放出してドラフトでええのん取ったつもりやから頼むぞ!」みたいにいいように言っていただいて(笑)。

──どういう狙いのトレードなんだと(笑)。東京と比べて大阪の編集部の編成はどうだったんですか?

今江:編集部の社員は編集長と私だけで、あとは契約社員の方でした。そういう体制だったので、 2年〜3年経ったら大阪で副編集長をさせていただいて。

──トントン拍子ですね。

今江:いやいや、社内やイベンターさんも「大阪で何ができんねん」みたいな話にはなるので「それは確かになぁ・・・」と思いながらの始まりでした。

──それで大阪では何年編集をやったんですか?

今江: 元々京都で育ったことあり大阪のコミュニティが肌に合っていたと言いますか・・・結局5年間編集をやるんですけど、サイズ感もそうですし、東京に比べるとメディアの数も少ないし、頑張ればすごく目立つというか結果に繋がるんですよね。

それで社内もイベンターさんも評価してくれて、大阪のぴあと言ったら「今江」という風に段々と分かっていただける状況になって、大阪で色んなエンタメに関わっているのが FM802だということもわかってくるんです。

テレビには出てないし、東京のぴあでもインタビューが取れないようなアーティストがFM802に来てラジオには出てくれるんだ、みたいな凄さを目の当たりにしたんですね。

──そういったきっかけから、FM802に注目するようになって転職へと進むわけですね。

今江:転職時はインテックス大阪で「RADIO CRAZY」の初年度が開催される年ですね。今から15年前の話ですけど、FM802からパンフレットのお仕事をいただいて「RADIO CRAZY」にも関わっていまして、大阪で結構やりきったなぐらいの心持ちで「ぴあをやめたいです」って言おうと思っていた時でした。結局、その翌年に関西版ぴあは無くなってしまうんですけど。

 

「24時間音楽中心で、常に音楽と向き合って作る」FM802の心意気

──すごい嗅覚ですね。

今江:ぴあ関西版がなくなった時期の直前に辞めたのは、たまたまですが。それで2010年にFM802に転職しました。既にぴあ時代からの関係も構築されていたので転職後も割と自由にやらせていただいて、 入った年に阿部真央さんがレギュラー番組をやっていたので、その番組を本にしたり、OKAMOTO’Sの5周年のパンフレット作らせてもらったりしましたね。

──ぴあでの経験が転職後もそのまま活きていますね。

今江:印刷の経験と編集のチーム経験もあるので、ぴあでの経験は非常に大きかったですね。コロナ禍があけてチラシ配りが戻り始めているなと思って、2024年からはフリーペーパーも作り始めて。広告というよりは印刷代プラス少しの編集代みたいなのを貰ってその分を計算してページを制作しているんですよ。FM802の大きなイベントが、春・秋・冬と 3回チャンスがあるのでフリーペーパーはずっとやりたかったんです。

──フリーペーパーのような無料の媒体は拡散するのにはうってつけですよね。中には記事的なコンテンツもあるんですか?

今江:はい。私が書いたり、ライターさんにお願いすることもありますが、FM802のDJに書いてもらうことをお願いしています。 DJだったら言葉上手に喋れるということは文字も上手に書けるんじゃないかと思ったんですよね。音楽だけでなく、もちろん本が好きなDJの方もたくさんいますから。それに何より、FM802のDJやスタッフは大阪で、関西で、いや日本の中で(笑)一番多くライブを鑑賞するために会場に足を運んでいますから。せっかくならラジオはもちろん、色んな形で彼らの見たもの、感じたものを発信してもらいたい!という想いからです。

──FM802は昔も今も大阪の音楽文化を支えているんですね。

今江:大変ありがたいことに今回稼働は無くても大阪やFM802ではキャンペーンをしたいと言ってくれる方も多いです。本当に先輩方の努力の賜物だと思います。新卒採用の面接をやっているとSpotifyやYouTubeの新しいメディアが出てきたことについて、ラジオの存在意義をよく聞かれるんですけど、動画だと歩きながらや運転しながら見ることができないですし、生活の一部となる“ながらメディア”というか。

DJの個性だったり、ディレクターの個性だったり、プロデューサーの個性だったり、作り手の顔がちゃんと見せることができれば、自動で流れてくるアルゴリズムとは違った音楽の出会い方というか、キューレーターが存在するメディアとしての価値が高まるわけです。

──確かにずっと音楽を聴き続けるのは飽きてしまうというか、トークと合わせることによって新しい音楽との出会いにも繋がっていきますよね。

今江:ラジオというメディアは自分の居心地のいい居酒屋とか、バーとかご飯屋さんを探すような感じで出会ってもらって、そこで気に入ってもらえたらなじみ客になってもらえるというか、リスナーの生活の中に習慣として残ると思うんですよね。

FM802のミュージックステーションとして「 24時間音楽中心で、常に音楽と向き合って作る」という原則を入社してからまざまざと感じまして。“ながらメディア”としてのラジオということにちゃんと向き合いつつ、音楽のラジオ局としてアーティストを応援するイベントを作ったり、ライブ制作や楽曲を作ったり、それまでに蓄積されたものを何に使えるのか具現化していくことはここから10年間色々と考えていかなければいけないと思っています。

── SpotifyにしろApple Music のPodcastにしろ、トークコンテンツはどんどん増えている状況なんですが音楽番組的なものは日本ではすごく少ないです。そういった中で音楽番組の制作能力が高いFM802はすごく理想的な環境にいると思うんですよ。

トークと音楽をつけたら番組にはなりますけど、それをイベントに繋げていくとか、アーティストさんとの関係を含めてそれができるメディアってあまり見つからないと思うんです。そうなると関西地区だけでなく、世界的にもFM802が評価されていくと思っています。

今江:ありがとうございます。お陰様で関西圏でのシェア率はすごく高いですね。ラジオだけじゃなくてイベントから知ったリスナーも非常に多いのと、FM802は開局35周年で親子で聞いていただいてる2世代のリスナーも非常に多いです。

 

後半は2月21日(金)公開予定!

関連タグ